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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2017年02月03日
音楽について
 講座を中断し、大それた勉強を始めながら、(今の自分にとっては)迷惑な雑用に、現実を思い知らされながらも、遅々とした学びを続けています。
そんな中で、そのまた更なる寄り道をしてしまったお話をしたいと思います。

 いつも私は、中学あたりからのヨーロッパコンプレックスなのでしょうかクラシック音楽に魅かれていたのが未だに尾をひいて、読書をしたりものを書いたりの作業中にクラシックを流しながら作業を続けるのが習慣になっています。具体的に言えばヘンデルやブラームス、シューマン、スクリャービン、モーツアルト、ベートーベン辺りをよく聴きます。
 何のためにと聞かれれば、心地よいからと答えるでしょうし、これに勝る音楽論は無いとも思っています。それでもこの手の音楽は古典と言われるだけあって、街中のコンクリートの雑踏や走り抜ける車や道路が交差する環境の中では、合いません。ふと窓の外を見るとどうしてもこういった風景が目に飛び込んできます。そこは「選択的認識(清水寺の坂に差し掛かってこの美しい風景を写真に収めようとしても邪魔な電信柱や電線がこれを遮るとき、心の中ではそれを無いものとして排除して見るあれです)」を駆使して、遠方の連山と空を仰ぎます。また実際に見たことも無い写真上のカタルーニアの修道院の回廊やアイルランドの高原、ウイーンの街並みや緑のハイデルベルクに想いを馳せたりするわけです。要は人間が自然に手を付け始めた、未だ自然と人工の両方が窺える頃の素朴な風景に心惹かれるのです。シューベルトのハンガリアン・メロディー(D817)などを聴いていると、自分の前世はハンガリー人ではなかったかなどと信じたくなるほど心揺さぶられたりします。

ところで私だけではありませんが、人が音楽にこころ惹かれるのはどうしてなのか、音楽とは一体何なのかという、心配性の私にとっての重大事が頭をもたげてきます。こうなるとやりかけの課題は置いといて、決着をつけないと先に進まないのです。
 今までのつたない音楽経験を振り返り、ランガーの論文ややフルトヴェングラー、ヴァグナー、モーツアルトの書簡など或いは江村哲二、茂木健一郎さんなどの音楽論を参考にしながら納得のいく答えを探します。
どうやら少しずつ分かってきたことは、私が今まで思ってきた音楽は感情の論理だという見方は、間違いというより、人間にとっての都合であって、音楽の一部分に過ぎないということでした。確かに音楽には強いカタルシス作用があることは確かです。そのような目的で聴いたり作曲したりする人も多いでしょう。又逆に行進曲などのように人を焚きつける効果もあるでしょう。それはそれで役割があり否定はしません。唯、音と音楽は違います。音は単体では人工的な意味の世界から大きく離れます。単体では雑音に過ぎないという人もいますが、あながちそうでもなく雑音はむしろ音楽のなりそこないの方に属するのではないかと思っています。音はその高さや音量や音程によって様々ですが、何かを発しています。それは我々を取り巻く人工の意味の世界ではなく、ものとものが出会うところに生まれる根源的な一回限りの事件のようなものです。それは身近なたとえで言えば、弦という物同士がこすり合わされることで発生する音もそうですし、大地という物とマグマという物が衝突することで発生する噴火の音、更には宇宙の果てで様々な物質が動くことで発せられている我々の可聴域外の音も、我々からすれば生きていない物質同士から立ち上がる、一つ上の次元の現象であって、生命の誕生と同じような構造をしているのではないかということです。

それは宇宙の根源的なものであり、根源的であるが故に未分化であり、採りようによってどのような世界にも当てはまるわけです。人工の道徳的な世界、人工を越えた美の世界、或いは言葉の持つシンボリックな世界(意味の世界も含みます)をも越えた独自の音の論理を持っていて、理解とか意味とかで説明不可能な、唯々引き付けられる魔法の様な「もの」なのだろうということです。その音というものを、人間などの生物がこちらの世界(意味や感動の世界)に引きよせて組み立てたり、変化させたりして、人間的に(生物的に)親しみやすいものに整理し直したものが音楽だろうと思うのです。音は生命のほとばしりなのですから、それを使った音楽は万能です。ですからそれこそ何にでも使えてしまうわけです。神秘も、美もあれば興奮もあれば、官能もあれば、エロスも、道徳も、権力も、洗脳も、スカトロジーもありうるわけです。吉田健一は「文学とは言葉の謂いである」と喝破しましたが、これに倣えば「音楽とは音の謂いである」となります。

