2017年09月19日
精神分析をかじって
必要に迫られて心の問題を考え始めて、9ケ月になります。まだまだ本当の意味で納得という段階に迫ってはいませんが、簡単な途中報告をします。
1. 心の問題の全体像
「こころ」と「からだ」を分けて考えるのが間違いの元。しかしながら説明とは認識してもらう為のものである為、分解して言わざるを得ない。つまり便宜上分けている(その弊害が現代をも覆って人類の自閉状態をもたらしている)のだから、常に相反する側を一緒に連れて考えを進めていかなければ陥穽に落ちる。
と、断った上で語り始める(言葉とは象徴機能の優れた道具ですが、論理矛盾を認めたら支離滅裂になるため、論理的であらざるを得ないのです。そこが言葉の優れたところでもあり、限界でもあるのです。唯、優れた文筆家はその限界の彼岸に立って向こう側を感じさせてくれる能力を持っているものですが。)。
そこで「こころ」と「からだ」を一緒にした言葉として「身(み)」という言葉を使う方がおられますので、ここではそれをお借りして結論だけを語らせていただきます。
身は身体から作られた。それは新人の進化の過程と深くかかわっている。生物としての本能の中にどっぷりとつかっていた幸福の黄金時代から、不安の時代へ、そして抑圧の時代へと変遷していった人類はそこではじめて心を持つことになった。それは「食われる存在」から「食う存在」に更には「支配する存在」への変遷と軌を一にする。大きなきっかけは、身体が大きくなったり強くなったりしたのではなく、鏡に映った自分が、自分の事であると知る能力を磨いたことだった。それが判るということは、自分を見ることができるということであり、自分が見えれば相手が唯の生き物ではなく、自分と同じように或いは自分と違って考え・行動する生き物に見えるということになる。ここで「見る自分」と「存在する自分」を分離してしまった、距離を作ってしまった新人類は「身心分離」を獲得し、その見返りに「自然との疎外感」を手に入れたのです。分裂ですね(その両者を繋いでおかないと発狂してしまうので、神なり神さんなりの統合体や超自我や主観的自己なりを作り上げ、両者の矛盾した意志を聴く自己を作り上げた)。
そして、相手だったらどう行動するかを読んで(共感力)、先回りして騙すということができるようになり(時間差・数えられる時間の利用)、自分より遥かに大きなマンモスさえ、集団の力を使って、殺すことができるようになったというわけですね。「食われるもの」から「食うもの」への変身です(恐怖からの解放というのは当たらないと思います。本能の中にいた新人は本能的に食べられていただけでしょう。心は未だ分離していませんから。唯、小さな小さな萌芽はめばえていたでしょう。植物にもこころがある程度には)。
鏡の目の前に移っている存在は、姿かたちも動きも全く同じ、同じということは私の似姿、影であるということを知った。やがてそのような存在は、全く同じようでなくとも、どこかの点で似ていれば、私と繋がり共に行動し、指標になりうる。
象徴を感じ・見るというこの能力が言葉や、道具や、建物や馬や、戦車やありとあらゆるものを作り出すヒント(連想作用)となり、閉鎖的ではあるが象徴に密着した文化、そしてより広範囲かつ洗練された単純な文明を作り上げてきました。
つまりそれは既に出来上がっていた本能という仕組みから、飛び立ち、一から自分たちで別のルールなり組織なり、構造を作ることだったわけです。それが社会です。
話は戻って、両者を繋ぐ神なり、主観的自己(自我)なり、いずれにしても「作ったもの」ですから、常に磨きをかけ続ける必要があります。自分があると思わなければすぐに消えてしまう(愛と同じですね)。元々本能に任せていた身体から、象徴能力に引っ張られて変身してきた、人間となった猿ですから、「腑に落ちる」ような体験は、社会生活からはなかなか得られません。「腑」とは身体であり、内臓ですからね。それに反旗を翻して本能の外に出たのですから、両者は矛盾しない訳がありません。神のように高みにのぼり、清く美しく、あらゆるものを解放にしたいという衝動と、本能の赴くままに近親姦やら殺人やら、騙しやら、吝嗇やら、オナニーやら、性行為やら、破壊やら、めちゃくちゃにしたい衝動の両方が共存した、つまり「善悪の彼岸」に立った、極めて自己放棄的であり且つ自己求心的な矛盾存在が人間なのです。
