江戸川に面した国府台城跡を訪ねました。
<国府台城>こうのだいじょう
国府台城は下総国を支配するのに大変重要な城でした。何度も戦を経験した重要拠点です。城跡は里見公園として整備されています。国府台城そのものはもっと広く、公園はかつての城の一部に過ぎません。
<崖城>
崖の下は江戸川。ほぼ東京という場所(あくまで場所の説明です。市川の方すみません)。川沿いのいわゆる山城ですが、崖城という表現がしっくりする城跡です。
■ 古墳跡 ■ 前方後円墳
城はこの地にもともとあった明戸古墳(あけどこふん)と敷地が重なります。旧石器時代の遺跡もある歴史のある場所。つまり、人が長らく暮らしていたということですね。生活のための地の利があったということでしょう。国府台城は、太田道灌がこの地を陣城(戦のための臨時の城)として選んだことに始まると言われています(1478年)。千葉氏を攻める拠点に相応しいと見なされ、その翌年に道灌の弟・太田資忠らにより城が築かれました。ここから国府台城の長い歴史が始まります。
■ 戦国初期 ■
ここは超激戦地です。背景となる勢力も含めると、事情がかなり複雑です。国府台合戦は有名ですかね。この城を舞台とした2度に渡る大きな戦。私は漠然と『北条』対『里見』と思っていました。しかし今回ブログにまとめるにあたって調べ直すと、まぁ間違いではないのですが、もうちょっと複雑な状況だったようです。自分が理解できる程度にまとめると、以下の通りでしょうか。
■ 第一次国府台合戦 ■1538年
これは『古河公方足利氏+サポーター北条氏』対『古河公方足利氏から独立して現在の千葉に移り住んだ足利義明とサポーター里見氏』ということになります。
足利義明が討ち取られたことで、里見はいろんな思惑から早々と兵を退き、国府台そのものは小田原北条の勢力下となりました。まぁ古河公方の内輪もめに、北条と里見が参加しているような構造ですね。勿論、何かしらメリットが期待できるから双方が参加していたのでしょう。この時の里見家リーダーは里見義堯(よしたか)。里見家の勢力拡大に貢献した第5代当主です。北条家は第2代当主の氏綱。北条早雲の後継者ですね。こちらも勢力拡大の功労者。この時は、嫡男・氏康も連れて参戦しています。
■ 第二次国府台合戦 ■1564年
さてさて、こちらは最初の時とはちょっと関東地方の事情が異なります。それはずばり、上杉謙信の存在。関東進出が活発になり、1561年には関東管領に就任していました。
上杉謙信VS北条氏康の構造
戦国ファンが最も好きな、逆にご本人たちにとっては最も過酷な時期に突入しています。里見家は上杉と同盟を結んでいます。やがて江戸川を挟んで、里見義弘(第6代当主)率いる1万以上の兵と、北条氏康(第3代当主)率いる2万が対峙。序盤は里見軍が優勢でしたが、北条軍が夜襲で反撃。里見義弘の軍勢は崩壊しました。どの文献にも「里見側は序盤の勝利で油断」とあります。そうだったのかもしれませんね。里見軍の犠牲者は五千人とも言われています。大敗です。
■ 反撃の義弘 ■千葉の覇者
国府台合戦で大敗した里見家。さすがにしばらく衰退するものの、里見義弘は再び勢いを取り戻し、安房国・上総国・下総国の支配体制を確立します。どこ?と思われる方。要するに千葉県全部です!更に茨城・埼玉・東京の一部を含みます。
■ 名門家里見 ■ 夢の関東覇者
里見氏は新田義重の子・義俊を祖とする一族。源氏ですね。枝分かれしてゆきますので、ここで「里見氏」と言っていのは「安房里見氏」を指しています。このブログで紹介させて頂いた「天童氏」も里見氏。ルーツは同じです。名門氏族です。
参考→天童城訪問記へすすむ
ただ、実は私あまり詳しくなく、里見といってさっと思い出せるのは滝沢馬琴の南総里見八犬伝。里見の姫・伏姫と八犬士のストーリー。「犬」の字を含む名字を持つ八犬士。懐かしいお話です。各々が持つ仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の数珠玉。この八人は関八州の各地の出身で、里見家のために活躍します。
今から思うと、里見が関東覇者となることを暗示したような設定なのですね(違ったらすみません)。実際に関東の覇者となったのは、里見氏が抵抗し続けた小田原北条氏でした。
<市川市最高標高地点>30.1m
ここ里見公園の一角が市川市で最も標高が高い場所(約30m)だそうです。ここは下総台地の西端で川に面した台地。西側(東京方面)を眺めるには最高の場所ですね。攻め手にとってはやりにくいですね。丸見えですから。ただ仮に別の方角から攻めても、台地の周辺の低地は湿地。それはそれで攻めにくい環境です。まさに要害の地ですね。
<遺構らしき起伏>
この城は明治以降に陸軍駐屯基地として使用されたため、もともとの地形も遺構もかなり改変されています。区別がつきませんが、それらしい雰囲気を肌で感じて満足でした。
■ つわものどもが夢の跡 ■
<城内からの眺め>
北条氏が支配していた国府台城は、豊臣秀吉による北条征伐後、関東に入った徳川家康の命で廃城となります。江戸城を築いた太田道灌の陣城から始まり、江戸城へ入った家康によって幕引きとなったわけですね。天然の要害であればこそ城が築かれたわけですが、今度は江戸を一望できることが裏目に評価されたようです。
さて
戦乱の世を生き延びて、関東最大の外様大名となった里見氏ですが、1614年に現在の千葉県から鳥取県(倉吉市)に国替となりました。江戸近くにおいておくには厄介という評価だったのでしょうね。
---------■ 国府台城 ■---------
別 名:市川城・鴻之台城
築城主:太田資忠
築城年:1479年(文明11)
(太田道灌の陣城1478年)
城 主:千葉氏・里見氏・北条氏
廃 城:1590年※
[千葉県市川市国府台]
※家康の江戸入封に従い廃城
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-------画像追加-------
2021年2月に再訪しました。画像だけ追加しておきます。
<江戸川>
<里見公園内>
<明戸古墳石棺>
<羅漢の井>
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