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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2013年12月31日
除日


『枕草子』には「すさまじきもの、おうなのけさう、しはすの月」と書かれており、『源氏物語』朝顔の巻では「花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折りなれ。すさまじきためしに言ひ置きけむ人の、心浅さよ」と紫式部が清少納言をたしなめている話は有名ですが、私にはどちらのも言い分はあるような気がします。確かにあまりに輝く月は、年増の女性のおしろいのように恥ずかしいものですが、だからと言って月の光は、月下にある暗く侘しく寒い年の瀬を支えるように照らしてくれるもので、まさに「色なきもののみにしみて、この世のほかのことまで思い流され」救いにもなるものです。清少納言だって「夏は夜。 月の頃はさらなり。」と月を嫌っているわけではないのです。したがってこの勝負は引き分けとし、皆さまには中をとって、三日月をご紹介しましょう。電線が邪魔ですが、「ひんがしの、野にかげろひの立つ見えて」(人麻呂)ますよね。人麻呂のこの歌が詠まれた西暦692年12月31日の午前5時50分頃のようにはいきませんが、古の、「みたまのふゆ」(天皇霊の授受を行う大嘗会(daijyoueを真似た分霊)の儀式に思いを馳せましょう。
大化の改新で蘇我氏を倒し、後に王位に就いた中大兄皇子(天智天皇)の娘持統天皇は、夫天武亡きあと皇位につき、最大の都藤原京に遷都するも息子草壁の皇子が早死にし、孫の軽皇子(かるのみこ)に皇位を継がせたかった。この儀式もその為のものだったようです。つまり人麻呂の「ひんがしの野に炎(かげろひ)のたつみえてかえりみすれば月傾きぬ」は、この儀式を詠んだものだと。
安騎野(akino)で行われたと想像されている軽皇子(karunomiko)の「みたまのふゆ」は、いわば「冬至」の頃に行われる復活祭の様な王権受霊の儀式で、「朔日(1日の朝)」と「冬至(この日から日が長くなる復活の日)」とが重なるまれな年だったようで、その確率は19年7ケ月に1度くらいだったようです。天皇を神と位置付けようとしたのは持統天皇のころからで、一体である「式年遷宮」の20年毎もここからきていると言われます。



すみません。これは11月の季節が不安定で冬や秋が交互に入れ替わっていたころの寒い朝に、今はもう文化財になっている古民家です。特に講釈はありませんが、茅葺があたたかかったものですから・・・。

そうこうしているうちに、今年も残り僅かになってきました。

歳時記で知ったのですが、一年の最後の日を「除日」(jyojitsu)、その夜は「除夜」と言うそうです。
「旧年をとり除く日」という意味のようです。そういえばお正月は、その年の年神さまをお迎えする儀式であり、(たいていの行事の仕方は江戸時代に確立されたとも聞きましたが)年が改まるとすべて世界がやり直しなんですね。日本人の知恵でしょうか。だから借金も大みそかにつかまらずに逃げ果せれば、チャラになる。すごい社会福祉ですね。「時効」(権利の上に眠るものは、何もせずほおっておいて、一定期間を経過するとその権利は奪われてしまうという考え)の考え方があったんですね。それで借金取りは大みそかは戦争だったわけだ。その為食事なんかゆっくりとっている暇はない、よって「そば」のような速く食べられるファーストフードが食されたと。(=年越し蕎麦)どこまでが本当でしょうか。でもホント、究極のエコ社会江戸らしいですね。

無駄話をしました、そろそろ年もくれます。皆さま新たな出発によい発見を!

2013年12月27日
利休に尋ねよ1
芸術祭参加番組と書いてあった様に、やけに外国人を意識した演出で、時代劇ではなく、利休や秀吉の恰好をさせた現代劇だなと感じました。利休役の海老象が、やたらと「美」という言葉を連発するのには少し恥ずかしく思いました。
利休は美などという言葉は、感じて・触れていたかもしれませんが、安易に口には出していないのではなかろうか。言った途端に、逃げだしてしまう、独り歩きしてしまうものだからです。