(いまのところ)一人ではいきる範囲が限られる為、集団で生きなければならない人間は、社会と、その社会活動できる状態に持っていく為の「保育器」である家族などのルール(役割)を守らなければなりません。その為に不都合な衝動は、我慢します(抑圧)。機会均等な平均的な人間などあり得ませんから、大きな抑圧、強い抑圧をしまい込んだ人もあれば、少ない抑圧でいられる人もあります。これも自身の衝動の一つですから別の自分といっていい。あまりにその抑圧対象(コンプレックス)が強烈で耐え切れなくなると(或いは強烈な恐怖体験)、一つの別の人格にまで成長させ、その苦しみをそちらに背負ってもらいます。これが二重人格(今では「解離性自己同一障害」と呼ぶようですが)です。ひどい人は20もの別人格を持つ人もいます。あまりに成長して、自分に命令するほどになることもあります。それでも20の命令を聴く「主観的自己」は未だ存在しており、曲がりなりにもつながりは保たれています。それが消えそうになり、怯えて、考えがまとまらなくなり、妄想や幻覚などが起きたり(陽性)、行動や思考の意欲が低下したり(陰性)して、現実と非現実との区別がつきにくくなるのが統合失調症と呼ばれる精神病でしょうか。
まだまだあります。一旦本能から飛び出し、生きている実感というものに距離をとった(認識)人間が、何とかして嘗ての現実感を取り戻そうとして作り上げた人工の仕組みである文化・文明・社会・家族・愛・血縁幻想・秩序・法などなど様々な仕組みを作り上げ謳歌してきた近代人が、どこで間違ったか本来の「生の実感(祭り・フェストゥムに代表される)」を、繋げる「共感」から、比較する「優劣」に勘違いして追求し始め、言いようもない疎外感に苛まれ始めました。それでも未だにこの優劣の快感から逃れられず、相も変わらず、オリンピックのメダル(うんざりですね、二言目にはメダル、メダル、メダル)だの高校野球(勝つこと・滅私奉公の精神(?)力)だの政治権力だの、リッチだの、要するにウオーコップの「死回避行動」つまり「安全保障感追求行動」に一生を「賭け」、勝ち組と負け組の差に充実感を感じるようになってしまったんですね。それでも「賭け」という部分に主観的に生きる実感は感じられるがために、この魔法から抜け出られないんですね。
勿論根底には肉体的にも社会的にも死滅の恐怖があります。しかしこの比較追求と差別達成は、永遠に根本問題の解決にはならないんですね。この議論はここで止めます。いずれにしてもこうしてこの悪魔の循環に入っている人は、限りなく恐怖解消の為、反復脅迫を繰り返すでしょう。経済的優位に立つ為に、向いてもいない医者になるとか、本人は絵本作家になりたいと言っているのに、こんなに高い偏差値なのにもったいないと東大法学部を受けなさいと勧めるあきれた教師は後を絶ちません。その為に偏差値は低くとも、医者や法律家に本当にふさわしい人格を備えた人の機会をどれだけ奪っているか。患者や被疑者の不幸かもしれませんね。そしてこの秩序という名の社会を、或いは世界を挙げた「悪意のない暴挙」の犠牲になる負け組たち、或いは勝ち組にあっても、戦いに傷つきこころの障害を得た人たちに多くのゴミが集められます(病院・施設)。
彼らは、人と人を比較・差別して引き裂かれた犠牲者ですから、当然世界からの解離(部分的)に向かったり(=うつ、発達障害など)、燃え尽き症候群となったり(祭りのあと、後の祭り=内因性うつ)します。又戦いの最中に(祭りのさなか)に生の充実を感じすぎ、情緒不安定や爆発的激怒、回りくどい会話などコントロール不能に陥ったりする(てんかん、ヒステリー、躁うつなど)。フラッシュバックなども、症状としては祭りのさなか(イントラ・フェストゥム)に属するといいます。
てんかん体質の人は、要するに周りの刺激に対して「閾値(感覚受容器の興奮を起こさせるのに必要な刺激量の限界値)」が低いんですね。誰でも閾値は持っていますが、少しの刺激にも過剰反応(ニューロンの異常放出)してしまう。壮大な夕焼けの美も一輪の花の清楚もめくるめくスリルも深く戦慄的に体験する。彼らは「のめり込むような勤勉・持続力と職人的な細部への関心を持っており、第一級の学者も、スポーツ界も芸能界のスターにもこのような享受と精進の表裏二面性がある。彼らは大胆に矛盾を生きる人である。刺激を避けた静かな生活に憧れると同時に刺激を求めのめり込んでいくという二面性である。」「人々を感動させる芸術は、絵画、音楽その他種類を問わず、てんかん親和的な人が作り上げたものである。モーツアルト、ベートーベン、ドストエフスキー、ゴッホ、みなそうである(中井久夫・看護の為の精神医学より)」わけです。
