2016年12月15日
第2回 歴史 第3部中世13【日本は古代・遣唐使】
〈遣唐使〉
遣隋使の時に、日本は無礼といわれるのを承知で、隋の冊封を受けずに、自立した君主であることを認定させ、冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を示そうとした。中国がそれをしぶしぶ認めたのは、日本が高句麗と結ぶことを警戒した為というのは、お話ししましたが、「隋書・倭国伝」では、帝王に対し、あなたは仏教の交流を行っておられるから朝貢すると言っているようです(司馬遼太郎「空海の風景」)。中国の皇帝だからではなく、仏教という(中国ではない他国の)普遍的な宗教を信仰しているから、私と同じだから敬うんですと言っている。それで聖徳太子の「日出づるところの天子・・・」に繋がるわけですね。
遣唐使は630年から始まり、894年菅原道真が遣唐大使に任命された際に、(藤原氏の陰謀を感じたかどうかは判りませんが)派遣の可否を奏上したことをきっかけに、以後消極的になり、派遣されなくなりますが、その間十数回実施され、唐の進んだ政治や文化を学ぶ重要な役割を果たした。長安の都市計画や律令を学ぶためというのが大きかった。そうかといって、仏教や道教などまじめなものばかりでなく、好色小説「遊仙窟」や錬金・練丹術の神仙道を紹介した葛洪の「抱朴子(81)」などを持ち帰っている。「遊仙窟」などはあちらで絶版になったものを現代中国で逆輸入して大いに喜ばれているようです。紫式部は読んでいるでしょうし、空海は「抱朴子」は間違いなく読んでいる筈です。
回賜(かいし)というお土産を山のようにもらってきた。日本はそれでも、律令にしても中国の物真似ばかりではなく日本独自の律令を作ろうとしていたところが偉い。唐側でも、日本から授戒など正式な戒律のあり方を知るものを派遣してほしいという要請などあったが誰も引き受けたがらなかった。そんなとき、聖徳太子の徳を慕っていた鑑真がひき受けた(当時中国では、聖徳太子の前世は中国の高僧だったということが信じられていた)。長屋王の要請文にもこころを打たれていた鑑真は5度の難破や失明にもめげず、来日を果たし、日本に天台学や正式な戒律を伝えている。彼が聖武天皇の願を奉じて建立した唐招提寺の御影堂にある鑑真和上像は、脱活乾漆造り(82)の傑作ですね。生命感というものとは反対の霊感というべきか、もう圧倒されるしかない。
場所そのものに居る。存在というものはこのようなものかと思わされます。
アランに、「出現」の彫像家と讃えられた高田博厚が「彫刻史上最上の肖像彫刻だ」と絶賛したのも肯けます。
鑑真和上
特に日本からの航海たるや並大抵のものではなく、難破や沈没はざらで、むしろ安全に長安にたどり着く方が奇跡だった。偏西風一つ考えても、当時の稚拙な航海術と小さな船で逆風に逆らって西に向かうことの危険は容易に想像できる。対馬海流も方向は逆です。それに輪をかけて、航海の出発日時は、陰陽師や風水師の占いで決められた。嵐が猛り狂っていようと、日が良いからと出発を命じる。逆らえば死刑。これでは難破しない方が不思議ですね。それほど当時は「占い」「祟り」というものを信じ切っていたわけです。平城京から平安京に落ち着くまで何度遷都したことか。これも風水や占いで祟りを恐れて、事あるごとに移ったわけです。
こうして続けられた遣唐使のルートは、4つくらいあった。