少し、利休入門しましょう。これからお話しする内容は、私の感想を除き茶人・木村宗慎さんの解説「利休入門」に多くを依っています。

≪楽茶碗≫
利休のころは、単に「ヤキ茶碗」とか「黒茶碗」と呼ばれていたそうです。黒茶碗に濃茶の緑は映えない。(私達が少し考えても、口当たりの厚さなど実用性にも欠けている感じがしますし、のっぺりした胴で肉厚な黒いかたまりは、外への広がりがありません。)つまり楽茶碗は見る為のものではなく利休の好んだ四畳半以下の小間(小さい室)の茶室は暗く、そこで感じる茶のぬくもりを引き立たせる、小ぶりで手のひらにおさまるサイズの茶碗です。「茶碗を見るな」「道具を忘れろ」を意図してつくらせたと推察されています。
それでも、見るなと言われても、茶道具としてではなく作品としての楽は、人を寄せ付けない宇宙の闇を感じさせるすさまじい吸引力を秘めています。暗い茶室が宇宙とすれば、黒楽はさしずめ闇の闇ブラックホールというところでしょうか。
長次郎には赤楽もあります。

≪井戸≫
楽の思想に準じて死ぬ利休ですが、一方で最晩年には高麗茶碗の「井戸」をも愛用しました。こちらは見た目も土の色(黄土色)やかいらぎ(釉薬・ユーヤクのたまり)、胴のろくろ目など手作りの痕跡を残して、味わい深いものになっています。時代の流行に乗った世俗的なものも素直に愛していたんですね。このようなこころの矛盾というか葛藤というかそういったものこそ芸術家のエネルギーになったんじゃないでしょうか。
「茶も禅道の「只管打坐」(sikanntaza=禅宗で、余念を交えずひたすら座禅をすること)にひとしく、
ただ詫び数寄に徹する手段と信じており、師匠の利休をはじめすべての茶湯者が、それ(あちこちの大名を掛け持つ)を生活のたよりにするのを嘆きつつ、自らもその有様から脱しえないのを悩んではいたが・・・・・(野上弥生子・秀吉と利休)」とあるように収入も少ない時は二君に仕えるような
危ない橋も渡るなど理想と現実の狭間に葛藤があったと思われる。もっと言えば例え一君であったとしても、禅僧たちと比べれば「道」(茶道)と言いながら権力に芸を売るような真似をすること自体(結果として政治に口を出していく事に繋がる)が利休のみならず、茶湯人全体の大きな矛盾でもあったでしょう。このような形で(パトロン付きで)暮らし向きを立てていた事自体が終いにはあのような悲劇に至る根本では無かったでしょうか。

≪待庵≫
待(タイ)は、接待の待と同じく、「お・も・て・な・し」をあらわします。現存する唯一の利休作の茶室と言われます。秀吉が大阪城に移る前年に山崎の城内につくられた変則の茶室です。勿論私も現物にお目にかかった事はありませんが、極端に狭い二畳ということと、現存最古の茶室ということで国宝になっているようですが、中のこの狭さや床の間まで全て土壁にしてしまう発想は、貧しかった幼少期を持つ秀吉の案だったろうと茶人・木村宗慎さんは述べています。
茶人はこんな無茶はしないと。しかも粗末に見せるのに、わざわざ選りすぐりの素材を使っているのも、秀吉に幼少期の郷愁を満足させる為の、現場監督利休の騙しとも言われています。

≪茶室≫
利休の通常の茶室は四畳半が多いようです。茶室は、「利休」の名の、鋭利さが休する武骨でその名の通り、唯賢こばらずに食事をしてお茶をいただくだけの場所でした。そのころの茶会記を見ると、床に飾るような道具を何一つ持たなくても茶の湯はできたし、市井の茶人はみなそうしていた様です。
ただ利休は立場が違いました。利休は天下人秀吉の茶頭(satou)でした。秀吉は名物道具に狂い、その価値観を広く世間に押し付けようとしていました。何しろ信長も秀吉も堺や博多の豪商、つまり財界の大物を接待し資金援助をさせるのが目的でしたから。
そんなとき(成りあがり者も多かった)彼らの何よりの御馳走は、名物道具の鑑賞や購入でした。

