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プロフィール

冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2010年05月26日
三渓園訪問記


三渓苑は横浜の生糸実業家 原三渓の元邸宅。横浜は「港の見える丘公園」を少し下った本牧バス停付近にあります。この敷地内に京都や鎌倉から歴史的建造物を移築し現在の景観となりました。



いまから遡ること800年、清盛の娘・建礼門院徳子に仕えた女官「横笛」は平の重盛の従者滝口入道に愛され、彼が剃髪し入道した後を追い、尼となった悲恋は有名ですが、その横笛がひっそりと住んだ仮の住まい・横笛庵。当時の面影が偲ばれますか?



園内にある、月華殿の中にある、淋しげなたたずまいの茶室・金毛窟。
茶室というと、「にじり口」が話題にされますが、「入口が狭いと武将も刀を置かざるを得ず、頭を下げて入ることで、茶室内では身分や立場の上下がなくなる。」なんてことは後からの作り話でそんなきとくな人間はめったにいません。もともと
茶室は離れではなく、母屋に付けて建てられ、廊下伝いに行くか、いったん庭に下りて縁に上がって入るものだったようです。その廊下も縁側も障子戸もやめてしまい、出来るだけ外光を遮断し、光は「照明」としての窓からのみにしたかったのが利休でした。茶室に窓を開けたのは利休が最初と言われています。或る時は「主人」に、或る時は「客人」にスポットを当て、名物道具を愛でる、茶を点てて飲むというその行為だけに集中したかった、「主人」と「客人」との真剣勝負だったんですね。
道具より人という精神に殉じたかった、唯その一点の為、「廊下や縁側や障子戸からも光を遮り、にじり口の小さな寸法は、大事な窓を邪魔したくなかった最小限の大きさにした結果だった」なにかへ理屈のようで説得力がありますね。この意見は茶人・木村宗慎さんの考えです。
皆さんに分かるよう、少し茶室左下の「にじり口」を開けて撮影しました。判りますか?
叱られないよう、後でそっと閉めときました(笑)




池に咲く睡蓮の花です。
花には何も言うことはありません。
ただただ、無償の愛にありがとう。



帰路バスの窓から、うっすらと別れを惜しむように、三日月が一番星を
優しく囲んでいる姿が遠ざかって行きました。

2010年05月25日
時間とタイムマシーン
何年も前の私のメモにこうある。
・・・・「時間」とは人類の一番厄介な思想。夢。観念。
時間を買えば買うほど、終わりを近つけているということ。
絶対時間は、私たちの外にあり、自然の外にあり、自然を具体性を殺した、抽象表現であり、負の媒体である。
どこにもあるが、何処にもない単位。
人間や、現世に根ざしていない単位。それが人の暮らしを追い詰めている。
参加していない傍観者の意志で動かされている。目くらましされている。
主語の無い、負の意志。人にとってのレヴァレッヂ。支配しているつもりが、されているもの。主語の無い時間。唯の観念にすぎない。
時間の測り手を基準にした、単位に再編成をすべき。
滔々とそのもののリズムと息づかいを伴って流れる時間。これだけが各々の種に与えられた時間である。
絶対時間というものは、自己矛盾であり、定義のための定義にすぎない。・・・・・・・

時間が過去から未来に向かって繋がっているものと考えると、現在(今)はないということになってしまう。
「今」と思ったら、既に過去」なのだ。そしてどんどんどんどん時は経ち、あっという間に60歳(笑)。小さい頃はあんなに楽しく長かった時間(?)が、いまはどんどん去っていく。ひと時もとどまることを知らない。「今」がないから・・・。

道元は生物は皆「独自の法位に住し」ていると言っています。
法とはこの場合、存在のことです。それぞれ違う時間のベルトコンベアを有している。
「焚き木は、火となる、更にかえりて焚き木となるべきにあらず。しかあるを、
灰はのち、焚き木はさきとみなすべからず。
しるべし、焚き木は焚き木の法位に住して、(それぞれに)先あり後あり。
前後ありといえども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、後あり先あり。」(正法眼蔵)
「生より死にうつると心うるは、これ過ちなり。生はひと時の位にて、既に先あり後あり。(死も同様に先あり後あり。)(正法眼蔵)

焚き木の次が灰でなく、焚き木は焚き木、灰は灰でそれぞれべつのものなのですね、だからそれぞれ法位が違うから、焚き木から灰になるのは、別の法位への生まれ変わりのようなものなのですね。ぱっと飛び移る。連続していない。だからそれぞれの「今」が存在する。
生物の場合、或る長さの現在しかありませんが、人の場合は過去や未来が大きな意味を持ちます。物理的な意味合いで過去を思い出せば、手繰ればどんどん昔に遡ります。長くなります。でもそれも皆「今」なのです。

このことは、「過去」と言うものは無いのだという結論を導き出します。そうです、「過去」は無いのです。
この勘違い(過去があるという)は、「過去が場所である」という錯覚から起きています。
アウグスチヌスは鋭い。「・・・・これらのものは記憶の中で、いわば奥深く引き放されて、内的な場所に置かれている。だがこれは本当は場所ではないのだ。」(告白)

