2019年03月27日
「僕が笑うと」は、ぬくもりの中に戦争責任を消してしまった。
関テレ60周年番組「僕が笑うと」を見ました。この手のドラマには大変弱く、懐かしさと、愛情に涙が止まりませんでした。自身の幼いころの欲しくてももらえなかった愛情に浸りきっていました。大変幸福な、安らかな時間を過ごさせてもらいました。
イノッチの大根役者ぶりも、これから将来の演技の主流になるのかもしれませんね。9代目市川團十郎は、人形浄瑠璃から発したと言われる歌舞伎の誇張的な、人形的な演技を、人間的・写実的なものに変えようとして大根役者と言われたようですが、今はこの写実的が(歌舞伎はそうでもありませんが)役者評価の基準になっているように、彼の演技も唯のど素人か、はたまた新時代の「リアル」の基準になっていくのでしょうか。
ともあれ大変に泣かせてくれたこのドラマですが、そしてこれから何度でも見たくなるドラマですが、一方でこの中でよそ事の様に、悪魔の様に扱われていた戦争こそ、この我々の生き方が齎していたんだなーという事も痛切に感じざるを得ませんでした。
どうしてもこのぬくもりを守りたい。その甘えこそが、私たちの共同体を守る=外の論理の排除=暴力肯定に、そこを見たくはないけれど繋がっているという事が。私はそれを、ドラマの中の「いじめっ子」の退治や、逃げ足の速さや、憲兵退治の方法に見ました。「強いものに勝つにはこれしかない」という、既成事実を先に作ってしまいその後で反省して、ボールを相手に預けるという方法は、忠臣蔵の頃からの巧みなやり方でもありますが、「なーなー」の村社会内部では通じても、本当に何物か判らない外部を相手にしては通用しないと思いました。であれば、気の遠くなるような困難ですが、世界共和国のような地球全体で、国家を越えた共同体を作り、争いをなくそうという発想も、地球内部では有効だと思いますが、それでも大きくした村を主体とし外部を排除することに変わりはありません。また外部は人間とも限りません。ウイルスかもしれませんし、別次元かもしれません。言葉や音や色が通じない相手かもしれません。
ではどうしたらいいか。答えは簡単かもしれません。「排除」から「共存」へでしょうか。しかし言うは易く、「行うは難し」の通り大変な一人一人の覚悟が必要です。共存を覚悟することは、「諦め」ができなければなりません。「抑圧」ではありません(抑圧では、いつかどこかに必ず「回帰」します)。諦めは、限りなく広がる(他者の)欲望の実体を知り、それが自分のものではないことに気付き、自分のふさわしいサイズ(分・ぶん)を自分で決める事です、自分なりの本当の欲望を知ることです。それは思い込みや思考停止で固くなった心の下層にまで降りて、「超自我」の再点検をするという困難且つ辛く嫌な仕事です。それはこのドラマで言えば、感動的で素晴らしい家族愛の否定にも繋がりかねません。そんな世界に降りていきたくありません。でもこうなったら(男たちの身勝手な一代限りの欲動の後始末に付き合って)行くしかないのです。そうしなければ、あの素晴らしい家族愛の影に、人知れず犠牲になって消されていった幾万のアニマ(魂)に知らん顔をすることになるのです。心はそれを感じられるから、負い目を感じ、それ故生きられなかったアニマの眼を通して涙を流すのです。もしこんな不合理な「心」が無かったら、全てアルゴリズムの論理に即して世界は動き、合理と合理がぶつかって、すぐにも人類も滅亡に向かうでしょう。事実世界は心の無い時代に突き進んでいます。そんなの「ダサい」と吐き捨てて。
心の深層というのは、既に私ではないので、存在するとは言えない領域なのですが、生と死の区別もない世界です。両者は同じものの違う面から見たものであり、「生」とは、遠くの声(未来)に引っ張られ、そこにありそうでない「無」に向かって突き動かされる「ゆらぎ」であり「よそ見」である欲動であり、エントロピーに逆らう逆因果性(索引性)の動きです。一方「死」とは元いた、在ったところ、即ち無機質に戻ろうとするタナトスの向かうところです。それは空や宇宙の深い青を、海岸で何時間も眺めていられる海の青や、唯の邪魔者でしかないアルプスや富士の山や、キャンプファイアーでいつまでも眺めていられる焚火に引き付けられる欲動です。いずれにしてもその向こうに見ているのは我々の根源である無です。死と生が同じという事は、「物が事である」というのと同じことです。それは言い換えれば光が波動(事)であり、且つ粒子(物)であるという事です(世界は「ゆらぎ」で構成されていると言われます。物が静止して見えるのは、我々のゆらぎ(振動数)と、対象のゆらぎの波長が合っているからです。ですが逆に言えば、我々が知っている世界はそれだけしかないという事でもあるのです)。
話が広がり過ぎましたが、こうした意識の底に降りていかない限り、心の間違いに気づけませんし、正す勇気も持てません。人間のサイズに合った自由(倫理)に到達できません。互いのこころを、そこまで降りて通わせた後に、即ち「気が合った時に」(もうその時は対立などあり得ません)、音合わせが済んだ時に自然と演奏が始まる(意見がまとまる)のが「龢(わ)して同せず(孔子)」です。意見が違っても、仲良く同するという意味ではありません。龢するとは、異なった音程を持つ笛を同時に演奏して(排除せず、無理やり同一化もせず)、そこに調和を見る事ですね。こういう心の使い方がだんだんわからなくなっています。悲しいことです。
暖かく感動的な生(家族)の影に消えていった無念の魂達に、哀悼の意を!
