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2017年08月25日

天童城のなごり

つわものどもが夢の跡
最上氏一族である天童氏の居城跡を訪ねました。

<天童城中央郭虎口>
shirononagori tendo (1).JPG
石碑は天童古城記念碑。背後には土塁が見えています。

天童城は天童市の東南に位置する舞鶴山(比高で百メートル強)に築かれた山城です。村上地方で最大だった山城は、現在「天童公園」として整備されています。

<曲輪と土塁>
shirononagori tendo (5).JPG

それにしても広すぎる・・・
小さな山城だと、麓も含めて探索するのですが、ここはちょっと無理でした。厳密に言うと城は3つの山に跨っており、私の探索は主に主郭から中央郭と呼ばれる付近(2つ分)。土塁や曲輪などを確認しながら他もなんとか歩き回りましたが、タオルを首から下げて、ただ茫然と通り抜けて終わったような気もします。

shirononagori tendo (4).JPG
もうろうとしながら撮影。ちょっと気がきかない画像ですが、段差が連続している様子、伝わりますでしょうか?山の斜面を段階的に削って平らな区画を形成しています。山城らしいですね。ただ広めの曲輪は別として、他は何となく古墳を連想させるなだらかな形状のものが多い気がしました。遺構らしきもの全てが昔のものとも限りませんので、雰囲気だけ味わいました。

■ 天童丸 ■ 築城者推定
天童城の築城者については諸説あります。有力なのは北畠天童丸。素性も不確かですが、村上源氏の流れを汲む名門・北畠氏の子孫とされています。1336年に天童城を築城。山形の斯波氏に対抗しました。これは南北朝時代のお話。天童丸のそれ以降の消息は不明です。外圧から天童城を去ることになったと考えられています。

ここで斯波氏についてですが、室町将軍・足利氏の有力一門です。やがて出羽を支配する最上氏は、その分家ということになります。源氏の血をひく最上氏のルーツですね。最上氏の祖は斯波兼頼(しばかねより)。最上兼頼です。

■天童氏の勢力拡大■
上記の最上兼頼の孫の里見義直が天童城へ入城。天童氏を名乗ります。これははっきりしているようなので、天童城の初代城主は「里見氏」と考えるほうが良いのかも知れませんね。えっと最上の孫で里見?ちょっと複雑ですが、斯波氏で後に最上を名乗った人物の孫が養子で里見氏に入り、後に天童氏を名乗った・・・(ここでやめますね。)

里見氏。現在の千葉県で勢力を拡大した安房里見氏と同系です。ともに新田氏から分かれた名門ですね。この里見氏が、どういう経緯でいつごろ出羽国へ進出したかは不明のようです。で、その里見氏の家系(清和源氏新田氏流里見氏)が途絶えると、次は最上氏(足利氏流斯波氏一門の)が城へ入り、やはり天童の姓を引き継ぎます。ずっと直系の嫡男が継承というわけにはいきませんが、歴代天童氏当主はこの城を拠点に勢力を拡大。村上地方の中心的な存在となっていきます。

当ブログ、いつも曖昧に「名門」で済ましていますが、ちゃんと記載する時には一応調べます。読んで頂いている方が納得してくれるなら嬉しいですが、そもそも「名門」という世界が複雑(私が戦国期以外の日本史に疎いこともあります)な上に、天童氏も事情が複雑。私が読者なら読み流したくなります。すみません。話が逸れました。本題に戻ります。


■最上義光と対立■ 天童八楯の崩壊
天童氏の説明をさせて頂いて、その後の細かい説明が雑だと、下記は「えっ?」ということになります。相当な時間を経ていますし、兄弟・親戚で争うことも多い時代。いつのまにか本家の最上氏、というより具体的に最上義光(よしあき)とは領地などをめぐって対立関係となっていました。そんな感じで何となく受け止めて下さい(このブログはそのレベルなので。更に言うと、最上義光いよいよでてきたかぁ〜!という漠然とした躍動感でこの事態を受け止めています)。

1577年
最上義光に攻撃されるが撃退
城は堅城・周囲の援軍もあり

1584年
また最上義光攻められ落城
周囲の味方は既に最上に屈していた

最後の城主は、当主の天童頼澄。天童の地から去りました。かつて天童氏を盟主に形成されていた有力国人領主による連合「天童八楯(てんどうやつだて)」は、この時すでに崩壊していました。主要メンバーで、最上義光に下っていた延沢満延(のべさわみつのぶ)の嘆願により、最上軍は逃亡する天童頼澄を見逃しました。難を逃れた天童頼澄は、伊達氏に仕えることになります。

中世の山城としての天童城は、この時に廃城となりました。


その後
■織田氏陣屋■
かなり時を経てからの話になります。1830年に織田氏が天童藩主に。織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の後裔ですね。天童織田藩の始まりです。
<建勲神社>
shirononagori tendo (3).JPG
織田信長を祀った神社。天童織田家については別途投稿しました。よろしければ→織田乃里

舞鶴山が再び政治の中心地として機能し始めます。西の麓の平野部に、外堀と内堀を持つ陣屋が築かれました。かつての戦闘用の山城ではなく、統治のための拠点ですね。天童織田藩は廃藩などもなく、明治まで続きます。戊辰戦争に巻き込まれ(天童藩は新政府側)、この時に陣屋は焼失したそうです。

■つわものどもが夢の跡■
<天童公園>
shirononagori tendo (7).JPG
全国的には人間将棋の会場として有名ですね。テレビにはここしか映りませんが、しっかり見て歩けば、中世の頃と思われる遺構がところどころ確認できる山城です。

将棋の一手一手に思惑があるように、遺構それぞれにも意味があり、人の思惑が託されています。

---------■ 天童城 ■---------
別 称:舞鶴城・天童古城
築城者:不明(北畠天童丸)
築城年:不明(1336年)
城 主:天童氏歴代
廃城年:1584年
(天童織田藩陣屋は除く)
[山形県天童市天童城山]


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posted by Isuke at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]
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