≪詫び茶≫
そんな立場で、何一つ名物もなく、あるものと言えば掛け軸か茶壷一つのみすぼらしい市井の茶人をやってのければ、「何もありませんが」と、「お詫び」の気持ちを持ちながら立てた茶でも、反って侘しい・さびしい「侘び茶」とよばれ話題にもなることでしょうし、そんな秀吉につき従わない行為は、彼(秀吉)には面白くなかったでしょう。しかもこういった詫び茶を始めたのは、秀吉についてからでしたから。それまでは(60歳頃までは)師と仰いだ連歌師・武野紹鴎のモノマネで唐物の天目茶碗を多用するなどむしろ「雅」(miyabi)な茶だった。紹鴎にしてからが、唐物の名物も持たず、茶室も狭い三畳敷の「侘しい茶の湯」を「冷え枯るる」とか「枯れかじけて寒かれ」とか言って連歌の美意識で評価しようとしてはいても、自身は豊潤の唐絵や茶壷「松島」など多くの名物を持つ茶人でした。
遡れば詫び茶は、茶の湯が唐物を飾り立てた会所のようなところで大人数で行われていた儀式的なもの(「下京(しもぎょう)茶の湯」)を、庵のような小さな空間で、和物の道具を使って行う茶の湯(「草庵の茶の湯」)に変えていった村田珠光の好みから始まりました。
この感覚には、水墨画や枯山水に見られる「余白」や「余情」を重視する禅林文化の影響や連歌が冬の凍てついた風景の中に発見した独自の美に関係しています。この茶の精神を引き継いだ紹鴎や堺の町衆達が、何より大切にしていたのが、自分の「好み」を新しい時代の価値観にしていこうという気概を持ち、自分の目利きで国産の道具を選ぶことだったのです。これを「和物」とか「国焼き」と言うようです。
ここに登場したのが利休でした。何よりも彼の天才は、(目利きを更に発展させて)自分の考えによって(何者にも遠慮せず)新しい美の価値を生み出していった事にあり、飛びぬけて革新的な「見たて」にありました。楽茶碗をつくらせたのもその一つでした。
彼が選んだから価値があるんだと思わせた。これは本当にすごいことだと思います。
私のような素人の目には、ハッタリすれすれの危ない橋を渡っているのではないかと疑わせるほどの裁断です。利休は珠光の「詫び茶」を、ルネッサンスのように開花・完成させたといっていいでしょう。(ちなみに、利休の弟子の古田織部の茶は、利休の誰も到達できないような高見から茶を開放し、窓は八つも開けて(八窓庵)明るくし、茶碗も今まで「壊れもの」「損ないもの」と言われたダメ茶碗をわざわざつくらせたりした。完全にバロックですね。)

≪窓とにじり口≫
両方とも利休の発明で、この頃の茶室の入り口は障子戸でした。茶室ははなれでなく母屋にくっついて建てられるものなので、母屋から廊下づたいに行くか、或いは一旦庭へ下りたとしても、茶室の縁に上がってからはいるものだったようで、その縁側や廊下を止め障子戸からの出入りを止めてしまった訳です。木村さんによればその全面が明るく平板な光しか入らない障子戸をやめて、茶室の四方を壁でかこい、そこに窓を開ける。その窓で位置や大きさで調光が可能になる。茶室に窓をあけたのも利休が最初だそうです。にじり口の小さな寸法は大事な窓をじゃましない為だったと言われます。入口が狭いと武将も刀を置かざるを得ず、頭を下げて入ることで、茶室内では身分や立場の上下がなくなるというのは、後の人が想像したことでその様なことは本人はあまり意識せず、ただ茶室という作品の為にした工夫であると。私もそう思います。
利休は宗教の人ではありません。結果としてにじり口が己を低める行為となり、暗い茶室から差し込む一筋の光が神のように尊いものに見えたとしても。
優れた作品には作者の意図するところを越えて、様々な創造があるものです。

(続く)





2013年12月27日
利休に尋ねよ2
(続き)
≪死≫
茶室のところで書いたように、利休が茶碗や茶室造りでやろうとしたのは「見る」茶の否定で、それは秀吉の(政治的)茶の否定でした。でもそれをさせたのは、彼らの立場でした。
出逢いからタッグを組んだ頃の立場とは訳が違います。利休が紹鴎のものまねから、珠光の詫び茶に傾いて言ったのは、このあと六十を過ぎてからのことです。
何があったのでしょうか。「侘しさという感情は、不足や不完全である事に抱くものですが、人は例え栄華を極めても侘しさから逃れることはできない。
日々人生を少しずつ失い、しかもそれを取り戻す事はできないということにおいて、おそらく人は根源的に貧しいのです。天下を取った後の秀吉は、利休の前にそうした貧しさ、侘しさの権化として
あらたに立ち現れたのではないか。(木村宗慎)」

