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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2016年12月31日
第2回歴史第3部中世16【日本の古代・枕草子とポルノグラフイー源氏物語】
〈仮名による精神の飛翔・枕草子とポルノグラフイー源氏物語〉
 
 道長は娘の彰子(あきこ)を一条天皇の中宮とし、外戚になる万全の体制をとった(道長の長兄道隆の子・定子(ていし)は既に一条天皇の皇后となり、ひとかたならぬ寵愛を受けていたが、男子を生むことなく他界し、道隆側は没落した)。この円融系の一条天皇の外戚となったのが道長で、その愛人で彰子の家庭教師が紫式部、冷泉系の一条皇后の定子に仕えたのが清少納言で、二人はライバルでした。清少納言は、後輩の紫式部に漢文の知識をひけらかし鼻持ちならないと痛烈に批判されているが、零落しても才智は衰えず、昂然たる品位を失わず、「枕草子」では、悲愴な皇后の生活に寄り添い、口固く「翳りのない明るさで、気高くも美しい皇后の日常を、鋭いしかも辛辣な観察で綴り、宮廷でのほほえましい挿話などを織り込ませた」。「なぜ清少納言は皇后の暗い運命や悲傷な心境に触れなかったのか。背後の事情を知る者には、明るく華やかな「枕草子」の陰(文体)から清少納言の無言の慟哭が聞こえて(97)」きます。まさしく、古代からの重苦しい漢文的素養が、仮名という触媒を得て、自由に表現の力を取り戻して飛翔する素晴らしさを示しているのです。これも、仮名によって蘇った「やまとごころ」なのです。勝ち組の紫式部とは違った、負け組であっても不運を嘆き引きずり続けない、優しいポジティブシンカーだったのです。
彼女の「小さきもの」「消えやすいもの」「移ろいやすいもの」への、温かい視線は、後の俳諧に表れる「しをり(98)」や「ほそみ(99)」に受け継がれます。

 一方で紫式部は、律令制の完成と共に歴史書(正史)や昔物語の様な旧型物語の中に閉じ込められた「もの語り」を復興させ、私が本当の物語を書いてやるという意気込みで「源氏物語」創作に力を注いだ。その世界は肉体ばかりか、心の乱交パーティーさながらの、勧善懲悪を無視したアナーキーな物語でもあり、貴族社会の思いのたけを代弁してくれるベストセラーとなった。道徳に近いものと言えば、その場限りの「人笑われならず(人に笑われないような振る舞い)」という美学だけだった。重い道徳感による葛藤は見られない。
道長もたびたび紫式部のもとを訪れ、次巻を催促したり、小説の構成について口を挟んだ。
男心を引き留めるのは、顔の美しさや、あけっぴろげな性格ではないこと(当時は顔が美しいのは性格がいいから、前世の行いが良かったからと、顔にすべてが出るという考えだったから逆のことを言い且つ説得力があるこの物語に新鮮な驚きを持ったろう)、男色こそ「女にてみゆ」と、もし女だったら契りたいほどだ程度のもので、本格的なものは男性貴族の日記文学に任せたものの、それ以外は何でもありの、罪悪感の無い、男女の駆け引き溢れるフリーセックスや父帝の王妃が懐妊するまで続ける姦通(暴力に依らない父殺し)などタブー破りのニヒリズムに溢れている。
中でも、物語の中で、「意中の人」つまり本命の、「身代わり」と契りを交わすというパターンの多さは、裏を返せば、理想の人間などというものは存在しないのだ、だからこそ理想の人間は成るもの、思うものだという爽快なニヒリズムを思わせます。
TVドラマ・「逃げ・恥じ」では、ミクリの母親が、「(運命の人なんて出会うものじゃない)運命の人に、自分でするのよ」と言いました。(比較の目で)外から幸せそうに見えるひとに、幸せなんて無いよというメッセージですね(以上はおおよそ大塚ひかりさんから学んだ源氏の世界です。大塚さんは歴史的・集合的な目で源氏や平家を捉える貴重な方です)。

この思想は「物語」の本質を、ひいては人間の「欲望」の本質を垣間見させてくれます。
とても大事なところなので、よく考えてみてほしいのです。

 人は皆、自分の意中の人・理想の人と一緒になりたがります。他の人・性格の悪い人・顔がすぐれない人・色の黒い人など様々ですが好みでない人とは契りたくはありません。これはどういうことでしょう。犬や猫などの動物が、そのような選り好みをするでしょうか。ただ盛がついたタイミングで用を澄ますだけで、あの人が嫌だとかではなく、より強いかどうかだけで選びます。イケメンかどうかなんて関係ありません。これは彼らが本能で動いているからです。人間も好みかどうかなんて関係なく盛に任せているだけなら、強姦されようが屈辱感など感じない筈です。ところが私たちはそんなことはとんでもない。許されない犯罪です。なぜ選り好みをするのでしょう。それは私たちが相手を、本能でなく、物語で見ているからなのです。自分の物語に合わない人と交わりたくないのです。つまりこれが犬や猫の本能でない、「欲望」の正体なのです(犬や猫には本能は合っても欲望は無いでしょう)。これを許しているのが現代社会で、個人の自由というものです。
 
 これを突き詰めるとどうなっていくでしょうか。みんなが自分の物語に合う人を選びたいとすると、考えが浅い時はイケメンや美人を求めて多くの人間が殺到し、そうでない大部分は溢れて大きな偏りが出るでしょうし、更に経験を積んでくると、ふさわしい相手というものは「物」ではないのだから、見かけだけではすぐに飽きてしまう、又それを失うことに神経を使い疲弊することが判り(そこには長く続く物語がありませんから)、「自分の成長に合わせて変化していくこころ安らぐ人間性」を求めるようになるでしょう。つまり観賞用ではなく、自分の人生のパートナーとして=物語の共演者として、相手を見るようになるでしょう。両方揃った方がいい。しかしそんな理想の相手に巡り合う確率は何パーセントでしょうか。ゼロに近いですよね。だから結婚しない人は増え、出生率は下がるのは当然です。勘のいい人は、早く気づきます。自分が理想の物語(欲望)に囚われていることに。そんなものにぎゅうぎゅうにとらわれていては、自分の人生はすぐに終わってしまうと。だからと言って強姦でも構わないというのは行き過ぎですが、ある程度のところで、自分の物語(欲望の質)と妥協します。顔なんて一時のものに過ぎないと悟るわけです(勿論ラッキーにも理想の人と相思相愛の結びつきに出逢える人もあることはあるでしょうが、それとて、美男美女のカップルが、外から人形がかわいく見えるように何不自由なくお決まりの筋書きに動かされているように、お決まりの幸福とやらを演じているのを見るのは、かっこよさとかいう薄っぺらなものを後生大事に守り続けなきゃならない。額縁の中のおとぎ話の何と窮屈な人生であることか)。こうして本当の自分の物語にとって、顔や性格はマストではないことが、年を重ねるうちに判ってくるのです。源氏物語は、(宮中という狭いながらも)社会全体が先にその結論を出してルール化してしまった、ある意味進んだ大人社会だったわけです。
だから強姦は、源氏物語では日常茶飯事でした。更には好みを品定めする顔や性格は皆隠されて夜陰に紛れての行為がルールでした。相手が実際がどのような顔をしていようが関係ない。男も女も「引目鉤鼻(ひきめかぎばな)」で充分だったのです。
引目鉤鼻(ひきめかぎばな).jpg

問題はどのような出会いの条件かではなく、どんな条件であっても、その与えられた条件を如何に演じるか(切実さ・情愛)にあったのです。いつまでも結婚できないとか、いい人に巡り合えないとか悩んでいる人は、自分の欲望を、つまり物語をすこし変えてやれば、広い世界が見えてくるのに、もったいないと思いますよ。何も平安時代に戻れと言っている訳ではないのですから。物(顔やカッコよさ)はやっぱり見世物に過ぎません。そこにこだわるより、コト(出来事)にこだわらなきゃ。自分の生きるドラマの質に。

又さらには、もっと視界を広げてみると、紫式部が意識していたとは思いませんが、源氏の世界は、「平和とはこういうものか」という一種の到達点と、頂点が故の「転げ落ちる不安」を見せているのではという自問に行きつきます。それは平安という一つの文化の爛熟点に達した(と言っても貴族社会だけですが)からこそたどり着いた平和(100)と、それを維持するために(我慢し)犠牲となった人間の、ぶちまけずにはいられなかった怨念と時代を生きる心の不安や息苦しさが行きつく先を、愛ではなく性を、心ではなく外見をテーマとせざるを得ない、物語という大河(時代の様式)に乗せて語り繋ぎ、図らずも来るべき将来を予測した一人の天才の生きざまでもあったと思います(まるで千年後の現代の市民(当時の貴族程度の生活水準には達しているし、メールやネットで意思疎通をするのは、貴族の手紙や使用人を介しての会話・間接的な伝達方式と似た感触を持つ)の生きざまを予知していたかのように。更には次に来る中世の分裂志向が、現代のトランプ現象に代表される時代の方向が、ポピュリズムで小児的で、遠心力の働く中世の始まりに酷似しているのは、不気味な予感さえ抱かせます)。

このような、権威と権力を分けて、天皇と上皇と女院との間で、均衡をとり生き延びる、「混沌(曖昧)」とした藤原流物語(神話)というものを理解できず、中国風の白黒はっきりし、大義名分論や法家的論理を振り回し、再び社会を混乱に引き戻す(保元の乱)のが、同じ藤原家の信西(しんぜい)入道なのは何という時代の皮肉でしょう。

結局、古代貴族や律令国家の終焉という社会構造の解体期に、氏や共同体的制約から解放され、未だ「家」の縛りには束縛されていない人々(貴族だけですが)が自分の言葉で語り始めるさきがけが、日記であり、手紙であり、物語だったのでしょう。

 ※皆さん、ここまで読んでくださってありがとうございます。これで今年は最後です。来年も命の続く限り頑張ります。
どうか、良いお年をお迎えください。

注97) 角田文衛「平安の春」講談社学術文庫P55

注98) しをり
蕉風俳諧の根本理念で、題材が哀憐であるのをいうのでなく、人間や自然に哀憐の情をもって眺める心から流露したものが、自ずから句の姿に表れたもの。〈萎(しを)る〉の連用形というのが通説である。

注99) ほそみ
作者の心が対象にかすかに深く入り込んでとらえる美、およびそれが繊細微妙に表現される句境。

注100) 平和とタブー
平和とは、苦しくてつまらないものです。争いを避けて、我慢の連続だ。陰湿ないじめや、噂だけで人の人生を葬ることもできる息苦しい世界だ。ターゲットのされようものなら、ありもしない噂で非難の的にされ、悲惨な人生を送ることにもなりかねない。いつ何時身に覚えのない咎で、罪人になっているかもしれない恐怖を抱えることになる。
そんな中で、弱い人間はことに、周囲や見た目を気にし、「笑われないように振る舞う」のが、自分を貫くよりも、重要な心掛けになる。悲しくても笑みを浮かべ、嬉しくても自制し、言いたいことも言えず(言えば人も自分も傷つくし、自分も傷つきたくない)、そのストレスは知らず知らずに内面に膨れ上がり、自身の肉体や精神を蝕むという形で昇華される。内に向かっては、拒食症や自死、外に向かっては人を騙して陥れたり、更には怨霊となって姿・形を鬼の面相にしたり、それを信じる他人(噂や動揺)の手を借りては、瞬く間に標的に辿り着く。或いは本人の直接ではない手によって(使用人を介した手紙・伝言など)行う通信・伝達によって、時代の常識や世間体に検閲された言葉によるの為の気持ちの「曖昧さ」、「個の埋没」にストレスは溜まる。逆に発信元が誰ともわからないが為に発せられる「噂」は反動で内容は過激で大きく人のこころを傷つけ、人生を左右するまでの力を持つ。傷ついた心を人形で癒すのはペットブームの先駆けかもしれません。
まるで現代のネット社会のようですが、これが源氏物語の描く貴族たちの生活なのです。千年も前に、20世紀の人間たちが悩み恐れていた人間関係が描かれていたという奇跡が、ヨーロッパ人を驚かせたのです。更にはフリーセックスの域を超えて、姦通はざらで、男色も珍しくない(流石に紫式部は女だったのでこの辺りはあまり踏み込みませんが)世界は、「爽快なニヒリズム」を見せて、欧米人の気持ちをわしづかみにしました。今はもう、このような苦しみに我慢ができず、人々が言いたいことを吐き出して我慢しない、収拾のつかない新しい中世に向かって着実に進み始めていますね(怒りも憎しみも現世の内に済ましてしまうから後味もさっぱりして精神衛生上はいい)。中世のきっかけは異民族の侵略でしたが、現在の中世化(遠心力の働く時代)のきっかけは難民や核でしょう。もうお体裁や人助けなんてまっぴらだ、みんな我慢するのはやめて自己主張をするのだ、自分のことは自分でやれというわけです。トランプ現象ですね。「宗教戦争」ならぬ「信念戦争」はもうあちこちで起きていますが、これが今まで平和だった世界各地でも起きてくるでしょう。大江健三郎さんは、ノーベル文学賞の授賞式で、日本の「曖昧さ」が戦争を引き起こしたと言って、川端康成の「美しい日本の私」を批判したようですが、この批判は当たっているでしょうか。これは大江さんだけの問題ではないですが、又森有正にも言えることですが、この世代の人たちには日本の伝統が、西欧の論理のもとに否定されるだけで、正しく理解されていなかったこともあのようなことが言える原因でもあるのです。更には、この否定された日本の伝統の代わりに拠り所にした「ヨーロッパ近代」が、本物の伝統に基づくものではなく、明治・大正が「誤解したヨーロッパ近代」だったのです。いわばゴッホではなく「額縁に入ったゴッホ」だったのです。ヨーロパの貪欲且つ排除主義の上澄みのところだけを見た合理性や美や宗教性が、彼らの新しい様式になったのです。西洋人からすれば大江は、自分たちの論理で話せるかわいいやつと思うでしょう。大江も森も真面目で良心的な人間です。そして川端は少女・屍体なぶりの変態爺さんです。しかしそれでも大江も森も勘違いしていると思います。西洋流の「自我」主義と平和は矛盾しているよと言いたいのです。平和は、女々しくとも、都合のいいように自己正当化をしていない川端の方にあると思います。
先の戦争では、欧米コンプレックスを持つ自閉的な内面を自己正当化しようとして、現実感覚を喪失してしまった日本国民の深層心理が、軍部の自己正当化の精神的な後押しをしたのではないでしょうか。そうなら、彼は何故軍部ばかり批判して、後押しした日本国民を批判しないのでしょうか。
或いは外圧に弱い「曖昧性」を批判するのではなく、それを自我中心の合理しか介しない外国に解らせる道に挑戦しないのでしょうか。元を正せば侵略と排除主義の欧米が、平和に暮らしていた人の家に、正義の名のもとに(文明とやらを教えてやるという)押しかけてきたことが始まりなんですから。その屈辱に対し、仮面を被って(欧米化)その場しのぎで対処したものの、我慢しきれなくなってコンプレックスが爆発して、同じ被害者の本来味方の筈の近隣アジアのまで敵に回して、倒錯した攻撃性を持つに至ったことは責められても当然で、決して正当化はできない犯罪であることは間違いないでしょう。しかしそれは、押しかけて来た西欧(アメリカ)も、攻撃性を剝きだしにした日本も、共に正義の名のもとにやったことで、これが共に悪なんだということです。何も曖昧性を現実と受け留め、そのまま平和に生きてきた民族を、(対外的な)抵抗力が無いからと言って、曖昧だからといって責めるような問題ではないでしょう。
欧米の合理・自我中心の思考が行き詰まり、その先に来るものはやはり「曖昧性(矛盾)」の受容だと思うからです。

