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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2014年09月29日
B先生へ(中井久夫氏とシャスティン・モベリに学ぶ教育の環境) 1
先日の、企業の姿勢に関するご共感嬉しく思いました。御心配されておりました子どもたちの将来環境について、日頃思っていることを述べさせていただきます。大変大きな問題なので、一言で表現できる力は私にはありませんので、筆を執らせていただきました。と言いましても内容は尊敬する精神科医の中井久夫さんやスエ―デン生理学者シャスティン・ウブネース・モベリの受け売りで、私のオリジナルなものはこれらの方々の考えに対する思い込みのみであることをお断りしておきます。それ以外の方々の引用につきましては都度注釈を入れました。

人類の歴史、とりわけ西欧型文化の歴史は、脳に巣食った観念のたゆまざる外在化にありました。足の代わりに、自動車を、食物の代わりにサプリメンツを、体毛の代わりに衣服を、頭脳の代わりにコンピュータを、原子同士の譲り合いの幸福な繋がりを断ち巨大な怒りを取り出し爆弾を発電を、あらゆるものをコントロールできる外部に出し、自らは無菌室で無ければ生きられない虚弱な生き者に舞い戻ろうとしています。

それはものが本来ある場所から、眠りの平穏から揺りおこし、対象化し、この手に取り出し我が支配のもとに置こうという試みでした。人はこれらの進捗を進歩とも言う。(だが一度引き剥がし「定義」されたものは二度と元には戻らない。DNAを使ったクローンやIPSによる細胞のリセットがどのような再生を見せてくれようともである。エスペラント語に感じる名状しがたい何か決定的な欠如。カナダの生理学的実験による真のバイリンガルは存在しないという事実。日常生活では無視してよいこの差異は何時か積もり積もって、想定外の悪さか、はたまた福音をもたらすのでしょうか?大航海時代の西欧の略奪が富とペストをもたらしたように。如何に巧みに「似せもの」を、再生産してもその歴史的過程や奥域は写し得ないと言う事でしょうか。
その方法は二元論的対峙から始まります。我と汝、言語と無意識、正気と狂気(理性と非理性)、無菌と細菌、正常細胞と腫瘍、平野と森、時間と永劫回帰、医療と看護(*1)、市民と奴隷、健常者と病人、イネと雑草(後述)、貨幣経済と贈与経済(支払いとお祓い)、雇用とリストラ、枚挙にいとまがありません。こうして人類は内部に眠る力を、外在化し続けている。これが進歩と言うなら、進歩とは人間という全体性の放棄の歴史と言う事になる。(ユートピア志向は、未来志向ではなく母の子宮の甘い眠りの時代への退行志向であることを思い起こされたい。)

西欧は又、世界が好ましい方向に向かい、人類社会が進歩すると見る点で特異な文明です。(大多数の文明はむしろ世界は次第に頽落しつつあるという信念あるいは神話を持っていた。)その自信を決定的にしたのは産業革命の成功(?)と進化論でした。イギリスにおいて二次に亘る「囲い込み」による自国民への搾取から、非西欧民族への搾取に至った時が、プロテスタントの勤勉の倫理が、支配の倫理に豹変した瞬間であり、神の死が世俗的となった瞬間でもありました。この進歩への信念は、先行文明を学習しつつ自らを確立する文明に特有のものかもしれません。日本やアメリカにおける進歩の信仰の抵抗なき受容が思い起こされます。
先に述べた様に、進歩とは又邪悪なるものの排除でした。二元論的に分けられた、片方を片方が絶滅させたり排除したり、囲い込んだりするのです。この観点からすると、魔女( *2 )も、働かざる者も、理性を持たざる者も、伝染病患者も、病も、細菌も、非介護者も、等しく排除清掃・囲い込みされるべきものでもありました。

