水郷の城・土浦城跡を訪ねました。
<本丸櫓門>やぐらもん
櫓の二階に設置した太鼓で時を知らせたことから太鼓櫓門とも呼ばれたそうです。
■築城から戦国期■ 小田氏領有
室町時代の中期、地元豪族の小田氏に属する若泉三郎(または今泉三郎)が城を築いたことが始まりと考えられています。それ以前に、平将門が砦を築いたという伝説もあります。それが事実なら最初の築城は平安時代末期ということになりますが、明確な文献がなく、若泉三郎築城とするのが一般的です。
のちに、やはり小田氏家臣の菅谷勝貞が城主となり、以降は菅谷氏の城となります。その菅谷氏、戦乱の関東で小田原北条氏側についていました。これにより、秀吉の小田原征伐の際には天下軍(佐竹・徳川ほか)に攻められ、居城である土浦城は落城。菅谷氏も滅ぼされてしまいました。
主君の小田氏ですが、もともと宇都宮氏や小山氏などとともに関東八屋形(かんとうはちやかた)に名を連ねた名門家です。しかし、この頃には弱小と言わざるを得ない小大名。15代当主の氏治は、小田城(現在の茨城県つくば市)を拠点に、古くからの家臣団とともに先祖代々の領地を必死に守り続けますが、佐竹・上杉・北条といった名だたる戦国大名にはとてもかないません。何度も敗れ、その度に家臣の城であるここ土浦城へ逃げ込んだそうです。いわば避難場所だったわけですね。その土浦城も失い、最後は秀吉の北条征伐に参加しなかったことが原因で、小田氏は滅ぼされてしまいました。
<本丸跡>
■江戸時代■ 統治の城
徳川家康が関東に入ると、長年小田氏の所領だった土浦は、結城城(茨城県結城市)の結城秀康の所領となりました。秀康、つまり家康の次男ですね。その秀康が1601年に越前国北庄へ移ると、関ヶ原で功のあった松平信一が下総国布川から三万五千石で入封。土浦藩が誕生します。その後も何度か藩主が変わりますが、長く定着したのは土屋氏。世襲で十代。老中まで出す名家となり、常陸国では水戸藩に次ぐ領地を支配すことになりました。
■土屋氏■元武田家臣の血筋
老中・政直の時には9万5000石に。その政直、第5代将軍・綱吉から吉宗まで、なんと四代にわたって仕えたといいますから、本当に幕府の中核だったのですね。凄い人物です。そもそもこの土屋氏、ご先祖は武田信玄の家臣でした。信玄・勝頼の二代に仕えて、勇猛な戦国武将として名高いた土屋昌恒(まさつね)の子孫です。土屋昌恒は武勇もさることながら、忠義の武士としても有名です。信玄亡きあと武田家からの離反が相次いでも、決して主君を見捨てず、織田軍に滅ぼされる瞬間(天目山の戦い)まで勝頼と行動を共にしました。最後は主君が自害する時間を稼いで討ち死に。敵方も絶賛する壮絶な最期でした。この影響もあるのでしょう。昌恒の遺児は、徳川家康に引き取られます。土浦藩の藩主の座を継承した土屋氏は、その子孫ということになります。
ここでちょっと話が逸れますが(戦国武将好きなのでお許し下さい)、赤穂浪士の仇討の時、吉良邸の隣の屋敷は土屋さん。この土屋さんも土屋昌恒の子孫です。こちらは直系。ひ孫にあたる土屋逵直(みちなお⇒主税の呼び名で知られているので以下は主税<チカラ>)は、本来なら上総久留里藩主となるはずでしたが、事情があってこの時は旗本となっていました(幕末まで続きます)。そんな名のある土屋家が、仇討に手を貸す訳にはいきませんが、夜陰に灯りを掲げ、間接的に忠義の浪人たちを手助けしました。この土屋主税の配慮、感謝する赤穂浪士たち、映画やドラマでもよく取り上げられるシーンです。泣かせるシーンです。
(長くなりすみません。要するにその旗本・土屋氏と土浦藩主・土屋氏は遠縁ということです。)
【昌恒の血筋】片手千人斬り伝説の血筋
昌恒⇒忠直⇒(長男)利直⇒ 直樹⇒ 逵直(主税)
|⇒(次男)数直⇒ 政直
■城のなごり■
<枡形>
本丸出入口です。門も雰囲気があります。
<東櫓>
内部を見学できます。
現在の姿は亀城公園。かつての土浦城(江戸時代になって整備された土浦城)の本丸・二ノ丸跡です。
印象としは、あくまで城マニアとしての感想ですが、やや整備されすぎています。ただ都市化が進む街中、よくぞこの平らな区画を温存してくれたと感謝したくもなります。
<土塁>
遺構も残されています。
■水郷の城郭■
土浦は霞ヶ浦に複数の川注ぎ込む低地。土浦城はそこに築かれた水郷の平城(ひらじろ)です。築城当時は、戦のための地の利はあるものの、水に翻弄される砦だったと思われます。時を経て、城の役割も変わり、建築・土木技術の向上、度重なる改修により、土浦城は水郷の近世城郭として完成されていったのでしょう。城の主要な曲輪だけでなく、武家屋敷や町屋を含めて堀で取り囲む総構えであったと言われています。
<水堀>
雰囲気がいいですね。
この城の別名は亀城(きじょう)。めぐらされた堀により、本丸が水に浮かぶ亀の姿に似ていたことからそう呼ばれたそうです。きっと城が現役の頃は、もっとスケールの大きい堀だったのでしょうね。
駅からは亀城通りを歩いて城跡まで行きましたが、その道、もともとは川(川口川)でした。城の水堀と運河で繋がっていたそうです。海運で栄えた城下町らしい構図ですね。城そのものだけでなく、町とともに整備された完成度の高い城郭だったと思われます。
■つわものどもが夢の跡■
街そのものの治水が興味深い城跡でした。廃城となったあとも、水との取り組みは続いています。
-----------■ 土浦城 ■-----------
別 名:亀城(きじょう)
築城者:若泉三郎
築城年:室町時代中期
改修者:松平信一・信吉ほか
城 主:若泉氏・小田氏
松平氏・西尾氏
朽木氏・土屋氏
廃 城:1873年
[ 茨城県土浦市中央一丁目 ]
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