源氏物語が示唆するものが、理想的な社会だなどというつもりはありません。
というのも、人々は世間の目を気にし、言いたいこともしたいことも我慢し、感情を押し殺し、コミュニケーション能力は低下し、陰湿ないじめや噂や怨霊にに振り回され人生を台無しにされることもあり、物の怪を恐れ迷信に振り回され、多くの時間を祈りや儀式に割き、個人の心からの欲望は発露されず、常に世間という超自我に抑圧され、そこに辛うじて「もののあわれ」が読み取られるような息苦しい世界だからです。
それでも物の怪など恐れもせずバッタバッタと切り倒してしまう武士の様な暴力勢力の台頭はまだ見られず、まして外国に正義を押しつけるようなことも無く、平和の一つの形を見せたわけです。平家物語が、男性的なるものを著したとすれば、源氏は女性的なるものを示しているんです。
女性的なるものは、自然そのもので、宇宙全体と繋がっていますから、基本的に怖いものは無い。子どもも産めるし、本来は肉体的暴力とは無縁です。だからタブーなんていらないんです。近親相姦なんて、社会の様な幻想を持つ必要が無いから、怖くもなんともない。所有欲も本来はなく、一夫多妻だって何ともない。自我や個人のアイデンティティーなんていらないからです(現代の女性は、近代的な男女平等など、男たちの作り出した所有制度や平等という思想に手なずけられていますから、俄かには信じられないと思いますが)。基本的に自閉の世界なんです。
それを女性とは反対の男が、不安や寂しさから、肉体を、権利を独り占めしたいから、所有権などを持ちたがり、他を縛り付けようとするから争い(奪い合い)が起きるのです。男は子どもも産めないし、女性に利用されてやっと少しは親の気分を頂くくらいが関の山の、自然から疎外された存在なんです。だから声を荒立て(源氏の時代は未だ肉体派ではなく、観念的を弄ぶ風潮の為、遠回しに周囲を気にしながらですが)、自分の存在を主張したがる。その自己主張を様々な形に変化させて(制度や時代の雰囲気・ムードとして)、社会をかき回す。立派な理想や政治的理念や、スポーツの純粋さ、正義の戦争、自衛の為の戦争などなどいくらでも作り上げることができる。もし、平和が善だと言い張るなら、やれオリンピックだの、球児たちの純粋な夢を支援する高校野球だの、未開の可愛そうな民族を文明化させてあげる正義感に満ちた植民地政策や大東亜戦争だの、アメリカの仕掛けたイラク戦争だの、それに抵抗することからかじまったイスラム国のテロだの、ベトナム戦争だの、それに抵抗したべトコンゲリラだの、ナチのアーリア主義を振りかざす虐殺と侵略だの、それに抵抗するレジスタンスだの、

「どんな理想にせよ、ある理想のために真面目に真剣に戦うということは、立派なことだと思われているけれど、そういうことはそれ自体が悪なんだ(*)」ということを知らなければならないということです。これは、何度強調しても足りないくらい重要な言葉だと思います。

とても賛同できないという人は多いと思います。ナチとレジスタンスが共に悪だなんて誰が肯定するものかと思われるでしょう。でもこれを、どちらが悪でどちらが善というふうに分けると、「正義の奪い合い」が始まり、古代の神々から現代までずーーと続く、サディスティックな憎しみの連鎖から抜け出られないわけです。源氏物語は、このような一代しか考えられない男たちの正義に基づく争いに目もくれず、「自我と敵対するものを攻撃する」という呪縛から自由で、いちゃいちゃ生理的に生きているわけです。自我なんかいらない世界なんです。これが人間のできる平和の一つの姿なんです。ねちねちと女々しいと思われるでしょうし、いじめも、えこひいきも、チャッカリもこずるさもありますが、それが嫌なら、心にもない平和を叫ばず、修羅の道を行けばいいのです。但し、正義の名のもとによそを巻き込まないでいただきたいものですが、もうそんな神業の様なことも難しい。込み入ったグローバルとやらの魔力をがっちりと掛けられていて、困ったものです。

平安時代同様、外圧から比較的自由となり、平和のもう一つの形を作り出せた江戸時代と、その平和をぶち破る外圧に揺れた幕末に話を進めるのは行き過ぎですが、やはりここでも攘夷を主張する朝廷と、密貿易で私腹を肥やしていた(実は自分たち主導の条件付き開国派だった)薩長の、心にもない攘夷賛同による朝廷利用作戦に対する、幕府主導の屈辱開国やむ無し派との、「正義奪い合い」の権力闘争で江戸(東京)が火の海になるのを防いだ、即ち正義しか、一代限りしか考えられない男たちの後始末をして、次世代へのバトンタッチをして、権力の座を退かせたのも、天璋院篤姫や皇女和宮などの女たちの決断だったのです。東京が残ったことが良かったのか悪かったのかは言えませんが、少なくとも明治の近代化とやらを遅らせる、或いはもっとひどい植民地化を齎す要因を潰したことだけは事実でしょう。

トルストイの暗示するように、戦争と平和は同じものなんです。身体で戦争しているか、こころで戦争しているかの違いだけなんです。

(*) 伊丹十三、岸田秀「哺育器の中の大人」ちくま文庫2011年11月p39

 さて、話を戻しますが、何故平安の貴族たちは、かように平気で強姦や姦通や男色など、タブーとされていることを罪悪感もなく、寧ろ日常時のようにあからさまにするのでしょうか。皆さんは、彼らが単に文化の爛熟の末に、狂っていたというだけで納得できますか?

自然を(本能を)飛び越えた人間にとって、家族が原初のアイデンティティー(自分であることの一貫性)を獲得する場であり、このアイデンティティーが自我であり、これが壊れると人格は成立しない。一旦出来上がった家族を他人とするような行為(例えば近親相姦)は自分自身を崩壊させることで恐ろしくてできない。そうなったら人格(自我)が壊れてしまう恐れがある。これがタブーです(自我のアイデンティティーが親子間の縦軸のものとすれば、社会人としての人格は、国家との間の横軸のアイデンティティーです。これの崩壊を特に恐れるのは愛国主義者です)。これらは、精神分析家岸田秀さんの著書から学び、勝手に再構成した私の考えです。
 
 当時の貴族社会は、女性を軸に構成された社会で、家も財産も娘に与えられ、男は成人として生きていくには、どこかの貴族の娘の家に転がり込むしかなかったのです。子どもが生まれても、母親側でしかも、乳母(めのと)という他人に育てられ、実の父母との近親関係は育ちにくい。子どもは自分が初めて作り上げる自我の物語に、乳母やその子供を近親として入れるのです。実の親は他人なのです。だから、親子の関係を破ってもタブー破りにならないのです。
特に父親は実際に産んでもらってないから他人感がさらに強い。それで光源氏は平気で父帝の王妃である藤壺の宮が懐妊するまで密会し続ける。武力に訴えなかっただけで、姦通による政権転覆の試みです。それを罪悪感もなく実行し続ける。後から源氏は、自身の妻・女三宮が、頭の中将の息子に姦通されることでしっぺ返しを受ける。
しかも当時の性交渉は闇の中で行われるもので、顔や肉体を見られることを極端に嫌いました。それは女性ばかりでなく男性も同様でした。身分が上の人間は人から顔をじかに見られるということがほとんど無く、自分は相手を一方的に見るだけの接し方が日常になります。意思疎通さえ、部下を通しての伝言や手紙を通じてになり、何時しか、自分が生々しい自分でなく、観念的になります。女性は顔を見られたということが、犯されたことと同じに感じます。生々しい自分(現実)を見られたのですから。むしろ兄の家にいた時、男と間違えられて殺されそうになった時、迷わず清少納言は股間を丸出しにして女としての証明をすることで暗殺を免れたといいます。股間も生々しいとは思いますが、顔の知らない人間の股間は、唯の「もの」に過ぎなかったのかもしれません。いきおい、恋と言っても「高貴な人の娘だからさぞかし美しいだろう」のうわさや想像で物語的行為に及ぶわけです。自分も相手も想像ですから、何でもありで、お互いが見られることのないガードのかかった中での観察だから、タブー破りも、現実に囚われない想像逞しい文学も可能だったのでしょう。そして行為の後には、後朝(きぬぎぬ)の歌を交わすことが必須なのです。物語の仕上げです。動物的発散だけではないことの証拠です。
実はお前の顔は、こんな顔なんだと突きつけられる、「はしたない」リアリズムの世界は、後の武者の世です。社会全体が共同で見ていた夢を引っ剥がして、現実に引きずり下ろしたのです。
では、男色はどうでしょう。同じアイデンティティの問題でも、インセスト・タブーが「自我」の樹立に関わる問題であるのに対し、男色は自己の「(身体的ではなく)精神的な性別の選択」に対する問題です。あまりに長い脱線でしたので、これは後程、中世の〈政治手法としての男色〉のところで話します。

2016年12月28日
第2回 歴史 第3部中世15【日本古代・漢詩から和歌へ・古今和歌集の成立へ】
〈柱の時代から間(真)の時代へ〉
 平安初期の貴族の邸宅には、池は配されてはいないものの、南は主人が住まうハレ(よそゆき)の空間、北・東は使用人が住まうケ(普段着)の空間(北・東の対屋は廊で繋がる)として区別された(91)住まいも見られた。
更には、摂関期以降、寝殿造という形式の邸宅に住むようになる。正殿である寝殿を中心として北・東・西に対屋(たいのや)を配し、間を廊などで連結した。前には池を持つ庭園が広がっていた。これらの建物は白木造り・檜皮葺で、一部を除き「壁を持たず、広い空間を
屏風や帷帳(いちょう)などで仕切って生活した。この点が瓦葺と壁塗りの中国式、石づくりの西洋式と異なるわが国独特の建築様式です。見ようと思えば向こうが覗ける、何の仕切りにもならないのに屏風を置くだけで仕切ったことにする。開放的に過ぎる、不思議なハイブリッドな様式です。
古代日本は「柱の時代」と呼ばれ、柱に神霊が招き寄せられ乗り移るものと信じられていたから(真柱)、社も寺院も柱が建物の象徴だった。それが、柱をなくしたわけではありませんが、母屋は塗籠(ぬりごめ)という寝室に当たる区切り(壁)はありましたが、それ以外は屏風・衝立(ついたて)・几帳(きちょう)などを置くことで、それこそ「間に合わせ」た。左右対称ではなく、左右競合とでもいうべき、同じものを、ちょっとした工夫を添えるだけで別のものに変えて表現することもできるという、一つの部屋に四季の移ろいを映し出せる柱と柱の「間」の文化を生みました(やがてそれも、ワンルームから小割の部屋に分割する書院造(92)へ移行していきますが)。屏風・衝立(ついたて)などあってないようなもの。それでもプライバシーだとか、権利だとか、ぎすぎすしないんですね。これは現代人にとっては、非常にルーズで気持ち悪いのかもしれません。でも、どうせ空しい生を生きているのに、何をそんなに隠すというか、閉じこもり一人専有する必要があるのでしょう。そんなところには感動(もののあわれ)はいない。みんなで共有するところに居座ってくれる。減るもんじゃないのに(これは言い過ぎか)。花の命は短いのに。といったところでしょうか。このような平安時代の貴族たちは、実は「不安時代」の無常を強く実感していたからこそこのような生き方ができたのでしょう。
もしこれが、不安は国家に預けてしまい、肝心の人生とは何か、どう生きようかについてはそっちのけで、政治的に平等であること(機会均等)だけが神聖な目的となっている現代であれば、決して生まれない文化でしょう。寄ってたかって「けしからん!」「ずるい!」「おれにも覗かせろ!」でしょうか。
源氏物語絵巻 徳川美術館.jpg
寝殿造の暮らし(源氏物語絵巻・徳川美術館)

〈漢詩から和歌へ・蔵人制と昇殿制と古今和歌集の成立〉
 9世紀には唐の影響を受けて、唐風文化が花開いたが、とくに漢詩文が流行した。更に作法に則って文章が書ける文官が重視され、国家の運営には文章が不可欠との儒教的な考えが重視された。書の達人として三筆(嵯峨天皇・空海・橘逸勢)が知られている。又日本では古代からウジ(氏)の貴賤がはっきりし、能力だけでは官人としての出世が叶わず、中国の科挙の様な制度は発達しなかったが、9世紀に入ってからは漢詩文の流行と共に、「文章経国思想(もんじょうけいこくしそう)」といって、国家を運営するには文章が不可欠であり、それができる文官は重視されるようになり、下級氏族であっても菅原道真や春澄善縄(はるすみのよしただ)など出世が可能となった。既に対外戦争の起きる可能性は低下し、国内でも争乱が減少してきたこの時期に、大陸の文化の消化吸収が進み、それだけでは飽き足らなくなってきた日本人は、わが国独自の文化の生まれる感性を磨きつつあった。その一つが「和歌」といわれるものだった。
依然として漢詩文が盛んだった中、私的な宴会などでは和歌が詠まれ、在原業平など六歌仙と呼ばれる人々の活躍もなされるようになり、裏では確固たる位置を占めるようになっていた。
当時から、儒教的な中国人や朝鮮の人びとと違って日本人は恋愛文学というものを低くは見なかった。なぜなら、社会を含めたあらゆる人間の文化の発生のメカニズムに、恋愛という幻想(観念)は大きく関与していたからです。
何しろ、動物は本能に従って、やることをやるだけで、相手がどんな顔をしているか(=精神性を覗かせているか)なんて眼中にないわけですから、だれでもよかった。人間はそうはいかない。人間は本能の上に「物語」の目を重ねて相手を見るから、好き嫌いが発生してしまう。
しかも、その物語の始まりは、自分では決められないから(確率的に好き嫌いは殆ど通らないから)、諦めから出発するしかない。そこにドラマが生まれるわけで、何でも思う通りに進んだら有難味なんて感じられない。自分で決められない生まれつきの百人百様のハンデ(「生まれ生まれて、生の始めに昏し」)を背負っての始まりは、生まれること事体がそういうもので、それは宿命とでもいうものです。そこにこだわって、不可能なハンデの改変の為に一生を費やしてしまう人もいるでしょうし、そんな「いい条件か」どうかなんて物語の本質にあらずと、人と生まれれば誰にでも備わっている「切実さ・情愛」という宝石を見つけ、それを守るこころを大切にすることができる人(動物ではなく)に成れる人もいるでしょうし、様々です。ある時は密通という道徳的規範を破ってでも守り通そうとする。

