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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2012年06月24日
生命の起源と「物語」1
先日のNHKスペシャル「宇宙の渚」を、ご覧になりましたか?
作りごとの世界を生きることを強要されている中で、久々に「現実」というものを垣間見させてくれた気がして、感動しました。

-青い空が漆黒の宇宙へと変わる、高度十数キロ〜数百キロ。
そこに、“宇宙でも地球でもない世界”がある。
流星が飛び交い、オーロラが輝くその場所を、「宇宙の渚」と名付けよう。
(地球の大気圏に寄せては引き、その都度美しい光を放ちながら、はかなくも消えていく「流れ星」の辿りつく渚というわけです。)
このシリーズは,「渚を介して宇宙と地球は連続的につながっている」という新たな世界観を体感するシリーズである。
古川聡宇宙飛行士は、国際宇宙ステーションから300個もの流星を撮影することに成功しました。
地球に降り注ぐ流星は、暗いものまで含めると、 1日に2兆個、100トンにもなり、流星とともに
たくさんの物質を地表まで届けていることが分かりました。(これはナサや日本の科学者たちが降り注ぐ宇宙からのチリを採取して見つけたことでした。)そのなかには、(余りにも小さく、大気との摩擦もすり抜けて燃え尽きることもなく地上に至る)遠い宇宙で作られた有機物(アミノ酸)も含まれ、そこから私たちの遠い祖先、地球最初の生命が誕生したとも考えられています。 流星は、生命の基を載せて、はるか宇宙の彼方からやってきたのです。--

このことは何を示しているのでしょうか?そう「我々は宇宙人だった」ということなのです。われわれだけでなく、全ての生物がです。

ご存じのように、「生命」とは高分子でできたたんぱく質で、この生命体はアミノ酸の分子の配列によって成り立っているものです。その分子配列(分子情報)をコピーしていくことで命が繋がれていくんでしたね。(遺伝子の配列)

実は地球でもアミノ酸はあった。けれどそれは地球形成時の燃焼で燃え尽きていたんですね。でもそのこと(燃焼)によって、粘土質のような地球の表面が出来上がって、星の爆発などで飛び散って、(地球から見れば)外から来たアミノ酸の情報体のようなものを受け入れる準備ができていたんですね。まるでお互いが、「待っていた」ように。

まるで「夢」のような話ですね。でもこの「夢」こそが現実であるというのが現代に生きる我々の逆説なんですね。
山田太一さんも何処かで、「本当のことを書こうとすると、ファンタジックに書かなければならないし、今の現実のことをそのまま書くと、嘘っぽくなってしまう」と書いておられました。
「今の日本人は生々しい現実と関わらなくても生きていける」とも。

このような宇宙の秘密を解き明かす、科学の力にただただ敬服するのは私だけではないと思います。本当に素晴らしいと思います。

ただ現代人は、この科学の力が余りに素晴らしいがゆえに、この科学的見方で、本当に全てを見るようになってしまった。では、こんな素晴らしい科学的思考・観察の何が問題なのか。一言で言えばその「啓蒙主義的」なところですね。

ご存じのとおり、啓蒙主義は「キリスト教による永い永い中世の闇」が(当初はそれ自体人々の心の不安を救う大いなる思想だったのですが)形骸化し、陳腐な迷信の集まりに堕した時に登場した、理性の光であり、様々な暗闇や「当時の宇宙」の外を照らしだし、人々の不安や恐怖を取り払った功績大なるものがあります。後に自然科学と呼ばれるようになった、「神の領分」として手を出すことを固く禁じられていた「自然」を研究し次々に教えの暗がり(矛盾)に光を当てて行きました。ばらしていきました。
しかしそれでも当時の一流の科学者たちは、キリスト教を捨てたわけではありませんでした。それは、いくら自然界の法則やキリスト教の教えの間違いが発見されても、心の世界は別だったからです。
しかしやはりと言うべきか、やがてこの考えは、心の世界にも適用されるのではないかという類推がされるのは、時間の問題でした。ついにフロイトが「無意識」というものが心の底に横たわっていることを発見するや、その闇に理性・言葉という武器を駆使してづかづかと入り込む動きが加速されました。当時発表された「種の起源」(ダーウィン)もこの動きを加速させ、後にスペンサーなどによって「社会」すら進歩する・進化するものという誤った進歩科学万能主義を蔓延させたくらいです。