このような排除の論理がもたらすものは、弱者の強化に過ぎません。抗生物質とウイルスのいたちごっこ、日本農民の勤勉な刈り取りが作った世界最強の雑草、必要以上の生産品の貯蔵がもたらす富の偏りと、弱者のゲリラ化・テロ正当化であることは明らかながら、その方法を見直す気配すら見えません(オバマも、その限界は知りつつも、選挙で手を組んだ勢力(軍)の、排除の論理強硬論に抗えないようです)。
後に続く人々も、次の時代は自分達の番だと手ぐすね引いて待機しています。
平穏から、安全の観念を引き出したためにその表面積は巨大化し、恐ろしくコストのかかる安全に変わってしまった。医療従事者、警察官、警備員、防犯カメラ、除染費用、住民補償、医療費やこころのケア等々、嘗てと現在を比較してどちらが安かったか、バランスシートを試算した人がいるという話を聞きません。
他に方法は無いのでしょうか?第3の道は?
北欧の一部や世界の小数派は、既にこの愚に気付き、「闘争か逃走か」の反応にではなく、「安らぎと結びつき」のシステムを追求し始めています。排除ではなく共存の論理を。その代表的なる一例は次のとおりです。

1906年英国の研究者、ヘンリー・デールは、脳にある下垂体の中に、出産の経過を加速する物質を発見した。彼は「速い」と「陣痛」という意味のギリシャ語にちなんで、それをオキシトシンと名付けた。オキシトシンは伝統的に、雌性ホルモンの一つとして考えられてきた。そう、出産や育児に必要なホルモンとだけ考えられてきたのだ。しかし研究が進むにつれ、これはとてつもなく偉大な発見であったことが見えてくる。オキシトシンをラットに注射した際の、行動上の変化を見てみよう。
・母性的行動をとるようになる・つがいの形成が引き起こされ促進される・個体間の接触が促進される・不安が減り、大胆さと好奇心が増す・沈静もしくは催眠の効果・痛みの感覚の減少・学習の促進オキシトシンは類人猿とヒトに於いては、心拍数と血圧をもっぱら低下させるようだ。オキシトシンの作用の仕方は、投薬的ではなく、智慧が働く。即ちそれぞれの状況での最適な結果が得られるようにその効果が変化するのだ。そればかりでは無い、オキシトシンは体の多くの部位から放出される。男女を問わずである。そのきっかけは様々なタッチ、マッサージ(触角は「安らぎと結びつき」システムへの強力な入力源だ。個人の独立性を増し、共同作業を減らす風潮の結果として感覚刺激が減少している。この変化は、究極的には私達の健康を脅かす。)であり、食事(内部からのマッサージ)である。大人がマッサージを受けると、血圧、心拍数、ストレスホルモン値が低下する。子どもでは落ち着きが増し、対人的に成熟し、攻撃性が減り体調不良を訴えることも減少する。ぬるめのお湯につかったり、のんびり日光浴をしたり、全身マッサージを受けるのも効果が認められる。「男心を掴むには胃袋から」も嘘では無かった。良好な人間関係、「縁のある」特定の土地や風景、慣れ親しんだ家庭で受ける看護も、脳内オキシトシン放出に関わる。いずれオキシトシンの飲み薬や注射も誕生するのだろうが、その様な安易な考え方が、今日の偏ったストレス充満世界をつくりだしたのだ。大事なのはバランスである。ストレスも適度には必要なものだ。外部に取り出した道具に頼り、自らを無菌人間にするのではなく(排除の論理の裏返しである)、自分の力でバランスをとれる力をつけるのだ。自分の体内で、オキシトシンを放出させるマッサージ(内部のマッサージや心のマッサージ含む)の技術を身につければ、健康増進効果を享受できるのだ。この知識があれば、「残業よりもエクササイズや瞑想、マッサージを優先させるだろう。会議の予定を立てたりパソコンの前で何時間も過ごす代わりに、子どもたちと遊んだり散歩したいと 考えるだろう。

