2016年12月28日
第2回 歴史 第3部中世15【日本古代・漢詩から和歌へ・古今和歌集の成立へ】
〈柱の時代から間(真)の時代へ〉
平安初期の貴族の邸宅には、池は配されてはいないものの、南は主人が住まうハレ(よそゆき)の空間、北・東は使用人が住まうケ(普段着)の空間(北・東の対屋は廊で繋がる)として区別された(91)住まいも見られた。
更には、摂関期以降、寝殿造という形式の邸宅に住むようになる。正殿である寝殿を中心として北・東・西に対屋(たいのや)を配し、間を廊などで連結した。前には池を持つ庭園が広がっていた。これらの建物は白木造り・檜皮葺で、一部を除き「壁を持たず、広い空間を
屏風や帷帳(いちょう)などで仕切って生活した。この点が瓦葺と壁塗りの中国式、石づくりの西洋式と異なるわが国独特の建築様式です。見ようと思えば向こうが覗ける、何の仕切りにもならないのに屏風を置くだけで仕切ったことにする。開放的に過ぎる、不思議なハイブリッドな様式です。
古代日本は「柱の時代」と呼ばれ、柱に神霊が招き寄せられ乗り移るものと信じられていたから(真柱)、社も寺院も柱が建物の象徴だった。それが、柱をなくしたわけではありませんが、母屋は塗籠(ぬりごめ)という寝室に当たる区切り(壁)はありましたが、それ以外は屏風・衝立(ついたて)・几帳(きちょう)などを置くことで、それこそ「間に合わせ」た。左右対称ではなく、左右競合とでもいうべき、同じものを、ちょっとした工夫を添えるだけで別のものに変えて表現することもできるという、一つの部屋に四季の移ろいを映し出せる柱と柱の「間」の文化を生みました(やがてそれも、ワンルームから小割の部屋に分割する書院造(92)へ移行していきますが)。屏風・衝立(ついたて)などあってないようなもの。それでもプライバシーだとか、権利だとか、ぎすぎすしないんですね。これは現代人にとっては、非常にルーズで気持ち悪いのかもしれません。でも、どうせ空しい生を生きているのに、何をそんなに隠すというか、閉じこもり一人専有する必要があるのでしょう。そんなところには感動(もののあわれ)はいない。みんなで共有するところに居座ってくれる。減るもんじゃないのに(これは言い過ぎか)。花の命は短いのに。といったところでしょうか。このような平安時代の貴族たちは、実は「不安時代」の無常を強く実感していたからこそこのような生き方ができたのでしょう。
もしこれが、不安は国家に預けてしまい、肝心の人生とは何か、どう生きようかについてはそっちのけで、政治的に平等であること(機会均等)だけが神聖な目的となっている現代であれば、決して生まれない文化でしょう。寄ってたかって「けしからん!」「ずるい!」「おれにも覗かせろ!」でしょうか。
寝殿造の暮らし(源氏物語絵巻・徳川美術館)
〈漢詩から和歌へ・蔵人制と昇殿制と古今和歌集の成立〉
9世紀には唐の影響を受けて、唐風文化が花開いたが、とくに漢詩文が流行した。更に作法に則って文章が書ける文官が重視され、国家の運営には文章が不可欠との儒教的な考えが重視された。書の達人として三筆(嵯峨天皇・空海・橘逸勢)が知られている。又日本では古代からウジ(氏)の貴賤がはっきりし、能力だけでは官人としての出世が叶わず、中国の科挙の様な制度は発達しなかったが、9世紀に入ってからは漢詩文の流行と共に、「文章経国思想(もんじょうけいこくしそう)」といって、国家を運営するには文章が不可欠であり、それができる文官は重視されるようになり、下級氏族であっても菅原道真や春澄善縄(はるすみのよしただ)など出世が可能となった。既に対外戦争の起きる可能性は低下し、国内でも争乱が減少してきたこの時期に、大陸の文化の消化吸収が進み、それだけでは飽き足らなくなってきた日本人は、わが国独自の文化の生まれる感性を磨きつつあった。その一つが「和歌」といわれるものだった。
依然として漢詩文が盛んだった中、私的な宴会などでは和歌が詠まれ、在原業平など六歌仙と呼ばれる人々の活躍もなされるようになり、裏では確固たる位置を占めるようになっていた。
当時から、儒教的な中国人や朝鮮の人びとと違って日本人は恋愛文学というものを低くは見なかった。なぜなら、社会を含めたあらゆる人間の文化の発生のメカニズムに、恋愛という幻想(観念)は大きく関与していたからです。