「庭の朝顔がいっぱい咲いております。どうぞ朝顔をご覧においでください」と秀吉に朝の茶会に招待した利休は、こともあろうに秀吉が来ると言うのにその庭の朝顔をことごとくちょん切り、それを見て怒りまくる秀吉がどかどか茶室に入っていくと、ほの暗い床の間にたった一輪それはみごとに朝顔が生けられていたというエピソードは、
栄華を極めている秀吉の本来の姿を自覚してもらいたかったのでしょうか。多くの人を殺戮し、その犠牲の上に立っているあなたさま。
余りに危険な賭けであり、自分自身詫びの道に生きる決意を示したかったのでしょうか。
利休が楽とは正反対の井戸を愛したのは、井戸茶碗が、茶道具」では例外的に瑕(kizu)ものでも評価される理由に、それが「老い」の姿を愛でるものだというところを、すなわち花のように、時の流れには打ち勝てずしおれていく姿に無常を感じるところをだったのではないか。花も人も名物にはなれない。時には打ち勝てない。

「利休が名物を否定し、最後は道具まで否定しようとした」のは、秀吉という花に(木村宗慎)」殉じたからではなかったのかと推察しています。
世の栄華を一身に受ける秀吉にひたひたと忍びよる老いの恐怖。限りある命を花の姿に重ねた利休は、実は真の詫び茶の体現者ではなく、演出者に過ぎなかった。体現者は秀吉その人だったということでしょうか。

これも私の想像ですが、秀吉も自身、名物にはなれない「花」に過ぎない事を彼も判っていたでしょうし、利休も秀吉がそのことを察してなお切腹を命じなければならなかった訳は判っていたのではないでしょうか。そう思う様になりました。世間を驚かす待庵や禁中茶会で御所へ運び込んだ黄金の茶室も、共に発案は秀吉、制作は利休でした。
最高にして親密なコンビでした。部下や取り巻きの甘言に惑わされる筈も無かったのです。

「利休めはとかく冥加のものぞかし管丞相(kanjyousyou)になるぞと思えば」と辞世をの句を残します。

秀吉を甘やかせ過ぎた三成による讒言(zangen)により、左遷憤死した菅原道真に自分を重ねたといわれています。事実その通りでした。
もともとが「冥加」(知らず知らずのうちに神仏の加護を被ること。その実先に述べた、神仏というより世俗的な秀吉の加護を得ていた)だったわけだから。「新しい価値」を世間に認めさせるのに、天下人の力を借りたのは事実でしたね。矛盾を背負っていたんですね。
しかし立場が、自分達だけではもう思うようにはならない、高見に迄、来てしまっていたという事ではないでしょうか。
前の月に、最大にしてかけがえのない助言者であり、知恵者であった弟秀長を失い、今また最大の理解者であり、部下の様に自分を甘やかさない利休に、みづから手を掛けざるをえなかった秀吉は、いよいよ朝鮮出兵という愚行に取りつかれたように突き進みます。これも彼の本意ではなく、今太閤という考えもしなかった権力の座が秀吉をして(武士たちへの)新たな恩賞のネタを
必要とさせたのではないでしょうか。もうこのころから秀吉は、自分が何をしているのか見えなくなっていた、自分を見失っていたのではないでしょうか。

「唐御陣(朝鮮出兵と明征服)は明智討ちのようにはいくまい」との言葉をトリガーに、秀吉の今迄の鬱積がはじけた。この鬱積は決して利休一人に対してでは無かった。
すべての後悔、いや残された時間の短さにも向けられていたかもしれない。

動いていたのは、太閤という権力と(宗易でなく)利休という茶の達人との、名声と名声とのぶつかり合いで、それはもう当の本人たちにはあずかり知らぬ力だった。

いつも同じ詩で申し訳ないのですが、志貴皇子の歌を。

ムササビは木末(konure)求むとあしひきの山の猟夫(satsuo)にあひにけるかも

どちらが秀吉でどちらが利休かは全く謎です。政治の側から見れば、山の猟夫は秀吉でしょうし、茶道(この言葉は後の人が名付けたものらしいですが)から見れば山の猟夫は利休でしょうか。

どちらもこうなることを判っていて避けられなかった。
或いはこうなることで「葛藤」から解放されたかった?
(利休にとってばかりか、秀吉にとっても最大の権力者である自分が、茶道ばかりか政治むきのことすら冷静なアドバイザーで欠かせない存在であった利休に頭が上がらなかったという葛藤があったでしょう。)