大半の人たちはそういうものを「女々しさ」のもとに切り捨て、公的規範の支配下に置こうとする「たてまえ」で物語を統率しようとする。そのような理念に風穴を開け、物語を勧善懲悪論から解放された文学にまで高めたのが、後の源氏物語です。
そこには、「たてまえ」からからスタートする現実離れした漢文化にはない、国風の文学があります。
少し砕けた言い方をすれば、私はあの人となら付き合ってもいいとか、あの人はいやだとかいうのは、動物には基本的にありません(その時の環境やタイミングに左右されることはありますが)。でも人間はそこが一番大事で、いやなやつとはやりたくない。なぜ同じ持ち物を持ちながら、好きときらいが発生するのか。それはそれぞれが自分の物語(93)を持っていて、それに合うか合わないかを品定めしているからですね。物語なんてどうでもいいなら、誰とやろうが、誰と結婚しようが関係ない。そこからほとんどの文化は派生するわけです。家族ができて、社会ができて、道具ができて、愛ができて、憎しみができてというふうに。家族ができない独身はどうなるといったって、何かしら友達でも、犬でも、仕事でも、月でも、ゲームでも、相手は必要なんですね。つまりヒトが生きていくのに恋愛は非常に重要な要素なんです。下品だとか何とか言って下に見るのは、男の自己正当化の為のごり押しに過ぎないわけです。日本の古代は、最初は男の政略から始まった摂関政治作戦も、女性なしでは成り立たないほど、その役割の重要性が高まりました。もともと男一人で何ができるわけもないのです。もともと言葉と言い、社会と言い、文化と言い、全て人の物語が作り出した砂上の楼閣でもあるのです。そういう観念が判らなければ、数億もかかる豪邸も、唯の洞穴も(動物から見れば)何も変わらないわけです。一人一人が物語を持っていればこその価値がある豪邸なんです。先ほど言ったように恋愛はその典型ですね。それを歌(和歌)にするということは、一人一人の違った物語の確認なんですね。人間が一番求めるのは自分の抱いた物語の確認なんです。それが無ければ動物と変わらない唯の本能による行為に終わってしまう。物語として完成させる必要があるんです。それで「後朝の歌」が必要なんです(94)。

平安の人たちが、何で暗闇の中で性交渉をし、朝がほのぼのと明けるまで、或いは結婚しても何日もたった後、妻が油断して見られてしまうまで顔というものを見せなかったかということも、顔というものが、魅力的ではあっても、物語(幻想)にとって如何にその本質を曲げてしまう邪魔な要素だったかということを物語ります。顔というものは、身体の中で最もその人のアイデンティティーを象徴します。そして最も具体的に個々の特殊性を示します。もし顔や性格にしか、各人の物語の照準を合わせられないとしたら、相手とのマッチング(実現性)は限りなく不可能になります。その特殊性、リアリティーは人をひきつけますが、逆に合わなければ僅かの差異も寄せ付けません。人付き合いもほとんどなく、引きこもりの貴族社会にあって、殆ど情報というものが無い中で、「顔で選ぶ」なんて言い出したら社会の構造でも壊れなければ可能性は殆どありません(現代すら、社会構造も開放的に成り、あれほどの情報が飛び交う中ですら、マッチングはかなり厳しく、独身者があふれる要因の一つとなっています。写真のリアリティーに毒されて、ものが見えなくなってしまっているのです)。又、実は顔や映像は物語のゴールではありません。それは単なる憧れです。アンナカレーニナの「幸福な家庭はどこも似通っているが、不幸な家庭はひとつずつみな違う」というのは、幸福が憧れだから似通っているのです。そして憧れは空想に過ぎず、すぐ飽きます。「美人は三日で飽きる」ですね。それは相交わる物語が無いからです。かっこいい車と同じです。あれば彩を添えるが、無ければならないというものではない。それだけでは一時しか持たない代物なんです。そんなものだけを追い続け、もっと肝心な物語を生きずに棒に振ってしまうこともあるのです。だから美(顔の美も)は魔物なんです。

そのパンドラの箱を開けてしまったのが、院政期から始まる道徳と暴力とリアリズムの武者の世だったのです。男性的時代の出現です。大塚ひかりさんは、平家物語は、女嫌いの(ホモセクシュアリティーか?)人が書いた・語ったのではと書かれているが、さもありなんと思われます。「美人が好きな男は女嫌い」というのは、美人という概念の中にどうしても必要な要素(男っぽさ・少年ぽさ)必要だということを見抜いているからに違いありません。ここは皆さんの胸に聞いてもらうことにして、あまり深く追及はしません。女好きの川端は、感情むき出しで大騒ぎをして男が自己主張する平家物語が嫌いでしたし、男好きの三島や谷崎は、感情を抑え、世間体を大切にし我慢し、怨霊まで生んだ、ものの憐れをしみじみ追求した源氏物語が嫌いでした。源氏については、後でまた取り上げます。

というわけで、文化や詩の成立に大きくかかわる恋愛文学は、漢詩などと比べても、より日常生活に密接しており、立派に男女の関わりという形で、存在を語りうるわけです。
漢詩と比べてどちらが低いとか高いとかいう代物ではないわけです。漢詩ばかりでは実生活と遊離してしまう。嘘っぽくなってしまいます。それは西欧の自我中心主義も同じです。
こうして徐々に和歌も興隆し始める。菅原道真を抜擢した宇多上皇はこの時代の空気を先取りして、和歌の興隆に力を注いだ。近くに仕えた道真も、自身は漢詩が得意ではあったが、和歌の興隆を時代の流れとして、自ら著した随行記の中で予測している。
9世紀中頃に片仮名と共にひらがなが発明されたのも大きい。万葉仮名を崩して生まれたであろうひらがなは、アルファベットのように表音文字だから種類も少なく、習得も容易で、歴史的な発明であることは何度も言っていますが、和歌の流行にはうってつけだった。この流れを決定的にしたのが古今和歌集の編纂だった。泳者のほとんどが宇多天皇、醍醐天皇の近親者であり、背後に両王朝の正統性を詠う意図があったことが推測されている。そして和歌は恋愛の道具から、貴族の嗜みとなり、漢詩の「たてまえ」と対立する理念にまで近づいていくのです。

王朝の権威を高める計画は、和歌ばかりではなく、宮中の制度にも示された。昇殿制(95)や蔵人制(96)の強化がその一つの試みだった。宇多は藤原氏との血縁が薄く、近臣が少なかったことから、他の官職との兼任であり、私的な機関であった蔵人に高い官職のものを就けたり、大臣か大納言を蔵人所別当に充てるなど、チームを私的な機関から公的な機関に引き上げ、自己に忠実な近臣で側近を固めた。こうして、天皇の近臣が、私的な立場から公的な立場へ積極的に位置づけられたことで、藤原氏との対決を含め、忠実な近臣の育成に力を入れた。この制度は以後の宮廷社会の中で長く生き続け、貴族文化に大きな影響を与えた。
その宇多の対決計画も、後醍醐天皇の世になって、藤原時平の陰謀による腹心・菅原道真謀反というでっちあげで、儚くも費えることになる。

〈受領(ずりょう)の成立と郡司・氏族の弱体化〉
 律令制のもとでは、地方は諸国に分かれ、国の下に郡がおかれ、郡の下に里(後に郷)が置かれ、国を統治する国司が中央から派遣された。国司は郡の有力者を郡司として、徴税を含む在地の統治・運営を行っていた。9世紀末には税の納入の遅れや庸(布や米)や調(布や特産物)の粗悪化がひどかった。困窮に苦しむ現場を見ようともしない中央政府の怠慢や国司・郡司の横領が原因だった。この状況を打開するための方法が受領国司制だった。受領は前任国司から国務を引き継ぐ(受領する)ことから生まれた言葉ですが、任国へ赴任しないで、一族や子弟などを目代(もくだい)として国衙(こくが=国府)に派遣して、そこから挙がった一定額の税を中央に納入していた遥任国司(ようにんこくし)とは違って、実際に現地に赴いて、検察や徴税を行ったり前任国司などに不正があれば正した。国家はこれらの権限と責任を任せる代わりに、国務に直接口出しを控えた。受領国司は赴任した国司の最上席者が任命された。これによって受領(長官である守・かみ)の権限は飛躍的に強化され、財を成すものが続出した。この為、任用国司(受領以外の国司、介(すけ)、掾(じょう)、目(もく)などの代行者)との争いも多かった。
受領の成立と共に、郡司も国司の任命制や推薦制となり地域での権力を失っていった。こうして国司が土着する中で、中央でも天皇以外の上皇・親王・女院などの皇室関係者や上流貴族(藤原氏)など(院宮王臣家という)もこの甘い汁を目当てに、地方に進出し、荘園経営などに当たり、国司より位階が高いため、しばしば納税を拒否したり、浮浪人や有力者などを使って国府の使者に暴力を振るったりした。彼らは院宮王家と主従関係を結んでいたと思われる。受領の方は金になる仕事として中・下級貴族たちの羨望を集める地位だった。紫式部の父も受領で財を成した。その蓄財の使い道は主に官職や受領再任工作に使われた。朝廷の儀式の費用負担や寺社造営の請負や公卿たちへの貢納が主な方法だった。こうして官職を得ることを成功(じょうごう)と言われた。成功によって、二度受領になることも難しかった時代に、官位の任期満了後も同じ官位に再任された。


注91) 「ハレとケ」 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P34
 稲作文化を前提とした日本の一年のサイクルで、冬から春へ、春から秋へ、秋から冬へというエネルギーの連続的な移行として捉える中、「冬」を自然や生命の魂がふえるという意味の「殖ゆ」という言葉から連想し、「春」を次第にその魂のエネルギーが満ちてきて、蕾が張ってくる意味で「張る」になる。こうして冬を我慢の「ケ(褻)」として、余所行きでない日常・現実・おおやけでない時として捉え、春を弾ける「ハレ(晴)」として、非日常・特別で祭り(素朴な乱交パーティーの「歌垣」も含む)、踊る儀式や行事を行うときとした。(都市は、日常をハレにしてしまい、いつも「よそ行き」の生き方をしている魂の消費の地であり、魂を増やす日常の「ケ」を地方に預けて(犠牲にして)しまっていますね。毎日がよそ行きの為に、「ハレ」の有難さが感じられなくなって、マンネリになり、刺激を求めてますますエスカレートし、異常性愛に走るばかりですね)。

注92) 同P120

注93) 物語
 物語は、野家啓一によれば「我々の多様で複雑な経験を整序し、それを他者に伝達することで、共有する為の最も原初的な行為である(*)」とし、小説と違い単なる虚構のみならず、「事実」の領域から「歴史叙述」にも及ぶという。柳田國男は印刷技術の発達により物語(口承文芸)が衰退したことを嘆く(物語作者は、語ることを自分の経験から引き出したり、他人からの報告から引き出したり、又語りに耳を傾ける人々の経験にしたりする時代の「様式」の中に生きた。
ところが小説は、社会とつながった自己を切り離し、孤独の中にある個人が密室の中で、自己の「内面」を吐露する告白という文体がその始まりとなる。告白されるべき「内面」が形成され、それを語る主語「私」=「自我」が必要になった。それは科学の発達とともに、超自我ともいうべき絶対的な神や天皇が信じられなくなり、自身の存在根拠を失った近代人が、新たに拠り所とせざるを得なかった「無意識」が、人間の存在を支えるどころか暴れ者で、時には人格を脅かし、とても安心して委ねられるような代物ではないことを知ることで陥った底知れない孤独と向き合う場を設けざるを得なかった。その場がいわば「内面」という「ミニ無意識」のようなものであり、その場をとりかこむのは更に巨大で不可思議な無意識の世界だった。
小説に如何に多くの登場人物がいようとも、たった一人の独白(モノローグ)に過ぎず、そこには他者(本当の無意識)は存在しないのです。
 自我と無意識の間の緩衝地帯であるミニ無意識の場は、絶えず両者の間を取り持って、あわよくば巨大な無意識の僅かでも、自我の側に取り込んで、制御可能な世界(自我)を広く取ろうと努めている。実はその敵の様な巨大な無意識も自分の一部なのだが、「神様」や「お天道様」「他人様」などとして受け容れる方法を失ってから、そんなものは自分ではないと決めた時から、敵に回ってしまったのです。18世紀から19世紀にかけてヨーロッパでもその存在を意識し始め「エス」と名付けて考え始めた。小説とは、その中身が個人的な経験や物語風の創作であって「物語」の体裁をとろうとも、「エス」を敵に回した話であって、「エス」に守られた「物語」とは一線を画すのです。
世界を物語で捉えるという「布置(コンステレーション・一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係も意味もなしていないようであっても、あるとき、それらが一つのまとまりとして、全体的な意味を示してくるということに、気づくことができるようになる)」の方法は、人間の宿命ですし、それ以外に人のこころを救う方法はないわけです。「人生」という捉え方(観念)も同じです。人生に何の意味もないと思えばその通りですが、それが科学的な認識では見出し得ないからと言って無意味ととるか、初め(誕生)から終わり(死)までの一つの厳粛な過程として定義して、美しく(自分が美しいのではなく、人の一生が、星の一生と同じように美しいという意味です)感動的な体験として意味を見出すか勿論各自の自由ですが、前者は人生に何か意味が欲しいからこその気持ちの裏返しで、それが見つけられないから拗ねて、科学と心中しているだけに見えますし、後者はこの世に生を受けたこと事体を感動的な事と感じ、感謝しているだけの姿勢が見えて、期せずして後から意味が生まれているように見えます。
足立恒雄さんによれば、限りなく意味から自由で抽象的な言語で行う「数学すること」すら、「集合」を色々な方法で抽象する能力として定義しています。集合として捉えることは、そこに意味(関係)を見出すこと即ち物語をみることだと思います。
(*)野家啓一「物語の哲学」岩波現代文庫2005年5月P16

注94) 後朝(きぬぎぬ)の歌の必要性。
ウラジミール 生きたというだけじゃ満足できない
エストラゴン 生きたということを語らなければ
ウラジミール 死んだだけじゃあ足りない
エストラゴン ああ、足りない
(ベケット「ゴトーを待ちながら」白水社2013年6月p119)

注95) 昇殿制 
 清涼殿南廂の殿上の間に伺候することを許されたものを殿上人といい、同じ公卿でも昇殿が許されないものを地下(じげ)といって区別された。四・五位の中から選ばれた天皇の側近で、上級貴族の公卿の予備軍的存在だった。殿上人は一方で律令官僚制の官人(ライン)であり、もう一方では天皇の代替わり毎に選び直されるスタッフでもあった。これを、公卿-殿上人-諸大夫というラインに乗せ、天皇との個人的な関係からなっていた近臣たちを、公的な官職として位置付け、宮廷社会の性格を大きく変えた。
    
注96) 蔵人制(くろうどせい)
蔵人所は、薬子の変に際して、(平城上皇側に)嵯峨天皇側の情報保持のために設けられたもので、令外官としてそれなりの機能は持っており、側近として、藤原氏などの有力者ばかりでなく、琴や和歌など諸芸に秀でた人物も置かれていた。
宇多天皇はこの制度を整備し、それまで6位までだった蔵人任命を5位にまで引き上げ、蔵人処別当を設けるなどその地位を引き上げ、近臣の整備を図り、藤原氏排除の体制を徐々に固めていった。