何しろ、動物は本能に従って、やることをやるだけで、相手がどんな顔をしているか(=精神性を覗かせているか)なんて眼中にないわけですから、だれでもよかった。人間はそうはいかない。人間は本能の上に「物語」の目を重ねて相手を見るから、好き嫌いが発生してしまう。
しかも、その物語の始まりは、自分では決められないから(確率的に好き嫌いは殆ど通らないから)、諦めから出発するしかない。そこにドラマが生まれるわけで、何でも思う通りに進んだら有難味なんて感じられない。自分で決められない生まれつきの百人百様のハンデ(「生まれ生まれて、生の始めに昏し」)を背負っての始まりは、生まれること事体がそういうもので、それは宿命とでもいうものです。そこにこだわって、不可能なハンデの改変の為に一生を費やしてしまう人もいるでしょうし、そんな「いい条件か」どうかなんて物語の本質にあらずと、人と生まれれば誰にでも備わっている「切実さ・情愛」という宝石を見つけ、それを守るこころを大切にすることができる人(動物ではなく)に成れる人もいるでしょうし、様々です。ある時は密通という道徳的規範を破ってでも守り通そうとする。
大半の人たちはそういうものを「女々しさ」のもとに切り捨て、公的規範の支配下に置こうとする「たてまえ」で物語を統率しようとする。そのような理念に風穴を開け、物語を勧善懲悪論から解放された文学にまで高めたのが、後の源氏物語です。
そこには、「たてまえ」からからスタートする現実離れした漢文化にはない、国風の文学があります。
少し砕けた言い方をすれば、私はあの人となら付き合ってもいいとか、あの人はいやだとかいうのは、動物には基本的にありません(その時の環境やタイミングに左右されることはありますが)。でも人間はそこが一番大事で、いやなやつとはやりたくない。なぜ同じ持ち物を持ちながら、好きときらいが発生するのか。それはそれぞれが自分の物語(93)を持っていて、それに合うか合わないかを品定めしているからですね。物語なんてどうでもいいなら、誰とやろうが、誰と結婚しようが関係ない。そこからほとんどの文化は派生するわけです。家族ができて、社会ができて、道具ができて、愛ができて、憎しみができてというふうに。家族ができない独身はどうなるといったって、何かしら友達でも、犬でも、仕事でも、月でも、ゲームでも、相手は必要なんですね。つまりヒトが生きていくのに恋愛は非常に重要な要素なんです。下品だとか何とか言って下に見るのは、男の自己正当化の為のごり押しに過ぎないわけです。日本の古代は、最初は男の政略から始まった摂関政治作戦も、女性なしでは成り立たないほど、その役割の重要性が高まりました。もともと男一人で何ができるわけもないのです。もともと言葉と言い、社会と言い、文化と言い、全て人の物語が作り出した砂上の楼閣でもあるのです。そういう観念が判らなければ、数億もかかる豪邸も、唯の洞穴も(動物から見れば)何も変わらないわけです。一人一人が物語を持っていればこその価値がある豪邸なんです。先ほど言ったように恋愛はその典型ですね。それを歌(和歌)にするということは、一人一人の違った物語の確認なんですね。人間が一番求めるのは自分の抱いた物語の確認なんです。それが無ければ動物と変わらない唯の本能による行為に終わってしまう。物語として完成させる必要があるんです。それで「後朝の歌」が必要なんです(94)。
平安の人たちが、何で暗闇の中で性交渉をし、朝がほのぼのと明けるまで、或いは結婚しても何日もたった後、妻が油断して見られてしまうまで顔というものを見せなかったかということも、顔というものが、魅力的ではあっても、物語(幻想)にとって如何にその本質を曲げてしまう邪魔な要素だったかということを物語ります。顔というものは、身体の中で最もその人のアイデンティティーを象徴します。そして最も具体的に個々の特殊性を示します。もし顔や性格にしか、各人の物語の照準を合わせられないとしたら、相手とのマッチング(実現性)は限りなく不可能になります。その特殊性、リアリティーは人をひきつけますが、逆に合わなければ僅かの差異も寄せ付けません。人付き合いもほとんどなく、引きこもりの貴族社会にあって、殆ど情報というものが無い中で、「顔で選ぶ」なんて言い出したら社会の構造でも壊れなければ可能性は殆どありません(現代すら、社会構造も開放的に成り、あれほどの情報が飛び交う中ですら、マッチングはかなり厳しく、独身者があふれる要因の一つとなっています。写真のリアリティーに毒されて、ものが見えなくなってしまっているのです)。又、実は顔や映像は物語のゴールではありません。それは単なる憧れです。アンナカレーニナの「幸福な家庭はどこも似通っているが、不幸な家庭はひとつずつみな違う」というのは、幸福が憧れだから似通っているのです。そして憧れは空想に過ぎず、すぐ飽きます。「美人は三日で飽きる」ですね。それは相交わる物語が無いからです。かっこいい車と同じです。あれば彩を添えるが、無ければならないというものではない。それだけでは一時しか持たない代物なんです。そんなものだけを追い続け、もっと肝心な物語を生きずに棒に振ってしまうこともあるのです。だから美(顔の美も)は魔物なんです。