@北路(新羅西岸沿いに進み登州から陸路)A南路(海路で江南に向かい、蘇州・杭州などを経て長安に向かう)B渤海路(新羅東海岸沿いに北上して、渤海に入り、そこから大回りをして、南下して長安を目指す)Cその他(南路から北や南に逸れて、南から北上する)があり、いずれにしても危険を伴う航路でした。そればかりか、異国に漂着して処刑されることもしばしばあったという。不思議なことに新羅(朝鮮半島)を陸路向かうことをしない。渤海という朝鮮半島の北の国を経由している。どうしても新羅に世話になるのが嫌だったのでしょう。渤海王は高句麗の末裔と称していて、日本は新羅との対抗上友好的な外交関係にあった。こんなわけで、藤原氏はライバルになりそうな有能な人物を遣唐使のメンバーに加え、海に沈めたともいわれている。
こんなわけで、894年廃止されるまで恐怖は続いた。
遣唐使廃止にはこのような航海の恐怖と共に、唐の変質が挙げられます。それは政治的混乱と共に、廃仏に走り、民族主義に戻ってしまったことも大きいといわれます(当時の長安は国際都市で、世界中から人や物が集まり、唐自体が異民族国家であったが故に可能だった仏教中心の世界普遍の文化を誇っていたのです。それが、各地で反乱の手が上がり、政治を顧みない玄宗は、寵愛した楊貴妃と共に、没落し、唐は自国中心の偏狭な民族主義に堕していったのです)。死を賭して行くほどに学ぶべきものはもうないと。更にもうこの頃は遣唐使がわざわざ国から派遣されなくとも、僧侶や新羅・唐の商人たちによって、唐の情報や文物は入手できるようになっていたのです。遣唐使が派遣されなくなっても、民間での貿易や交流は、摂関や有力貴族の個人的な援助なども含めて、宋の時代になっても続きます。時代は、国に世話にならなくても、個々に勝手に動く、分裂の時代である中世に近づいていたのです。
注81) 葛洪(かっこう)著「抱朴子(ほうぼくし)」
神仙の道、仙人になるための方法を書いた書として知られるが、いかがわしい夢物語を書いたのではなく、儒者たちの言ばかりが採り沙汰される風潮の中で神仙道が唯一の自然科学であったことを、葛洪は研究者(只の人)として平明に人々に伝える目的で書いたとしている。
「〈微妙な道は理解しがたい。だから疑う人が多い。私は人並み以上の知恵は持ち合わせないが、ちょうど鶴が夜半の時刻を知り、燕が巳の日を知るように、あることだけを知っている。だから全体もわかるのだ(巻5)〉。特殊な生物が特殊な能力を持つということは(超能力ではなく)、どんな生物も必要な知識と能力を持っているものだということを説明しているに過ぎない(*)」。人間も、人間に与えられた能力を極めることで「既に」全体を知っていることになるのだということですね。どうですか。空海もそうですが、既にこの時代に「部分を語ることが全体を語ることだ」ということを知っていた人間がいたことだけでも驚きですね。
(*)松岡正剛「遊学」T中公文庫P46
注82) 脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)
土や石膏で原型をつくり、その上に麻布を数枚漆で塗り重ね、乾燥したのち、中の原型を抜く方法。奈良興福寺の十大弟子像や阿修羅像など天平時代の仏像に多い。脱乾漆。夾紵きようちよ。芯のない脱活乾漆なので、収縮して静かな内省的な像となる。従来の塑像(心木と荒縄で巻いた銅の針金を芯とし、粘土で造る技法は中国伝来のもので、特徴は湿度の影響を受け、干割れがおきたり彩色がはげたりしやすい反面、きめ細かに仕上げられる。日光・月光菩薩像などが代表的)と比べ、漆が乾燥というより、固められて干割れしにくく、ヴォリュームが出やすい。
参考) 乾漆棺・・・漆(うるし)塗りの棺で、飛鳥(あすか)時代の古墳に用いられた。木棺を漆塗りにした木芯(もくしん)乾漆棺と、布を漆で固めた脱活(だっかつ)乾漆の夾紵(きょうちょ)棺がある。木芯乾漆の場合は、やがて木芯の上に塗った乾漆をとってしまって木材そのもの、一本彫りの仏像が出てくる。これが密教仏像になります(高雄・神護寺の薬師如来など)。力感と生命観にあふれた木像(*)です。
