新横浜駅近くにある中世の山城を訪ねました。同じく横浜市に残る小机城の支城だったと思われる城跡。小田原北条氏家臣の金子氏の城と考えられています。
■現地到着■
<篠原城跡>
あれ!入れない・・・
この日は小机城だけを意識していたので完全に予習不足。篠原城跡へはいつも入れる訳ではないようです。
<説明板>
篠原城址緑地。立派な案内板です。
<城のしおり>
「篠原城と緑を守る会」さんのしおりが貼ってあります。とても丁寧です。普段は立ち入り禁止で、この「篠原城と緑を守る会」さん主催のイベントに参加すると入れるようです。残念ですが、それくらい大切に守ってもらっているということですね。
<図解>
曲輪と堀、そして土塁が確認できるようです。縄張りは連郭式ということですね。これを見る限り、現在の篠原城址緑地の周辺も城だったということですね。ということは、私は既に城跡の中にいるということになります。
まぁ新横浜駅近くの市街地に、遺構が残されているはずもありませんが、せめて雰囲気だけでも味わうことにしますかね。
<山城と駅の位置関係>
ということで周辺をてくてくと
<山の周辺>
典型的な山城(平山城)だということは分かります。左手が山城の斜面。右手は谷になっています。
<正覚院>
曹洞宗寺院の正覚院さん。こちらの裏山が城跡です。ちょっと失礼します。
境内は山の斜面を利用したひな段状の墓地が印象的。まるで帯曲輪のような(実際は違います)構造です。お伝えしたいところですが、ひと様のお墓は撮影できません。
<正覚院の鐘楼>
お墓とは逆側を撮影しました。鐘楼の背後には新横浜プリンスホテル。いかに駅から近いかは伝わりますね。
<正覚院の裏山>
境内の隅から篠原城址の斜面を撮影。この更に上の方が本丸跡のようです。縄張り図をみる限り、この画像を撮影した正覚院の隅の方も、かつては城の一部だったようです。
<山の斜面>
上の方は土塁でしょうか?雑木林となっており、ちょっとはっきりしません。行って確認したいところですが、人さまの敷地、まして墓所で、身勝手なことはできません。ここまでです。
正覚院さんお邪魔しました。ありがとうございます。
では山城の周辺をもうちょっと歩いてみますかね。
<周辺を徘徊>
積んである石は城郭と無関係です。ただ、斜面が急だということは分りますね。
<低層の山>
いつの時代か不明ですが、山の手前は人が削った結果なのではないでしょうか。
<稲荷神社>
麓には稲荷神社。古くからの人の営みを感じます。もともとこの山の北側の麓には「杉山神社」という古い神社がありましたが、昭和になって他の神社(八王子神社)と合併。別の場所へ移されました。現在の八杉神社(港北区大豆戸町)です。
まぁ成果はありませんが、地形やスケールは納得したので、満足することにしますかね。
■誰の城■
「篠原城と緑を守る会」さんの情報も含めて要約すると、築城者は平安時代末期の武将・金子十郎家忠、又は戦国時代に小田原北条氏の支配下だった金子出雲守ということになります。
金子家忠は源頼朝に従って活躍し、後には武蔵国金子(埼玉県)の地頭となる人物です。ただ篠原城との関係が調べきれなかったので、そういう説もあるというところで勝手に納得。で、戦国時代、つまり金子出雲守に話を絞ります。
関東で勢力を拡大していた小田原北条氏は、廃城となっていた小机城を再整備し、家臣の笠原信為を送り込みました。その小机城を中心に組織された家臣団は小机衆と呼ばれ、各々が居城・館を構えていました。いわば小机城を中心としたネットワークを形成していた訳ですね。金子出雲守も29人いたとされる小机衆の1人。よって今回訪問の篠原城は、小机城ネットワークの一部だったということですね。当時の幹線道路ともいうべき「鎌倉道」が近くを通っていましたので、人の行き来に睨みを利かす山城だったのかもしれません。
つわものどもが夢の跡
1590年の秀吉による小田原征伐の時に小机城は落城。北条氏も滅びました。もともと地元の豪族だった金子出雲守は、この地で帰農したと考えられています。篠原城の廃城時期ははっきりしませんが、おそらくその頃と思われます。
----------■ 篠原城 ■----------
別 名:金子城
築城年:不明
築城者:金子出雲守
(又は金子家忠)
城 主:金子氏
廃 城:不明(1590年以降)
[神奈川県横浜市港北区篠原町]
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