2016年12月21日
第2回歴史第3部中世14【日本古代・華厳から密教へ】
〈華厳の毘盧遮那仏から密教の大日如来へ〉

 平城京には多くの寺院の伽藍が建ち並び、既に遷都前からの飛鳥・藤原時代からの国家大寺院として薬師寺や法隆寺(飛鳥寺)、大安寺などがあり、更には遷都後に建てられた興福寺・東大寺・西大寺などがあり、これら寺院において研究された仏教は、南都六宗(83)と呼ばれた。中でも東大寺の華厳教(84)は、その中心となり、仏教によって国家の安定を図ろうという鎮護国家の思想を、東大寺大仏(毘盧遮那仏)を中心として全国に国分寺(国分尼寺)を配置する、藤原氏の国家イデオロギーともいうべき華厳ネットワークに乗せて拡げました。
しかし、このような民衆の信仰を伴わない、学術的宗教だけではいずれ形骸化し衰退するのは目に見えていて、それは中国で唐以降仏教が衰退したのと同様の道だった。当時の感覚では仏教はモダンでセレブな文化で、僧はエリート層であり、渡来僧や商人などの中国語や朝鮮語など様々な言語が飛び交う平城京においては、僧侶はバイリンガルとして羨望の眼差しを向けられる対象だった。そんな中で、日本においては山にこもり修行に励む修験・雑蜜などの山岳仏教、民衆への布教と共に社会事業を行い国家からの弾圧にもめげず、後に大僧正に任命されて大仏造営に協力する行基、貧しい孤児や病人の為社会福祉活動を行った光明皇后などが黙々と活動します。

又仏教も決して神道が特に社会的権力を目指さない限り弾圧することもなく、共存の道を探るのです。各地に神宮寺や神願寺といった神仏集合思想(85)に基づく、神社であり且つ寺である寺院が建立され、近くには神を祀る社(やしろ)や祠(ほこら・小さなやしろ)が新たにつくられ、「鎮守(ちんじゅ)」と呼ばれるその土地や場所を守護する神も祀られるようになりました。なぜなら、仏教は日本に限らず、伝播した土地の固有信仰を取り込みながら発展してきたのであって、インドでも(梵天・帝釈天・阿修羅などと)中国でも(道教と)習合を繰り返している。日本でも同様に神道との習合を繰り返したのは珍しい話ではありません。日本の場合は、中国からの習合思想の影響もみられるが、在地の有力者や郡司(86)などに信仰された神が、彼らが私的に行った、春に農民に稲を貸し出し、秋に重い利息をつけて返済させる金貸しならぬ稲貸し(私出挙・しすいこ)や、天災、疫病などで村落は荒廃し、求心力を失っていた状況が、仏教に取り込まれる要因を作っていた。こうした窮状を見て、寺院と山林や諸国を渡り歩く遊行僧らは、神が仏の力を借りて救済される神仏習合の仲立ちをしたのです。神の苦悩は、時代の変化(律令化強化・平安化)についていけない有力者達の苦悩でもあったのです。

 桓武天皇は、この郡司の譜代制も廃止して才用制とし(これも郡司には打撃となった)、併せて国司の不正を摘発する令外官(天皇直属のスタッフ⇦⇦律令のラインには乗らない)である勘解由使(かげゆし)を設置した。
桓武はこうして地方管理体制を強化しながら、蝦夷の征伐で国家の威信を国内に示そうとした。小中華思想と言われます。最初の征夷はアテルイなどの反撃で敗退したが、二度目には坂東(碓氷峠と足柄坂より東の地域)を兵站基地とし兵糧(糠・ぬか)14万石を用意し、10万の征夷軍を養い、勝利を収めた。このとき副使に任命されたのが坂上田村麻呂でした。三度目の征夷は800年から、(797年に征夷大将軍に任命されていた)田村麻呂を中心に出発し、蝦夷征伐に成功し、族長アテルイらを引き連れて上京し、田村麻呂は彼等の投降が自首であることから除名嘆願したが公卿らの反対にあって処刑となった。このような造都や征夷という膨大な出費が可能となったのも、気候の安定や経済的基盤が安定していたこともあるが、唐末の政局の混乱や新羅の内乱などで、対外的な軍事費が不要だったことも寄与していた。

 それでも度重なる征夷や造都の費用は農民(地方)を圧迫し、高齢で病弱になった桓武は、殿上に藤原緒継と菅野真道を呼び、徳政(徳のある政治)について論じさせた。そして緒継の意見を採り入れて、天下の苦しみである「軍事(征夷)」と「造作(造都)」を停止した(徳政相論)。併せて側近の藤原種継暗殺事件の際に葬った早良親王の怨霊を恐れて、淡路に寺院を建立したり、最澄を殿上に呼び、悔過(罪を償う行事)を行わせた。

 神道に関しても、桓武天皇は伊勢神宮を深く信仰し、平安遷都に際しては賀茂社や、母の出身貴族である百済王氏の祀る神社を平安京に勧請(かんじょう・神の分霊を迎え祀る)したり、諸国の神主の任命権を手中にし、国家の管理下に置いた。

 こうした中で、華厳のような正統に伝わった経伝仏教ではなく、裏として早くから伝わっていた密伝仏教である南伝仏教(87)を基にした山岳仏教がいよいよ出番となってきます。行基のように同じ山林派であっても、大僧正として華厳派に取り込まれず、山林にこもり修行に耐えてきたこのグループを、唐帰りの最澄・空海は雑蜜として採り入れ、よく整理して純蜜として体系化し、いよいよ密教(88)の時代を切り開くのです。

 桓武も、顕教(89)の政治介入には嫌気がさしており、平安遷都の際には、平城京時代の寺院の移設を認めず、官立の東寺、西寺以外の私的寺院の建立も認めなかった。同時に最澄らの新仏教を支持した。道鏡が下野の国に流され、久々に天智系の光仁天皇が即位し、その子である「桓武には、天智系の血とは別に、百済亡命一族の血が流れていた。・・その桓武が選んだ新京の地が、山門(やまと)ではなく、山背(やましろ)である山城であったことはすこぶる興味深い(90)」ですね。(吉野の入り口である)山門は大和=奈良=平城京であり、山背は国都のあった大和国から見て、山の裏側(反対側)の国という意味ですが、新しい国都が「背」ではまずいので桓武天皇が、都にふさわしい「城」に変更したようですが、「山城」といえば思い出すのは、国防の為に、百済に学んだ古代朝鮮式山城ですね。日本の古代のところでやりましたね。
密教の宗教としての詳細については、第10回予定の宗教のところで検討しましょう。



注83) 南都六宗
三輪、成実、法相、倶舎、華厳、律の宗派。信仰よりも教典の学術的研究に力がそそがれた。

注84) 華厳経
日本の古代史を覆った宗教であり、哲学であり、科学だった。全世界をヴァイロチャーナ=ビルシャナ(奈良大仏)仏の顕現とし、一微塵の中に全世界を映じ、一瞬の中に永遠を含むという一即一切・一切即一の世界を展開する。古代国家が一人のリーダーとしての帝王を置いて国を治めるモデルとして使いやすかった為、日本も取り入れられた(鎮護国家)。「唯心縁起」を重視する世界観によって出来上がったもので、言葉使いが述語的につながっている(西田幾多郎の「述語的包摂(*)」参照)という特徴をもつ。密教と禅は華厳を分母として発達した。
華厳経の教理の特色は人間には仏性があり、仏になるとした。そのプロセスを「性起(**)」に託し、理性起(自己の仏性に気づく)→行性起(師や経典に学ぶ)→果性起(清らかな仏果現る)の3段階に分けた。
仏陀が悟った真理は「縁起」から見た世界にあるとした。「縁起相由」といい、事象の関係発見のプロセスを示した。諸縁各異(事象には全て個性あり)と互編相違(全体の調和は個性が構成する)→倶存無碍(多様な関係が生まれる)→相即相入(多くの個性の関係が真理となり、真理は多くの個性の関係になる) →同異円備(多くの個性が関係しあって調和をつくり出す)
宇宙は多様な要素が全て相互にネットワークし合って、秩序をつくりあげている。「四種縁起」といい華厳世界のプロセス示す。事法界(現実世界・森羅万象)→理法界(真理を追究して現れる「空」の世界)→理事無碍法界(現実と真理が融合した世界)→事事無碍法界(全事象が相互関係を起こしている世界)にまとめられる。

(*)「西田幾多郎は〈判断というものは、実は主語を述語が包摂することだ〉と書いた。これは〈特殊〉としての主語に対し、述語が〈一般〉であることを強調したものである。その為人間の知識は、この〈一般〉の無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだと捉えられた。言い換えれば、人間は自分自身の底辺にある〈述語面で〉あらゆる意味と意味のつながりを連絡づけているということだった。〈意識の範疇は述語性にある〉というとびぬけて素晴らしい結論を出したのだ。(松岡正剛・知の編集工学・朝日新聞社p278)」
(**)「性起」・・現象世界は、真如・法相(ホッショウ)などの根本原理の生起したものとする見方。

注85) 神仏集合思想
仏教と在来の神祇思想(*)とを混融調和するためにとなえられた教説。奈良時代は経典知識の普及により、神を仏教の護法善神として「神宮寺・じんぐうじ」が建立され、(寺の中で)神前読経が行われた(鎌倉にある鶴岡八幡宮は明治初期まで神宮寺だったし、奈良の春日大社では正月に般若心経が読み上げられる)。
平安時代になると神に菩薩号が与えられ、権現の名で呼ぶようになった。以降は末法思想の中、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が展開され、仏が神の姿で、人々の救済に顕現したとされた(仏が本地、神が垂迹)。具体的には、大日如来は天照大神に、阿弥陀如来は八幡神や熊野権現に、地蔵菩薩は愛宕権現(あたごごんげん)に、大黒天は大国主神(おおくにぬしのかみ)にといった具合である。
鎌倉・室町期には反本地垂迹説(神が仏の姿をとって顕現した)により、神道の理論化が図られた。更に江戸時代には、儒者や国学者からもこれは俗神道として排撃されたが、村の鎮守の神として、村落の宗教生活には浸透していった(角川日本史辞典より)。ここでは、このように相反するモノすら統合してしまう、古代から現代まで脈々と通じている極めて日本的な性向を自覚しておきましょう。ここからもわかるように、日本は無宗教ではありませんが、さりとて体系立てた宗教に支配されている訳でも反宗教でもないんです。非宗教なんです。唯素直に感動したものや人やコトに頭を下げる。それだけなんです。だからこのような矛盾したと思えることが平気でできるんです。海外からの批判も受けるのです。でもそれを宗教からの自由と言いましょう。

(*)神に関わる観念や信仰の総称。
もともと日本では天地の神や人格的な祖先と系譜神を祭る慣行はなく、教説もなく、各種の自然形象を共同体や生業の神として祭った。その後仏教や仏像や道教などと接触する中で、神を偶像として命名することやケガレ・祓いを重視したり、神話作りが進んだ。そして天皇祭祀のもと、天神地祇(天の神と地の神。天つ神と国つ神。・・日本では、高天原たかまのはらに生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国あしはらのなかつくにに誕生した神を地祇とする)の考えが編み出された。更に奈良時代の「氏神祭祀」、平安時代の「御霊信仰」が生まれる。

注86) 郡司
令制の地方官。前身は7世紀後半の国造(くにのみやつこ)などの伝統的な豪族などで、終身官だった。国府内に留まらず、国内を巡行したり京と任国を往還する国司は、実質郡司級の豪族の在地支配に依存していた。


注87) 南伝仏教
南方アジアで広まったで上座部仏教で小乗仏教とも呼ばれる。厳しい戒律を持ち僧侶の修行によって悟りをひらき、庶民は僧侶に功徳を積む事で救われるとするもの。(これに対し、マントラ(真言)を唱える事で誰でも救われるとする大乗仏教は、漢訳やチベット訳の仏典で伝わった、チベット・モンゴル・中国・朝鮮・日本における北方仏教といわれ、比較されるが厳密ではない)

注88)密教 【最澄と空海】
宇宙の実相を仏格化した根本仏とされる大日如来(智の働きを表す金剛界大日如来と、理を表す胎蔵界大日如来の二尊がある)の教え。大日如来とは華厳の教主となったヴァイローチャナ(サンスクリット語=日本名ビルシャナ・毘盧遮那=大仏)が、再昇華したマハー(大)ヴァイローチャナをさす。尊格は同じですが、密教はゴータマ・ブッダを選ばず、アスラから転身を遂げたマハー・ヴァイローチャナ・ブッダを選んだのです。
奈良時代後半には、仏教が政治に深く関与して弊害をもたらした。桓武天皇は平安遷都に伴い、最澄によってもたらされた新しい仏教を支持した。
一介の私度僧に過ぎなかった空海は、優れた著作は残しつつも中央にその名を轟かせることはなく、唐に渡る伝手は無かった筈だが、叔父の阿刀大足を介して、有力者(伊予親王)の推薦を受け20年の任期を持つ長期の遣唐留学僧に選ばれたと推測される。私費で(勿論伊予親王の資金援助は受けていたろうが)渡った留学僧だった。ただ伊予親王は桓武の死後謀反の疑いで自殺した為、その名を隠したと推測される。空海は長安に入り、その才能をいかんなく発揮して、般若心経や華厳経を中国語に翻訳した博覧強記のインド人・般若三蔵の知己を得、梵語(サンスクリット語)やバラモン教を学び、その仲介もあってか修行者二千人に及ぶ密教の本山ともいうべき青龍寺の恵果を訪ねる。恵果は空海が来るのを知っていたかのように「我、先より汝の来るを待つや久し」と言って早くも両部密教の秘法の研鑽に入る。胎蔵界の灌頂でも金剛界の灌頂でも、先立つ投華の儀式で投げた花が大日如来の上に落ちる。「不可思議!不可思議!」と手を打つ。どちらも不眠不休で打ち込んだ。恵果は大日如来の密号である「遍照金剛」の号を空海におくり、何と、真言密教の第八祖となりました(「大日如来-金剛薩埵-龍猛-龍智-金剛智-不空-恵果-空海」)。中国密教界の最大最上の付法が与えられたのです。
インド伝来の聖教、曼荼羅、仏画、法具、仏舎利80粒などのことごとくがおくられた。結局、義明が早死した為、金胎両部の秘法を伝授されたのは空海一人だった。入唐して3年になろうとしていた。もはや中国に留まる理由はないと帰国を計画した。僅かに越州の龍興寺の密教阿闍梨である順暁(じゅんぎょう)に合っている。順暁は最澄に密教の付法を伝授した人物であり、その一部始終を聞き、最澄の学んだ密教がどの程度のものかおおよそを知る。先を越されたと思ったかもしれないし、自分の掴んだ世界の広さに自信を深めたかもしれない。帰国に当たっては、高齢にあって(70歳)尚日本への布教に熱意を枯らさない翻訳の天才・般若三蔵に後を託され、膨大な教典を受け取った。唯空海は、帰国してすぐには都に入らない。桓武の死も耳に入る。九州・筑紫に留まり機の熟すを待った。本来20年を学ばねばならない還学僧が僅か3年足らずで戻ったとあれば咎めをうけることは間違いない。それなりの成果を挙げたことを暗に知らせ、都の反応を見た。又空海を留学僧に推薦・資金援助したと思われる伊予親王が桓武の後の平城天皇に対する謀反の疑いで自害していたことから政治的謀略に巻き込まれる恐れもあった。桓武の死後宮中の勢力が交替し、右大臣となった藤原内麻呂は最澄の新仏教より奈良旧仏教に味方し始めた。その機を見て空海は、京に向かう高橋真人に長安などで得た教典他の全目録(「請来目録)を託した。現物は渡さない。「請来目録」は、そのあまりの偉大な内容に判定できる者が見つからず、日本密教の最高指導者に登っていた最澄の手に渡った。それを見るだけで最澄は、ただならぬ空海の実力を見抜いた。長安に入らなかったのを悔いたかもしれない。本格的な密教の到来に、畏れと共に、大いなる友を得た心強さを持ったかもしれない。
やがてそして徐々に、空海を必要とされる時が近づいてくる。最初は、最澄の弟子ではあるが空海を評価していた勤操の管理する和泉の国・槙尾山寺に、そして次には、京に上って最澄ゆかりの高雄山寺に入るようにとの、太政官・官符が、彼の住む国の国司に下った。奈良仏教者達も、最澄の痛烈な批判を受けて立てるのは空海しかいないと感じていたし、最澄も完成された、正統の流れを汲んだ密教の膨大な教えが広まるのを素直に喜んだに違いない。空海はどちらにつくというものではない、密教がこれまでの仏教流派の一つでしかなかったのを、全ての頂に立つものとして、超越的な立場を持ち、華厳すら下位に置く仏教最高の宗教とする構想を持っていた。

