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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2015年10月31日
「花よりもなほ」を見て
「花よりもなほ」を見て


「花よりもなほ」をみた。
2006年の作品で、9年もたって今頃感想を述べるのは、お恥ずかしい次第だがそれまでは縁が無かっただけの事と思います。
評判だったようで、御存知の方が多いと思われますが、私の様に縁の無かった方もいらっしゃると思いますので。念の為あらすじを、DVD解説から借用します。

元禄15年、父親の仇討ちのために信州松本から江戸に出てきた若い武士、青木宗右衛門は、実は剣の腕がまるで駄目。貧しいながら人情あふれる長屋で半年暮らすうち、仇討ちしない人生があることを知る。仇役に浅野忠信、ほかに香川照之、加瀬亮、田畑智子、夏川結衣、寺島進、原田芳雄、石橋蓮司ら新旧のクセ者役者が結集。撮影、美術、録音は監督の前作「誰も知らない」のスタッフが再結集。美術には「羅生門」の馬場正男が参加。
仇討ちのために江戸に来たはずの宗左衛門(岡田准一)だったが、ひょうひょうと生きる貞四郎(古田新太)、何度も切腹を試みるが死にきれない次郎左衛門、そして美人未亡人(宮沢りえ)らと出会い(この未亡人も実は仇持ちだった)、心境に変化が現れる。決して裕福ではないが、明るく、前向きに、逞しく生きる住人たち。是枝監督は、前作「誰も知らない」の後だったので明るい映画を撮りたかったそうだが、人間を捕らえる視線の優しさや、この映画を見た後に感じる温かさは、是枝監督の長年の人物観察で辿り着いた末の人間賛歌なのだろう。(中山治美)

名作とは二度読むものだ。一度目はあらすじを追うのに気を取られ、二度目に初めて細部に散りばめられた「世界の裂け目」を発見することにある。・・といった意味の言葉をどこかで読んだことがありますが、想いだせません。

これは勿論「忠臣蔵」のお話しでは無く、世の関心が(と言っても単なるうわさ話としての関心だが)赤穂浪士の討ち入りに集まっていた頃の、江戸の片隅の実際の個々の住民の暮らしを、心意気で救い上げたお話しです。やたらに糞や血が噴出するのは時代の貧しさの象徴でしょうが、こころが満ち満ちている象徴とも思われます。案の定、方や運命を受け容れて、吉良邸に打ちいる浪士達(武士は血を内臓を何とも思わぬようにバリアを張って見るよう教育されています)と対照的に、血や糞に驚き且つ平気で触ったり日常の中にとり入れている長屋の連中と徐々に見方・感じ方を変えつつある宗左は、「武士の一分」を糞呼ばわりして、大芝居を打って幕府を騙し、仇討を実行せず、報奨金をせしめ、長屋の連中の苦境を救うのです。そして「恨み」という「糞」を、「此処」で「花」に変えるのです。
運命に逆らえなかった浪士と、運命を変えた宗左たちとの対照、そしてそれぞれに生きる時間のすれ違いが、感動的ですね。

こんなことありえねー!
勿論、何でも本当のお話として読みたがる方はお怒りになるでしょう。でも陰でこっそりお笑いになりませんか。ここが「世界の裂け目」なんです。

風さそふ 花よりも尚 我はまた 春の名残を いかにとか(や)せん

内匠頭の切腹の際の辞世の句とされるこの句は、偽作とかいろいろな説は在るにせよ、日本人の体に沁み込んでしまったと言っていいでしょう。切腹に立ち会った幕府目付役多門伝八郎筆記がまさか仇討を臣下に焚きつけようと作ったとも思えません。
内匠頭自身の運命に逆らってしまった後悔の歌と思われますが、

仇討は内匠頭にとっては「こころ」の逆襲ですが、臣下の大石らにとっては主君からの命(瞑)になるわけですから運命に従う行為になるわけです。

「風さそふ」は常套文句だが、「花よりもなほ我はまた」というような拙劣な言い回しが、如何にもあわれである。そう誰も感ずるこの「我」は、もはや、赤穂藩主でもなければ、その末路でもあるまい。ひたすら「春の名残」を思う一つの意識であろう。歴史から離脱して、「春の名残」と化さんと努めている一つの命の姿であろう--(小林秀雄「考えるヒント/忠臣蔵T)」。