オキシトシンと分子構造が似ていてアミノ酸がたった2つ異なるだけの生化学物質にバソプレシンがある。こちらは、同じ神経系に関与しながら、「闘争か逃走か」の反応に関与する。心拍数の増大、血圧上昇、ストレスホルモンの血中濃度の上昇など「安らぎと結びつき」と逆の反応を示す。突然の身体的危険を避けることを越えて、環境から継続的な要求をされ、それに反応するのが主となってしまっている。今やこの反応は体の持つ全ての力を一時的に動員するという事では無く、ほぼ休みなく続く生理的状態となってしまった。
竹中さん御用達の「市場主義」は、全てマーケットに決めさせればうまくいくというものでした。人間はその奴隷となり、バソプレシンを出し続け、しまいにはこんな面倒な生き者は邪魔だと吐き捨てられるでしょう。一部の階級を除き。だがそれも束の間です。搾取する相手がいなくなれば、共食いしか道は無いからです。かくて完璧な理論だけが残り、肝心の人間は、誰もいなくなるでしょう。商業資本主義はA国の原材料を安く仕入れてB国の製品を高く売る仕組みですが、(今日の)産業資本主義は分業による労働力を仕分けて生産性を高くしその利潤によって資本を大きくしていく仕組みです。原型はアメリカが黒人奴隷を使って綿を栽培しイギリスに売り、イギリスが紡織機を使って綿糸や綿布にして世界中に売る。大変効率がいい。もともとの労働力が奴隷だからです。あとで奴隷を開放してもその収奪と収益のコストパフォーマンスはもとには戻りません。一旦計上した勘定項目は消せなくなっていく。経済主義の怖いところですね。次の奴隷に変わるものが必要となる。植民地です。途上国です。これは世界民主主義の経済理論ではありません。民主主義はもっと手間のかかる、面倒な手続きです。何処かの犠牲の上に成り立つものは偽物です。上に立っているものだけで、経営するものだけで、単純に、スッキリ決めたいと言う誘惑に負けてはならないのです。
なぜ、私がこんなにまで長々と、大人の社会環境と歴史について紹介するのかと言えば、「子どもの社会は大人の社会を映す鏡」であるからで、その構造は先に述べたものの縮図だからです。「被害者はいつも、隔離され、差別されている側だった。」からなのです。いじめの構図(*3)も、権力意識がつくる排除の論理を真似たものです。それは(排除された)被害者を「孤立化」させ、「無力化」させ、周囲からの「透明化」を経て完成します。排除を完成し、絶滅させ、無かったことにする試みです。 【続く】

2014年09月29日
B先生へ(中井久夫氏とシャスティン・モベリに学ぶ教育の環境) 2
【続き】
人間の行動は、「満足を求める行動」と「安全保障感確保の行動」に大別されるといいます。「満足を求める行動」は人間本来生の充実の現れであり、喉が渇けば水を求める行動から、山に登ったり、微妙な知的問題を解くに至るまで同じであり、対人関係の愛や友情も、フェアな競争関係もここに入ります。
これに対し「安全保障感確保の行動」は「自分は安全に庇護されている」と言う感じが脅かされている時、それを守り、この恐怖を出来るだけ遠ざけようとする行動であり、生命活動の自然の発露でなく不安や恐怖に対する意識的な防衛作戦であるようです。
問題なのは、教育に於いて「満足追求行動」の比率が減り、「安全保障感追求の行動」が主流となっていることです。今日の様な、教育と社会的地位の上昇がセットとなっている社会に於いては、教育の本来は置き去られ、「入試に失敗したら大変である」(子ども)「この子が大学に入れなかったら大変である」(親)、「自分の生徒の進学率が下がったら大変である、学校にとっても、自分の将来にも関わってくる」(学校)、と当の学生のみならず父兄も、教育者も同一歩調をとっていることである。その果てに、感情のこもった喜びは無い。心が枯れてくる。教育全体が単色化してくる。唯難関と言うだけで、医学部や司法試験に挑戦する。医師になろうという心構えの乏しい学生が医師になる社会は不幸です。弁護士も裁判官も官僚も同様です。学生生徒も、父兄も、教師も教育の本来の価値を信じようとしないことが最大の問題でしょう。この考え方は我が国において、長期にわたるインフレとその後のデフレにも拘わらず驚異の貯蓄率を維持していることからも推測されます。「安全保障感確保の行動」を優先しているのです。自分以外を信じられないのです。

子どもは発達しつつその日の課題にもこたえねばならぬ点で成人よりも余裕なく危ういのです。成長の為の力を割いてまで競争させる力は一体どこからきているのか。(競争が悪いわけではない。現実を見ないで競争を隠したところで意味が無い。競争一色が問題です。)官民一体となった「安全保障感追求の行動」への衝き動かしなのではないかと思います。日本経済新聞を購読していることが、何かしらのエリート意識をくすぐるのも、これでしょうか。そして、すぐれて明るかった生徒が、まじめでよい子だったばかりに、テスト・テストで目的も判らない強迫観念に憑き動かされて、友達も離れる孤独や睡眠時間の削減に向きあう。「やーめた!」と言えない性格が彼(彼女)の神経を犯し始める。この体制が必ず病気を引き起こすわけではない。しかし、今日の子どもたちが一番恐れているのは、お化けでも戦争でもなく、「生き続けていけない恐怖」かもしれない。国を挙げての「安全保障感追求の路線」から外されることではないだろうか。
私は「あそちゃん」が、日本は世界第二の経済大国だと、アメリカで公言しているのを見て、吉田茂の名もここまで落とされたか、しかもその末裔によって、とそのバカさ加減にスエ恐ろしさすら感じた。諸外国はこの言葉をどのように受け取っていたのだろうか。そしてこのような人物を、依然として永永と国会に送り続ける国民の意識を思って哀しくなった。