こうして負け組を清掃して(無かったことにして)そしてすっきり忘れて新たな戦いに向かいます。メダル!めだる!金!かね!前へ!まえへ!進歩!進歩!成長!成長!もうこれは近代の新興宗教ですね。この果てに感情のこもった喜びはない。人間のこころを枯らしてくる。
一方でウオーコップは死回避行動と共に「生命行動」を挙げています。これはサリバンによって、「満足追求行動」に置き換えられました。生の実感です。これこそが人類が社会を作った時の「初心」です。人と人を「繋ぐ」こころです。満足とは個人的で且つ共有可能な繋がりを感じることです(安心ではありません)。
人と人との繋がりを実感(共感)することも生命活動の大きな要素ですが、それ以上に社会をも越えた、人工世界をも越えた世界・宇宙との繋がりを実感することこそ最大の生命的活動ではないでしょうか。それはどこか本能の中にいた時代とどこか似ています。
しかし違うのは、本能の外の世界を知った後での回帰という点です。このような「出来事から意味を見つけ出す、縁起を見出す共感体験をユングは、「因果性」と区別して「シンクロニシティー(共時性)」と名付けました。この世界や社会に関わることは全て時間的にも空間的にも繋がっていることに主観的に気付くことです(言っておきますが、この世に存在するのは主観だけですよ。客観なんていうものは誰も知らないしどこにもない空想なんです)。
こういった現象を科学的方法で研究する動きも盛んです。客席から挙がったバラバラの拍手がいつの間にか一糸乱れぬ拍手となる、何万匹もの蛍の明滅がいつの間にか、誰が指示したわけでもないのに揃ってくる。彼らは相手を見て揃えようとしているのではありません。その置かれた環境の中で、それぞれの自分の主観をもって徐々に正確度を増して勝手に正確に動くのです。そうするとこの環境下ではこのリズムしかとりえないリズムに行きつくのです。その終局のリズムは発信者の形や重さや大きさを選びません。その「場」が作り出すのです。つまりAさんだろうとBさんだろうと、蛍だろうと、鳥だろうと、石だろうと、木だろうと、塵だろうと同じはずです。
シンクロニシティーについては科学的にはまだまだ分からないところもあるでしょうからこのくらにとどめておきます。
これは確かに主観の世界です。従って科学的な意味で「私」とは幻想です。しかし、満足を感じるのは科学ではなく「幻想である私」なのです。更には死を恐怖するのも「幻想である私」に過ぎません。だから、そんなものは無駄だからやめちまえ!というか、満足を求めて生き且つ死のうとするのか。分かれ目です。私は後者をとりたいものです。何故なら、無駄とか、くだらないとか言うのは、意味のあることや満足というものを前提しているからこそ発せられる言葉であって、そういうものを求めていなければ、無駄だとか、意味ないとか言うわけが無いからです。自己欺瞞というわけです。もっと言えばおのれを支配者として見たいという大それた認識を持っている証拠です。客観的に真実でなければ嫌だというのは、権力者に対してではなく、宇宙に対して人としての「分をわきまえ」ていないわけです。
詳しくはもう少し時間を頂きたい。
唯、言っておきたいのは、これらは皆、我々のなかにその萌芽があるということなのです。
「やさしい」人が好き。と言われますが、この人たちこそ「やさしい人」なのです。だから、こうして、外に攻撃しないで、自分を痛めて耐えているのです。精神分析の仕事はそういう症状を、外科的に治すのではなく、心の奥底にしまい込んで「抵抗」するコンプレックスがあるということを意識下に引き上げることです。このような症状は、もともとが全て「作り物」なのですから、なんだそういうことだったのかと、知る力が出れば消え去るものなのですが、本人にしてみれば本当に苦しいい作業です。しかし、治すのは医者ではなく、本人だという事実は変えられません。そして、フロイトもグロデックもそうですが、本当に芯からその抑圧を意識化に戻すことが苦しいことであり、いまのままで過ごせるなら、無理に引き出すことも無いと言っています。これは精神分析を創始した彼らの優しさであり、本末転倒を戒めた言葉ではないでしょうか。