そのパンドラの箱を開けてしまったのが、院政期から始まる道徳と暴力とリアリズムの武者の世だったのです。男性的時代の出現です。大塚ひかりさんは、平家物語は、女嫌いの(ホモセクシュアリティーか?)人が書いた・語ったのではと書かれているが、さもありなんと思われます。「美人が好きな男は女嫌い」というのは、美人という概念の中にどうしても必要な要素(男っぽさ・少年ぽさ)必要だということを見抜いているからに違いありません。ここは皆さんの胸に聞いてもらうことにして、あまり深く追及はしません。女好きの川端は、感情むき出しで大騒ぎをして男が自己主張する平家物語が嫌いでしたし、男好きの三島や谷崎は、感情を抑え、世間体を大切にし我慢し、怨霊まで生んだ、ものの憐れをしみじみ追求した源氏物語が嫌いでした。源氏については、後でまた取り上げます。
というわけで、文化や詩の成立に大きくかかわる恋愛文学は、漢詩などと比べても、より日常生活に密接しており、立派に男女の関わりという形で、存在を語りうるわけです。
漢詩と比べてどちらが低いとか高いとかいう代物ではないわけです。漢詩ばかりでは実生活と遊離してしまう。嘘っぽくなってしまいます。それは西欧の自我中心主義も同じです。
こうして徐々に和歌も興隆し始める。菅原道真を抜擢した宇多上皇はこの時代の空気を先取りして、和歌の興隆に力を注いだ。近くに仕えた道真も、自身は漢詩が得意ではあったが、和歌の興隆を時代の流れとして、自ら著した随行記の中で予測している。
9世紀中頃に片仮名と共にひらがなが発明されたのも大きい。万葉仮名を崩して生まれたであろうひらがなは、アルファベットのように表音文字だから種類も少なく、習得も容易で、歴史的な発明であることは何度も言っていますが、和歌の流行にはうってつけだった。この流れを決定的にしたのが古今和歌集の編纂だった。泳者のほとんどが宇多天皇、醍醐天皇の近親者であり、背後に両王朝の正統性を詠う意図があったことが推測されている。そして和歌は恋愛の道具から、貴族の嗜みとなり、漢詩の「たてまえ」と対立する理念にまで近づいていくのです。
王朝の権威を高める計画は、和歌ばかりではなく、宮中の制度にも示された。昇殿制(95)や蔵人制(96)の強化がその一つの試みだった。宇多は藤原氏との血縁が薄く、近臣が少なかったことから、他の官職との兼任であり、私的な機関であった蔵人に高い官職のものを就けたり、大臣か大納言を蔵人所別当に充てるなど、チームを私的な機関から公的な機関に引き上げ、自己に忠実な近臣で側近を固めた。こうして、天皇の近臣が、私的な立場から公的な立場へ積極的に位置づけられたことで、藤原氏との対決を含め、忠実な近臣の育成に力を入れた。この制度は以後の宮廷社会の中で長く生き続け、貴族文化に大きな影響を与えた。
その宇多の対決計画も、後醍醐天皇の世になって、藤原時平の陰謀による腹心・菅原道真謀反というでっちあげで、儚くも費えることになる。
〈受領(ずりょう)の成立と郡司・氏族の弱体化〉
律令制のもとでは、地方は諸国に分かれ、国の下に郡がおかれ、郡の下に里(後に郷)が置かれ、国を統治する国司が中央から派遣された。国司は郡の有力者を郡司として、徴税を含む在地の統治・運営を行っていた。9世紀末には税の納入の遅れや庸(布や米)や調(布や特産物)の粗悪化がひどかった。困窮に苦しむ現場を見ようともしない中央政府の怠慢や国司・郡司の横領が原因だった。この状況を打開するための方法が受領国司制だった。受領は前任国司から国務を引き継ぐ(受領する)ことから生まれた言葉ですが、任国へ赴任しないで、一族や子弟などを目代(もくだい)として国衙(こくが=国府)に派遣して、そこから挙がった一定額の税を中央に納入していた遥任国司(ようにんこくし)とは違って、実際に現地に赴いて、検察や徴税を行ったり前任国司などに不正があれば正した。国家はこれらの権限と責任を任せる代わりに、国務に直接口出しを控えた。受領国司は赴任した国司の最上席者が任命された。これによって受領(長官である守・かみ)の権限は飛躍的に強化され、財を成すものが続出した。この為、任用国司(受領以外の国司、介(すけ)、掾(じょう)、目(もく)などの代行者)との争いも多かった。