ニーチェがあれだけ意見の一致をみて深く尊敬しあっていたヴァグナーと決別したのも、
結局芸術や音楽の全体像が掴めず、ニーチェの彼なりの音楽と世俗との峻別という道徳感を無理やり当てはめてごり押しが通じなかったということでしょう。音楽は音楽であって、言葉や感情や情念ですらないのですから。人間的なあらゆるものから自由です。それゆえ逆に言えば美も倫理もデカタンも、あらゆる可能性を備えてもいるわけです。それを、似ているからと言って音楽に人間的な倫理を入れようとしたってかなわぬ思い入れに過ぎないのです。確かに、人間的・道徳的な面から見れば、ヴァグナーが愛や死という世俗的な表現に音楽を利用したことになり、もっとはっきり言えば、メロドラマに神聖な音楽を利用したと言えなくもない。そう思ってニーチェは怒ったのでしょうが、それは音楽の属性の一部にけちをつけているだけで、全体像が見えていません。結局彼はヴァグナーの音楽に自身の都合のいいところだけを見て、そこまではいいのですが、自身の思想をかぶせようとしただけで、彼には芸術の何たるかが判らなかったのでしょう。離れて正解だったと思います。音楽に道徳を持ち込むなんて、それこそ政治利用でしょう。政治的に言えば庶民にもブルジョアにも王侯貴族にも音楽は感じられるのです。何も一部のエリートだけが納得するような難解な音楽が高尚なのではありません。スノッブを気取るにも、驚嘆してくれる庶民が居なければ成立しないのですから。モーツアルトは誰にでも分かりやすい音楽を提供しなければならないと決めていたようです。そこいらのおっちゃん、おばちゃんが感じない芸術なんて、作ったって、それは作者が本当にその作品を(我々と繋がっている人間レベルにまでかみ砕いて)わかっていない証拠だ。唯自分だけが感動しているだけで、人を感動させるレベルまでものを解っていないということでしょ。
「私は戯曲なんて何も知らない無教育のおふくろが、私の戯曲を見て涙をながしてくれるような作品が作れなきゃ、それは本物とは思わない」といった趣旨のことを、福田恒存さんは嘗て対談で言っておられた。

 話は音楽に戻しますが、ランガーは「我々が音楽において営むものは、それ自身の基本的な形式の中に発表の原理を宿しているような生命力を持つ一つのシンボル体系を、丹念に作り上げること」であり、このシンボル形式は未完成のシンボルであり「分節化がそれの生命であり、断定が生命ではない。表現がそれの生命ではなく、表現性がその生命(岩波書店・シンボルの哲学p290)」であり、「音楽は我々が感情と思い誤る特殊な効果を生み出すものである」というキャロル・プラット教授の結論を紹介している。そして「音楽は内面生活のわれわれの神話であり、若々しく生気に充ち、意味豊かな神話 (同P295)」であると述べています。音楽の論理を少しでも知ろうとすれば、最初に何か創造しようというイメージがあって、それを音を駆使して組み立てるといったものではなくて、
占いで最初の音が決まって、後は音自身が自主的に動いていくのを、邪魔しないようにフォローするのが作曲の極意で、どんなものが出来るかは、音が決めるのです。作曲者の意志を抑えて抑えて我慢しても尚、音の論理に反して思わず絞り出てしまうエキスが、僅かに作者の個性として、音楽に参加できる部分なのでしょうか。創造は作るのではなく、生まれ出ずるものなのでしょう。

一休さんの道歌に『年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花の在りかを』
というのもあります。いくら木を割って探しても花は見つかりません。それは木と光と風と水が一体となって立ち上げた、一次元上の作品なのでしょう。奇跡ですね。音楽も同じですね。我々は、自分自身の存在を含め沢山の奇跡に囲まれているのに、それはどこか外にあるのではないかと、足元の奇跡に気付かない。


