つわものどもが夢の跡
関東七名城の一つと賞された城跡を訪ねました。
<宇都宮城跡>
復元された土塁と水堀。本丸の西側です。土塁上の奥は富士見櫓になります。
■関東七名城とは■
関東を代表する名城ということで、以下の7(+1)城を指します。
川越城(埼玉県川越市)・忍城(埼玉県行田市)・前橋城(群馬県前橋市)・金山城(群馬県太田市)・唐沢山城(栃木県佐野市)・宇都宮城(栃木県宇都宮市)・多気城(茨城県つくば市:または常陸太田市の太田城)
有名な城ばかりです。江戸時代の書物の「管窺武鑑」(かっきぶかん)にこの記載があるようですが、誰がどんな基準で選んだかはよく分かっていません。金山城や唐沢山城は中世でその役割を終えていますので、戦国時代の名城ということでしょうか(個人的推測です)。
来る人を拒む山城はともかく、平地の城は市街地化によりもはや原形を留めていません。大変残念ですが、今回訪問の宇都宮城はその代表格かもしれません。
■北関東の重要拠点■
重要拠点として幕末まで続いた城ですが、戊辰戦争で焼かれ、更にその後の急速な都市開発の波にのみ込まれ、城の形はほぼ失われました。僅かな遺構と再整備した城址公園により、ここにかつて城があったことが感じられる。そんな城跡です。冒頭の画像は、私なりに「一番それらしく見える角度」から撮影したものです。城郭マニアの人だと、ちょっとがっかりする城跡かもしれません。
<土塁>
土塁にトンネル?むかし風に言うと虎口になりますね。
<本丸内部>
内側を土塁上から撮影しました。本丸跡です。災害時の避難場所にも指定されているそうです。
■宇都宮氏代々の居城■
平安時代後期に、藤原氏北家の流れをくむ藤原宗円(ふじわらのそうえん)がこの地に館を構えました。これが宇都宮城の始まり。そしてこの宗円が宇都宮氏の祖です(宇都宮を名乗るのは宗円の孫から)。宗円は源頼義・源義家に従った奥州遠征の功績により、この付近の支配権を与えられました。鎌倉公方に認められた名族の八家を指して関東八屋形(かんとうはちやかた)と呼びますが、宇都宮氏もそのひとつ(他も小田氏・小山氏・佐竹氏・千葉氏・長沼氏・那須氏・結城氏というそうそうたるメンバー)。宇都宮城を拠点に、五百年以上も地域の支配者であり続けました。
その間、総じて武勇の誉れ高い宇都宮氏ですが、室町末期になると内乱などもあり、やや弱体化しています。この停滞期に登場したのが、17代当主・宇都宮成綱でした。中興の祖とまで呼ばれる成綱は、家内を立て直して支配体制を強化。同じ下野国の小山氏や那須氏を抑えて、周辺国の佐竹氏や蘆名氏といった大名とも争い、北関東の最大勢力となりました。成綱が活躍したこのあたりが、宇都宮氏のピークだったかもしれません。
■宇都宮氏家臣の城■
17代当主・成綱の死後、宇都宮氏は急速に衰退します。外との勢力争いだけでなく、内部においても当主の地位は低下。21代当主・広綱の時には、家臣に宇都宮城を奪われる事件も起こっています(のちに奪回)。広綱は常盤国の佐竹氏との関係強化を図り、戦乱の世に突入している関東においては、小田原北条氏に抵抗する勢力下に入りました。
22代の国綱の時、宇都宮氏は別の城を改修したうえで本拠を移します。宇都宮城が平城だったのに対し、移った先は山城※。戦闘そのものを意識した結果ですね。宇都宮城は、宇都宮氏の家臣(玉生美濃守)が預かる城となりました。
※多気城(たげじょう)といいます。常陸国の名城と同じ字ですが、そちらは「たきじょう」。まったく別の城です。
■豊臣配下の城■
豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)後も、宇都宮氏は下野国の所領を維持していました。朝鮮出兵に際しても兵を出し、豊臣政権下での立場は順調かと思われましたが、1597年に突然改易。城も領地も没収となります。これにより、北関東の名門家は歴史の表舞台からは姿を消すことに。宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入りました。
■近世城郭へ■
江戸初期には奥平家昌(家康の血縁者・外孫)が10万石で城に入り、城下町の復興に着手します。この人事は、家康が参謀的な役割を担っていた天海僧正に相談した結果だったようです。宇都宮がいかに重要拠点だったかうかがえる話ですね。
次に本多正純が15万5千石で宇都宮に入ります。城下町の整備は更にすすみ、城も大掛かりに改修され、近世城郭へと生まれ変わりました。正純はあの本多正信の長男、そして家康の側近です。小山藩主を経て、第28代宇都宮城主となりました。
本多正純による宇都宮城の大改修は、櫓を天守の代わりとするなど、幕府へ充分配慮したものでした。しかし謀反の疑いが・・・。城が原因で改易されてしまいました。あくまで疑いであり、それまで別格の待遇を受けていた本多正純に対する周囲の妬みが原因と考えられます。いつの時代でも、人事に対する不満は怖いですね。
<土塀>
西側の土塁の上に復元されている土塀。四角い穴は矢用の狭間、丸い穴は鉄砲用の狭間です。
<鉄砲狭間>
わからないところから狙ってます。怖い怖い。
正純以降、宇都宮城の城主は江戸時代を通して頻繁に変わりました(譜代大名が勤めました)。その間、宇都宮城は徳川将軍家の日光社参時の宿泊所としても利用されています。そして戸田氏が城主の時に幕末を迎えます。
■戊辰戦争の戦地■
1868年5月、戊辰戦争に巻き込まれた宇都宮城はその大半が焼失しました。この時、城下町の約8割以上の家々も焼失、48の寺院も失われました。
旧幕府軍は敗退。新政府軍にとって、宇都宮城は会津戦線の拠点となりました。
<宇都宮城址公園>
案内板です。
<清明台>
復元された櫓。現在の宇都宮城のシンボル的な存在ですかね。
<富士見櫓>
■つわものどもが夢の跡■
城そのものだけでなく、宿場としても城下町としても整備されつづけました。つまり、ここは人が集まる場所なのです。名城と賞されながら、遺構が少ないは仕方がないことですね。
<田川>
市内を北から南に流れる田川。宇都宮城はこの川の西岸に築かれました。城郭が失われても、水の流れは途切れません。同じく、人の営みも。
-------■ 宇都宮城 ■-------
別 名:亀ヶ岡城
築 城:平安時代末期
築城者:藤原宗円
(宇都宮氏の祖)
改修者:本多正純
城 主:宇都宮氏歴代当主
奥平氏 本多氏 他
廃 城:1868年
現 状:宇都宮城址公園
[ 栃木県宇都宮市本丸町 ]
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2018年09月01日
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