「いかにとやせん」でなく「いかに解かせん」と解釈していますね。

そう思ったとしたなら、仇討などやめとけという意味になりますが・・・、君主というものは自己中の固まりですね、時代ですね。そこまで思える人間なら怒りにまかせてあんなこと・・と思うんですが、何しろ「武士の一分」が一番ですから。事が済んで、しまったと、極まった時だからこそその様な達観した歌も読めたのかも知れませんが。
「勅撰集などあたっても、花さそふ風 という表現はいくつも見つかりますが、風さそふ花 という逆の表現はほとんど見つかりません。奇異な歌」という意見もありましたが、「風さそふ」も稚拙と言われようと悪くないんじゃないですか?

でもここは「分」の下の方の庶民の話でした。戻しましょう。
結論を先に行っちゃったような感じですが、「細部」で楽しめるところも色々ありますよ。

ここではこんな件りは如何ですか?

「縁日で金沢(仇討の元侍)の一家を見かけた宗左は、ひょっとこの面で顔を隠してそっとやり過ごす。
本来追う立場の宗左の方が顔を隠すという逆転。すぐ前の場面で貞四郎に突っ込まれた「仇討ちできない本当の理由」の解答がここで再び描かれる。
この前後のシーンで一緒にいるおさえ・進之助はやはり夫・父を失くしており、宗左自身も父を失った息子である。それだけに父の仇を憎みながらも残される妻子の気持ちを思わずにいられない。そんな複雑な心情をあえて剽げた面で包んでみせる。
宗左の正面で回る風車、後ろをスローモーションで行き過ぎる金沢一家の見せ方、面を外した後金沢を見送る宗左の表情などなど、切々とした日本的情感に満ちた、この映画で一番好きな場面です。」

これは、yu-kaさんという方のブログからいただいたものですが、この「すれ違い」が懐かしいですね。yu-kaさんの文章も美しいですね。
http://blog.goo.ne.jp/mla10228/c/de7d9255d68dd0ca71299a3508795ee1

さて、このような芝居が可能かどうか、現代では益々難しいでしょうね。検死は科学捜査にがんじがらめ、時代は科学にがんじがらめですから。夢(真実)もなにもあったものじゃありません。今は「事実」時代ですから、「真実」が事実に追いやられて、消えてしまいそうです。

お能では、「面」は「おもて」と呼びます。してみると下の顔の方が「うら」なのでしょうね。

宗左のみせた「面」のほうが彼の人生の「真実」を表わしていたのかもしれません。


(注)映画の中で出てきた、私もよく知らなかった2つの言葉を、辞書引いときました。時間の節約の為に。

優曇華の花(うどんげのはな)、
クワ科イチジク属の落葉高木。ヒマラヤ山麓、スリランカ、ミャンマーなどに産する高さ3メートル余りで、花はイチジクに似た壺状花序を作る。果実は食用になる。仏教では3千年に一度花を開くと言い、そのときは金輪王や如来が出現すると伝える。「たまたま会うこそ優曇華なり(狂言)」などと使う。

盲亀浮木(もうきふぼく)
会うことが非常に難しいこと、めったにないことのたとえ。また、人として生まれることの困難さ、そしてその人が仏、または仏の教えに会うことの難しさのたとえ。▽大海中に棲すみ、百年に一度だけ水面に浮かび上がる目の見えない亀かめが、漂っている浮木のたった一つの穴に入ろうとするが、容易に入ることができないという寓話ぐうわによる。「盲亀浮木に値あう」の略。『雑阿含経ぞうあごんきょう』一六。