私はテロ化し、反抗する子どもたちに、やるならもっとフェアに、真剣にまじめに反抗してほしいと言いたい。それを真に受け止めることができない教師や教育界であるなら、テロを覆すことはできないし、そんなものは不要だとさえ思います。
学校では「答えの用意された問題。」しか与えなかった。だから優秀な生徒は「安心して」勉強できた。心に全く不安を持たない、底抜けの自信家の馬鹿さ加減。
成績が良いだけで、有利な生活環境を求めて教員資格を取得し教師となったものは、「答えの用意されていない問題」に対峙した時見て見ぬふりをする。その段階で教師の資格は無いのです。
教師は教養を教えなければならない。教養がある人(*4)とは、知識がある人と言う事では無い。どのような場面に遭遇してもそれにふさわしい行為の取れる「演技力=振る舞い力」の或る人ということだ。そこがわからない人はすぐさま教壇から去らねばならぬ。教育が、教養に向けて花開きたい衝動の上に出来るかさぶたを剥がし、それを「引き出す」ことであり、よい「聞き手」であることを身を持って実践している教師。「この先生は(脱皮に必要な経験である)秘密を守ってくれる」ことが実践で感じられてはじめて子どもは真実を話してくれる。子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはばかばかしい権威(silly authority)にだけだ(サリバン)
教育の本来を目指す試みは、少数ではあるが、一部の風変わりな教師や私学の間に脈々と続いている。

(*1)医療と看護(ナイチンゲールの努力は看護を専門職として社会に承認させることに成功した。同時にnursingの両義性が露呈される。即ち看護することであると同時にnursery rhymesが子守歌であるごとく、患者を子ども扱いする傾向であった。ナポレオン時代の医療体制の整備に始まり、大学にaffiliateされた研究中心の都市病院を頂点とするピラミッド型の構成が為される中、看護は医師中心の医療に組み込まれ、医療補助者として位置付けられた。同時に看護者は次第に管理者になり下がった。独自を追求する道を選ばず、医療を補完する道を選んだ。医療が見放した(やり散らかした)患者を救いうるのは、看護では無かったのか?「だいじょうぶだよ、ゾウさん」!by ローレンス・ブルギニョン)
看護は本来医療の上に立つべきものではないのか。

( *2 )魔女狩りは、中世に起こった出来事では無い。ルネッサンスという時代の変動期の悲劇であり、中世末期の民衆がそれに悩みつつその原因を知りえなかった、騎士層の没落や自治都市の崩壊、農村の荒廃、ペスト、地球寒冷化などを背景とした時代の衰退、豊饒性喪失感に乗じた、ルネッサンス官僚の失職対策であり、異能への化けの皮が剥がれた時、その責任転嫁の結果、血祭りにされた弱者(現在でいうところの精神を病んだ人達)への集団排除と財産略奪である。
恐怖に駆られた民衆と失政非難集中を恐れた官僚たちとの、共同正犯である。
支配者層がかくも強烈な集団被害妄想にかかることは稀であって、400年後に「我が闘争」をテキストとした人達や、我が先祖たちの西欧に憧れながら持った強烈な劣等感の裏返しによる集団狂気まで待たねばならない。