科学バカになっている我々現代人には頭の痛い言葉です。
人間には信じられないような、力があることをご存知ですか。
耳にされたことがある方は多いと思いますが、「二重盲検法」というものがあります。
新薬の試験に使われる方法ですが、新薬が採用されるためには、一定の基準(効き目)をクリアーしなければ新薬として承認されません。その為本物の薬と、プラセボ(偽薬・唯のうどん粉など)を混ぜてテスト者に飲んでもらい、一定の効き目を確認できたパーセントをクリアーしないと承認されないのですが、私たちに問題なのはその時に、プラセボでも効いてしまう例が数パーセントでもあるという事実です。
これをどう解釈したらいいでしょうか。そういう物だ、病は気からだと、そっちに話を持って行って思考停止してしまっていいでしょうか。
プラセボ効果とは一体何でしょうか。確率は低いにせよ、必ず発生するこの奇妙な現象は何の力でしょうか。我々が築き上げてきた科学・医学技術を使った治療法は、薬やメスなどの力が大部分を占め、患者自身の治る力は、その施術後の養生で発揮されます。
私は思うのですが、うどん粉でも直す力のある薬だと思って飲めば治るとき、何が働いているかと言えば、身体の本来持っていて眠らされている、自然治癒力というものが動いたのではないかということです。末期がんの患者さんに、この「自然退縮」の話をしたところ、翌日自分で退院して、今は元気で野良仕事をしていたという話を、精神科医・高橋和巳さんのご本で拝見しました。今では奇跡と言ってよい低確率の話ですが、やはりここで動いているのは、自我とかの意志ではなく、精神だけでなく身体だけでもない「身」が主体的に動き、がん細胞を鎮めたのだと思います。このような動きをするものは一体何者か。私はこれを、その名付け親の言葉を借りて「エス」と呼ぼうと思います。
そのなずけ親とは、グロデックといい、フロイトを脅かしました。彼は精神分析は、心の病だけでなく器質的障害(身体)にも適用されるという、おそろしく広い医療を構想し、実際に成果も挙げています。
これらの続きは、改めてということで、今日はこの辺りで筆をおきたいと思います。
もっともっと、学びます。
1. 心の問題の全体像
「こころ」と「からだ」を分けて考えるのが間違いの元。しかしながら説明とは認識してもらう為のものである為、分解して言わざるを得ない。つまり便宜上分けている(その弊害が現代をも覆って人類の自閉状態をもたらしている)のだから、常に相反する側を一緒に連れて考えを進めていかなければ陥穽に落ちる。
と、断った上で語り始める(言葉とは象徴機能の優れた道具ですが、論理矛盾を認めたら支離滅裂になるため、論理的であらざるを得ないのです。そこが言葉の優れたところでもあり、限界でもあるのです。唯、優れた文筆家はその限界の彼岸に立って向こう側を感じさせてくれる能力を持っているものですが。)。
そこで「こころ」と「からだ」を一緒にした言葉として「身(み)」という言葉を使う方がおられますので、ここではそれをお借りして結論だけを語らせていただきます。
身は身体から作られた。それは新人の進化の過程と深くかかわっている。生物としての本能の中にどっぷりとつかっていた幸福の黄金時代から、不安の時代へ、そして抑圧の時代へと変遷していった人類はそこではじめて心を持つことになった。それは「食われる存在」から「食う存在」に更には「支配する存在」への変遷と軌を一にする。大きなきっかけは、身体が大きくなったり強くなったりしたのではなく、鏡に映った自分が、自分の事であると知る能力を磨いたことだった。それが判るということは、自分を見ることができるということであり、自分が見えれば相手が唯の生き物ではなく、自分と同じように或いは自分と違って考え・行動する生き物に見えるということになる。ここで「見る自分」と「存在する自分」を分離してしまった、距離を作ってしまった新人類は「身心分離」を獲得し、その見返りに「自然との疎外感」を手に入れたのです。分裂ですね(その両者を繋いでおかないと発狂してしまうので、神なり神さんなりの統合体や超自我や主観的自己なりを作り上げ、両者の矛盾した意志を聴く自己を作り上げた)。
