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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2012年10月25日
愛することと愛されることと
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最近、知人からある童話を紹介された。「百万回生きたねこ」という40年も前のベストセラーだ。
「知っている」と言おうとしたが、自分は本当に読んだと言えるのかがあやしかったので、生半可な返事のまま、再度読み返してみた。(今は亡き作者であり絵も描かれた佐野洋子さんは、谷川俊太郎さんの奥様であったことは、最近知った)
以前とは違った様々な思いがこみ上げ、妙な解説より、実際に読んで・見てもらった方がはるかに、充実するのではと思った。
それでも、思い直して自分なりに受け止めた感想をと思った。こんな見方もあるんだな、と参考にしていただければ。
おせっかいではあるが、簡単にストーリを見てみると、

主人公の「とらねこ」は、とても自分が好きで、飼い主をいつも「・・・・なんか嫌いでした」と思っていた。百万回飼われて、百万人の飼い主が死んでも涙一つ流さなかった。それに対し、百万人の飼い主は、いつもいつもこの猫が死ぬたびに大粒の涙を流し、悲しんだ。或る時、ようやく人間様という飼い主から解放されて、一人で生きていくことになった。
猫は相変わらず、自分が大好きだった。多くの雌猫が求愛してきたが、「俺は100万回も死んだんだ」といって、「いまさら結婚なんて」とすごんでいた。
ところが一匹の白ネコだけが、彼に見向きもせず、彼の自慢話にも乗ってこない。
「そばにいてもいいかい?」彼女は「ええ」とだけ言った。可愛い子猫が沢山産まれ、もう彼は
「俺は100万回も・・・・」と言わなくなった。そして「白い猫と、子猫を、自分より好きに」なるのだった。このままいつまでも一緒に生きていきたいと思った。
或る時白い猫は、かれの傍で、動かなくなり死んでしまった。「猫は初めて泣いた。夜も朝もまた次の夜も、100万回も泣いた。」そのうち彼は、白猫の隣で、静かに息を引き取った。
「ねこは、もう決して、生き返らなかった。」

自分の境遇を嫌ってばかりいたが、最後になっていつまでも生きていたいと思う様になる。いったいどうしたのだろう。そう思ったとたんもう彼は生き返らなくなる。

周囲の暖かい愛情に囲まれて、何不自由ない暮らしをしていることは、或る意味苦労が無いという意味で、幸せかもしれない。でもそれは「歓び」を知らないという意味で「勘違いの幸せ」かもしれない。だから、猫はいつも「・・・・・なんか嫌いでした」と告った。押し付けの愛情なんか、迷惑だと。

まるで猫はロミオとジュリエットで、飼い主は彼らの親。ひとつ違うのは、ロミオとジュリエットは既に「愛する歓び」を知っていたのに猫ときたらからっきしで、未だ幸せのなんたるかが、想像もできない。ただなんとなく、違うんじゃないかと。「・・・・・なんか嫌いでした」と感じていた。

一方二人(ロミオとジュリエット)の両親は、「子どもを幸せに」「苦労させたくない」という「愛」で、子どもたちが本当に欲することや彼らの(危険ではあるが)真に欲する自立の為の冒険を封印し、結果的に不幸に(死に)追い込むことに精力を注ぎ込む。皮肉な平行線ではあるが、この親たちも真の「愛」を知らないからこそ、このような甘やかしが愛だと信じていたのだ。結果として、皮肉なことではあるが、ロミオとジュリエットの二人は自らの「愛と歓びを、死をもって完結させた」。僅か14歳の思春期の身で。精神的な死だけでなく、肉体的にも死を選ばざるを得なくなってしまった。
そのように追い込んだのは、親たちの「愛」だった。
親たちはというと、愛する気持ちから、「歓びを知らない結婚と生を」「妥協と持続を」押し付けたが平行線に終わった。
してみると、親たちが本当の歓びを知り、子どもたちからそれを奪ってはならないと決意するということは、並々ならぬ覚悟と、死を賭した親子のドラマを演じる必要があるということだ。
そうでなければ、「一皮むけた」「歓びを知ってなおかつ大人として生きられる」人間に生まれ変われることは不可能だったのだろう。(そこには通過儀式としての、人生の岐路である親殺し・子殺し(実際に肉体的にではない)が必要なのだろう)

猫はそんなことは知ってかしらずか、人間様という飼い主から離れ独り歩きを始めた。「飼い主を捨てた=殺した」再出発だったのかもしれない。
これが本当に飼い主を「殺した」ままに終わるか、「卒業した」に終わるかは、今後の彼の生き方に
かかっている。なにしろ飼い主はもういないのだから。

でも彼は相変わらず、歓びを知ることは無かった。相手が、人間様から猫に代わっても、「俺様よりすごい猫はいない」と思っていたから。本当に「負けた」(2010年11.15「芸術」参照)と感じる相手にでくわさなかったから。「・・・・なんか嫌いだった」の世界にまだいたのだった。
ところが彼のすごさに全く反応せず、そんなもの何の価値も無いとばかりに、振り向かない白い猫に出会った彼は、たちどころにその魅力に「負けてしまった」。そう、100万回の後、初めて愛する側に回ったのだ。

