2018年01月04日
新年に寄せて
新年おめでとうございます。
年々儀式らしいことができなくなりつつあり(儀式には仲間が必要ですから、全てにおいて「分散」が特徴の新しい「中世」に入りつつある現代の宿命でしょう)、寂しいお正月ですが、皆さんは如何お過ごしですか。
それでも、あんなに馬鹿にしていた第9の良さも感じられたり、変わらぬ自然の感触、山際に顔を出す大きな月や、富士の一日のスペクトラムをゆっくり眺め言葉から離れた感覚を懐かしむこともできました。テレビも好きな方で、新海誠さんの「君の名は」には、改めて現実の「裏」を想像することの新鮮な喜びを味わいました。
「裏」とは「心」のことですね。「甘えの構造」で有名な土井健郎さんの「表と裏」という本で改めて知らされました。彼によれば、オモテが顔であれば、ウラは心(影)ということになり、羨む(うらやむ)とは、ウラ(心)が病む、恨むは、(相手の)ウラ(心)を見るということになります。「君の名は」ではたった数行の記事(現実=オモテ)に隠されたウラ(心)を、言葉や映像(虚構)を使ってオモテに引っ張り出した試みでしたね。科学的に証明などできる事ではありませんが、否定もできない。信じるか信じないかの世界ですね。この場合信じるというのは、なにもあの物語の構成人物や舞台が本当に居たり、あったなどという意味ではありません。それは虚構(象徴)ですから。しかしあれ(象徴的表現)に反応して心が動くという、ものの存在は信じられます。これが宣長の言う「もののあわれ」ですね。この「もの」とは、物でもなく霊でもありません。人間だけが感じる、或いは高いところ、遠い所に引っ張られる何ものかです。本能と行動がぴったり一致した動物の大部分にはない、新人が進化しつつあるときに我々を引っ張り、ベクトル(方向)を持たせた何かです。
勿論そこに「神」を想像してもいいですが、そういったとたんに、嘘っぽくなり、何か人格的な塊を想像してしまいますから。現代人にはもう神は見えませんし、そういうものを、もう当てにしてはいけないのです。ましてそれを口実にして徒党を組み、仲間に引き入れようとするなど、自身の行為に自信が持てない証拠です。単なる正当化です。それは先ほどの、持たされたベクトルを逆方向に進める、地上に引きずり降ろそうとする、世俗化行為に過ぎません。
さきほどのテレビで、二千何年かには思ったことが、行動を起こさずにドンドン実現できる、そのような時代は、もうすぐそこに来ているといったバラ色の未来を予告するCMが放映されていました。こういうことを、何の疑念もなく「良いことをしている」と盲信して、受け手の方も、「へー、便利になるね。早く来てほしいね」と感じている。この風景が現代を象徴しますね。
「便利だよ、楽だよ」という方向は、人間を「家畜化」する方向ですね。ネオテニーのお話(2016.5月)のところでしましたが、家畜化されることで餌の心配はいらなくなり、オオカミは犬に、イノシシは豚に、虎は猫に、チンパンジーは赤ん坊化して人間に、方向的に退化していきます。「食う」為の心配はいらなくなるし、囲われているから「食われる」心配からも解放されます。人間も自らのベクトルの変更で、あの遠くから引き付けられる声を忘れ、地上の酒池肉林の世界に引きずり落とされたい本能的欲望まっしぐらです。
「便利だよ、楽だよ」の囁きは、官能的な美しく優しい天使の顔をした悪魔で無ければいいのですが。その誘いに乗った人類は、ますます筋力も思考力も退化して、やれストレッチだ、消毒だと便利に、清潔になればなる程に倍増する、自らのケア作業に・リスクヘッジに、丸一日を費やしても遣りきれない奴隷の様な日々を送り続けるのでしょうか、それともなすがままに退化して、心がどんどん後退して、遂には「本能」と一致するところまで後退し、本能を飛び出た部分(精神)は完全に消え、動物の仲間入りしたのはいいけれど、筋力も思考力もすべて捨ててしまい、野生の中では嘗ての洞窟の中で「食われる側」として隠れて怯えていた頃よりも更にみじめで、一日と持たず肉片と化してしまう、おいしい肉の塊となって一貫の終わりとなるのでしょうか。