難しい結論ですが、結局我々が音楽とは何かを問う場合、それに始まりと終わりがある以上、人生(時間)とは何かという問いと切り離しては考えられないわけで、人生に意味がないという結論が正しくとも、それは人生に意味を欲しい人が出す結論であって、欲しくなければ意味がないなどという必要もないわけです。それでも人生には意味はありますよ。誰が何と言おうとも(ここは人生論の場ではないので深入りしませんが。意味が欲しくなくたって、あるんだからしょうがないんです。これは人に押し付けることではないので、強制はしてはいけませんが)。

音は、少し妥協して音楽は、勧善懲悪の道徳や、それを越える美学すらも越えた、存在・実在そのものであり、どのような「意味」をも、即ち「時間」というものを超越した「超自我」の様な存在なのでしょう。それが幻想に過ぎなかろうが、人間の形は、そのバックグラウンドにエス(無意識)や超自我を支点として持って初めて成立するのですから。幻想×現実は現実なのです。この万能の音楽は人生の意味を暗示することだって可能です。

 そしてその解釈すら実は「人間的」という限界を持っているのです。考えてもみてください、宇宙の中の人間という部分のさらに部分の為だけに「音」があるなんて、思い上がりも甚だしい。我々はその範囲の中で(部分に徹して)音楽を、奇跡を見つめればいいのであって、決して我々の為に音楽があってそれは、宇宙全体の真理だなんて思いあがってはいけないのです。

こうして我々は、始まりと終わりという期間(時間観念)というものを設けることによって、人生という観念を発達させ、同時にそれは人生の意味という観念をも発展させ、それが歴史という過去の見方を生んだわけです(特に西欧では)。それは物語でもあります。時間という我々を縛り、去りゆくもの一過性のものという観念は、終わりのその先に何があるか、つまり死後の世界を思わせたのです。これが一神教の世界です。音楽は(他の芸術もそうですが)そのような時間的恐怖から自由な、時間の外に、(永遠を思わせる)確固たる空間の存在を聴くものに示し、心の不安を支えました。
デルフト風景.jpg
フェルメール「デルフト眺望」

 今私の目の前には、フェルメールの「デルフト眺望」の写真が置かれている。当時の時代的環境を偲びながら、黒い雲の立ち込めるもとで、ここで生まれてここで洗礼され、ここで死んでいく彼の故郷デルフトの明るく広がる眺望と澄んだ水面が別世界のように浮かび上がり、どこからとなくテレマンの「リコーダ、フルートの為の協奏曲」のような室内楽が聞こえてくるようです。この17世紀の静かな街は、交易によって、当時のヨーロッパの経済の中心としてヴェネツィア、アントワープからここアムステルダムに移ってくる中での市民生活の潤いを反映して、開放的な窓の取り方などから、慎ましくも美しい室内に特徴がみられるという。そうした具体的なものは何一つ書かれているわけではないが、いわゆる私たちが現実として見ている世界とパラレルに存在している似て非なる本物の現実が感じられる。
そこにはまぎれもなく音楽が鳴っている。

間違えてもらっては困るのは、これは今この現実の外に時空を超えたユートピアの様な世界が、パラレルに広がっているということではなく、この目の前の現実こそ、物質と物質が刷り合って音が立ち上がるような、或いは様々な生命が光や水や大地の基に芽ずくような奇跡の世界なのであって、我々は慣れという大きな勘違いのベールで周囲を覆ってしまって、奇跡の感覚を忘れ去っているだけだということです。
「宇宙人っているのかな?」「えー?俺たちこそ宇宙人じゃない!」
そこに気付いた途端、ここにも音楽が響き始めるのです。


そこにはまぎれもなく、ヴェールに覆われ曇った我々の感覚を、揺さぶり起こそうと、音楽が鳴っている。
目を覚ましなさいと。

 口から肛門に抜ける一本の筒に過ぎない人間の身体に、風が吹き抜けてこそ、音は発し、人は生まれるのでしょう。音楽は、人間に限らず、宇宙に立つ、生命の呼吸の軌跡そのものを示しているのです。
まさに「風立ちぬ、いざ生きめやも」ですね。


  精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる(「人間の土地」サン=テクジュベリ)。

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