いとおしい相手が出来、子どもも生まれた。それは、「歓び」というものだった。彼は初めて愛するものを失うことの怖さ、悲しさを知った。それは、嘗て彼の飼い主であった人間様が、百万回味わったものだった。教訓じみたことを言えば、「一つの幸せな生の陰に百万の不幸な(苦しい)死があった。」この場合の「幸せ」とは、「お人好し」とでも言うべき、勘違いな幸せではあったが。

つまりは、「愛されるという行為(?)に愛は無い」のだった。愛は「愛す」のであって、「愛される」ことではなかったのだ。

白猫は、彼に愛されるだけで、彼を愛してはいなかったのかも知れない。以前の彼を生きていたのかもしれない。こうして、「百万回」は白猫にバトンタッチされたのだろうか。或いは白猫も彼女の
やり方で、彼を愛したのかもしれない。「つんでれ」という形で。もしそうならば、お互いに「愛し」歓びを知った二人は、もう一度生きる必要は無かったのでしょう。

現実的なことを言えば、愛するより愛される方が、どんなに楽か。そういう人おおいですよね、最近。でもそこから「愛されること」に喜びを感じ始めたたら、あなたは既に、相手を「愛している」領域に踏み込んでますね。そして歓びと背中合わせに「不安も」やってきます。

でも「不安」を持ってるから、「喜び」も輝くんですね。ただ喜んで何の心配も持たないなんて「勝ち誇ったばか」みたいで、なにも美しくないですね。百万回金メダル取っても存在感が無い。

「死」をいつも意識している人が、他人に優しく生きられるのは、「生」の価値を知っているからなんでしょうね。「死」に支えられていることを知っているから、「生」を愛して大事に思う。その価値を知っている。輝いている。だから「隣の生」も(死に支えられている限りにおいて)価値あるものとして、自分と同様に「やさしく」扱える。
これは、「死」に限らないでしょう。不幸にして家族に障害者を持った方、犯罪者を持ってしまった方、みな一様に一度きりの人生に対する覚悟が見えて、内からの輝きというか、たち振る舞いが美しいですね。世界と人間の本質は「瑕瑾」(傷を背負う)でしか描けないと「外套」を書いたのは、ゴーゴリーでしたね。

ただ(相手から)愛されているだけの「幸せ者」に愛は判らない。歓びも判らない。
百万回生きても、同じ。ということでしょうか。

2012年10月03日
自立と孤立
以前「コンプレックス」という内容を書いた時、河合隼夫さんの言葉から、「自立と孤立は違う。自立には人間関係があるが、孤立には無い。」ということを紹介させてもらいました。
今日はすこしこの話を。(これから話すことは殆んど河合さんからの受け売りですから御承知ください)

「子どもが大人になってゆく為には親離れや子離れが必要とされている。それは自立というものだと・・・。
或る父親は先祖から伝統ある菓子製造の仕事に尽くしてきた。息子も小さい時から父の仕事に興味を持ち父の話にも耳を傾けることもあった。ところが大学受験の頃から、法学の道を志し官僚になると言い出した。突然のことに父は怒ったが、息子の言い分を聞いてものが言えなくなった。先祖代々の仕事なぞと偉そうなことをいっているが、税金が高いの政治が悪いのといっている。そんな文句を言いながら菓子作りをしているより、政治や役所のあり方を変えていく方が本当の道ではないかというのだった。父は何も言えなかった。典型的な「親殺し」だった。
そんな彼が法学部で熱心に勉強し卒業し、どんどん出世し、偉くなったものの父親との関係は薄くなっていくばかりで、「偉くなった」自分は(当初の志などすっかり頭から離れ)、菓子作りの職人の子どもであることを恥ずかしく思い、そして父が死んだあとに、葬式だけ参列するような人間を、「自立」した人などとは呼ぶわけにはいかないのだ。
親から離れて自分だけ勝手に生きている子どもは、むしろその様なことが許されると考えている点において、親に対する抜きがたい甘えを持っていると言わねばならない。」
(実は、ここでは親の方も、子を甘やかすという快感(逆依存)から抜け出すことができず、子の自立を妨げているとも言える。)

或いは、幼稚園の子どもで言葉が良く話せないという相談があったそうだ。別に知能が劣っているわけでもないのに言葉が極端に遅れていた。よく聞いてみるとその母親は、子どもを「自立」させることが大切と思い、出来る限り自分から離すように育てたようだ。夜寝る時も添い寝をさせず一人で寝かす様にすると、最初は泣いていたがだんだん泣かなくなり、一人で寝に行くようになった。親戚の人たちからも感心されていたとのこと。母親には、これは見せかけの自立で、我慢しているだけと説明し、親への接近を許すと、今迄の分も取り返す勢いで甘えてきて、その経過の中で言葉も急激に進歩し、追い付いてきたとのことでした。