(*)丸谷才一・山崎正和「日本史を読む」中公文庫p34
遣隋使の時に、日本は無礼といわれるのを承知で、隋の冊封を受けずに、自立した君主であることを認定させ、冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を示そうとした。中国がそれをしぶしぶ認めたのは、日本が高句麗と結ぶことを警戒した為というのは、お話ししましたが、「隋書・倭国伝」では、帝王に対し、あなたは仏教の交流を行っておられるから朝貢すると言っているようです(司馬遼太郎「空海の風景」)。中国の皇帝だからではなく、仏教という(中国ではない他国の)普遍的な宗教を信仰しているから、私と同じだから敬うんですと言っている。それで聖徳太子の「日出づるところの天子・・・」に繋がるわけですね。
遣唐使は630年から始まり、894年菅原道真が遣唐大使に任命された際に、(藤原氏の陰謀を感じたかどうかは判りませんが)派遣の可否を奏上したことをきっかけに、以後消極的になり、派遣されなくなりますが、その間十数回実施され、唐の進んだ政治や文化を学ぶ重要な役割を果たした。長安の都市計画や律令を学ぶためというのが大きかった。そうかといって、仏教や道教などまじめなものばかりでなく、好色小説「遊仙窟」や錬金・練丹術の神仙道を紹介した葛洪の「抱朴子(81)」などを持ち帰っている。「遊仙窟」などはあちらで絶版になったものを現代中国で逆輸入して大いに喜ばれているようです。紫式部は読んでいるでしょうし、空海は「抱朴子」は間違いなく読んでいる筈です。
回賜(かいし)というお土産を山のようにもらってきた。日本はそれでも、律令にしても中国の物真似ばかりではなく日本独自の律令を作ろうとしていたところが偉い。唐側でも、日本から授戒など正式な戒律のあり方を知るものを派遣してほしいという要請などあったが誰も引き受けたがらなかった。そんなとき、聖徳太子の徳を慕っていた鑑真がひき受けた(当時中国では、聖徳太子の前世は中国の高僧だったということが信じられていた)。長屋王の要請文にもこころを打たれていた鑑真は5度の難破や失明にもめげず、来日を果たし、日本に天台学や正式な戒律を伝えている。彼が聖武天皇の願を奉じて建立した唐招提寺の御影堂にある鑑真和上像は、脱活乾漆造り(82)の傑作ですね。生命感というものとは反対の霊感というべきか、もう圧倒されるしかない。
場所そのものに居る。存在というものはこのようなものかと思わされます。
アランに、「出現」の彫像家と讃えられた高田博厚が「彫刻史上最上の肖像彫刻だ」と絶賛したのも肯けます。
鑑真和上
特に日本からの航海たるや並大抵のものではなく、難破や沈没はざらで、むしろ安全に長安にたどり着く方が奇跡だった。偏西風一つ考えても、当時の稚拙な航海術と小さな船で逆風に逆らって西に向かうことの危険は容易に想像できる。対馬海流も方向は逆です。それに輪をかけて、航海の出発日時は、陰陽師や風水師の占いで決められた。嵐が猛り狂っていようと、日が良いからと出発を命じる。逆らえば死刑。これでは難破しない方が不思議ですね。それほど当時は「占い」「祟り」というものを信じ切っていたわけです。平城京から平安京に落ち着くまで何度遷都したことか。これも風水や占いで祟りを恐れて、事あるごとに移ったわけです。
こうして続けられた遣唐使のルートは、4つくらいあった。
@北路(新羅西岸沿いに進み登州から陸路)A南路(海路で江南に向かい、蘇州・杭州などを経て長安に向かう)B渤海路(新羅東海岸沿いに北上して、渤海に入り、そこから大回りをして、南下して長安を目指す)Cその他(南路から北や南に逸れて、南から北上する)があり、いずれにしても危険を伴う航路でした。そればかりか、異国に漂着して処刑されることもしばしばあったという。不思議なことに新羅(朝鮮半島)を陸路向かうことをしない。渤海という朝鮮半島の北の国を経由している。どうしても新羅に世話になるのが嫌だったのでしょう。渤海王は高句麗の末裔と称していて、日本は新羅との対抗上友好的な外交関係にあった。こんなわけで、藤原氏はライバルになりそうな有能な人物を遣唐使のメンバーに加え、海に沈めたともいわれている。