2015年10月24日
絵本 「いのちをいただく」(講談社) を読んで
いのちをいただく.jpg

家内が知人からお借りしてきたこの本を、偶然手にして読みました。
有名な本だそうで、皆さんあらすじはご存知かと思いますが、簡単に紹介します。

牛の解体業者である坂本さんという方の、職業にまつわる苦い体験と、小学生の息子さんの、父の職業に胸を張れない辛い体験、教師の励まし、そして他のいのちを食べないと生きられない動物としての人間の定めに、人が嫌がるが、必要でもある行為を、先頭を切って行うお父さんの勇気を誇りに思う息子。或る日、解体用に運ばれてきた牛が運ばれてきた時、牛を売らなければ生活できない畜産農家のおじいちゃんと孫の女の子が、「みいちゃん」(牛の名前)に「すまない」と悲しみのお別れをするのを見て、明日は仕事を休もうと思っていると、息子のしのぶ君に打ち明けます。するとよくよく思ったしのぶ君は、やっぱりお父さんがやってあげた方がいいと思うと告げます。「こころ」のない人が解いたら、牛が苦しむからと。最初は警戒していた「みいちゃん」も、坂本さんのやさしいしぐさに警戒を解きます。坂本さんは「すまない(皆が生きていく為なんだ許してくれ)」と語りかけながら一気に急所を突き、「みいちゃん」のいのちを開放します。「解かれる」(この業界では牛の命を奪う事を、命を「解く」というそうです)直前に「みいちゃん」は涙を出しました。坂本さんは初めて牛の涙を見たそうです。
おじいちゃんは「みいちゃん」の亡きがらの一部を分けてもらい食します。孫の女の子も最初は食べませんでしたが、「みいちゃん」に生かされていることを悟り、感謝の気持ちで食べました。
坂本さんは、もう少しこの仕事をつづけてみようという気持ちになりました。

以上があらすじです。
まずこの本を読み終えて押し寄せたのは感情です。涙があふれました。人間の負の部分に対してです。
次に様々な推薦文や全国学校図書館協会などからの選定図書であるという印字でした。これには少し嫌な気持ちが起きました。人間の為に動物を殺すことを美辞麗句で正当化する後押しと感じられたからです。私は坂本さんの様な職業を最低だなんて思いません。命のやり取りをする、ひとつ間違えればこちらがやられる行為は動物(人間も)の生業(なりわい)ですから。昔はこのような辺境の職にある人達は、墓掘り人・神官など死と関わる人、皮はぎ・屠殺人など動物と関わる人、陶工・道路清掃人・浴場主などは火と土や水を扱う、娼婦は性と関わるものたちで、非日常の能力を持つものとして畏れられ、崇められた。しかし少しずつ人工の力で自然を、闇を克服し出し、都市という安全な環境整備が進むと、司祭や神官や国王以外は賎民として下層に追いやられた。つまり汚いもの、生々しいものは必要であっても見たくなかった。忘れてしまい、賎民に押し付けておきたかった。
そんな虫のいい人間に、いまさら立派な職業だなどと、上から目線で言ってほしくないと感じたからです。
まして公認などして、正統化するなど、そんな問題では無い。こういう問題は生きている限り答えを出してはいけない問題でしょう。悩み続けなければいけない問題でしょう。答えを出すのは自分が「解かれる」時でしょう。時至り寿命となり、今度は自分が(バクテリアなり他の動物なりに)命を差し出すことが答え(奪ってきた命への返礼の時)でしょう。だから坂本さんも悩みながら続けているのでしょう。この本も、正解をだして、悩みを置き去りにして、後はどんどん「前へ進める」ことに対する警告だったのではないでしょうか。しっかり「傷」は持ち続けなければならないと。
勿論このような行為を他人に任せて、しっかり食べている私達は尚更です。

それにしても、いい本だからどんどん読みなさい。と推薦するのはどうなんでしょうか。動物愛護もシーシェパードもそうですが、何か動物の心理を勝手に擬人化して、感動したり、特定の動物だけを残酷だから殺すのやめろと擁護したり、自己満足もいい加減にしてほしいと思います。金子みすずの言葉を借りて、「こころ」の大好きな擬人法でいえば、地上の大漁祭りは、(魚達の)海底の悲しみの大葬儀なんですから。
反対するなら徹底してみなさいと言いたい。何もクジラやイルカだけが愛護される動物では無い。全ての生物、或いは植物や塵の一粒にまで「こころ」の種は宿っているのだから。
ガンジーに大きな影響を与えた、イギリスの思想家ラスキンは言います。
  
「みなさん、塵には地球と生命と社会のすべての結末が飛沫となってひそんでいるのです、その塵からこそ、新たな倫理を取り出さないで、何が政治なのですか、何が経済なのですか、何が教育なんですか(ジョン・ラスキン「塵の倫理」1866)」
  