空海は嵯峨天皇から、六朝期の秀句を選りすぐって六曲一双の屏風に書くよう依頼された。謙遜しながらも、長安では五筆和尚の名をもらったほどの優れた書家でもあった彼はあっという間に感性豊かな嵯峨天皇を魅了した。
最澄はほどなく、空海付法の金胎両部の灌頂を受けたいと山城の国の乙訓寺を訪ねた(空海は、嵯峨天皇からの命で、早良親王の幽閉されていた山城の国の乙訓寺に入ていた。怨霊の魂鎮めか、兼ねて望んでいた荒れ果てたこの寺の修理を願ってなのか定かではない)。唯、南都諸宗を攻撃する最澄が空海に三顧の礼を尽くしているということは、只ならぬことだった。既に最澄は空海に教典閲覧の申し出をしていたし、手紙の末尾には、「下僧最澄」と記していた。最澄とはそういう正直な人間だった。信仰の前には社会的地位などに囚われない直情の人だった。
空海も最澄の姿勢によくこたえて借覧にも協力し、灌頂も多数行った。最澄もこの空海の活動を資金を含めて惜しみなく援助した。しかしやがてその借覧も断られ、最澄の熱望していた灌頂も、阿闍梨(あじゃり=密教の僧職)の位を得るための「伝法灌頂」はしてもらえず、曼荼羅諸僧との縁を結ぶ「結縁灌頂」までに過ぎなかった。このまま続けてすべてを持っていかれるのを恐れたのか。事が政治的に語られるならそうであろう。強かでもあったろう。しかし空海はそのような秤で語られるようなスケールの人間ではなかった。最澄とは住む場所が違っていた。空海は最澄が嫌いではなかったが、うっとうしかった筈だ。こんなことにかかずらってはいられない、それが本心だったろう。早くおのれの信念を世に問いたい。

善悪などを超越した、生命の矛盾を前に、大輪廻を前に、その悪夢から、慈父である覚者が黙って見てはいられないという叫びを発した。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを知らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し

(自分には自分は判らないし
生には生は判らない(まして死などわからない)
生の始めは判らないし
死の終わりも又わからない
自分に与えられた相を生きることが、そのまま全体を生きることになる)

三界に輪廻し、四生に蛉足幷(りょうびょう)す
大覚の慈父、これを見て何ぞ黙したまわん
(生きとし生けるものは悪無限的な繰り返しを生きている。
そうした生命の海の輪廻の悪夢を黙って見てはいられない)

もはや「祈り(信仰)」だけではすまされない、生命の矛盾(共存と共食い=他の生命の殺戮(*))を受け止め、身をもって示すという大事業が、彼を突き動かしていた。誰がこの根本問題を理解しただろうか。僅かに最澄がそのスケールに気付くのみだが、その深く広い哲学を理解しているとは感じられない。むしろその中途半端な理解は、これからの構想に有害ですらある。根本が違っていた。最澄を始めとした大方の仏教は「生きる救い」を目指したのに対し、空海の根本解決は誤解を恐れずに言えば「自殺」だった。輪廻の悪夢を断つ「即身成仏」とはそのことだった。それは決して生命の否定ではない。生きとし生ける者たちの中で、人間だけが善人面をしていることへの「喝」だった。(一汁一菜で暮らせばいいというものではない、そんなものは自己満足に過ぎない)。このようなことが理解できる筈もない。だが薄々感じられるものなのだ。それが不安という形をとって、忍び寄る。そこを身をもって、先頭をきって、「生命の定義=あり方」を示しておく、釘を刺しておくのが空海の答えだった。
「仏教は中インドから南インドあたりで形成された般若や中観哲学、いわば「空の哲学」という頂点と、これに対する唯識哲学をも組み込んだ「悲の哲学」という頂点との、二つの絶頂を極めたのであるが、密教は時代的な流れから、この「空と悲」の統合を何とか果たさなければならないところに差し掛かっていた(**)」わけです。

一人の欲望や食欲や暴力などの想像力の根拠を自己のみに求めず、原因と結果の必然性に秩序維持を頼る因果律の脈絡に関しても一人自分のせいだと考えず、もっと広く、「生きてある者と死んである者との(想像力と因果律との)共有まで進んだ時に、宗教は初めて「生命の海」をもつことになる。空海はそのことを「即身」というふうに見た(***)」(松岡正剛「空海の夢」春秋社参照)

彼の伝えた密教(大日経・金剛頂経)は、修行によって奥義を極めたものにしか深遠な悟りは開けないとしたが、人間はありのままの姿で既に仏であり、修行によってそれを自覚できるとした「即身成仏」の考えは、輪廻転生の苦しみを経験しなくとも成仏できるという画期的な思想で(もう既においしい所は、民衆より先に味わい尽くした)貴族らの支持を集めた。おそろしく壮大な言語論を持つ体系から真言密教(東密)と呼ばれた。

一方、桓武に重用されたのは最澄の方で、既に名声のあった彼は、桓武の強い要請から、請益僧(しょうやくそう・特定の課題について、短期に学問や教義・教典上の疑問点を高僧らに問い帰国した短期留学僧****)として遣唐使に随行した。
最澄の伝えた法華経は、「一切皆成仏」として人間の仏性の平等を説いた。後に、既に唐が廃仏をやっている頃に入唐して、還俗させられた僧が多い中の唐から帰国した、弟子の円仁らにより密教化され、天台密教(台密)とされた。
これ以前からあった、山にこもり修行した修験雑蜜(ぞうみつ)と区別してこれら(東密・台密)を純蜜と呼ぶ。
しかし最澄は天台宗を起こし延暦寺で教えを広めたが、彼が起こしたのは法華経を中心教典とした天台教学(天台学、密教、禅、戒律の四種相承を特色とする、つまり法華経、浄土教、禅、密教を教えます)であり、密教中心ではなかった。何しろ短期留学僧で時間がなかった。幸運にも天台の正統な継承者・順暁に密教の胎蔵界と金剛界の灌頂(*****)を授けられ弟子として認められたものの、僅か1年間で、長安にも行っていない。これが後に空海との社会的立場の逆転を招くことになる。
それでも、鑑真から続く多様な天台の教えと、最澄の謙虚さは、後の浄土教の源信や偉大な鎌倉新仏教の開祖たち(法然・日蓮ら)をそこから輩出した。

逆に空海は、密教に専念し、高野山・金剛峯寺で大日如来の真の言葉を指す真言宗を開き、奥義の深遠なことから日本の密教の代表とされた。密教は、日本の土俗ともよく溶け合い、体系化された、インド発の世界普遍の哲学宗教でした。空海の思想は完璧すぎた。一人ですべてをやってのけ、高い頂に行ってしまった。恵果が中国の地で、密教の継承を託せる弟子に恵まれず(唐に教えを広める筈だった、若くして亡くなった義海を除けば)存亡の危機にあった時、彼が予知していた通り(東国に教えを広める役割の)継承者は突然日本から現れた。そして東洋の小さな島国で密教は完成されたものの、文字通り秘密の裏に閉じられてしまったのです。空海は次の偉大な継承者には出逢えなかったのです。その軌跡は「結び」の品である彼の膨大な著作と胎蔵界・金剛界の曼荼羅(******)と法具(*******)に託されました。

(*)生命の矛盾
矛盾は無常でもある。生命現象が、一人自給自足ができる植物を除いて、彼らの作り出す酸素や他の有機物の生命を飲み込んでしか(エントロピーを食べながらしか)生きられれないという、人間の宿命である弱肉強食(そればかりか神々の世界でも、ゾロアスターや仏教世界での善神と魔神との殺し合いの構造がみられる)の中で、人間中心の善を語り美を語り、浄土をのぞみ、悟りを云々することの矛盾を如何に引き受けるかを、即ち大輪廻の渦に放り込まれた人間の迷いから如何に救い出すかを正面から体を張って答えたのが空海だった。これは「祈り」で解決できる問題ではなかった。

或るテーマパークで、魚の死骸をスケートリンクに埋め込んで、氷上のスケートを楽しんでもらいたいという、これ以上ない皮肉な企画が実現され、ネットが炎上した。
魚がかわいそう、血がみえる、悪趣味、命の軽視、残酷すぎる、氷の水族館の企画に対する批判は、何とも人間の身勝手の極みをみせられて、腹立たしい。「悪趣味だ」という、お手前こそ、現実を見せられて動揺して、覆い隠したいという心理の醜さを見せているのではありませんか?あなたにとっての真実は、都合のよいもの、つまり偽装されたものにすぎず、都合のわるいものは、真実ではなく、見えない所に隠して無かった事にしたいわけだ。魚をぶっ殺して、油が乗って美味いとしゃあしゃあと言ってるし、牛をぶっ殺して、柔らかいとか、とろけるとしゃあしゃあと言ってるじゃないですか。それは、悪趣味じゃないわけだ。生命の矛盾ですね。テーマパークの企画さんも、作戦失敗でした。サント・ヴーヴの「毒(現実)は薄めなければ使えない」の原則を無視してしまいましたね。化粧品の原料も、薄めて初めて使い物になるのでしたね。今回の騒ぎは、うっかり生の真実を出してしまった為に袋叩きにあった教訓ですが、人間一人が、(他の生物たちに対し)善人面をしていることへの強烈な皮肉でした。

(**)松岡正剛「空海の夢」春秋社1984年7月p298
(***)同p340
(****)還学僧(けんがくそう)とも。
(*****) 灌頂(かんじょう)=如来の五智を象徴する水を仏弟子の登頂に注ぎ仏の位の継承を示す密教の儀式。最澄は弟子となるための「受明灌頂」までだったが、空海は恵果から、阿闍梨(あじゃり=密教の僧職)の位を得るための「伝法灌頂」まで受けていた。これが後に、最澄は空海に灌頂を願ったが、結縁灌頂に留まり、最後まで「伝法灌頂」は受けられなかったことにより、二人の立場の大逆転をもたらした因縁である。更には、最澄、或いは比叡山・延暦寺で教えを受けたものでも、日本で正式な僧となるためには、対立する南都東大寺の戒壇で受戒しなければならなかった。延暦寺に戒壇を設けることが許可されたのは最澄死去の7日後だった。桓武のバックアップがあったとしても、南都仏教の壁は厚かったのであり、その点空海は南都仏教とは協調を保ちながら、独自の世界を築いていった。
(******)曼荼羅・・・古代インドのサンスクリット語での音を漢字にあてたもので、悟りの境地に達することを意味し、密教の世界観を象徴的に構図化したもの。マンダラとは、サンスクリット語で、「マンダ」(真理、本質)と「ラ」(得る)を付けた語。密教の根本神である大日如来を中心に修行の過程にある各尊像を秩序に従い配置する。
両界曼荼羅(大悲胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の一対)、別尊曼荼羅(大日如来以外の、病気治癒、国家安泰など特定の目的のための本尊が描かれたもの)、浄土曼荼羅(阿弥陀如来の極楽浄土を描いたもの)、垂迹曼荼羅(神仏習合思想に基づき在来の神々を仏教の諸仏が姿を変えて現した)、文字曼荼羅(日蓮宗や法華宗の本尊として、南無妙法蓮華経などのお題目を文字で書いたもの)、羯磨曼荼羅(かつままんだら=立体曼荼羅であり密教の曼荼羅を、実際に諸仏を配置して表現したもの。全ての仏が大日如来の変身した化身と言われます)など様々な表現形式があり、これを内容によって分けると、大日如来を中心に各部の諸尊を配置した都部曼荼羅と大日の分身である阿弥陀、観音、阿閦(あしゅく)などの特定尊を本尊とした別尊曼荼羅とにも分けられる。
空海が持ち帰ったのは、都部曼荼羅に属し、胎蔵界(仏の理)と金剛界(智の世界)の一対からなる密教の根本本尊である曼荼羅図。今は痛んで見られないが、これを基にして作られたものが東寺にあります。胎蔵とは、母体で胎児を保護育成することに例え万法を含みおさめることで、大日如来の深い慈悲を表わしている。これを図像化したものが胎蔵界曼荼羅。金剛界は、金剛のような堅固な知恵に支えられた悟りの境地をいい、大日如来のゆるぎない知恵を表わすとされる。この境地に至る過程を図像化したものが金剛界曼荼羅。曼荼羅はユングが言うように「自然の自己治癒の試み」であり、夢を見るのと同様の、出会った自然や体験を前にしての自己の補償行為であり、人生の意味づけ行為なのです。
金剛・胎蔵曼荼羅.jpg
両界曼荼羅(元禄本)江戸時代 教王護国寺(東寺)蔵

(*******)法具・・・@煩悩を打ち破る金剛杵(こんごうしょ)A仏性を覚醒させる金剛鈴(こんごうれい)Bこれらを載せる金剛盤の3つ。
法具(密教)).jpg
教王護国寺(東寺)蔵

注89) 顕教
釈迦の教え。一般には法華経や華厳経、阿弥陀如来の教えである浄土経典の教理を意味した。南都六宗に代表される。空海は、密教以外をすべて顕教とした。東大寺大仏は華厳のネットワークの中心(毘盧遮那仏)。藤原一族の国家イデオロギーに使われた(鎮護国家の思想)。
学問的で、言語によって明らかに説き示された(「顕れた教え」)仏教の教えを意味する。これは永遠の仏が直接に絶対的な真理を垂示するのではなく、衆生を教化するためにお釈迦様として現世に姿を顕された仏が、教えを聞く相手の能力に応じて説かれたものとした。