イノッチの大根役者ぶりも、これから将来の演技の主流になるのかもしれませんね。9代目市川團十郎は、人形浄瑠璃から発したと言われる歌舞伎の誇張的な、人形的な演技を、人間的・写実的なものに変えようとして大根役者と言われたようですが、今はこの写実的が(歌舞伎はそうでもありませんが)役者評価の基準になっているように、彼の演技も唯のど素人か、はたまた新時代の「リアル」の基準になっていくのでしょうか。
ともあれ大変に泣かせてくれたこのドラマですが、そしてこれから何度でも見たくなるドラマですが、一方でこの中でよそ事の様に、悪魔の様に扱われていた戦争こそ、この我々の生き方が齎していたんだなーという事も痛切に感じざるを得ませんでした。
どうしてもこのぬくもりを守りたい。その甘えこそが、私たちの共同体を守る=外の論理の排除=暴力肯定に、そこを見たくはないけれど繋がっているという事が。私はそれを、ドラマの中の「いじめっ子」の退治や、逃げ足の速さや、憲兵退治の方法に見ました。「強いものに勝つにはこれしかない」という、既成事実を先に作ってしまいその後で反省して、ボールを相手に預けるという方法は、忠臣蔵の頃からの巧みなやり方でもありますが、「なーなー」の村社会内部では通じても、本当に何物か判らない外部を相手にしては通用しないと思いました。であれば、気の遠くなるような困難ですが、世界共和国のような地球全体で、国家を越えた共同体を作り、争いをなくそうという発想も、地球内部では有効だと思いますが、それでも大きくした村を主体とし外部を排除することに変わりはありません。また外部は人間とも限りません。ウイルスかもしれませんし、別次元かもしれません。言葉や音や色が通じない相手かもしれません。
ではどうしたらいいか。答えは簡単かもしれません。「排除」から「共存」へでしょうか。しかし言うは易く、「行うは難し」の通り大変な一人一人の覚悟が必要です。共存を覚悟することは、「諦め」ができなければなりません。「抑圧」ではありません(抑圧では、いつかどこかに必ず「回帰」します)。諦めは、限りなく広がる(他者の)欲望の実体を知り、それが自分のものではないことに気付き、自分のふさわしいサイズ(分・ぶん)を自分で決める事です、自分なりの本当の欲望を知ることです。それは思い込みや思考停止で固くなった心の下層にまで降りて、「超自我」の再点検をするという困難且つ辛く嫌な仕事です。それはこのドラマで言えば、感動的で素晴らしい家族愛の否定にも繋がりかねません。そんな世界に降りていきたくありません。でもこうなったら(男たちの身勝手な一代限りの欲動の後始末に付き合って)行くしかないのです。そうしなければ、あの素晴らしい家族愛の影に、人知れず犠牲になって消されていった幾万のアニマ(魂)に知らん顔をすることになるのです。心はそれを感じられるから、負い目を感じ、それ故生きられなかったアニマの眼を通して涙を流すのです。もしこんな不合理な「心」が無かったら、全てアルゴリズムの論理に即して世界は動き、合理と合理がぶつかって、すぐにも人類も滅亡に向かうでしょう。事実世界は心の無い時代に突き進んでいます。そんなの「ダサい」と吐き捨てて。
心の深層というのは、既に私ではないので、存在するとは言えない領域なのですが、生と死の区別もない世界です。両者は同じものの違う面から見たものであり、「生」とは、遠くの声(未来)に引っ張られ、そこにありそうでない「無」に向かって突き動かされる「ゆらぎ」であり「よそ見」である欲動であり、エントロピーに逆らう逆因果性(索引性)の動きです。一方「死」とは元いた、在ったところ、即ち無機質に戻ろうとするタナトスの向かうところです。それは空や宇宙の深い青を、海岸で何時間も眺めていられる海の青や、唯の邪魔者でしかないアルプスや富士の山や、キャンプファイアーでいつまでも眺めていられる焚火に引き付けられる欲動です。いずれにしてもその向こうに見ているのは我々の根源である無です。死と生が同じという事は、「物が事である」というのと同じことです。それは言い換えれば光が波動(事)であり、且つ粒子(物)であるという事です(世界は「ゆらぎ」で構成されていると言われます。物が静止して見えるのは、我々のゆらぎ(振動数)と、対象のゆらぎの波長が合っているからです。ですが逆に言えば、我々が知っている世界はそれだけしかないという事でもあるのです)。
話が広がり過ぎましたが、こうした意識の底に降りていかない限り、心の間違いに気づけませんし、正す勇気も持てません。人間のサイズに合った自由(倫理)に到達できません。互いのこころを、そこまで降りて通わせた後に、即ち「気が合った時に」(もうその時は対立などあり得ません)、音合わせが済んだ時に自然と演奏が始まる(意見がまとまる)のが「龢(わ)して同せず(孔子)」です。意見が違っても、仲良く同するという意味ではありません。龢するとは、異なった音程を持つ笛を同時に演奏して(排除せず、無理やり同一化もせず)、そこに調和を見る事ですね。こういう心の使い方がだんだんわからなくなっています。悲しいことです。
暖かく感動的な生(家族)の影に消えていった無念の魂達に、哀悼の意を!