坂本さんは、牛の涙は初めて見たと書いておられます。してみるとそれまでは牛は涙を見せなかった訳です。これはどう考えたらいいのでしょうか。今迄気づかなかったのでしょうか。それもあるかもしれませんが、長い経験のある方ですから違うでしょう。今迄この仕事はずっと嫌だったとも書いておられます。

私は思うのですが、「みいちゃん」は哀しいから涙を落したんじゃないのではないでしょうか。いやいややっていた坂本さんが、悩んだ末に(この行為に責任を持つ)覚悟を決めた眼で牛と対峙したから、考えに考えた末に決めた、大量生産と大量殺りくの様な機械的でない、ひとつひとつ悩み、苦しむ坂本さんの心が、牛の体に一瞬にして移ったから、坂本さんの覚悟が、鏡のように牛に移り、涙があふれ出たのだと思うんです。「みいちゃん」に宿っていた「こころ」の種が割れたんです。赤ん坊の涙は恐怖や誰かを頼む涙ですが、それとは違う涙です。これは慈悲の悲の方の涙でしょう。
「慈」は、相手を励ます、「がんばれ」の気持ちで、「悲」はもうどうにもならないと客観的に状況判断し、悩んだ末に死というものを見詰めて待つことを決断をする。そこでガンバレは残酷です。「もうがんばらなくてもいいよ」という言葉がほしいときも人にはある。そういう時は黙ってため息をつき頭を下げて、その辛い感情をともに共有する。無力感でいっぱいになりうめき声が出そうになる。それが「悲」の感情です。
何も言わず相手の痛みを感じようとする愛。自然にわきあがってくる感情が、相手にじんわりと伝わっていく無言の愛のような感情です。「みいちゃん」は、聖フランチェスコのように、坂本さんの愛を踏み台にして、一気にしかし一瞬、「こころ」の種が割れたとしか言いようがありません。このような奇跡は全ての舞台が整わないと起こりえません。

「考える」は字源を辿ると「か身交う」と言われます。(「か」は接頭辞で、語の前に付けて文法上の変化をもたらしたり、意味を付け加えたりするもので、「さ迷う」「ご親切」「ふ機嫌」などと使う。「身交う」は身体を、物や相手に交えることを意味する(本居宣長の説)。つまり相手と自分の、互いの身が交わる時初めて両者の境界はぼやけて、そこに両者一体となった考えが生まれるというのです。初めてそこまで命をかけて「みいちゃん」の中に交わっていったから、乗り移ったのではないでしょうか。
牛自身は全く次の瞬間急所を突かれるなどという具体的なものは何も思わず、運命に乗っていただけでしょう。信じ切っていたでしょう。だから裏切られたとか、騙されたとかは、人間の勝手な想像で、実は信じ切ったまま、次の瞬間はもう「生の相」から「死の相」に移って行ったのだと思います。しかしその僅かな隙間に「こころ」が瞬間芽生えたのでしょう。(私達人類だって、前は「こころ」は種のように固まったままだったんですから。生まれるまで、脊椎動物から数えて5億年もかかったんですから)これは奇跡の様な例外的な現象です。