本当の自立というものは、依存すべきところは依存し、それをエネルギーにして、いつの間にかその依存が必要でなくなるよう力を蓄え成長し、それによっていつの間にか「親の子に対する依存をも卒業させ」お互いに大人として尊重し合い交流が出来るようになることではないのか。
自立には依存という栄養が必要なんですね。

お星さんが
ひとつ出た
とうちゃんが
帰ってくるで        (「1年1組せんせいあのね」・原ひろし)

お父さんとひろし君との素晴らしい関係が暗示される。
ここには依存も幇助もない。見る側によってどちらでもあるのだ。ひろし君にとってだけでなく、お父さんにとってもひろし君は希望の星に違いない。
これが早く卒業しなければならない、「依存」なのだろうか?
この関係を、愛情深く、又厳しく育てることが、自立を育てる道なのではないでしょうか。

世に目を向けると、経済面では
相も変わらず、「成長、成長」と、唯々「富」とその富を増やす産業規模の拡大を目指す投資の拡大さえ実現していけば、最大多数の最大幸福が成ると盲信している超楽観主義者が跋扈している。
エコロジーなどと掛け声をかけても、みんな「お体裁」で掛け声だけの、人類にとってだけの御都合主義に堕している。CO2排出権を売買するなど本来の目的からかけ離れた子供騙しの理屈を考え出して真顔で議論している始末だ。

「労働も価格も(確かに一面では計算で評価される面をもつとしても)人々の健康と幸福への希望という生活に還元可能なキャッシュバリューを持つという限り認めうる」のであって、(ここには豊かな人間関係が或る。つまり金から「自立」している。)際限もない富の増幅の為にあってはならない。消費の目的は生(人生・生活)であり」(ラスキン・この最後の物にも」)
札束で人を自由に支配すること、不安の為に要りもしない富を限りなく独占する為ではないのだ。
(ここには人間関係が無い。つまり「孤立」している。)

それは人々が固有の生産作業に関し自分自身の志向を重んじ、生産される事物の消費に於ける意味を慮り、他人と自分の生活の質を考慮しようとする協調の世界である。この根本を忘れ、労働活動を具体的な環境基盤から離れた国家事業に統合したり、その統合プログラム設計をグローバル金融組織にゆだねたりする発想は、「名誉ある富」の追求とは相容れない。(「ラスキン経済学の哲学」伊藤邦武)

政治の世界でも同様のことが行われている。
現実主義者と自負しているその当人たちが、日本は独立国だと信じている。少なくともそういう言動をしている。そうして「やれ、弱腰外交だ、やれ経済大国なのに」と間違った認識の下の批判を繰り広げている。
日本は、アメリカの属国で占領下にある。と言うのが現実でしょう。
その事実を認識したうえで、アメリカの圧力に屈せず、徴兵制をしき、自前の軍隊を持ち、自分の意見を世界に発信するか、はたまた一切の軍備を持たずアメリカ軍隊にも出て行ってもらい、永世中立を宣言するか。どちらにしても、死をも覚悟した決意がいるんじゃないですか?その覚悟がありますか?
覚悟が無いのに、現実も知らないでよく弱腰だなんて、或いはアメリカは出ていけなんて言えますね。
ええとこばかりとって(国防或るいは永世中立の覚悟を棚に上げて、経済的繁栄ばかり夢見て)そのくせ自立した人間みたいに偉そうなことを言っているようにしか見えませんね。中国や韓国は、日本にその覚悟が無いことを見抜いているから、仕掛けてくるんでしょう。孤立しかしていない日本だから。
国と国であっても、あんな手に負えないばかでかいグローバルなどという代物ではなく、嘗て存在した「人と人がお互いに手を差し延べあうことのできるライトサイズのゲマインシャフト」的 繋がり合いを持った付き合いのできる政治を目指すべきなのに、欲に目がくらんでコントロール出来もしない世界大の富を狙って、際限のない「競争」原理に振り回されている。([競争]はスポーツだから許されるのであって、社会の中で、特に経済面でこんなものが目的化されたら、人類は金の奴隷にされるだけだということ(そういうスポーツも最近「金」の奴隷に化していますがね)にいい加減気付かなければ行きつくところまで行って、本当に逝ってしまう。「もうこの辺で」という際限をしらず、常に相手ばかり気にし続けていなければならない。ここには苦しくとも歓びの織り込まれた人間関係なぞ微塵も見られない。

「競争は、比較は悪魔だ。」でも現実がそうなってしまっている。どんな希望の物が手に入っても、また次の良いものを見れば(比較すると)そちらに目が移る。
こうして果てしない欲望の奴隷になるのだ。私はあなたが「他の誰よりも(容貌が)美しいから愛したのではない。これから先の人生を共に、相手を意識するという一点で(何処にいるのか判らない自分の心の位置を)ここに定めることが、あなたの「オンリーワン」となら出来ると覚悟できたから愛したのです。」 (2010.4.6「醜いあひるの子」と「ジョコンダ夫人」と「あばよ」のジョコンダ夫人参照)

如何ですか?自立は自立の為にあらず、ですね。人生を意味あるものにしていく為の、我々にとっての宝である、人との・家族との交流・人間関係を作り上げる為に必要なんですね。

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