切腹の当日、外は大雨で、雹(ひょう)が降り、雷鳴もとどろいたそうです。聚洛屋敷に遠くない秀吉の耳にも雷鳴は届いていたでしょう。利休の怒りは己自身への怒りだったでしょうし、秀吉にとってはと言えば、世間の目や取り巻きの目、更には自身のみえの為に、消去法で決めざるを得なかった決断に追い込まれた自分に、利休とともに苛立っていたのでしょうか。

突っ伏した利休の背を通り抜けたひと吹きの風は、死人の衣を返し、その生臭い匂いをあたりに漂わせた。とその時、彼の懐からころころと毀れた蘭奢待の香木(※)の香が、間を入れず周囲の臭気をぬぐい取るように拡がり、再び静謐が訪れた。


 ※足利義政に倣って、信長公が正倉院の香木、蘭奢待(らんじゃたい)の一部を伐りとった時のくださりもの


追伸; 2013年9・16の「豊かな社会」2に、追加文を載せました。よろしかったらご一読を。

2013年12月10日
「誰でもいい」と「誰もがいい」1
先日、河合隼夫さんの「生きるとは自分の物語をつくること」という小川洋子さんとの対談を再読していて、不思議な文章を読み落としていたのに気付きました。少し長いですが引用します。

小川 一方で「源氏」は、ほとんど失恋、出家、失恋、出家の物語です。出家ということが身近にある時代だった。
つまりそれだけ、死の世界が日常生活にものすごく近くて、一歩踏み出せば行けるという感覚だったんでしょうね。

河合 むしろそっちが大事で、行く準備をしてちゃんと行くという事があった。・・・・・・ところが出家をしようと思うけれど、この世の絆し(ほだし)でなかなかできない。今は親子の絆(きずな)とかプラスのイメージになってるけどあの頃はむしろマイナスのものだった。以前の若者は、親子の中途半端な絆によってなかなか家出ができなかった。だけどやっぱり、人間はどこかで家を出ないかんわけです。出家とは、この世の家を出る事なんですからもっとすごい。

小川 究極の家出ですね。

河合 「絆し」(ほだし)を断ち切って出家するから意味があるんだけど、はじめから無かったら家出は価値が無いんです。

小川 結局「人間はどうして死ぬか」とか「死んだらどうなるんだろう」とかの恐怖が、物語を生みだしているということでしょうか?

河合 もう絶対にそうですね。
嘗ては死ぬということが人生の一番の大問題やった。今は生きる方にちょっと心を奪われ過ぎて死ぬことを忘れてる(忌み嫌ってる)から変な事になってくる。

小川 男と女が愛し合って関係を持つということも、今はものすごく軽くなっていますけど、光源氏の時代には、妊娠して出産して、それはもしかしたら死に繋がるかも知れないという緊張感があった。

河合 そうです。これは推察ですけれど、あの頃の男女の肉体関係というのは、おそらく死に近接していたんじゃないでしょうか。

小川 死とエロスとが、観念的にではなく、現実の問題として背中合わせに合ったということですね。
河合 真っ暗な中誰かもわからない男が急に忍びこんで来て、バッと関係を持つわけだから、女性にしてみれば、死の体験に近い。まさに死を共にしたという感じじゃないかと僕は思っています。そこから出発して、心の方は後でだんだん結ばれていくわけですね。
アメリカやヨーロッパで、僕はよく「源氏物語」や日本の物語の話をするんです。日本の平安時代の男女の関係は、まず男が顔を見て、財産とかを調べて、女性のところに急に忍びこんでくる。その時女性には、香りとかちょっとした身振りみたいなものとかだけしかわからないんだ、と話すんです。

小川 衣擦れの音ですとか。

河合 そうしたらアメリカの女性が「素晴らしい!」って言ったんです。

小川 奥ゆかしいものに憧れるんでしょうか。

河合 こういうことを、自分たちアメリカ女性は全然経験していない。自分たちは「こんな顔をした人で、こんなお金持ちで、こういう社会的な地位があって」ていうことで相手を選ぶから、本質が狂うんだと言うんです。すごく面白いでしょ。