そして、相手だったらどう行動するかを読んで(共感力)、先回りして騙すということができるようになり(時間差・数えられる時間の利用)、自分より遥かに大きなマンモスさえ、集団の力を使って、殺すことができるようになったというわけですね。「食われるもの」から「食うもの」への変身です(恐怖からの解放というのは当たらないと思います。本能の中にいた新人は本能的に食べられていただけでしょう。心は未だ分離していませんから。唯、小さな小さな萌芽はめばえていたでしょう。植物にもこころがある程度には)。
鏡の目の前に移っている存在は、姿かたちも動きも全く同じ、同じということは私の似姿、影であるということを知った。やがてそのような存在は、全く同じようでなくとも、どこかの点で似ていれば、私と繋がり共に行動し、指標になりうる。
象徴を感じ・見るというこの能力が言葉や、道具や、建物や馬や、戦車やありとあらゆるものを作り出すヒント(連想作用)となり、閉鎖的ではあるが象徴に密着した文化、そしてより広範囲かつ洗練された単純な文明を作り上げてきました。
つまりそれは既に出来上がっていた本能という仕組みから、飛び立ち、一から自分たちで別のルールなり組織なり、構造を作ることだったわけです。それが社会です。
話は戻って、両者を繋ぐ神なり、主観的自己(自我)なり、いずれにしても「作ったもの」ですから、常に磨きをかけ続ける必要があります。自分があると思わなければすぐに消えてしまう(愛と同じですね)。元々本能に任せていた身体から、象徴能力に引っ張られて変身してきた、人間となった猿ですから、「腑に落ちる」ような体験は、社会生活からはなかなか得られません。「腑」とは身体であり、内臓ですからね。それに反旗を翻して本能の外に出たのですから、両者は矛盾しない訳がありません。神のように高みにのぼり、清く美しく、あらゆるものを解放にしたいという衝動と、本能の赴くままに近親姦やら殺人やら、騙しやら、吝嗇やら、オナニーやら、性行為やら、破壊やら、めちゃくちゃにしたい衝動の両方が共存した、つまり「善悪の彼岸」に立った、極めて自己放棄的であり且つ自己求心的な矛盾存在が人間なのです。
(いまのところ)一人ではいきる範囲が限られる為、集団で生きなければならない人間は、社会と、その社会活動できる状態に持っていく為の「保育器」である家族などのルール(役割)を守らなければなりません。その為に不都合な衝動は、我慢します(抑圧)。機会均等な平均的な人間などあり得ませんから、大きな抑圧、強い抑圧をしまい込んだ人もあれば、少ない抑圧でいられる人もあります。これも自身の衝動の一つですから別の自分といっていい。あまりにその抑圧対象(コンプレックス)が強烈で耐え切れなくなると(或いは強烈な恐怖体験)、一つの別の人格にまで成長させ、その苦しみをそちらに背負ってもらいます。これが二重人格(今では「解離性自己同一障害」と呼ぶようですが)です。ひどい人は20もの別人格を持つ人もいます。あまりに成長して、自分に命令するほどになることもあります。それでも20の命令を聴く「主観的自己」は未だ存在しており、曲がりなりにもつながりは保たれています。それが消えそうになり、怯えて、考えがまとまらなくなり、妄想や幻覚などが起きたり(陽性)、行動や思考の意欲が低下したり(陰性)して、現実と非現実との区別がつきにくくなるのが統合失調症と呼ばれる精神病でしょうか。
まだまだあります。一旦本能から飛び出し、生きている実感というものに距離をとった(認識)人間が、何とかして嘗ての現実感を取り戻そうとして作り上げた人工の仕組みである文化・文明・社会・家族・愛・血縁幻想・秩序・法などなど様々な仕組みを作り上げ謳歌してきた近代人が、どこで間違ったか本来の「生の実感(祭り・フェストゥムに代表される)」を、繋げる「共感」から、比較する「優劣」に勘違いして追求し始め、言いようもない疎外感に苛まれ始めました。それでも未だにこの優劣の快感から逃れられず、相も変わらず、オリンピックのメダル(うんざりですね、二言目にはメダル、メダル、メダル)だの高校野球(勝つこと・滅私奉公の精神(?)力)だの政治権力だの、リッチだの、要するにウオーコップの「死回避行動」つまり「安全保障感追求行動」に一生を「賭け」、勝ち組と負け組の差に充実感を感じるようになってしまったんですね。それでも「賭け」という部分に主観的に生きる実感は感じられるがために、この魔法から抜け出られないんですね。