二十七歳のシューベルトの日記にこうある。
「おお幻想よ!汝は人類最高の宝。・・・・たとえほんのわずかの人々にしか認識され崇拝されることがなくとも、我らを、かのいわゆる「啓蒙」という、血も肉もない醜い髑髏から守るために!」

現代はこの科学的思考に「欲と金」がぴったりくっついて、人類破滅まっしぐらにあることは改めて説明するまでもありません。
でも今日は人類滅亡の話でなく、「我々が見えなくなってしまったもの」のお話しなので、話を戻しましょう。
ユングは確かにその様な無意識の中に入り込む学問は大切でエキサイティングなものであることは認めましたが、全てを「性的抑圧」のせいにしたり、因果関係だけで測ることはできないのではないか。もう我々には見えなくなってしまっているが、未開人や社会から離脱した人たちにはもっと違ったものが、魂の故郷のようなものが見えていたのではないか?それは言葉には理論には示せなくても、何か喚起させるもの・象徴やシンボルのようなものを通じて感じられる世界を見ていたのではないか。そう意を強くして、フロイトと決別します。
では彼らは、何をどのように感じていたのでしょうか?

2012年06月24日
生命の起源と「物語」2
(続き)
科学的思考の特徴は、「分ける」ところにあります。つまり「ばらす」んです。
「ばらす」は「殺らす」に通じていて、その究極は人間を「精神」と「肉体」に分類して肉体ばかりかあろうことか「精神」=「意識」すらばらして知識の足しにしようとします。
バラバラに分解したものはあとでもとのように繋ぎ合わせても、生き返りはしない。

この例のように、「分けて」、名前を付けて、整理し直し、知識体系を構築し(傲慢な)人間の為の、「知識の博物館」を作るのです。そこにあるのは壮大な(ばらされた)死骸だらけです。

極端な例ですが、ナチのアウシュビッツでの、ユダヤ人大量虐殺が、無意識にもその様な科学や言葉の究極の欲望を露呈しています。
彼ら(ナチの一統)はあろうことか、これからガス室で死のうと言う人たち一人一人に番号を付け、身体に入れ墨を入れ、写真を撮りファイルに整理してからガス室に送り込んだのです。
何のために?「狂気の沙汰」と名付ければそれで、我々の心は恐怖から逃げられるので、そうして眼の前の人間という動物の恐ろしさを具体的な反省につなげることなく、目をつぶってしまいがちですが、これこそが、これこそが「科学的思考」とか「論理」とかに執着することの末路なんです。
思考や論理は、「怒り」の権化と化したヒットラーの手助けでも冷静にやってのけるのです。
「命をばらした」科学的思考はその使い手がだれであろうといつも冷静です。
彼らには、「命」なんか見えていなかったでしょうね。

これに対して、虐殺された人たちのほうは、何と対照的にこんな行動をとったそうです。明日かも、今日かもしれないという恐怖の中で、何の持ち合わせもない中で石や指の爪やチョークの破片で、自分たちの自由を拘束している「壁」に向かって「蝶」の絵を描いたそうです。いたるところに。彼らは言葉や数式は使いませんでした。これはどういうことでしょうか?