受領の成立と共に、郡司も国司の任命制や推薦制となり地域での権力を失っていった。こうして国司が土着する中で、中央でも天皇以外の上皇・親王・女院などの皇室関係者や上流貴族(藤原氏)など(院宮王臣家という)もこの甘い汁を目当てに、地方に進出し、荘園経営などに当たり、国司より位階が高いため、しばしば納税を拒否したり、浮浪人や有力者などを使って国府の使者に暴力を振るったりした。彼らは院宮王家と主従関係を結んでいたと思われる。受領の方は金になる仕事として中・下級貴族たちの羨望を集める地位だった。紫式部の父も受領で財を成した。その蓄財の使い道は主に官職や受領再任工作に使われた。朝廷の儀式の費用負担や寺社造営の請負や公卿たちへの貢納が主な方法だった。こうして官職を得ることを成功(じょうごう)と言われた。成功によって、二度受領になることも難しかった時代に、官位の任期満了後も同じ官位に再任された。
注91) 「ハレとケ」 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P34
稲作文化を前提とした日本の一年のサイクルで、冬から春へ、春から秋へ、秋から冬へというエネルギーの連続的な移行として捉える中、「冬」を自然や生命の魂がふえるという意味の「殖ゆ」という言葉から連想し、「春」を次第にその魂のエネルギーが満ちてきて、蕾が張ってくる意味で「張る」になる。こうして冬を我慢の「ケ(褻)」として、余所行きでない日常・現実・おおやけでない時として捉え、春を弾ける「ハレ(晴)」として、非日常・特別で祭り(素朴な乱交パーティーの「歌垣」も含む)、踊る儀式や行事を行うときとした。(都市は、日常をハレにしてしまい、いつも「よそ行き」の生き方をしている魂の消費の地であり、魂を増やす日常の「ケ」を地方に預けて(犠牲にして)しまっていますね。毎日がよそ行きの為に、「ハレ」の有難さが感じられなくなって、マンネリになり、刺激を求めてますますエスカレートし、異常性愛に走るばかりですね)。
注92) 同P120
注93) 物語
物語は、野家啓一によれば「我々の多様で複雑な経験を整序し、それを他者に伝達することで、共有する為の最も原初的な行為である(*)」とし、小説と違い単なる虚構のみならず、「事実」の領域から「歴史叙述」にも及ぶという。柳田國男は印刷技術の発達により物語(口承文芸)が衰退したことを嘆く(物語作者は、語ることを自分の経験から引き出したり、他人からの報告から引き出したり、又語りに耳を傾ける人々の経験にしたりする時代の「様式」の中に生きた。
ところが小説は、社会とつながった自己を切り離し、孤独の中にある個人が密室の中で、自己の「内面」を吐露する告白という文体がその始まりとなる。告白されるべき「内面」が形成され、それを語る主語「私」=「自我」が必要になった。それは科学の発達とともに、超自我ともいうべき絶対的な神や天皇が信じられなくなり、自身の存在根拠を失った近代人が、新たに拠り所とせざるを得なかった「無意識」が、人間の存在を支えるどころか暴れ者で、時には人格を脅かし、とても安心して委ねられるような代物ではないことを知ることで陥った底知れない孤独と向き合う場を設けざるを得なかった。その場がいわば「内面」という「ミニ無意識」のようなものであり、その場をとりかこむのは更に巨大で不可思議な無意識の世界だった。
小説に如何に多くの登場人物がいようとも、たった一人の独白(モノローグ)に過ぎず、そこには他者(本当の無意識)は存在しないのです。
自我と無意識の間の緩衝地帯であるミニ無意識の場は、絶えず両者の間を取り持って、あわよくば巨大な無意識の僅かでも、自我の側に取り込んで、制御可能な世界(自我)を広く取ろうと努めている。実はその敵の様な巨大な無意識も自分の一部なのだが、「神様」や「お天道様」「他人様」などとして受け容れる方法を失ってから、そんなものは自分ではないと決めた時から、敵に回ってしまったのです。18世紀から19世紀にかけてヨーロッパでもその存在を意識し始め「エス」と名付けて考え始めた。小説とは、その中身が個人的な経験や物語風の創作であって「物語」の体裁をとろうとも、「エス」を敵に回した話であって、「エス」に守られた「物語」とは一線を画すのです。
