アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog
プロフィール

冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
リンク集

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog
2011年02月16日
物語に始まる1
古事記や日本書紀などという、「神話」は、嘘っぱちの作りものだ。こんなものを教えるから、日本は軍国主義に向かってしまったんだ。だからその様なものは教育の題材に加えてはならない。我々は「科学的精神」に基づいた真理しか信用しない。そこから民主主義は始まる。そういって戦後は始まった。

「神話」は歴史であり、物語である。

「その物語の一番基本の形は、嘘だったと思うんですよ。例えば何々という地名はどういういわれ因縁でできたか、といった程度の笑い話が、人間が最初に作って喜んだ話だったろうと思う。例えばヤマトタケルがこの港にきて魚を沢山食べて食べ飽きた。と言ったからこの土地を飽田(あきた)という、とかね。」「そういう調子で古代人は法螺話、嘘、冗談などいろいろな物語を作った。その物語の特徴は、はじめがあり半ばがあり、終わりがある、起承転結がある。そうやって人間は外界を「物語」という型によって見るようになったと思うんです。」(丸谷才一)

19世紀末から20世紀にかけて活躍したドイツの動物行動学の研究家ユクスキュルによれば、動物たちはそれぞれがそれぞれの「環世界」という物を持っているという。人間も例外ではない。(動物学者の日高敏高さんはこれをイリュージョン(幻影)と呼んだ)
例えばチョウの場合でも、モンシロチョウとアゲハ蝶でもその見ている世界は違う。もしわれわれが見ているものを現実とすれば、チョウの見ている世界はそれと違う物である。では人間の見ている・認識している世界は、はたして「客観的」と言えるものなのだろうか?それだってあやしい。なぜって我々には紫外線や赤外線が見えない。知覚の枠という物があるからだ。
このことは逆に人間に認識を可能にしている原因になっている。認識とは本来、他と区別することだから。

確かフランスの哲学者ガストン・バシュラールは、「人は自分の見たいものしか見ていない」といった意味のことを書いていたのを記憶している。そうだとしたら、「客観的世界」などという物は成り立つのだろうか?区別する者のない世界って、のっぺらな何も無いとおなじ「空」の世界なのではないか?認識の無い世界?そこまで判った上で、「般若心教」では、色即是空と言ったのだろうか。

(続く)

2011年02月16日
物語に始まる2
(続き)

少し話はずれるが、
「人間の脳の中には1000億個以上ものニューロン(神経細胞)があり、これに髭のような連絡の糸がついて(シナプスという)他のニューロンと情報のシグナルやサインを繋ぎ合っている。ニューロンはシナプスを跨ぐたびに他のニューロンとのつながりを、情報をいつも一定に解釈するパターン=回路として保存できるようになる。このパターンの回路を使い、自分と外界との関係を「意味」として解釈できるようになる。自己回路」や「物語回路」など多くの脳内ネットワークパターンがつくられる。
「意味」を覚えるに役立つのが「物語」で、幼児は「自分」を中心にして出来事の後先や物事の関係をつなげることができる・話せるようになる。
これを「自己組織化」「自己編集化」という。
すなわち「自分」、「自己」というものを少しづつ設定することで、その「自己」を仮の主語として情報を組み立てていくようになる。語れるようになる。
よって「自己」でないものは「他者・他人」としての区別ができるようになる。

「不生不滅」とは生死を超えるということよりも、「生も死もない」ということ。詰り誰も生も死も受け止めてみることができないということ。
例えば1本の草に生死を認めることができるか。発芽が誕生で枯れ果てることが死滅などと言えない。種もあるし根もある。その根は根毛の先で土壌と交わっている。どこから根で何処から土だなんて区別できない。われわれの存在も同じ。
誰も自分の生まれも判らづ、死も判らない。判ったらそれは死ではない。我々の存在は1秒ごとに汗や皮膚を外部に捨てており、1秒ごとに外の空気を吸って内に入れている。体中の細胞だって1週間で全部入れ替わっている。どこからが内部でどこからが外部だと決められるものじゃない。
よく言われる例でも、1本の鉛筆がある。これを捨てても無くならない。ゴミステーションに残る。燃やしたとしても、物質的素粒子はなくならない。詰りその全てを無くすことはできない。何かが残る。どのような形でも繋がっている。
それが「縁起」というもの。」(松岡正剛)

何か我々が、日常的に信じているもの、頼っているものが、崩れてくるような話だが、これが科学的という考え方を信奉している(或いは信仰していると言ってもいいかもしれないが)ものの正体なのだ。

アイザック・ニュウトン卿の17世紀は、ケプラーによって太陽が地球の周りを廻っているという「嘘」が暴かれ万有引力と言う真実が発見された世紀だった。その真実もアインシュタインやマックス・ブランクやパウリなどにより相対化されていった。つまり「万有引力」も当時は大発見=真実だったものが、物語に過ぎなかったことが判った。いつの時代も、真実と思われていることは、いずれは物語になるということではないでしょうか?

現代の量子物理学も、ひも理論も、いつかは物語=「嘘」になる。
我々は永遠に客観的世界を見ることはあり得ない。なぜならそれができたら、それは認識ではないから。

アマテラスの国作りや、出雲の国譲りがうそだって?そんなことは百も承知さ。人をばかにするのもたいがいにしてくれ。
我々が物語を読んでいるのは、嘘を探すためではなく、当時の認識の型、ものの考え方・感じ方を知ろうとしているのさ。
我々が歴史で守らなければならないのは、科学的にがんじがらめになった「歴史主義」ではなく、いまの我々を作ってくれた先達の喜びや悲しみやおもかげではないのだろうか?
それがその時代に採らざるを得なかった型、つまり「物語の型」ではないだろうか?聖書の「始めに言葉ありけり」は「始めに物語ありけり」のことではないだろうか?
物語万歳。イリュウジョン万歳。

宇宙人がいるかだって?
我々が宇宙人でしょ?
我々だけ、何か別格な存在なのかい?
人間以外の宇宙人もいると思うよ。何処かに。
当然でしょ、現に人間という宇宙人が存在しているんだから。

動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)

新品価格
¥882から
(2011/5/21 11:13時点)



2011年02月11日
箱根小景


夕暮れ時の、三国峠からの富士山です。箱庭のような全景が富士を手に取るようで雄大です。



今度は反対側の芦の湖です。やや時間が遅く、夕暮れに近く少し淋しい
光景でした。



駿河湾の静かな黄昏時です。上から眺めると、自然の深さを感じますね。



日の入りは、あっという間に過ぎ去ります。ぼやぼやしているとこの通り。



ようやく、開いた梅の便りです。寒さの中でも、ほんのり甘い香りに
夢見心地です。

<< 2011年02月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
最新記事
最新コメント
AhmdEmory
今年のお彼岸 (01/29)
AhmdEmory
今年のお彼岸 (01/24)
KbctFuck
今年のお彼岸 (01/21)
スーパーコピーブランド専門店
エポケーという方法 (07/08)
流行や人気モデルの最新情報など、憧れのブランド全部満載しております。
栗のみ食いたる娘 (07/07)
人気スーパーコピーブランド時計激安通販専門店
富士山世界文化遺産登録の理由・・・・「芸術の源泉」とは (06/30)
スーパーコピーブランド専門店
初春 (06/30)
スーパーコピー時計
「世話あない」 (06/30)
スーパーコピー時計
東山魁夷 白馬はなぜ現れたか (06/30)
do cau lure
豊かな社会1 (01/15)

×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。