場所だと錯覚するところから、「時間の空間化」が始まり、空間における物体の運動をモデルにした、直線化という、眼に「見える化」が始まる。
言いかえれば、「過去」とは、「そのすべてが原理的に観察可能な言語的=意味的世界」であり物理的世界ではない。
「その様なもの(知覚としてもはやないもの=意味として現れるもの・観察可能なもの)として現在我々が「制作」しているだけ」のものなのです。(中島義道・時間を哲学する)
つまり「過去」は「過去」としては存在しない。現在のことなのだ。
しかしその概念化された過去にくるまれてこそむき出しの「今」がある。

話題に入ろう。なぜこうも廻りくどく説明をしたか。タイムマシーンというタイトルをつけたか。
何時の世にも興味が尽きないタイムスリップ。例えば江戸の世に今いけたらという矛盾を信じる現代人は皆無だろう。

しかし私は信じている。なぜか、どうやっていくのか、あり得ない。様々な異論が噴出するだろう。

答えは簡単だ。
(超巨大プロジェクトを作り)「今即座に全員が、江戸の環境を作り、江戸の世にふさわしいインフラに甘んじ、ちょんまげを結って、町を歩けばいいのだ。」「勿論、そこに歩く全員が自分は江戸人だと信じて疑わないことが前提ですが。」

但し、過去はさっきから言っているように、「今」のことであることをお忘れなく。

2010年05月10日
大銀杏始末記




先日の春一番ならぬ、超強風で倒れた、樹齢千年を超すといわれた大銀杏の始末記です。
鶴岡八幡宮は、いままさに、結婚式の祝詞が謡われている最中でした。
写真下の左側の銀杏の新緑の固まっているところが本来の場所で、その右側に途中から切断した大木が見えますが、これが大銀杏本体で、植え移したものです。
空洞が、見えますか?
いずれにしても、根から葉っぱがどんどん出てきていますね。今後元の位置に戻すのかは判りません。


写真はこの大銀杏にちなんだお守りです。デザインがいいので購入してきましたが、どんなご利益なのか、銀杏は、1063年源頼朝が以来、武運長久の守り神として神殿を支えてきただけに、身体健全を祈願したものとして重宝がられたものですが、今度の倒壊事件で、新たな伝説が必要になりますね。とりあえずは「死と再生」でしょうか?
白くまるい空洞の塊は、銀杏をくりぬいて、中に「健康長寿・鶴岡八幡宮」のお札が貼られている芸の細かい細工ものです。




所用を済ませた後は、有名な「左可井」さんで、おいしい「あなご丼」をいただいたあと、足を延ばして、鎌倉五山第五位の寺格を持つ、臨済宗・浄妙寺を拝観しました。観光スポットとしてはあまり有名ではありませんが、訪れるたびに迎えてくれる「猫ちゃん寺」なのです。前回は、山門の入り口で、今回は石畳の通路で「勝手に遊んでけ」とばかり「すやすや」と迎えてくれました。ファイル数の関係で載せられませんでしたが、一人たそがれる哲学猫のスポットも乗せたかったです。



又帰りには、再度八幡宮をへて、「近代美術館」を覗いてみました。今は「日本近代洋画の名品展」というのを開催しておりまして、精神の安定に寄与してくれました。のっけから藤島武治の「逗子5景」という1枚の板を5つの額に分けてそれぞれの明治の頃のの逗子の海岸や河岸の風景が、当時を偲ばせる凪いだ時間が流れていてとても懐かしい想いをしました。以前逗子には住んだこともあり親しみもありました。そのほか佐伯のパリ風景や、張ったり藤田の猫絵や、安井曽太郎の肌色がかった温かい風景や、岸田劉生の存在感あふれる麗子像も印象的でした。また梅原の「赤」も相変わらず異彩を放っていました。
また機会があれば、幸福な時間を過ごしたいものだと思いました。

2010年05月05日
春の「もの尽くし」T


   まだまだ、日陰に残っている忘れられた花。



  突然の雪。春風の散らす花とも思える胸騒ぎ。



  海棠(かいどう)
バラ科の落葉小高木で、中国の原産です。
 春の末になると、淡紅色の五弁花を房状につけ下垂、黄赤色の小果を結びます。
 楊貴妃の故事から「睡(ねむ)れる花」ともいいます。
 その美しさから、美人の形容として使われる花です。
もう少しすると、白一色の花に変わってしまいます。




当てなるもの。薄色に白襲(かさね)の汗衫(かざみ)。かりのこ。削り氷(ひ)に 甘葛(あまずら)入れて、新しき金鋺(かなまり)にいれたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に、雪の降りかかりたる。いみじき美しき稚児の、苺など食ひたる。
  (「もの尽くし」枕草子)

(上品なものと言えば、薄紫のうちかけの上に着た白のかさねの上着。鳥の卵。削り氷にあまずをいれて、新しい(金属製の)椀に盛ったもの。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪が降りかかった光景。とてもかわいい子どもが、苺を食べている様子。)

  

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