注90) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P94

















2016年12月15日
第2回 歴史 第3部中世13【日本は古代・遣唐使】
〈遣唐使〉
 遣隋使の時に、日本は無礼といわれるのを承知で、隋の冊封を受けずに、自立した君主であることを認定させ、冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を示そうとした。中国がそれをしぶしぶ認めたのは、日本が高句麗と結ぶことを警戒した為というのは、お話ししましたが、「隋書・倭国伝」では、帝王に対し、あなたは仏教の交流を行っておられるから朝貢すると言っているようです(司馬遼太郎「空海の風景」)。中国の皇帝だからではなく、仏教という(中国ではない他国の)普遍的な宗教を信仰しているから、私と同じだから敬うんですと言っている。それで聖徳太子の「日出づるところの天子・・・」に繋がるわけですね。
遣唐使は630年から始まり、894年菅原道真が遣唐大使に任命された際に、(藤原氏の陰謀を感じたかどうかは判りませんが)派遣の可否を奏上したことをきっかけに、以後消極的になり、派遣されなくなりますが、その間十数回実施され、唐の進んだ政治や文化を学ぶ重要な役割を果たした。長安の都市計画や律令を学ぶためというのが大きかった。そうかといって、仏教や道教などまじめなものばかりでなく、好色小説「遊仙窟」や錬金・練丹術の神仙道を紹介した葛洪の「抱朴子(81)」などを持ち帰っている。「遊仙窟」などはあちらで絶版になったものを現代中国で逆輸入して大いに喜ばれているようです。紫式部は読んでいるでしょうし、空海は「抱朴子」は間違いなく読んでいる筈です。
回賜(かいし)というお土産を山のようにもらってきた。日本はそれでも、律令にしても中国の物真似ばかりではなく日本独自の律令を作ろうとしていたところが偉い。唐側でも、日本から授戒など正式な戒律のあり方を知るものを派遣してほしいという要請などあったが誰も引き受けたがらなかった。そんなとき、聖徳太子の徳を慕っていた鑑真がひき受けた(当時中国では、聖徳太子の前世は中国の高僧だったということが信じられていた)。長屋王の要請文にもこころを打たれていた鑑真は5度の難破や失明にもめげず、来日を果たし、日本に天台学や正式な戒律を伝えている。彼が聖武天皇の願を奉じて建立した唐招提寺の御影堂にある鑑真和上像は、脱活乾漆造り(82)の傑作ですね。生命感というものとは反対の霊感というべきか、もう圧倒されるしかない。
場所そのものに居る。存在というものはこのようなものかと思わされます。
 アランに、「出現」の彫像家と讃えられた高田博厚が「彫刻史上最上の肖像彫刻だ」と絶賛したのも肯けます。
鑑真和上座像.jpg
鑑真和上

 特に日本からの航海たるや並大抵のものではなく、難破や沈没はざらで、むしろ安全に長安にたどり着く方が奇跡だった。偏西風一つ考えても、当時の稚拙な航海術と小さな船で逆風に逆らって西に向かうことの危険は容易に想像できる。対馬海流も方向は逆です。それに輪をかけて、航海の出発日時は、陰陽師や風水師の占いで決められた。嵐が猛り狂っていようと、日が良いからと出発を命じる。逆らえば死刑。これでは難破しない方が不思議ですね。それほど当時は「占い」「祟り」というものを信じ切っていたわけです。平城京から平安京に落ち着くまで何度遷都したことか。これも風水や占いで祟りを恐れて、事あるごとに移ったわけです。
こうして続けられた遣唐使のルートは、4つくらいあった。
@北路(新羅西岸沿いに進み登州から陸路)A南路(海路で江南に向かい、蘇州・杭州などを経て長安に向かう)B渤海路(新羅東海岸沿いに北上して、渤海に入り、そこから大回りをして、南下して長安を目指す)Cその他(南路から北や南に逸れて、南から北上する)があり、いずれにしても危険を伴う航路でした。そればかりか、異国に漂着して処刑されることもしばしばあったという。不思議なことに新羅(朝鮮半島)を陸路向かうことをしない。渤海という朝鮮半島の北の国を経由している。どうしても新羅に世話になるのが嫌だったのでしょう。渤海王は高句麗の末裔と称していて、日本は新羅との対抗上友好的な外交関係にあった。こんなわけで、藤原氏はライバルになりそうな有能な人物を遣唐使のメンバーに加え、海に沈めたともいわれている。
こんなわけで、894年廃止されるまで恐怖は続いた。
 遣唐使廃止にはこのような航海の恐怖と共に、唐の変質が挙げられます。それは政治的混乱と共に、廃仏に走り、民族主義に戻ってしまったことも大きいといわれます(当時の長安は国際都市で、世界中から人や物が集まり、唐自体が異民族国家であったが故に可能だった仏教中心の世界普遍の文化を誇っていたのです。それが、各地で反乱の手が上がり、政治を顧みない玄宗は、寵愛した楊貴妃と共に、没落し、唐は自国中心の偏狭な民族主義に堕していったのです)。死を賭して行くほどに学ぶべきものはもうないと。更にもうこの頃は遣唐使がわざわざ国から派遣されなくとも、僧侶や新羅・唐の商人たちによって、唐の情報や文物は入手できるようになっていたのです。遣唐使が派遣されなくなっても、民間での貿易や交流は、摂関や有力貴族の個人的な援助なども含めて、宋の時代になっても続きます。時代は、国に世話にならなくても、個々に勝手に動く、分裂の時代である中世に近づいていたのです。

注81)  葛洪(かっこう)著「抱朴子(ほうぼくし)」
神仙の道、仙人になるための方法を書いた書として知られるが、いかがわしい夢物語を書いたのではなく、儒者たちの言ばかりが採り沙汰される風潮の中で神仙道が唯一の自然科学であったことを、葛洪は研究者(只の人)として平明に人々に伝える目的で書いたとしている。
「〈微妙な道は理解しがたい。だから疑う人が多い。私は人並み以上の知恵は持ち合わせないが、ちょうど鶴が夜半の時刻を知り、燕が巳の日を知るように、あることだけを知っている。だから全体もわかるのだ(巻5)〉。特殊な生物が特殊な能力を持つということは(超能力ではなく)、どんな生物も必要な知識と能力を持っているものだということを説明しているに過ぎない(*)」。人間も、人間に与えられた能力を極めることで「既に」全体を知っていることになるのだということですね。どうですか。空海もそうですが、既にこの時代に「部分を語ることが全体を語ることだ」ということを知っていた人間がいたことだけでも驚きですね。
(*)松岡正剛「遊学」T中公文庫P46

注82) 脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)
 土や石膏で原型をつくり、その上に麻布を数枚漆で塗り重ね、乾燥したのち、中の原型を抜く方法。奈良興福寺の十大弟子像や阿修羅像など天平時代の仏像に多い。脱乾漆。夾紵きようちよ。芯のない脱活乾漆なので、収縮して静かな内省的な像となる。従来の塑像(心木と荒縄で巻いた銅の針金を芯とし、粘土で造る技法は中国伝来のもので、特徴は湿度の影響を受け、干割れがおきたり彩色がはげたりしやすい反面、きめ細かに仕上げられる。日光・月光菩薩像などが代表的)と比べ、漆が乾燥というより、固められて干割れしにくく、ヴォリュームが出やすい。

参考) 乾漆棺・・・漆(うるし)塗りの棺で、飛鳥(あすか)時代の古墳に用いられた。木棺を漆塗りにした木芯(もくしん)乾漆棺と、布を漆で固めた脱活(だっかつ)乾漆の夾紵(きょうちょ)棺がある。木芯乾漆の場合は、やがて木芯の上に塗った乾漆をとってしまって木材そのもの、一本彫りの仏像が出てくる。これが密教仏像になります(高雄・神護寺の薬師如来など)。力感と生命観にあふれた木像(*)です。
(*)丸谷才一・山崎正和「日本史を読む」中公文庫p34


2016年12月09日
第2回歴史第3部中世12【日本古代・万葉集】
〈万葉集〉
 日本在来の文学であり、天皇から庶民に至るまで広く詠まれた和歌を収録した歌集(アンソロジー)である「万葉集」もこの頃(8世紀後半)に編纂されました。新しい試みがなされました。万葉仮名を使い、漢字を音訓両読みしたのです。いよいよ新しい文字へのスタートを切ったのです。
唯、古事記のところでも述べたように、万葉仮名は漢字だけで書かれており、現在私たちが読んでいるような漢字仮名交じりの和歌として再生させるには、何世紀にもわたる先人たちによる血のにじむような解読の歴史が必要でした。平安以来の学者たちもそうですが、江戸時代の古典学者・契沖、国学者・真淵、宣長らの努力に負うところが大きいのです。

当初は、斉明天皇や額田王など王族の歌が多く、呪術性・集団性・自然との融和性が目立つが、柿本人麻呂のころから枕詞や対句を駆使されて和歌の表記法も確立し、天皇制や律令国家の創設期である時代の空気を高らかに歌い上げた。
小野老(おゆ)の大宰府における望郷歌

「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(巻三・328)」はそこをよく見せてくれる。

人麻呂の名は、一人でなく集団を意味する言葉ともいわれるが、謎のままです。
彼の歌は、言霊の原理を熟知し、「代作」という方法から歌枕などを駆使して、古代日本が深い闇の中に抱える魂の世界を、皇族たち(持統天皇)に成り代わって、言葉(日本語)にして、すくい上げて見せた。皇族の気持ちを代弁したから体制側の人間(舎人・とねり=下級官人で天皇や皇族に近侍し護衛を任とした)であり、それだから駄目だなどという素朴でナンセンスなことは言いません。
この世に生きること事体が体制なのです。体制が無ければ、反体制など気取れません。

建築が芸術の母であるように、体制は言葉(文学)の母なのです。人麻呂はこの体制にあって、自らの個を殺し、集団の中に自らのエネルギーを埋没させながら、天皇を始めとした皇族の威厳や悲運を言葉に乗せて解き放ったのです。それは彼(彼等・人麻呂集団)自身の個人的な想いを越えて、更には皇族たちの思いをも越えた、日本人の普遍に届いたのでした。その普遍こそ、モラルの支配する現実から離脱した、格調の高さであり風雅です。

それは「様式(77)」
というものでした。彼は芸術家の(様式の喪失による)「孤独」など知りません。「様式」が支えてくれているからです。彼らは、ヨーロッパ中世のところでお話ししたように、アルティスト(芸術家)ではなくアルティザン (職人)という意識で共同体の為に生きたのです。
常に聴者(読者は未だ存在しません)と共にあるのです。
そういう縛りが強ければ強いほど、どこにも個性など出る幕のない、伝統や型(フォルム)に縛られれば、縛られるほど、抑えても抑えきれない昇華された「もの」が、自身の個性的な感情や思想などよりも、もっと大きな「様式」という舟に委ねられて、にじみ出てくるものなのです。様式はどんな天才といえども作り出すことなどできないし、消えてしまったら元に戻すことはできない。それは時代の無意識であり「うねり」だからです。後の能にもこの伝統や型(フォルム)の縛りと、そこから浮かび上がった様式は色濃く残存していますね。顔を隠す面こそが、「おもて」となるのです。であれば「うら」とは一体何でしょうか。
私たちが表だと、思い込んでいるものでしょうか。

「東(ひむがしの)の野に炎(かぎろい)の立つ見えて かへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ」(巻1・48)
(安騎野の東方の野の果てに曙光がさし染める(かぎろいは、陽炎ではなく、明け方東方にさす光)。振り返れば西の空に低く下弦の月が見える)

この場所でこの方向に曙光(しょこう)が輝き始め、ちょうど反対の西に月が傾く光景が成立するのは、西暦692年12月31日の午前5時50分頃だそうです。持統天皇の6年に当たり、軽皇子(かるのみこ)に付き添った人麻呂一行が、安騎野での旅宿りの朝、目の当たりにした光景です。安騎野という場所は、古代社会では多くの外来魂と触れ合うことのできる結界だったようで、当然ある目的があってそこに行ったわけです。持統天皇は天武天皇の妃であり、その死後皇位を継いだのだが、子の草壁皇子が画策の末ようやく皇位継承権を得たものの、天武の死後すぐに病死してしまい、孫の軽皇子(文武天皇)に継承させたいと願って安騎野での冬狩りが計画されたとみられます。これは漢字学者・白川静さんの見立てで、万葉的世界で最も雄大で難解といわれてきたこの「安騎野の冬猟歌」は、単に自然の美しさを詠んだ叙景歌、誰かが亡くなった孤独な挽歌だけではなく、軽皇子を皇太子として立たせるための、大嘗会(古代天皇の天皇霊の授受を行う行為)に見立てた呪術的行為だといいます。しかもこの前後は冬至に当たり、翌日から日が長くなる復活の日に当たります。冬至と王権交替は、世界中で繰り返された儀式です。この儀式は「朔旦(さくたん)冬至説」から来ていて、朔日(太陰暦で新月の日=旧暦11月一日)と冬至が重なるのは19年7か月周期といわれます(新月はまた、これから満月に向かう月の復活でもあり二重にめでたい)。持統天皇が始めたといわれます。伊勢神宮の20年遷宮もここから来ているでしょう。
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下弦の月と「かげろひ」

やがて律令体制が整い、藤原一族、道鏡などの僧侶、長屋王らとの権力闘争が暗い影を落とし、追い落とされた皇族や大伴、佐伯などの旧豪族は政治の表舞台から姿を消し、摂関独裁へ傾く中、大仏造営に取り掛かる藤原仲麻呂と反対勢力との暗闘は、古代天皇制の専制の危機と仏教の権威でそれを回避しようとの体制の崩壊を暗示するものだった。公地公民制に代わる荘園制、藤原氏の摂関制度など新たな権力が育ち、他の勢力は一掃された。
こうした時代を背景とした万葉は、大伴・物部氏などの敗者を祀る「鎮魂歌集」としての姿も垣間見せます。保田與重郎が万葉集を、敗者の美学とみるのもそこにあります。
勝者は高級クラブで漢詩を書き、記紀に詩歌を載せる。敗者は時の権力者藤原一門の歌は載せずに、赤ちょうちんで万葉に和歌を載せる。壬申の乱で天武系が天下を取った後、久しぶりに復権した天智系(?)の光仁天皇の時に完成した万葉集だからこそ、(天武に敗れた)敗者に対する挽歌として万葉集は編纂されたという一面があるのは確かだと思います。

人麻呂と同世代でありながら、長生きした憶良や旅人は、藤原四家の権力の下、名門大伴氏の衰退を感じて、詩を個人的信念表白の場としてしまい、人麻呂の神話的世界観とは異にするものになった。家持に至って、名家没落の意識はこころの多くを占め、「貧窮問答歌」など、名を立てられなかった不満感がみられ、共同社会から離された孤独意識の強い近代人的悲哀が窺われます。
「悠々(うらうら)に照れる春日に雲雀あがり、心かなしも。独りし思えば」巻19・4292

「春の野に霞たなびきうらがなし。この夕光(かげ)に 鶯鳴くも」巻19・4290

とはいえ、万葉集が決して、当時の庶民の生活を詠ったものではないことも、心にとどめておくことは大事なことでしょう。平城京にしても斑鳩の郷にしても、平安京にしても、瓦屋根の建物・椅子に座っての執務など当時のハイテクの極みであり、周りは良くて檜皮葺(ひわだぶき)、地方に行けば竪穴式住居に住む人もいたのですから。万葉は防人歌、東国歌などを除いて、ようやく都会に生まれつつあった文化を詠った歌でもありました。

それでも万葉集は、「呪能が芸能に、呪詞が文芸に、集団のパフォーマンスが次第に個人のパフォーマンスとして成立(78)」する過程を、あたかも古代から近代の成立までの日本の詩歌の歴史を、150年間に亘ってデパートのように雑多に拡げてくれた玉成混淆の歌集なのです。「この一世紀半の間に、詩は神々の時代の蒙昧から抜け出して、近代の孤独の詩にまで到達する。僅か一冊の歌集でありながら、古代から近代にいたる詩的体験が圧縮されている(79)」のです。それは「日本の小説が、後の「源氏物語」の内部において、もっとも素朴なものから発展して最後に、最も近代的な「宇治十帖」の世界に到達した(80)」のと呼応しています。古代の中に近代が同居することもある訳です。