ご存じのように、中世の人たちは私達と違って対象をつき放してみることができませんでした。要するに科学的思考が出来なかったのです。それゆえに何をしても何を見ても「自分込み」で見、感じました。
日食があれば恐れおののき(現代人のように観光の対象に何かしません)、隣の家で子どもが生まれれば、自分のことと同じ様に歓び、誰かが亡くなれば自分が死んだと同じ様に悲しみました。自分と「分けて・ばらして」感じ、考えることができなかったからでした。

ユングは語っています。彼がアメリカ先住民のところに行ったところ、みんなが太陽を拝んでいた。昼頃、長老のところに行き「あなた方は太陽を拝んでいるが、太陽は神なのか?」と尋ねた。長老は笑って「あんなのは神ではない」と。 どうもわからないので、いろいろ話していると、要するに朝拝んでいるときだけは、太陽は神様なのです。現代人のように「神様だったら拝む、神様でなかったら拝まない」という対象をつき放して、自分と分けて考えると意味が判らないのですね。

つまりこう言っている。太陽の昇る瞬間の全て。つまりそれを見ている、感じている私、共にいるみんな、それからおそらく雲などその全てがすごく内的な感動を生みます。それこそが「神」と呼んでいるものです。だから、これが神だと指し示せるものではなく、生きているということが神の体験になっているから拝むのですと。
日本にだってそういう体験の記録があちこちに残っています。大きな木や岩に染め縄をしてあるのは、そういう物に対面した時に感じた全てに畏敬の念を感じた、その記憶ですね。
そういう私の全体を揺るがす体験は、宗教性と言えるでしょう。そういう体験こそ、「私はなぜ生まれてきたのか」とか「人生とは」とか言った疑問の解決に繋がるものなんですね。
ところが学校教育の「科学的・突き放し思考」は、そういう非科学的話は、それを突き放します。
オウムのような集団に、知的?高等教育をうけた人たちがはまり込んでいく環境は、未だ亡くなっていませんね。

「蝶」の話に戻りましょう。
極限の環境に置かれた彼らは、どんなにか運命の残酷を、ナチを恨み恐れたことか。それは想像に絶するものがある。言葉で、理屈で判れるものではない。それこそ体験だろう。呪って化けて復讐してやろうと念じた人もいて当然だ。
しかし、いざこれからという時その時に、以前とは違った不思議な「諦念」が拡がったのかもしれない。「もう私達には、残された仕事をする自由がない。これは現実なのだ。私込みの現実なのだ。」
「もう突き放して、人ごとのように観る余裕はない。これが私の人生・物語(悲劇)なのだ」
「せめてやられる前に、お別れをしておこう。自分の人生の最後の儀式を彼らに任せる訳にはいかない」

そう感じただろう悲劇の人たちは、「そろそろ、自分の肉体を脱いでもいいのではないだろうか?」
と考えたと、想像するに難くない。「蝶」は自分の肉体即ち「繭」から抜け出た証なのだ。勝ち負けではない。壮絶ではあるが、安らかな自由な魂の飛躍ではないか。
科学的な言い方では説明できない、シンボリックな表現でしか表せない方法で、彼らは自分で自分の人生を閉じた。
本当の死と再生とはこのことなのかと私は思った。涙が止まらなかった。

「傷というのは、物語に入る入口なんです。出口でもあるし。そして自分の物語が出来た時に、傷はいやされるんです。余り傷の無い人は幸福に生きられるから逆に、周りが傷つくんじゃないでしょうか。」(河合準雄)

ユダヤの人たちほど、激しく恐ろしい「瑕瑾」体験でなくとも、或いは未開人や脱落した人だけではありませんね。ものが見えているのは。
華やかな脚光なんぞ無縁な暗い世界でも、生きることの価値が見えている人が、いつか体験した「傷」をばねに再生を果たし生きている人が、そこにもここにも、ひっそりと、主張せず、興奮もなく、緊張もなくやわらかで限りない自由のある世界を「自分の物語」を黙々と生きているんですね。
そういう人たちを、物語を発見して伝えるのが、小説家やジャーナリストの仕事ですが、そのシンボルのような生き方に、「理性とやらの」光があたった瞬間に、 自然は心を閉ざしてしまいますね。だから彼らは、分析などやめて、「共に寄り添う」かたちで、風景のように垣間見せ、読者に追体験してもらうしかないのです。

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