嘗てそんな変わった動物が何万年か存在して、霊長類だなどと勝ち誇っていたが、宇宙の営みから見ればほんの一瞬に過ぎない間のことで、信じるに値する物語かどうかもわからないと、どこかの星の変わり者か、奇跡的に生き残った狂人が、想像力を駆使して、その時代に引っ張り出すかもしれませんね。「君の名は」と。その時が存在すれば「何かそんな記憶があったような気がするが、思い出せない。何かが読んでいるようだ。」と誰にも相手にされないドラマが繰り返されるのかもしれませんね。
渡辺慧さんは、その人間だけのもつ、未来に引っ張られる特徴を「人間の索引性」と呼びました(「生命と自由」岩波新書)、稲垣足穂は、「地上とは想い出なり」(「天族ただいま話し中」角川書店)としました、森鴎外は「遠くを見る眼」(「安井夫人」)と言いました。そして、木村敏さんはその主著「時間と自由」のあとがきで、「私たちが自分の人生と思っているのは、誰かによって見られている夢ではないのだろうか。・・この夢の主は、死という名を持っているのではないか」として、私たちの傍らに存在しているらしい高次の現実を述べられていました。
私は凡人の為、若いころ運転免許を取り立てで、真っすぐ進むのが難しく、両側の白線やセンターラインを見ながら、ハンドルを右往左往させて運転していたところが、友人から、「遠くを見ないから、真っすぐに進めないんだ」と諭されました。我が意を得たりと感心しましたが、友人は今でも、「そんなこと言ったかね」ととぼけています。
長話が過ぎました。皆さん、天使の顔をした悪魔が見える眼、遠くを見る眼、そこに山があるから登るこころを養いましょう。
年々儀式らしいことができなくなりつつあり(儀式には仲間が必要ですから、全てにおいて「分散」が特徴の新しい「中世」に入りつつある現代の宿命でしょう)、寂しいお正月ですが、皆さんは如何お過ごしですか。
それでも、あんなに馬鹿にしていた第9の良さも感じられたり、変わらぬ自然の感触、山際に顔を出す大きな月や、富士の一日のスペクトラムをゆっくり眺め言葉から離れた感覚を懐かしむこともできました。テレビも好きな方で、新海誠さんの「君の名は」には、改めて現実の「裏」を想像することの新鮮な喜びを味わいました。
「裏」とは「心」のことですね。「甘えの構造」で有名な土井健郎さんの「表と裏」という本で改めて知らされました。彼によれば、オモテが顔であれば、ウラは心(影)ということになり、羨む(うらやむ)とは、ウラ(心)が病む、恨むは、(相手の)ウラ(心)を見るということになります。「君の名は」ではたった数行の記事(現実=オモテ)に隠されたウラ(心)を、言葉や映像(虚構)を使ってオモテに引っ張り出した試みでしたね。科学的に証明などできる事ではありませんが、否定もできない。信じるか信じないかの世界ですね。この場合信じるというのは、なにもあの物語の構成人物や舞台が本当に居たり、あったなどという意味ではありません。それは虚構(象徴)ですから。しかしあれ(象徴的表現)に反応して心が動くという、ものの存在は信じられます。これが宣長の言う「もののあわれ」ですね。この「もの」とは、物でもなく霊でもありません。人間だけが感じる、或いは高いところ、遠い所に引っ張られる何ものかです。本能と行動がぴったり一致した動物の大部分にはない、新人が進化しつつあるときに我々を引っ張り、ベクトル(方向)を持たせた何かです。