注77) 様式(スタイル)
語源的には、尖筆(とがった筆の先)の意味で、転じて文体の意味となった(ビュッフォン・「文は人なり」)。ゲーテはこの概念を芸術の主観的・理念的契機、客観的・素材的契機との調和的協同を示す最高の美的価値概念としたが、現代では芸術的形成の類型的規定性を示す概念として美学・芸術学上の重要な述語となっている。以下の諸条件によって様式区分される。@作品の素材、技巧、使用目的などA作家の個性、素質、世界観などB時代、民族、地方、流派、世代など集団的全体精神の傾向や精神的雰囲気(バロック様式、フランドル様式など)C芸術のジャンルの根本方向(音楽的、宗教画的、抒情的など)D芸術的形成の本質的可能性に基づく大局的方向(視覚的と聴覚的、アポロン的とディオニソス的、素朴的と情感的など)。
ここでは、古代ですからB〜Dを想定していただければいいと思います。
難しいですが、私などはぶっちゃけ、様式とは、卑近なところでは、作品を作ってみてもらうためには、時間内に収めなければならないとか、視聴率を上げなきゃならないとか、自営業でも、厳しい環境だったら、食べていくためには、休んだり、遊んだり出来ないという、しょうもない条件、けれども、それを守らなきゃ現実と繋がらない大事な縛りを、敵としないで、自分と一体化する生き方にも現れるものだと気楽に考えています。
また、一度味わってしまったら自分を売り渡してしまう「元気先取り」の覚せい剤や、一度知ってしまったらそこから抜け出られなくなる「自由、平等、愛」や「規律、支配、憎悪」などの固定観念にどっぷりつかり、それと戦い、もがく姿も、時代の様式を生むのかもしれません。時代の人格とでもいうものでしょうか。

注78) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P78

注79) 山本健吉「古典と現代文学」新潮文庫1960年10月P49
注80) 同P110

2016年12月02日
第2回歴史第3部中世11【日本古代・藤原一族の盛衰】
〈藤原一族の血のマネジメント〉

【黎明期】 
中臣(神の言葉を管理する神官一族)から藤原(治水技術を持つ一族)に姓の変更(73)をした藤原鎌足はいよいよ政治的に力をつけていった。藤原氏は律令国家の建設に、大きな役割を果たし、律令(74)制の下での官僚貴族としての道を早くから歩んでおり、大伴氏などの様な律令制以前からの古い職務に固執した他の氏族は、陰謀に巻き込まれたりもして、没落していった。律令制の浸透と共に、時代は以前からの天皇に対する貴族の伝統的な奉仕関係から、天皇の権力の強い、天皇との個人的な結びつきで地位が左右されるように変化し、文人としての教養・官吏としての政務能力・天皇父方の身内・母方の身内などが重用された。こうした中で母方の身内・外戚の藤原氏が勝ち残った。
鎌足の子・不比等は、娘を文武天皇の皇后にして姻戚関係をつくり左大臣にまで上りつめた。その権力は息子たち4兄弟(南家、北家、式家、京家)に引き継がれ、不比等の死(720年)後、四氏は光明子を聖武天皇の后にするため、それに反対していた天武天皇の孫で皇位継承者の長屋王をも自害に追い込み(729年)、実権を握ったが、737年4兄弟とも流行の天然痘であっけなく死亡し、藤原氏は、暫くは政治の表舞台から退けられます。当時は同じ川を飲料と排泄物処理の両方に使っていたことが流行の原因とされています。
その後四兄弟の子は、式家・宇合の子である広嗣は地方豪族と結託し広嗣の乱を起こすが敗れ、南家・武智麻呂の子である仲麻呂(恵美押勝)は、忌部氏、高橋氏、大伴氏、紀一族を追い落とし、天皇をも凌ぐ実権を握るが(757年)、道鏡を寵愛した孝謙天皇(女帝)と対立し最後にはクーデター(恵美押勝の乱)を起こし敗北する。そのあと、一度退位し、称徳天皇として再び皇位に就いた彼女は、道鏡を法皇にまで昇らせ、道鏡も皇位に就こうと画策する(宇佐八幡神託事件)も、称徳の弟・和気清麻呂や式家・藤原百川らに野望を阻止され、天皇の死後、道鏡は追放される。
光明子は光明皇后として聖武天皇との間に孝謙(称徳)を生み、彼女は女性天皇として生涯独身を通したのですが、ここで天武・聖武系の血統は絶えたのです。

 次の天皇を選ぶにあたり会議が開かれ、左大臣藤原永手(北家)、参議の藤原良継(式家)等の推す、天智天皇の孫白壁王(公仁天皇)が選ばれ、一見、天武系から天智系への転換とみられたが、どっこい公仁天皇は自身が天智系であることをアピールしたものの、その実聖武天皇の子である井上内親王(聖武天皇の子)を皇后として、二人の間に生まれた他部親王(おさべしんのう)を時期天皇にして、天武(聖武)系の復活をもくろんでいた。
左大臣・藤原永手(北家)が亡くなるとすぐに、井上皇后が公仁天皇を呪詛したとの罪で追放され、その子の他部親王(おさべしんのう=公仁天皇が次期天皇に押そうとしていた)も廃太子とされ公仁天皇の目論見も消された。式家の藤原良継(宿奈麻呂)や百川の陰謀と言われる。そこで本来家柄的に氏族出身の母を持ち、皇太子になれない山部親王(桓武天皇)に皇太子の座が転がり込んできた。母の高野新笠は百済系渡来人の娘(公仁天皇の夫人ではあったが)だった。
桓武は、式家の良継に恩義を感じていたようだが、南家の藤原吉子との子であり、豪放な性格の伊予親王をかわいがった。又南家を優遇した。未だ桓武に対する反発も強く、自身の出自を正当付けようと、長岡京(山背の国であり、母方の渡来系氏族ゆかりの地)遷都を始めとし、様々な変革を印象付けようと動いた。桓武が絶大の信頼を寄せていて、長岡京造営に当たっていた藤原種継も式家の人間だが、又母が新羅系の渡来人秦氏(古くから土木技術に優れていた)の出身でもあり親近感を抱いていた。その種継が暗殺された。桓武は怒りと共に、保守的で遷都や政策に反した考えを持っていた、大化から続く氏族や皇太子の早良親王にまで咎を追わせて葬った。しかし長岡京の立地が悪く水害や丘陵の段差などで工事は難航し、合わせて早良親王の怨霊への畏れから、再度、同じ山背の国である平安京への遷都が行われた。ところが桓武の可愛がったことがあだとなり、式家の藤原仲成の陰謀にあって伊予親王は母と共に幽閉され自殺した。この事件をきっかけに南家は没落する。
桓武の死後、即位した平城天皇は、式家の藤原良継の娘・乙牟濾(おとむろ)の子であり、神経質な男で、父の死に際しては一人で立つこともできず、幼少のころの早良皇子に続いて、吉子・伊予親王の霊にも悩まされ、すぐに譲位して上皇となった。弟である嵯峨天皇に即位させておきながら、平城上皇は、寵愛していた式家の藤原薬子(くすこ)と共に、平城京への遷都と天皇復位(「二所朝廷))を企むが、天皇側の迅速な対応で、上皇は出家、仲成は射殺、薬子は自殺し、ここに、桓武に重用され長岡京で暗殺された藤原種継以来の式家も没落し、嵯峨天皇に近づき、即位後、初代蔵人頭に就任し、後の繁栄の基礎を作った藤原冬嗣を始めとした北家の台頭を許す結果となった。
 このような事件が起きる政治的システム上の欠陥は、当時の儒教的家父長的権威に原因があった。奈良時代までの王権は、天皇だけに権力が集中するのではなく、上皇や皇后もそれぞれ政治権力を分け合っていた。それが、皇后については時代末からそれまで宮城外に独立していた皇后宮も内裏の内に取り込まれ、唐風文化の広まる中儒教的男尊女卑の風潮に押し込まれ、徐々にその地位は低下していったのですが、上皇については依然として太上天皇(上皇)として家父長としての影響力を持っていた(ただ皇后は内裏に留まり、天皇と共に住んだが故の「母后」としての人事や政治に対する影響力は、女帝になるほどのものではなくとも、依然保持していた)。

【北家台頭・摂関政治開始期】
 9世紀になり、北家の冬嗣は、有能な官吏として嵯峨天皇の信認を得て左大臣まで出世し、娘の順子を仁明天皇の妃とし、道泰親王を生んでいた。冬嗣の子・良房は、その前に既に、仁明が皇太子に立てていて、前帝・淳和天皇の子である恒貞親王を謀反の疑いで廃し(承和の変)、妹順子の子道康親王(文徳天皇)を皇太子とした。
(薬子の変の反省から、実の兄との争いを避けたいとの嵯峨天皇の思いが込められた配慮で、実の子正良親王(仁明天皇)が生まれても、最初に決めていた弟の淳和(天皇)に皇位を譲っていたし、淳和も即位後すぐに嵯峨の子正良親王を皇太子として、淳和が譲位すると、即位して仁明天皇となった。彼も淳和の希望を尊重し恒貞親王を皇太子に立てた。この互いの甥を交替で皇太子=天皇とするというやり方が混乱を招いたわけです。というより他から付け入るスキを与えた。そこに割って入ったのが、良房でした)
この後皇位は、父子相続へ変化する。

 こうして良房は、天皇家以外で初の摂政となり、橘氏、伴氏(応天門放火の犯人とされる)など文人・有能官吏タイプの人間を次々に追い落とし、次の基経とともに、北家の外戚としての地位を強固なものとしていった。宇多天皇の強い意向で右大臣となった菅原道真も、良房の孫の時平に失脚のシナリオを実行に移され、大宰府に左遷された(901年)。時平は39歳の若さで死去し、道真の祟りと噂された(時平は左大臣止まりでその生涯を閉じた)。

【延喜・天暦の治】
 その頃からの後醍醐、村上天皇までの時代の60年余りは、摂関を重用せず、天皇親政の時代として延喜・天暦の治と呼ばれ、最初の荘園整理令や古今和歌集の編集、延喜式の完成など気を吐いたが、現実には律令体制の根幹が揺らいで解体に瀕していた時代だった。承平・天慶年間(931〜947年)に、東からは平将門、西からは藤原純友と、関東の独立や瀬戸内の覇を宣言した。各地から国家への反乱が起こっていたのです。しかし、彼らは落ちぶれた軍事貴族で、地の武士集団は専門的な武士団と呼べる内容ではなく、主従関係も緩く、普段は農業に従事する兵に過ぎず、あえなく中央や大宰府から派遣された武士団に鎮圧されました。
この間も、藤原氏は時平、忠平と政治の中心からは離れず、捲土重来を期していた。

【幼帝の誕生と摂関政治の確立】
 藤原摂関家の最盛期は、藤原北家内の権力闘争を勝ち抜いた道長が築き上げました。兄弟が病死したり、娘に恵まれるという運も手伝って、権力の中枢に入った道長は、藤原家得意の娘を天皇家へ輿入れさせ(子が生まれなくとも、抜け目のない藤原氏は、敵側にも布石は忘れず、何段階にも次の手を打っておく周到さを持ち合わせていた)、生まれた子は妻の父が養育するという貴族社会の慣行を利用し、権勢を確実なものとしていった。

 まず、忠平の孫の伊尹(これまさ)・兼家は、奇行のあった冷泉天皇の皇太子(次期天皇)を決めるにあたり順当な弟の為平親王が決まれば(醍醐天皇の子である源高明の娘婿であるため)、源高明が外戚になる恐れがあり、これを退けたい思いから為平謀反の陰謀を巡らせ源高明を左遷させ(安和の変)た。そして冷泉の弟であり村上天皇と藤原安子(伊尹・兼家の妹)
との子である守平親王(円融天皇)を皇太子に立てた。
天皇の血を引く賜姓(しせい)源氏が、強かで権謀術数の藤原氏の執念に敗れた瞬間でした。未だ政治の実権を握るには叔父の関白実頼がいたものの、970年実頼が没するや伊尹は摂政、翌年には太政大臣となり、以降、外戚の摂政の控室(直廬)は内裏に置かれることになり天皇に一歩近づいた。

 円融天皇が元服すると伊尹は没し、弟の兼通が関白にまで上りつめ、このとき円融は藤原摂関家の後押しが政権運営には必須と感じ、元服後も関白を廃さず、以後摂政・関白は常置となった(兼通を関白に推したのは、円融天皇の母后であった、兼通の妹・中宮安子でした)。
その後兼通は病気で関白の職を辞したが、仲の悪い弟兼家(道長の父)を差し置いて、従兄弟の頼忠(実頼の子)に関白を譲った。兼家は娘の詮子(あきこ)が円融天皇の子・懐仁(やすひと)親王を生んだにもかかわらず、円融が詮子を差し置いて頼忠の娘遵子(じゅんし)を中宮としたことに危機感を感じていた(兼家は、娘の超子(とおこ)を冷泉天皇に、詮子(あきこ)を円融天皇の方に入れてチャッカリ両天秤を賭けていたが、結局、超子が早く死んだため、詮子の産んだ一条天皇が皇位につくことになります)。
984年円融が譲位し、冷泉天皇と藤原伊尹の娘・懐子(かいし)の子である師貞親王(花山天皇)を即位させると、懐仁親王は皇太子にはついたものの、その危機は強まった。兼家は外孫である皇太子を早く皇位に就けるため、花山天皇寵愛の女御が身籠ったまま没したことを口実に、天皇を出家に追いやり、7歳という若さであるにもかかわらず懐仁親王(一条天皇)を即位させる。頼忠は関白を辞し、兼家は右大臣でありながら念願の摂政となった。その後摂政の地位を太政官から独立した地位とし、権勢を振るい、息子たちの官位を上げていった。兼家は一条天皇が元服したので関白となり、その後間もなく出家し、長男の道隆を関白とすることで、摂関の地位の世襲化を図った。
 999年一条天皇が元服した機に、道隆の娘・定子(ていし)が入内し女御となった。
兼家は病没し、その年10月には中宮遵子は(円融天皇の)皇后となり、女御定子が(一条天皇の)中宮(75)となった(中宮定子には、「枕草子」を書いた清少納言が仕えていた)。定子はその後一条天皇の皇后となっていたが男子を生むことなく他界した。
995年道隆が病気となり、異例のスピード出世をしていた息子・伊周(これちか)に関白を譲ろうとしたが、一条天皇は許さず、道隆の弟・道兼に関白の詔を下した。ところが、この道兼、更には道隆、左大臣源重信など重要な臣下が次々と大流行の「はしか」にかかり死んでいった。残されたのは一条皇后定子の兄・伊周と、道兼の弟・道長のライバル二人だった。
結局、道長に内覧の宣旨が下った。道長を高くかっていた一条天皇の母后・東三条院詮子の強い推薦によるものだった。憤懣やるかたない伊周は、女出入りの誤解から、女好きの花山法皇に脅しで矢を射かけるという勇み足をして、戦いの場から退いていく。皇后定子は、伊周が失脚すると髪を切り出家した。それでも一条天皇の寵愛は途切れなかったという。