(*3)いじめの構造は3段階を経て完成されると言われる。
*周囲を強制的にいじめる側に引き寄せる「孤立化」の段階。
初期段階で先に行い、よもやこのような大ごとになるとは思えない段階だから可能な、標的周知作戦。教師さえ油断から「そう言えばあいつ、そんなところがあるなあ」と同調してしまう。家庭連絡ノートに書くかもしれない。その軽い気持ちが、被害者を家庭からも孤立させる。被害者は自分は(このくらいは)いじめられても仕方ないな という気持ちを植え付けられていく。この被害者の思い込みが加害者と傍観者を勇気付ける。
*次は「無力化」作戦である。この為の「孤立化」に成功した加害者は、通常ならすぐに問題化する暴力を慎重に行使する。周囲は既にこちら側に引き寄せてある。わづかな反抗を見逃さず懲罰を下す。反撃は一切無効であると信じ込ませる為だ。周囲も嘗て同調したり、見過ごした手前、戒めにくい。自分は指摘する価値が無いとスルーすれば、しめたものだ。その間隙をぬって効果的に暴力を行使する。反抗が悪いことのように思えてくる。大人に訴え出ることには最もきつい懲罰を与え、僅かに残った自尊心を利し、その行為は卑怯であるという道徳教育を施す。(この段階は加害者にとっても、乗るか逸れるかの正念場である。一つ間違えば、表面化しこちらが孤立する。ここでしっかり暴力を行使しておけば、後は構えだけで有効となる)
*最後が「透明化」である。古都の電信柱が、繁華街のホームレスが見えない(見たくない)ように傍観者に「選択的非注意」の見て見ぬふりを選択させる。責任の或る大人もそれなりに一面の心理を含む言い訳を用意する。曰く「自分もいじめられて大きくなった」「あいつに覇気が無いからだ」等々。もう被害者にとっていじめられなかった日は、恩寵のようにすら感じられる。その為なら、大人の前で仲良しを見せることも抵抗が無い。唯眼は笑っておらず、遊びにもダイナミズムが無い。 ここでは、最後の誇りである「家族との絆」さえ破壊させようとする。小使いから、家族から、万引きから金銭を際限なく要求。ここに至って大人の「いじめられているのでは?」は手遅れ。「何をいまさら」「もう遅い」
まるでがんの早期発見・治療に失敗した患者の如くである。
対策はと言っても、まず小さな兆しを見逃さないことである。大げさすぎるほど重大視することである。次に素早い行動である(被害者の安全確保先決)。何があっても被害者の立場に立つことを明言する覚悟を示すことによる孤立感の解消であろう。何にもまして口ばかりでなく実行ができるかであろう。学校は、世界でも稀な警察のいない無法地帯である。その状態を良しとするのであれば、その無防備の隙を突く輩には大げさと言われるほど、素早い行動ができなければならない。寝ずに加害者の監視をする覚悟を示さなければならない。そして慎重かつ敏速に裏を取る。警察が刑法の番人なら教師は心の番人でなくてはならない。「何もそこまで、という隙」をついてくるのだ。これは見えない戦争である。いち早く加害者側のアドバンテージを取りに行かなければならない。また表面上の平穏が戻ったとしても、後の「お礼参り」までも視野に入れた徹底的な対策が必要なのだ。「この学校ではいじめはもうできない」との、加害者の孤立化・無力化の後の健全な歓びの発見(加害者のケア)まで厳しく見守るという、共存化までの気の遠くなる道行きを覚悟しなければならない。※私の独断が混じっている為、正確な知識は「アリアドネからの糸」(中井久夫/みすず書房)を参照されたい。

(*4)教養とは、単なる知識の習得でなくその知識をどう生かすかの「演技力=振まい力」だと思います。チャタレー卿の妻であるコニーが森番のメラーズを愛し結婚しようと決心し、それに反対だった姉のヒルダが二人に会った時のこと。
「かれはパンを切り終わると、腰を下ろしたままじっと動かなかった。ヒルダは嘗てのコニーがそうだったように、その沈黙と孤独とにこの男の力を感じた。テーブルの上には、小さな感じやすい、『力を抜いた手』がある。この男は単なる労働者では無い。いやどうして。彼は自分を演じているのだ。ヒルダは相手の様子を窺いながら、この森番が「(貴族の)自分
などよりずっと繊細な育ちのいい人間」であることを感じざるをえなかった。」森番をしながら彼は学習し「時と場所によって使い分ける振舞いを即ち教養を身に着けていた」と言っているような気がします。 (D・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」福田恒存訳)

2014年09月29日
お詫び
永いこと更新を怠り、済みませんでした。
しばらくの間、図書館司書の資格取得に挑戦しておりました。
よれよれになりながらも、辛くも取得出来ました。

これから、あまり間隔を空けずに、更新したいと思っています。

どうぞ、ごひいきに。

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