なかなか遠くへは行けず、今回もまた都内に残る城跡探索です。飯田橋駅から徒歩圏内。早稲田通りを少し入ったところに残る「城のなごり」です。
■筑土城■ つくど
<筑土八幡神社>
はい。目的地到着です。
<石段>
現れたのは勾配の石段。この高低差を活かした城跡ということですね。
<上から>
上から下まで10m前後でしょうか。まぁ昔の武器ならこの程度でも充分。
<八幡宮>
登りきった平らな区画には社殿。左手に道路があり、先は下り坂。社殿は高台の先端に位置しています。
この付近が本丸と思って良いのでしょうね。いわゆる遺構はありませんが、ちょっと見回しただけで、小規模な砦としての「地の利」は感じることができます。
<説明板>神社の説明
城に関する説明はありませんね。別途調べた情報では「関東管領・上杉時氏が砦を築いた・・・」と伝わります。なるほど・・・。で、時氏って誰だろう?更に調べましたが、どうも関東管領に「上杉時氏」という名はなく、謎のようです。
説明板から読み取れるのは、神社の社殿は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の朝興(ともおき)により建てられたということ。この地は、朝興の領地だったのですね。扇谷上杉家ゆかりの地です。では時氏は?関係者、親戚縁者に上杉時氏という人物がいたのでしょうかね?あるいは言い伝わるうちに、字が違ってしまったとか・・・。本日ブログにまとめるため、また調べ直しましたが、ちょっと分かりませんでした。
<筑土城跡>
[新宿区筑土八幡町]
ということで。以上が筑土城のなごり。筑土塁とも呼ばれています。
(つづいてお隣へ)
■ 太田道灌別館 ■御殿山城
<御殿山坂>
筑土城跡のすぐそば
<御殿山>
江戸時代、徳川家光が鷹狩りをする際の仮御殿を建てたことからそう呼ばれています。
それよりむかし、あの太田道灌がこの地に館を築いたとされており、どちらかというとそちらの方が興味深いですね。理由は場所、つまり現在の東京の北側で勢力を誇っていた豊島氏との位置関係です。石神井川流域に勢力を拡大していった豊島一族は、やがて道灌によって滅ぼされます。江戸城からみて北側(石神井川方面)の出城としてこの地に道灌が拠点を築くことは、理由として説得力があります(素人の推定ですが)。
太田道灌別館、または御殿山城と呼ばれています。ただ御殿山城と言ってしまうと、以前投稿させて頂いた品川駅南側(御殿山ガーデン付近)の城跡と重複してしまうので、このブログでは太田道灌別館と呼ばせて頂きます。
その太田道灌別館、筑土八幡神社とはこの坂を隔ててお隣同士。近すぎますね。もともと一体の砦だったと思う方が自然です。そう仮定すると、この坂そのものが「堀切り」に見えてきます。そう、「城のなごり」を感じずにはいられません。遺構がないわりに、地形だけでわくわくする瞬間です(そうやって楽しむというふうに受け取って下さい)。
■ つわものどもが夢の跡 ■
江戸城築城者の太田道灌。その出城の堀切だと信じきってこの坂道を下りました。
■訪問:筑土城・御殿山城
[東京都新宿区筑土八幡町]
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春日山城ですか。いいですね。山城は魅力ですが、もともと来るものを拒むところですから探索は大変ですよね。堀氏も関係しますが、もともとは上杉謙信の城。いいですね!