小川 おもしろいですね。感覚よりも合理性が大事にされている。

河合 そう、それでかえって男女の愛がなくなってしまうんです。僕はむしろネガティブな意味で紹介したんですけど、言った途端に「ワンダフル!」という反応が返ってきた。考えてみたら現代の日本というのは、こういう面白いことをいっぱい捨てているんです。合理的に考えてちゃんと自分で判断して、相手を選んだなんて思ってるけれど、そんなものろくなことないですよ。

小川 みんな失敗してますからね。(笑)

河合 そうでしょ。だから昔の様に「エイヤーッ」てやった方がよっぽどおもしろい。

小川 お見合いの制度もまんざら不条理な訳ではありませんね。

河合 おもしろいですよ。僕のところに相談に来る方の中で、三対三でお見合いをしたんです。その結果、実にうまい相手を選んでるんです。一見悪いことの様にも見えるんです。性格がまるっきり違うとか、結婚してうまくいく為には悪いことに見える。ところが、実はものすごくええことなんです。その人の成長という点から見たら「ええ人えらんでるなー」と。

小川 あまりに「個(個人)」ばかり執着していると、なにか生き詰ってしまうんですね。

河合 そう。「個」というものは、実は無限な広がりを持ってるのに、人間は自分の知ってる範囲内で個に執着するからね。私はこういう人間だからこうだとか、あれが欲しいとか。「個」というのは、本当はそんな単純なものではないのに、そんなところを基にして、限定された中で合理的に考えるからろくな事が無いんです。前提が間違っているんですから。

(続く)

2013年12月10日
「誰でもいい」と「誰もがいい」2
如何ですか?長くなりましたがとても注目すべきところを、うっかり読み過ごしていたのです。
「ワンダフル!」はどうして発せられたんでしょうか?東洋の不思議な生活制度に何かアバンチュールを感じたからでしょうか?違うと思います、これほどはっきりミステリアスでなくワンダフルを言ったのには訳があると感じました。河合さんはおもしろい事と控えめにおっしゃってますが、そこに何か古代の人達の無意識な知恵が働いていたのに気付いたのではないか。
男女の相手選びには、現代の私達は「どう生きるか」より「如何にいいスタートができるか」にばかり気が行ってしまっています。顔はイケ面か、資産は、経済力は、学歴は、果ては優しくても、親から自立しているか(つまりマザコンでないか)まで、チェック、チェックの連続でなかなか決まりません。条件闘争としてでも、今の自由な選択制度の中でいくら頑張ったとしても、一生のうちで、一体何人の異性と出会うことが可能でしょうか?お見合いの方が、最初から目的も割り切っている事も手伝って、より多くの出会いの機会に巡り合えるでしょう。
しかも世の中に、ごまんといる異性の中で、既にこんなに小さな小さな分母に絞られた中(出会えることができる数)から、一体お望みの方と意気投合できる確率は(もう既に絞られた分母の中にはいないのかもしれません)何と小さなものでしょう。それでもみんな最後には、自分のお眼鏡に適った相手と思ってしまう。つまり最初の条件などあまり関係なかったということでしょう。
どうせ考えていた通りの出会いなんて確率的にもあり得ない。どうせままならないのなら、ああでもないこうでもないと費やす時間と労力を、これからの(納得いく)物語づくりに費やそうと。

「この人でなければ絶対駄目」と思う気持ちの中には、何か相手を自分の大切なコレクション(所有物)の一つとでも思っているところがあるのでは無いでしょうか。その気持ちは「愛」ではありません。愛されたがっている、つまり甘えたいだけなんです。だから最悪ストーカー殺人の様なことに発展することがある。所有物を誰にも取られたくない。究極には燃やしてしまえになるわけです。
そのとりかえしのつかないところまで行って初めて愛の苦しさに気付き、そんなところで帳尻が合う人もいますが、これではやられた方は、たまったもんじゃない。それでもまだ気付かない救いようのないものもいますが、今日はその話では無いので・・・。

一方で「私でなければ」とおもい、相手を受け入れてくれる寛大な方もいらっしゃるでしょう。それも愛じゃないと言いたいところですが、厳密な定義をするようなものでは無いので広い意味で愛としましょう。子を甘えさせる親の様な愛ですね。いつかは子は親から「出家」しなければなりませんから、たいていはそこで捨てられるでしょう。親ならそれを喜ばなければなりませんが、果たしてそこでも「広い慈愛」を発揮できるでしょうか。こうなるともう男と女の愛からずーっと離れていきますね。
愛とは互いに、自分をひざまずかせるような、全身全霊で自分を無にしてでも(犠牲にしてでも)相手を歓ばせたい(喜ばすではありません)気持ちが生まれることです。だから愛は負けることであり、負けた相手の為に自分という「個」を越えてつくしたいが、越えられないが為に苦しいのです。