こんなわけで、894年廃止されるまで恐怖は続いた。
遣唐使廃止にはこのような航海の恐怖と共に、唐の変質が挙げられます。それは政治的混乱と共に、廃仏に走り、民族主義に戻ってしまったことも大きいといわれます(当時の長安は国際都市で、世界中から人や物が集まり、唐自体が異民族国家であったが故に可能だった仏教中心の世界普遍の文化を誇っていたのです。それが、各地で反乱の手が上がり、政治を顧みない玄宗は、寵愛した楊貴妃と共に、没落し、唐は自国中心の偏狭な民族主義に堕していったのです)。死を賭して行くほどに学ぶべきものはもうないと。更にもうこの頃は遣唐使がわざわざ国から派遣されなくとも、僧侶や新羅・唐の商人たちによって、唐の情報や文物は入手できるようになっていたのです。遣唐使が派遣されなくなっても、民間での貿易や交流は、摂関や有力貴族の個人的な援助なども含めて、宋の時代になっても続きます。時代は、国に世話にならなくても、個々に勝手に動く、分裂の時代である中世に近づいていたのです。
注81) 葛洪(かっこう)著「抱朴子(ほうぼくし)」
神仙の道、仙人になるための方法を書いた書として知られるが、いかがわしい夢物語を書いたのではなく、儒者たちの言ばかりが採り沙汰される風潮の中で神仙道が唯一の自然科学であったことを、葛洪は研究者(只の人)として平明に人々に伝える目的で書いたとしている。
「〈微妙な道は理解しがたい。だから疑う人が多い。私は人並み以上の知恵は持ち合わせないが、ちょうど鶴が夜半の時刻を知り、燕が巳の日を知るように、あることだけを知っている。だから全体もわかるのだ(巻5)〉。特殊な生物が特殊な能力を持つということは(超能力ではなく)、どんな生物も必要な知識と能力を持っているものだということを説明しているに過ぎない(*)」。人間も、人間に与えられた能力を極めることで「既に」全体を知っていることになるのだということですね。どうですか。空海もそうですが、既にこの時代に「部分を語ることが全体を語ることだ」ということを知っていた人間がいたことだけでも驚きですね。
(*)松岡正剛「遊学」T中公文庫P46
注82) 脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)
土や石膏で原型をつくり、その上に麻布を数枚漆で塗り重ね、乾燥したのち、中の原型を抜く方法。奈良興福寺の十大弟子像や阿修羅像など天平時代の仏像に多い。脱乾漆。夾紵きようちよ。芯のない脱活乾漆なので、収縮して静かな内省的な像となる。従来の塑像(心木と荒縄で巻いた銅の針金を芯とし、粘土で造る技法は中国伝来のもので、特徴は湿度の影響を受け、干割れがおきたり彩色がはげたりしやすい反面、きめ細かに仕上げられる。日光・月光菩薩像などが代表的)と比べ、漆が乾燥というより、固められて干割れしにくく、ヴォリュームが出やすい。
参考) 乾漆棺・・・漆(うるし)塗りの棺で、飛鳥(あすか)時代の古墳に用いられた。木棺を漆塗りにした木芯(もくしん)乾漆棺と、布を漆で固めた脱活(だっかつ)乾漆の夾紵(きょうちょ)棺がある。木芯乾漆の場合は、やがて木芯の上に塗った乾漆をとってしまって木材そのもの、一本彫りの仏像が出てくる。これが密教仏像になります(高雄・神護寺の薬師如来など)。力感と生命観にあふれた木像(*)です。
(*)丸谷才一・山崎正和「日本史を読む」中公文庫p34