勿論根底には肉体的にも社会的にも死滅の恐怖があります。しかしこの比較追求と差別達成は、永遠に根本問題の解決にはならないんですね。この議論はここで止めます。いずれにしてもこうしてこの悪魔の循環に入っている人は、限りなく恐怖解消の為、反復脅迫を繰り返すでしょう。経済的優位に立つ為に、向いてもいない医者になるとか、本人は絵本作家になりたいと言っているのに、こんなに高い偏差値なのにもったいないと東大法学部を受けなさいと勧めるあきれた教師は後を絶ちません。その為に偏差値は低くとも、医者や法律家に本当にふさわしい人格を備えた人の機会をどれだけ奪っているか。患者や被疑者の不幸かもしれませんね。そしてこの秩序という名の社会を、或いは世界を挙げた「悪意のない暴挙」の犠牲になる負け組たち、或いは勝ち組にあっても、戦いに傷つきこころの障害を得た人たちに多くのゴミが集められます(病院・施設)。
彼らは、人と人を比較・差別して引き裂かれた犠牲者ですから、当然世界からの解離(部分的)に向かったり(=うつ、発達障害など)、燃え尽き症候群となったり(祭りのあと、後の祭り=内因性うつ)します。又戦いの最中に(祭りのさなか)に生の充実を感じすぎ、情緒不安定や爆発的激怒、回りくどい会話などコントロール不能に陥ったりする(てんかん、ヒステリー、躁うつなど)。フラッシュバックなども、症状としては祭りのさなか(イントラ・フェストゥム)に属するといいます。
てんかん体質の人は、要するに周りの刺激に対して「閾値(感覚受容器の興奮を起こさせるのに必要な刺激量の限界値)」が低いんですね。誰でも閾値は持っていますが、少しの刺激にも過剰反応(ニューロンの異常放出)してしまう。壮大な夕焼けの美も一輪の花の清楚もめくるめくスリルも深く戦慄的に体験する。彼らは「のめり込むような勤勉・持続力と職人的な細部への関心を持っており、第一級の学者も、スポーツ界も芸能界のスターにもこのような享受と精進の表裏二面性がある。彼らは大胆に矛盾を生きる人である。刺激を避けた静かな生活に憧れると同時に刺激を求めのめり込んでいくという二面性である。」「人々を感動させる芸術は、絵画、音楽その他種類を問わず、てんかん親和的な人が作り上げたものである。モーツアルト、ベートーベン、ドストエフスキー、ゴッホ、みなそうである(中井久夫・看護の為の精神医学より)」わけです。
こうして負け組を清掃して(無かったことにして)そしてすっきり忘れて新たな戦いに向かいます。メダル!めだる!金!かね!前へ!まえへ!進歩!進歩!成長!成長!もうこれは近代の新興宗教ですね。この果てに感情のこもった喜びはない。人間のこころを枯らしてくる。
一方でウオーコップは死回避行動と共に「生命行動」を挙げています。これはサリバンによって、「満足追求行動」に置き換えられました。生の実感です。これこそが人類が社会を作った時の「初心」です。人と人を「繋ぐ」こころです。満足とは個人的で且つ共有可能な繋がりを感じることです(安心ではありません)。
人と人との繋がりを実感(共感)することも生命活動の大きな要素ですが、それ以上に社会をも越えた、人工世界をも越えた世界・宇宙との繋がりを実感することこそ最大の生命的活動ではないでしょうか。それはどこか本能の中にいた時代とどこか似ています。
しかし違うのは、本能の外の世界を知った後での回帰という点です。このような「出来事から意味を見つけ出す、縁起を見出す共感体験をユングは、「因果性」と区別して「シンクロニシティー(共時性)」と名付けました。この世界や社会に関わることは全て時間的にも空間的にも繋がっていることに主観的に気付くことです(言っておきますが、この世に存在するのは主観だけですよ。客観なんていうものは誰も知らないしどこにもない空想なんです)。
こういった現象を科学的方法で研究する動きも盛んです。客席から挙がったバラバラの拍手がいつの間にか一糸乱れぬ拍手となる、何万匹もの蛍の明滅がいつの間にか、誰が指示したわけでもないのに揃ってくる。彼らは相手を見て揃えようとしているのではありません。その置かれた環境の中で、それぞれの自分の主観をもって徐々に正確度を増して勝手に正確に動くのです。そうするとこの環境下ではこのリズムしかとりえないリズムに行きつくのです。その終局のリズムは発信者の形や重さや大きさを選びません。その「場」が作り出すのです。つまりAさんだろうとBさんだろうと、蛍だろうと、鳥だろうと、石だろうと、木だろうと、塵だろうと同じはずです。
