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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2011年09月17日
月に想う



昨夜は思いがけず、窓から臨める星辰を眺めながら、眠りに就いた。
澄みきった夜空に、散りばめられた過去の事象。

今はもう既に存在していないかもしれない星の光に、思いを馳せながら何か耳からではなく、心の奥の方からうねりとも、秋波ともつかない何かが聞こえていた。
その波のような通奏高音に揺られるように、宇宙の中に運ばれるように眠りに就いた。

そして夜明け前、光輝くまん丸の月に照らされて、眼を開けた。
しばらくは、その美しさに身動きが取れずに見とれていた。
「月は瞬きもせずに照らし、山々は深く眼を閉じている」(折口信夫)

うとうとと、起きられずに気持ちがさまよう間に、月はしらじらと何処かに隠れていた。
朝日に照らされて身を起こすのとは違った、力無い、しかし落ち着いた静かな力でそっと支えられるような既に起きていたような感覚で床を離れた。

月は地球とは切っても切れない、生さぬ仲なのだ。そう感じた。何がとは言えないが。

勿論太陽をのけものにすることはできない。生きとし生ける全ての生物は太陽の恵みを受けて生存している。
しかしである。余りに巨大で、余りに毒のある太陽は、薄められなければならない。(2010年3月27日 「毒について抄」参照)
とても、月のように小粋な、「よそ見」を楽しむ存在であり得ないのだ。(2009年10月31日 「脇見」参照)
余りにストレート過ぎるのだ。とても人間的な存在とは言いにくい。恐れ多い存在なのだ。

これに対して月は太陽の光を反射し、兄貴分の地球の周りをついて歩くだけの、さびしく影の薄い
存在なのだ。そうでありながらも月は、影となり日向となって地球の営みを支えている。
良く知られたところでは、その引力に依って海水や陸地さえも引っ張ったり離したりしている。様々な生物・女性や深海の魚類やかきや藻などにそのリズムを投影してもいる。

余り知られていないところでは、潮の満ち引きに習って生まれた「綱引き」行事がある。その満ち欠けから推測された、死と再生のリズム。永劫回帰する力をそこから感じとった。脱皮力を持つ蛇は月の信仰に結び付く。韓国や九州各地にのこる8月15夜の綱引きはカヤで編んだ綱を蛇に見立てて
東西の集落で引き合う。満ち欠けにあやかって、永劫回帰を、不死を願い、豊饒を祈る。

そして月とのもっともっと重大な関係は、人の二足歩行との関係だ。
勿論科学的とやらの証拠はないのだが、津島秀彦という量子神経学者の言うことには、「二足歩行を始めたのは、月が遠ざかったからだ」ということだった。
(今から30年以上前、当時最先端の「遊」とい雑誌に惚れ込んだ私は、「工作舎」という編集室のある新宿の高層ビルを友人を伴って訪ねた。そこには当時発売されたばかりの「二十一世紀精神」という本の内容に関して、編集者であり、現在は日本の知の巨人でもある松岡正剛さんに颯爽と語っておられた津島さんがいらした。これも懐かしい想い出だ。)

実は現在でも月は、年に3〜4センチ地球から遠ざかっているという。この計算を30億年前に適用すると何と現在の地球との距離である38万キロに対し、1万8000キロ辺りにいたことになるのだそうな。実に今の30倍も近く、その大きさと言ったら驚きのサイズだったろうことが想像される。だからと言って、立ちあがったかどうか、あまり詮索するよりもそれほど深く古代人の心に食い込んでいた月との共生感覚がどのようなものだったか。そして我々のホメオスタシスや生態系のリズムにどれほど深く関わっていたかを思うと、余りの関係の大きさにただただ驚くばかりだ。それだけでも「言葉」を発しそうだ。

その月が、年々去っていこうとしている。
月には何か人の忘れもの、言うに言われない何か欠けているものを思い起こさせるところがある。
去るものの潔さ。弱さゆえのひらめき、消え入りそうな、でも何事かを告げる消息が息づいている。

世の中全ては、わかっている。不安というものは知らない。俺はやりたいことをやる。と言った自信満々の、頭の上にクエスチョンマークを載せることを知らない(2009年10月16日 「生きる」参照)
てっぺんのふさがった人間には感じることのできないものだ。
私はおそらく、それは人間の次のような本性に由来していると思う。

「人を本性の深いところから衝き動かしている特徴は、何かの役に立ちたいという衝動であり、たぶんこれは私達のあらゆる生物学的な必然性のうちで最も根本にあるものだろう。(ルイス・トーマス「人間という壊れやすい種」)

人は、自らを捨てることをいとわないでじっとしていられない存在なのだ。
恋もしかり、人生も然りである。
月はこうして古から、心ある人々の胸に沁み入り、失われた何か、取り戻したい何かを想い起こさせてきたのだろう。

終わりに、印象に残る月の句を。

「月天心貧しき町を通りけり」(蕪村)

(貧しく旅人(蕪村)を泊めてあげる余裕もない心細い町の上の、天の真ん中に明るい月が照っている。心貧しきではありません。天心は天の真ん中を指します。貧しいが清くピンと張った人々の暮らしを天の中心から照らす月が象徴し、両者は拮抗しています。
軒下は黒々、屋根は銀色に光る。高い空にかかった月のしたたる光との対比が日本の月を代表している。)
そうなのだ日本という国は、貧しい国だったのだ。つい最近だけなのだ。このように物質豊が豊になったのは。お金持ちや中産階級という境遇に慣れていないのだ。
代わりに失ったものは大きかった。「物質と欲望がセットになってくっついて離れなくなってしまった。」
もう過去の歴史を紐解いて、古人が、何を感じていたのかを、当時のまま感じることのできる人は数少なくなってしまった。何でも、セットになった物質と欲望の眼でしか見られなくなってしまった。
求めるばかりの奴隷と化してしまったのか?問題はそのことに全く気付いていないことだ。
だがそれは、声高に叫ぶ問題ではない。待つことだ。1度でもその恩恵に浴したことのあるものは
自分がわかっている人、相手がわかっていない人とに分けて澄ましていてはならないのだ。

静かな月がそれを教えてくれる。

若きニコライネフスキーがシベリア鉄道の果て、バイカル駅のプラットホームに佇んでいたおり、一人の日本人が広野の彼方に浮かぶ寂寞の月を眺めていた。

「このような月を眺めていると、おびただしく湧き出ずる感情で、魂はひとりでに満たされてくるのです。」(「月と不死」)

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