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2018年11月05日

吉良邸跡 清水一学ほか家臣の石碑

つわものどもが夢の跡
赤穂浪士が討ち入った吉良邸跡を訪問しました。

■本所松坂町公園■ほんじょ
吉良家屋敷跡はJR両国駅東口から徒歩圏内(10分以内)です。国技館や大江戸博物館とは逆側になります。

<吉良邸跡>
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到着しました。ここですね。では中に入ってみますか。赤穂浪士は47名で討ち入りましたが、一人で突入です。

<入口>
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いきなり奥に吉良上野介を発見!といっても、何の遺恨もありません。

<吉良上野介義央公座像>よしひさ
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吉良家は清和源氏足利氏流の名門。吉良義央は、幕府の儀式や典礼を任されている高家旗本でした。そしてこの屋敷の主ですね。

<首洗いの井戸>
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みしるし洗いの井戸。名の通りです。

<松坂稲荷>
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こちらは「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したもの。

<展示物>
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忠臣蔵に基づいた各種の展示物。忠臣蔵は好きです。大好きな話です。ただ、諸説ありながら、ほぼヒール役になっている吉良さんに同情する思いもあります。そもそもここは、吉良さんのおうちですよね!

<忠臣蔵に関する立て札>
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公園というより、壁に囲まれたミニ博物館のような空間です。広さは30坪弱。ここはかつての屋敷の一部に過ぎず、吉良邸の広さはこの説明文によれば2550坪だったそうです。ピンときませんが、そうとう広いことは分ります。

赤穂浪士が正門と裏門の二手に分かれて討ち入ったことは良く知られていますね。ではその距離とはどんなものだったのか?47名で押し入っても、討ち漏らす可能性は充分あったのではないか?

それを実感してみたい。空間を肌で感じてみたい。今回の訪問の目的は、たったそれだけです。
公園から少し離れたところに、吉良邸の正門跡と裏門跡の立て札があります。これを確認してみますかね。

<吉良邸正門跡>
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屋敷の東側、ここですね。門はありませんが、この札のお陰で位置はわかります。大石内蔵助を筆頭に、23人が正門から屋敷へ突入しました。大高源五や原惣右衛門は表門隊です。

<吉良邸裏門跡>
shirononagori283 (2).JPG
場所は変わってこちらは裏門跡。屋敷の西側です。最年少の大石主税を筆頭に、24人がこちら側から討ち入りました。堀部安兵衛や不破数右衛門、潮田又之丞らも裏門隊です。

ということで、同じ屋敷の正門と裏門ですが、結構な距離でした。屋敷を挟んで意思の疎通を図るのは難しそうですね。吉良邸は東西約134m、南北が約63mもあったとのこと。炭小屋に隠れた吉良上野介を、なかなか見つけられなかったというのも納得です。また、確実を期するため、浪士数名がこの周辺に住んで事前調査を行っていたというのも分かる気がしました。


■吉良家の家臣■
松之大廊下での刃傷事件から約半年後、吉良家は呉服橋(今で言うと八重洲)からこの地に移転を命じられました。以前より人気の少ない郊外へ引っ越してくれたのですから、これは襲撃する側にとっては好都合。狙われるかもしれない上野介本人も、吉良家の家臣たちも、そのことは充分意識していたことでしょう。

<家臣の石碑>
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元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士たちが遂に吉良邸へ討ち入りました。厳密にいうと15日の明け方ということになります。当時屋敷内には百人前後の家来がいましたが、実際に赤穂浪士たちと戦ったのは40人にも満たなかったとされています。石碑には、寝込みを襲われながら奮闘し、命を落とした家臣たちの名が刻まれています。

<吉良家家臣二十士>
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吉良家側の死傷者は三十八名とされています。この石碑には家老の小林平八郎、清水一学など、二十士の名が記されています。みな主君を守るべく戦いました。

■清水一学■ いちがく
忠臣蔵の小説や時代劇では、知的にして二刀流の達人として登場しますね。私のイメージもそのままです。よって、名門吉良家に古くから仕える家柄なのだろうと思っていました。

ところが、実際には三河の百姓の生まれです。幼名は藤作。少年期から剣術に励み、吉良家当主である義央に目をかけられ、15歳で中小姓にとりたてられました。剣術に優れていたようですが、二刀流というのは後世のつくり話のようです。赤穂浪士が討ち入った時、一学は25歳になっていました。主である吉良上野介を守るべく奮戦したようですが、この屋敷内で命を落としました。

自分の才能を見出してくれた人に、一学はきっと日頃から忠義を尽くしていたことでしょう。それは立場が上の者にただ従うといった組織上の役割ではなく、己を認めた者に対し、恩を返したいという欲求に近いものだったのではないでしょうか。死を覚悟で討ち入った赤穂浪士も忠義なら、命懸けでこれと戦った清水一学もやはり忠義の侍。そう受けとめたいですね。

以上
赤穂浪士ファンが、吉良邸の広さを実感してみたくなり現地を訪問したものの、吉良家の家臣団に同情するような気持ちになったという内容でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

■訪問
本所松坂町公園
[東京都墨田区両国]


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