シンクロニシティーについては科学的にはまだまだ分からないところもあるでしょうからこのくらにとどめておきます。
これは確かに主観の世界です。従って科学的な意味で「私」とは幻想です。しかし、満足を感じるのは科学ではなく「幻想である私」なのです。更には死を恐怖するのも「幻想である私」に過ぎません。だから、そんなものは無駄だからやめちまえ!というか、満足を求めて生き且つ死のうとするのか。分かれ目です。私は後者をとりたいものです。何故なら、無駄とか、くだらないとか言うのは、意味のあることや満足というものを前提しているからこそ発せられる言葉であって、そういうものを求めていなければ、無駄だとか、意味ないとか言うわけが無いからです。自己欺瞞というわけです。もっと言えばおのれを支配者として見たいという大それた認識を持っている証拠です。客観的に真実でなければ嫌だというのは、権力者に対してではなく、宇宙に対して人としての「分をわきまえ」ていないわけです。
詳しくはもう少し時間を頂きたい。
唯、言っておきたいのは、これらは皆、我々のなかにその萌芽があるということなのです。
「やさしい」人が好き。と言われますが、この人たちこそ「やさしい人」なのです。だから、こうして、外に攻撃しないで、自分を痛めて耐えているのです。精神分析の仕事はそういう症状を、外科的に治すのではなく、心の奥底にしまい込んで「抵抗」するコンプレックスがあるということを意識下に引き上げることです。このような症状は、もともとが全て「作り物」なのですから、なんだそういうことだったのかと、知る力が出れば消え去るものなのですが、本人にしてみれば本当に苦しいい作業です。しかし、治すのは医者ではなく、本人だという事実は変えられません。そして、フロイトもグロデックもそうですが、本当に芯からその抑圧を意識化に戻すことが苦しいことであり、いまのままで過ごせるなら、無理に引き出すことも無いと言っています。これは精神分析を創始した彼らの優しさであり、本末転倒を戒めた言葉ではないでしょうか。
科学バカになっている我々現代人には頭の痛い言葉です。
人間には信じられないような、力があることをご存知ですか。
耳にされたことがある方は多いと思いますが、「二重盲検法」というものがあります。
新薬の試験に使われる方法ですが、新薬が採用されるためには、一定の基準(効き目)をクリアーしなければ新薬として承認されません。その為本物の薬と、プラセボ(偽薬・唯のうどん粉など)を混ぜてテスト者に飲んでもらい、一定の効き目を確認できたパーセントをクリアーしないと承認されないのですが、私たちに問題なのはその時に、プラセボでも効いてしまう例が数パーセントでもあるという事実です。
これをどう解釈したらいいでしょうか。そういう物だ、病は気からだと、そっちに話を持って行って思考停止してしまっていいでしょうか。
プラセボ効果とは一体何でしょうか。確率は低いにせよ、必ず発生するこの奇妙な現象は何の力でしょうか。我々が築き上げてきた科学・医学技術を使った治療法は、薬やメスなどの力が大部分を占め、患者自身の治る力は、その施術後の養生で発揮されます。
私は思うのですが、うどん粉でも直す力のある薬だと思って飲めば治るとき、何が働いているかと言えば、身体の本来持っていて眠らされている、自然治癒力というものが動いたのではないかということです。末期がんの患者さんに、この「自然退縮」の話をしたところ、翌日自分で退院して、今は元気で野良仕事をしていたという話を、精神科医・高橋和巳さんのご本で拝見しました。今では奇跡と言ってよい低確率の話ですが、やはりここで動いているのは、自我とかの意志ではなく、精神だけでなく身体だけでもない「身」が主体的に動き、がん細胞を鎮めたのだと思います。このような動きをするものは一体何者か。私はこれを、その名付け親の言葉を借りて「エス」と呼ぼうと思います。
そのなずけ親とは、グロデックといい、フロイトを脅かしました。彼は精神分析は、心の病だけでなく器質的障害(身体)にも適用されるという、おそろしく広い医療を構想し、実際に成果も挙げています。
これらの続きは、改めてということで、今日はこの辺りで筆をおきたいと思います。
もっともっと、学びます。