動物にいまのところ、「こころ」はありません。未だ種があるだけです。
怒りはあっても、不安はもちあわせない。

それは、こころが生まれたばかりの時代(今から3000年くらい前)の人々の書いたものを遡るとそれに近いものの考えが想像できます。すなわちそれは動物にも近いということをあらわします。
こころを持つということは、自分を突き放して、自分から外に出て、自分を見ることです。意識の誕生です。それはたいてい死を目撃することから始まります。死を意識する(対象化して見る)ことから、今自分は生きていることを意識します。そしてそれが有限の時間というものであることを。一方で、自分を見れるということは、道具のように自分を自分で扱えるということです。何を意味するかと言うと、自分の運命を変えることが出来るということです。決められるのです。自分で。神の真似をしてしまいました。これは一方で、たいへんな「孤独」(不安)を手にしてしまいました。誰も助けてはくれません。それは西洋の歴史の混迷が教えてくれています。孔子の時代が教えてくれます。でも話が拡がってしまいます。ここでは、「こころ」の薄かった時代の考え方をしのんで、動物のそれを推測することでした。しかしそれには大変な時間と資料が必要です。従ってここでは、生まれたばかりの赤ん坊を想像してみれば近いかもしれません。私達はお母さんのおなかの中に宿って以来、脊椎動物5億年の進化(変身)の歴史を超高速で辿るわけですから(1)、当然「こころ」の無かった時代もくぐる訳です。それが赤ちゃん時代です。赤ちゃんにも原始的な喜びや怒り、恐怖は在るけれど、悩みや不安は在りません。言葉や論理性(意識)を身につけていない抒情の世界に生きています。
その赤ちゃんに「こころ」が宿る瞬間はまさにこの瞬間だとは言えませんが、
音に関する刺激が関係すると思われます。文字ではなく、話し言葉。
お母さんなど様々な外界からの働きかけ、子守唄、息使い、語りかけ、ピアノの音、リズムなどから、それらを真似します。口ずさんだりリズムをとったり。こうして言葉を獲得します。この辺りからでしょうか変な感じがしてくるのは。「ものごころ」がつくんですね。3歳くらいからでしょうか。そういう情のこもった声かけなどが多かったのかもしれませんね、「みいちゃん」には。おじいさんや孫からの。人間のように大きな脳を持っていませんから赤ちゃんのようには行きませんが。

この本が、明るく(?)暮らしている私達の「影」の部分を見せてくれたことは大切なことではなかったかと思います。
でも、画一的に特別な職業に誇りを持てとか(どんな職業も威張れたものなんて無いんです)、卑下するとかどちらかに決めてしまうことなく、また「命を頂くのだから大切に感謝して」まではいいんですが、人間は残酷だと叫んだり、逆に生きる為だから感謝すればいいんだとか答えを押し付けたりしてはいけないんだと思います。何より教育は答えを教えることでもなければ、画一的な方法を教えることでもない筈です。何よりその意見に耳を傾け(なりきり=真似てみて)、そののち内面から生まれ出てくるものを「自分の責任で決める」のを側面から応援することだと思いますから。答えは人の数だけあり、誰にも通用する答えなどないのですから。

何が言いたいんだとお叱りを受けそうなので、結びます。
先ほどの悩みを持ち続けなければならない、という話に戻りますが、
この本を書くということは、坂本さんの儀式だったのではないでしょうか。
何の儀式もなしに、「解き」続ければ、頭がおかしくならない方が異常だと思います。
だから、儀式が出来たから、もうしばらく続けてみようという気にもなれたのではないでしょうか。
儀式として、太古は、実際に生贄をさしだしましたが、いまではそれはしません。できません。皆にこころができているからです。だから今では、それは儀式を行う事で、覚悟の証拠を、印(しるし)を残すことです。空間的には自分以外の人や世間・神に、全く現世的に得にならない無意味な行為を示すことで(思うだけでは証拠が見えない、具体的生活の中で示さねばならない。といって得になる事や・ボランティアなどをしたのでは、取引になってしまい(ウイン・ウイン〜嫌な言葉ですね)覚悟にならない)証拠を示します。食事を断つとか、荒行をするとか。外部に向かって告白するとか(親だけとか聖職者にだけという場合もありますね)。坂本さんは本を書いて告白しましたね。恐らく印税など貰っていないのではないでしょうか。或いは寄附とか為されているのでは。
又時間的には、その時が来たら(寿命か事故か)必ずお返しを(自分の身を持って、命を返す)しますと約束することです。儀式なんて信じないと言ったって、未だに地鎮祭とか、お盆とか、お正月とか、初七日とかやってますよ、無くなりませんよね。意味が無いなどと言いながらも。儀式をするのは、守ってくれとかご都合主義でやるものじゃないですね。これから何らかの行為をするに当り、犠牲が出ること・或いは過去に出してしまったかもしれない、それらの「思いをわかっているよ」と見えない犠牲者・観察者に、今迄を振り返りながら、示すことですね。(やり返されてもいいですよと)覚悟を持ってやりますからと意志表示することですね。
まだ少しは感じられてるんでしょうかね、トトロが。


注1
「そこに山があるから」(2015.9.24 -植物と動物-)参照



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