自己犠牲を伴わない愛なんてない。求めたがるものじゃない。与えたいものなんです。ことほどさように愛は損で辛いものなんです。ですから、そんな簡単に年中愛してるなんて言ってられないんです。本当にその出会いが人生を賭した物語であるのなら、それは一期一会でなければならないし、朝から晩までそんなんことをしてたら、身が持たない。
どんなにすばらしい歌だって、繰り返し聞いていれば、飽きてくる。つまりあの時の感情が湧いてこなくなるものなんです。
だから、最初から次に何が来るか予想出来る愛なんてありえない。あとからついてくるんです。お互いの交流によって、徐々に深まってくるものなんです。そのころには、最初に感じた違和感なんて関係ないことがわかってくるんです。それを最初から計算して有利になんて、全く違う代物ですね。
愛は仕事や結婚(社会生活の為の決まりごと)とは違うんです。表面的にかぶる事はありますが、本質的に違うんです。そこを掛け間違うと、こんなはずじゃなかった・・・・・ということになる。
もっとずっと死と直結しているものなんです。生まれてこの方、ずーーーーーーーーーっと、目をそらせてきた「現実の現実」との出逢いなんです。存在を揺り動かされる体験なんです。失う者もたくさんあるんです。それは犠牲の初体験です。そこから、断念から得られるものこそ、狭い「個」を越えた、「たましひ」=「他者」との繋がりなんです。
それを知らずに一生を終える人だってたくさんいます。セックスだけを割り切って遍歴する人もいますが、そういう人は「たましひ」が腐ってきます。命の交歓を知らないからです。(対動物ではありますが、スペインで闘牛がすたれないのは、あれも「命のやり取り」だからでしょう。ずいぶん身勝手な遊びではありますが。かなり人間の方に安全の軸を偏らせてはいますが、最低限人間の命の危険も伴ってやっていますからね。)

話が又逸れそうになってきました。修正します。ワンダフルでしたね。
彼女は現代人が忘れかけている、人間としての本質的な営みの一典型をそこに見た、思い起こされた事に感動したんでしょうね。

一番大事なものは何なのか。
それはずばりと言えば、たちまち嘘に変わってしまうものでしょう。定義されてしまったり、これからどうなるか予測できるものに感動は無いですよね。これから創っていく、その過程に生まれるドラマが人を動かすんですから。なにしろ、相手があることなんですから。小さな「個」に囚われていると、自らの人生の幅を狭めて、損ばかりしているとしか思えない生き方に嵌ってしまいますね。
よーーーーーーっく考えてください。「自分が決めた」のではない出逢いに、自分をゆだねる事が出来ますか?平安時代の人はそこまで考えてしたとは考えにくいですが、少なくともそれで支障の無いことは知っていた。
これはとても大事なことで、自分の人生が計算だけのちっぽけなものに終わるか、広い心(たましひ)に生かされて、命の歓びの一端に触れることができるかの、境目なんです。自分しか信じられないか、「他者」を信じられるか、と言い換えてもいい。他力本願の本当の意味もここにかかっています。前回法然さんンと弟子の親鸞さんの話をしたように、「阿弥陀」とは人間にとっては「他人」のことなんですね。(勿論「たましひ」も他人のことでしたね)。
その何をされるかもわからない「他人」を信じられますか?と法然さんは問うたんですね。
出来ることは全てやった。あとは「他者」である阿弥陀さんの裁量にお任せします。「運を天に任せる」というのも、何も努力しないということではないですね。全力を傾けた、だからこそ後は例えどのような結果が出ようと、お任せしようという気持ちになれるんですね。

Other Voices,Other Room(遠い声、遠い部屋)でカポーティーはそのお相手が、同性であってもいやむしろ、かえってその方が人の旅の本質が際立つ事を示して見せた。
事ほど左様に、性は深いものなんですね。なめてかかると、大やけどしますよ。

自棄になって「誰でもいい!」じゃなくて、(ルール破りで暴力を振るう人以外なら)「誰もがみんないい」んですよね。

顔じゃねー!. 金じゃねー!。

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