 この事件後道長は左大臣にも任命され、名実ともに頂点に立つ。道長は娘の彰子(あきこ)を入内させ、翌年には一条天皇の中宮とし(定子は皇后とされた)万全の体制をとった。
長女・彰子の家庭教師が、道長の愛人でもあった紫式部だった。その子の頼通迄30年にわたり栄華を極めた。頼通の娘に息子が生まれなかったことから、外戚関係のない後三条天皇の即位と共に藤原氏の力は衰えていきます。ここに天皇一族は、200年にわたる、藤原一族に支配される摂関政治から解放され、院政という変則な形ながら、藤原氏から政治を取り戻します。
とはいえ、摂関・内覧(76)政治は単に藤原氏の権力への野望だけから発したものではなく、天皇の側から命じたものであり、奈良から続く、律令国家の政治的中心であった太政官(公卿たち)の機能をそぎ、彼らを政治の決定過程から外していくのに、更には奈良時代にあっては、王権を分有していた皇后や、儒教的家父長的権威を振りかざした太上天皇(上皇)などの地位も低下させ、天皇が唯一の大権掌握者となるために、寧ろ天皇側から必要とされた制度であったことに変わりはないのです。又、上皇のいない時代の幼帝(清和天皇)の後見人の必要性が、清和天皇の外祖父に当たる藤原良房を摂政に任命させたのが摂関政治の本格的な始まりだったのです。
それは、文徳の早すぎる死という偶然もあるが、良房以降の政権基盤の盤石化故だった。もはや天皇個人の能力や資質は問題でなく、血筋さえ引いていれば可能という時代になっていった。このことは更に幼帝でやっていければ、女帝の出番はなくなるということでもあった。称徳以来、近世まで女帝は出ていない。

【道長の「この世」】
 道長は僅か1年で摂政の地位を息子の頼通に譲り、「大殿(おおとの)」として役職は保持せず、周囲の人間を操り、実権を握っていった。さらに、「奏事」と言って、今までの「官奏」の様な公卿を含む太政官が間に立った政務を排除して、摂関・内覧だけで実行してしまう改革を行ったり、東寺・西寺以外に寺を京内に建てられない原則を意識しつつ、平安京の外側の東京極大路と鴨川の間に法成寺を造営し阿弥陀堂も建てたりもした。
 本来の朱雀大路に対して、左京が中心となった中での中心的な東朱雀大路を北へ上る地点に法成寺が建てられていた。法成寺は池を中心とした寝殿造形式で、御所的な性格を備えていた。道長は外孫の後一条天皇が即位した後には、儀式の際公卿の列に加わらず、娘彰子と共に御簾(みす)の中にいる。道長は拝礼を受ける側に回ったわけです。
 娘威子(けんし)が、後一条天皇の中宮に昇る儀式を済ませ、中宮からは道長以下参列者に禄を賜った。祝いの二次会の席で、上機嫌の道長は、「親が子どもから禄をもらうというのはあるだろうか」と顔をほころばせた。そして和歌を詠もうと思うとして、

「この世をば我が世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思えば」
を口ずさむ。「得意そうな歌だが」と謙遜を楽しむ余裕だった。
道長の「我が世」とは、天皇(王権)に限りなく近づいた世(頂点)を指したのです。

そこからの下り坂は、既に道長の胸の内にも、取り巻きの胸の内にも巣食っていて、「我が世」と発した瞬間から、はっきりとした「台風の目」をもって動き出していたことでしょう。その不安は、あの、世界を「我が世」とした道長をさえ、自ら造営した法成寺の阿弥陀堂で、金色に輝く9体の阿弥陀如来像の手から伸びた蓮の組糸にすがりながら息を引き取らせたのです。

藤原氏は、この後武家である源平両氏の台頭も加わり後退を余儀なくされ、鎌倉前期には「近衛」「九条」「鷹司(たかつかさ)」「一条」「二条」の5家に分裂しますが、歴史の外には締め出されたとはいえ、常に公家社会の中においては、最高の家格を誇り、交互に摂政・関白を輩出し幕末期に至りました。



注73) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎2014年10月P68

注74) 律令
律は刑罰法、令は国家の統治組織や官人の服務規程、人民の租税・労役などを定めた行政法のこと。未だ馴染んでいない為の教令法といわれる。この為律は唐の制度を引き写した程度で、令の方に重点が置かれ、国情に合うように修正を加えたりした

注75) 中宮
平安中期以降、複数の皇后が並立するようになると、先に建てられた皇后に対し、新立の皇后には、中宮職が設置された。本来、中宮は皇后の別称だったが、このとき初めて別の地位となった。

注76) 摂政・関白・内覧・令外官 
・摂政・・
幼い天皇に代わって「政を摂る」、天皇を補佐し政務を行うことで、神事や元日朝賀などの重要な儀礼をおこなうことはできなかった。総覧者としての地位ではなかった。
・関白・・
政務に「関(あず)かり白(もう)す」の意味で、成人した天皇に代わって、政務を取り仕切る職能ではあるが、天皇の代行ではなく臣下として、天皇側に立って補佐する役割。陽成天皇のように成人しても素行に問題あり、退位させられた後の光孝天皇も、即位に力を貸した基経に恩義を感じ、関白の役職を与えたのがきっかけとなっている。関白に同じ職能で総覧者ではない。
・内覧・・・
天皇に奏上、天皇から下される文書を事前に内見すること又は行なう者。関白に準じた職務。平安中期以降に使用された。

・令外官(りょうげのかん)  
官僚制の外にあって、天皇との間に特別な役割を持つ官職。現代でいえば、ラインから外れた、社長直轄のスタッフ。監査や各種プロジェクトや経理・総務など。
藤原京時の中納言(天皇に近接し奏上・宣下を司る)、平城京時の参議(中納言に次ぐ公卿)、内大臣(左右大臣に次ぐ重職)、平安京に入っての征夷大将軍(蝦夷征討軍を率いる臨時最高指揮官)、勘解由使(国司交代時の不正防止の為の引継ぎ文書の審査)、蔵人頭(上皇に対し、天皇の機密を守る蔵人所の長)、検非違使(犯罪謙虚・訴訟・裁判も扱う)、関白(天皇の政務上の補佐、天皇の前に奏上を内覧する)などが該当する。


2016年12月01日
第2回 歴史第3部 中世10【日本古代〈日本書紀(漢文)と古事記(万葉仮名〉】
〈日本書紀(漢文)と古事記(万葉仮名)〉

 712年にできた「古事記」は天武天皇が古くから宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」を基に稗田阿礼に暗記させ、これを太安万侶に文章化させたもので、口頭で行われていた日本語の伝承を音や訓を用いて漢字で表記した苦心作で、天地創造から推古天皇に至る神話を3巻にまとめたもの。漢字を強引にとはいえ音読みして、日本語に文章化した功績は大きい。後に江戸時代、本居宣長は「古事記伝」を表し、「古事記」の漢字の中に封じ込まれている、そして後の「源氏物語」に脈々と繋がっていく「もののあはれ」のわかる「やまとごころ」というものの源泉を34年かけて解明して見せた。大変な労作でした。彼は稗田阿礼が発音したであろう例えば「あめつち」が、何で「天地」に置き換えられたのか。わが国のアメとは単なる漢字の天(テン)ではない。天上界を指すとして、万葉など過去の膨大な資料を引いてその本来の意味するところを探っていく。「成る」は、無かったところに生まれ出ること、変身すること、為し終わったことへと、別々の意味に分離させるのではなく、3つが合わさった分離以前の意味だった(68)として、何かの制約に捻じ曲げられる前の本来に立ち返った意味を追求します。
こうして「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は・・(あめつちのはじめのとき、たかまのはらになりませるかみのなわ・・)」から始まる一字一句を、漢字に表記する(翻訳する)ときの隙間から零れ落ちる日本語の感性を、漢字という儒教的にオブラートされた固定観念から、抜け落ちた古代の闇からすくい上げるという推理を34年もかけてやり遂げたのです。

何という執念でしょう。このおかげで、日本の魂は忘れ去られることなく、生き残ったのです。
それにしても、日本語で音読みしたとはいえ、漢字だけから構成されていた万葉仮名から、「てにをは」をつけ、更に漢字の形を崩して、仮名を発明したのは誰だろう。平安時代の初め頃といわれるから弘法大師(空海)や、真言密教僧たちによる「いろは歌(69)」も貢献しているだろうが、「いろは歌」に遡って平安初期に、「あめつち」という、作者不詳の仮名一覧表も残されている。写本した宮廷の女房たちのくずし字から生まれた可能性も十分考えられます。詮索はこのぐらいにして、このアルファベットの発明に比しても劣らない大発明は、「生活程度の低い日本において、教育が比較的下層階級にまで普及することができたのは、仮名の功徳による点が多いのです。日本ではその後も遂に中国のような士大夫(70)階級を発生させないで済んだのは、ここにその一原因が求められる(71)」と言われるように本当に大きな発明でした。

 国や宗教の戦いは、言語や文字の戦いでもあったのです。勧善懲悪と道徳臭の強い儒教とではなく、普遍的な仏教と共に漢字が入ってきたことはまだ幸いだった。それでも、漢字の持つ男性的で儒教的な心意気に、或いは仏教の持つ哲学的な悟りの感覚に、古来日本の持つ、「もののあわれ」という感覚が潰されそうになった。日本がもし、そのまま漢字だけの世界に代わっていったとしたら、今日の日本はなかったでしょう。中国のものまねに終始していた古代にあって、ようやく日本というこころを救うキッカケとなった古事記、その解明の後に掴んだ確信、「やまとごころ」というものを、「もののあはれ」のことであると喝破し、それを「勇ましさ」なんかではなく、何と「〈めめしさ〉を価値として、〈ををしさ〉を反価値とする主張(72)」
の中に発見し、ためらいなくそれを示した宣長に敬意を表したいものです。守るものは「女々しさ」の中にこそ、無私に、ひっそりと隠れているのです。この守るものを知らずして何が勇ましさでしょう。そんなの唯の権力志向でしょう。これは失礼ですが、家族止まりの儒教的中国人にはわからないでしょう。わかるヒトもいるでしょうが、発見されているものは、陶淵明、杜甫、李白、司馬遷、白居易、蘇東坡などまだしも幸運に生き延びた僅かであり、たいていは、戦乱に紛れて日本に亡命したり、非業の最後を遂げるかだった。何も恋愛だけが「もののあわれ」の発露ではありませんが、それでも「人の情(こころ)ふかくかかること、恋にまさるはなければ成(宣長)」であって、「もののあわれ」を知る資料として源氏に代表される恋愛文学は人類にとって欠かせない文化として引き合いに出されるだけです。しかし中国では恋愛文化は下賤として、下位に置かれたのです。単に好色だけではない「ものにも事にもこころ動かされる気持ち」の機微などというものは、とても理解できないでしょう。

しかも日本の好色とは「男女の情も、ひとえに逢いみるものをば言うものかは。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとりあかし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ(徒然草・第137段)」なのです。
これが判らないのは、それは必要以上に好色であることの裏返しなのです。これ以上書くと怒られますので、やめておきます。

 唯、これだけは承知しておいていただきたいことがあります。このような考えは、自分の国の美しさが世界で一番なんだという驕りを持ちやすいということです。そうではありませんのでそこは、相対化しておいていただきたい。前回、日本が「爽快なニヒリズム」を持った国であり、外国から略奪や本格的な侵略を受けたことが無いゆえに、このように素晴らしい文化やこころを育むことができたことを、書きましたが、それは反面では、それだけ世界から相手にされなかったことでもあるのです。いわゆる「島国根性」とはそのことで、誤解を恐れずに言えば、それ故日本人全員が、ある種「自閉症」でもあるということでもあるのです。ですから、ここを克服できなければ、岸田秀さんが言われたように、外国からの侵略に対し、内的自己を優先し、現実的な適応を無視し、退行し、小児的・誇大妄想的になっていった吉田松陰止まりになってしまいますよということです。そこを自覚したうえで、本当に日本のこころを守る術を臨機応変に考えていかなければならないのです。

一方日本書紀はといえば、天皇中心の歴史を、中国の編年体を真似て漢文で書かれている。物真似ではあっても、漢文しか文字はなかったし、その点で日本より優れていたのは事実だからしょうがない。一生懸命真似から入るのも重要なことです。誰だって、学ぶは真似るがスタートですから。甲骨文字だって最初は、自然界のコトやモノのまねから入った筈です(自己表現ではなく、現実入手だったはずです)。そこからモノの気配を捉え、これを徐々に組み合わせで、内面の表現に向かっていったはずです。実はこれは日本独自というものではなく、人類共通の「始まり方」なんです。古代の日本人たちは、そこまで遡って無我夢中で、漢字的表現の陰で、忘れ去ろうとしていた日本を守ろうとしたわけです。

これ以降日本は常に、一方にグローバル(世界標準)として漢風を置き、片方に(何とか文字化にこぎつけた)和風を併記しながら、中国を否定しすぎず、且つ中国からの離脱を、独立を目指していきます。国の正史としての国外向けで漢文の日本書紀と、天皇家のルーツを残す国内向けの倭語の古事記を併存させたように。
室町時代にようやく和風が完成するまで。政治的には、江戸時代にようやく中国離れができるようになるまで。常に両者の「間(あいだ・ま)」にこころを砕いてきたのです。
ダブルスタンダードですね。


注68) 松岡正剛「日本という方法」NHKブックス2006年9月P207

注69) いろは歌
作者は不明ですが、真言密教僧の中で長期間かけて練られ、「涅槃経」の「諸行無常・是生滅法・生滅滅已(しょうめつめつい)・寂滅為楽(じゃくめついらく)」を参照したとも推測されています。9世紀初めの「あめつちの詞」の48文字から、「江」が抜けて47文字となっている。

色は匂へど散りぬるを(諸行無常)
(生きとし生けるものはいきいきと生まれてはまた、無かったかのように消えていくが)

我が世誰そ常ならむ(是正滅法)
(世の中のモノは誰のものでもないけれど、例えば今ここには一杯のお茶がある。それはすぐになくなってしまうが、それだけでいい。)

有為の奥山今日越へて(生滅滅已)
(因果で生じた現象を実感した今だからこそ、接しているこの向こう側が見える)

浅き夢見じ酔いもせず(寂滅為楽)
(時などに囚われ、束の間の夢に向かうのでなく、覚めていてこそ、今ここに、永遠である本当の夢は見える)

注70) 士大夫(したいふ)
 儒家の古典的教養を身に着けた東アジアの政治的・社会的指導者で文人官僚を指す。君の臣であり、庶民に対しては支配者。時代によって異なるが、通じて社会の指導的役割を担った(角川・日本史辞典)。その一方で「三年清知府、十万雪花銀」という詞がある。3年地方官を勤めれば、賄賂などで10万両くらいは貯めることができることを意味する。また、科挙及第者を出した家は官戸と呼ばれるようになり、職役の免除や、罪を金で購うことができるといった数々の特権を持っていた。これらの点から、一族の子弟に学問を叩き込んで科挙官僚に押し上げることは、最も得する商売であったとも言える。この現象は「陞官発財」(官に陞(のぼ)れば、財を発する)とも言われた(ウイキペディア)

注71) 宮崎市定「アジア史」中公文庫1987年2月p416

注72) 吉川幸次郎「日本思想体系・本居宣長」解説「文弱の価値」1978年1月 岩波書店
    子安宣邦校注「排蘆小舟・石上私淑言」岩波文庫p63〜66  



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