勿論そこに「神」を想像してもいいですが、そういったとたんに、嘘っぽくなり、何か人格的な塊を想像してしまいますから。現代人にはもう神は見えませんし、そういうものを、もう当てにしてはいけないのです。ましてそれを口実にして徒党を組み、仲間に引き入れようとするなど、自身の行為に自信が持てない証拠です。単なる正当化です。それは先ほどの、持たされたベクトルを逆方向に進める、地上に引きずり降ろそうとする、世俗化行為に過ぎません。
さきほどのテレビで、二千何年かには思ったことが、行動を起こさずにドンドン実現できる、そのような時代は、もうすぐそこに来ているといったバラ色の未来を予告するCMが放映されていました。こういうことを、何の疑念もなく「良いことをしている」と盲信して、受け手の方も、「へー、便利になるね。早く来てほしいね」と感じている。この風景が現代を象徴しますね。
「便利だよ、楽だよ」という方向は、人間を「家畜化」する方向ですね。ネオテニーのお話(2016.5月)のところでしましたが、家畜化されることで餌の心配はいらなくなり、オオカミは犬に、イノシシは豚に、虎は猫に、チンパンジーは赤ん坊化して人間に、方向的に退化していきます。「食う」為の心配はいらなくなるし、囲われているから「食われる」心配からも解放されます。人間も自らのベクトルの変更で、あの遠くから引き付けられる声を忘れ、地上の酒池肉林の世界に引きずり落とされたい本能的欲望まっしぐらです。
「便利だよ、楽だよ」の囁きは、官能的な美しく優しい天使の顔をした悪魔で無ければいいのですが。その誘いに乗った人類は、ますます筋力も思考力も退化して、やれストレッチだ、消毒だと便利に、清潔になればなる程に倍増する、自らのケア作業に・リスクヘッジに、丸一日を費やしても遣りきれない奴隷の様な日々を送り続けるのでしょうか、それともなすがままに退化して、心がどんどん後退して、遂には「本能」と一致するところまで後退し、本能を飛び出た部分(精神)は完全に消え、動物の仲間入りしたのはいいけれど、筋力も思考力もすべて捨ててしまい、野生の中では嘗ての洞窟の中で「食われる側」として隠れて怯えていた頃よりも更にみじめで、一日と持たず肉片と化してしまう、おいしい肉の塊となって一貫の終わりとなるのでしょうか。
嘗てそんな変わった動物が何万年か存在して、霊長類だなどと勝ち誇っていたが、宇宙の営みから見ればほんの一瞬に過ぎない間のことで、信じるに値する物語かどうかもわからないと、どこかの星の変わり者か、奇跡的に生き残った狂人が、想像力を駆使して、その時代に引っ張り出すかもしれませんね。「君の名は」と。その時が存在すれば「何かそんな記憶があったような気がするが、思い出せない。何かが読んでいるようだ。」と誰にも相手にされないドラマが繰り返されるのかもしれませんね。
渡辺慧さんは、その人間だけのもつ、未来に引っ張られる特徴を「人間の索引性」と呼びました(「生命と自由」岩波新書)、稲垣足穂は、「地上とは想い出なり」(「天族ただいま話し中」角川書店)としました、森鴎外は「遠くを見る眼」(「安井夫人」)と言いました。そして、木村敏さんはその主著「時間と自由」のあとがきで、「私たちが自分の人生と思っているのは、誰かによって見られている夢ではないのだろうか。・・この夢の主は、死という名を持っているのではないか」として、私たちの傍らに存在しているらしい高次の現実を述べられていました。
私は凡人の為、若いころ運転免許を取り立てで、真っすぐ進むのが難しく、両側の白線やセンターラインを見ながら、ハンドルを右往左往させて運転していたところが、友人から、「遠くを見ないから、真っすぐに進めないんだ」と諭されました。我が意を得たりと感心しましたが、友人は今でも、「そんなこと言ったかね」ととぼけています。
長話が過ぎました。皆さん、天使の顔をした悪魔が見える眼、遠くを見る眼、そこに山があるから登るこころを養いましょう。