世界を物語で捉えるという「布置(コンステレーション・一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係も意味もなしていないようであっても、あるとき、それらが一つのまとまりとして、全体的な意味を示してくるということに、気づくことができるようになる)」の方法は、人間の宿命ですし、それ以外に人のこころを救う方法はないわけです。「人生」という捉え方(観念)も同じです。人生に何の意味もないと思えばその通りですが、それが科学的な認識では見出し得ないからと言って無意味ととるか、初め(誕生)から終わり(死)までの一つの厳粛な過程として定義して、美しく(自分が美しいのではなく、人の一生が、星の一生と同じように美しいという意味です)感動的な体験として意味を見出すか勿論各自の自由ですが、前者は人生に何か意味が欲しいからこその気持ちの裏返しで、それが見つけられないから拗ねて、科学と心中しているだけに見えますし、後者はこの世に生を受けたこと事体を感動的な事と感じ、感謝しているだけの姿勢が見えて、期せずして後から意味が生まれているように見えます。
足立恒雄さんによれば、限りなく意味から自由で抽象的な言語で行う「数学すること」すら、「集合」を色々な方法で抽象する能力として定義しています。集合として捉えることは、そこに意味(関係)を見出すこと即ち物語をみることだと思います。
(*)野家啓一「物語の哲学」岩波現代文庫2005年5月P16
注94) 後朝(きぬぎぬ)の歌の必要性。
ウラジミール 生きたというだけじゃ満足できない
エストラゴン 生きたということを語らなければ
ウラジミール 死んだだけじゃあ足りない
エストラゴン ああ、足りない
(ベケット「ゴトーを待ちながら」白水社2013年6月p119)
注95) 昇殿制
清涼殿南廂の殿上の間に伺候することを許されたものを殿上人といい、同じ公卿でも昇殿が許されないものを地下(じげ)といって区別された。四・五位の中から選ばれた天皇の側近で、上級貴族の公卿の予備軍的存在だった。殿上人は一方で律令官僚制の官人(ライン)であり、もう一方では天皇の代替わり毎に選び直されるスタッフでもあった。これを、公卿-殿上人-諸大夫というラインに乗せ、天皇との個人的な関係からなっていた近臣たちを、公的な官職として位置付け、宮廷社会の性格を大きく変えた。
注96) 蔵人制(くろうどせい)
蔵人所は、薬子の変に際して、(平城上皇側に)嵯峨天皇側の情報保持のために設けられたもので、令外官としてそれなりの機能は持っており、側近として、藤原氏などの有力者ばかりでなく、琴や和歌など諸芸に秀でた人物も置かれていた。
宇多天皇はこの制度を整備し、それまで6位までだった蔵人任命を5位にまで引き上げ、蔵人処別当を設けるなどその地位を引き上げ、近臣の整備を図り、藤原氏排除の体制を徐々に固めていった。
平安初期の貴族の邸宅には、池は配されてはいないものの、南は主人が住まうハレ(よそゆき)の空間、北・東は使用人が住まうケ(普段着)の空間(北・東の対屋は廊で繋がる)として区別された(91)住まいも見られた。
更には、摂関期以降、寝殿造という形式の邸宅に住むようになる。正殿である寝殿を中心として北・東・西に対屋(たいのや)を配し、間を廊などで連結した。前には池を持つ庭園が広がっていた。これらの建物は白木造り・檜皮葺で、一部を除き「壁を持たず、広い空間を
屏風や帷帳(いちょう)などで仕切って生活した。この点が瓦葺と壁塗りの中国式、石づくりの西洋式と異なるわが国独特の建築様式です。見ようと思えば向こうが覗ける、何の仕切りにもならないのに屏風を置くだけで仕切ったことにする。開放的に過ぎる、不思議なハイブリッドな様式です。
古代日本は「柱の時代」と呼ばれ、柱に神霊が招き寄せられ乗り移るものと信じられていたから(真柱)、社も寺院も柱が建物の象徴だった。それが、柱をなくしたわけではありませんが、母屋は塗籠(ぬりごめ)という寝室に当たる区切り(壁)はありましたが、それ以外は屏風・衝立(ついたて)・几帳(きちょう)などを置くことで、それこそ「間に合わせ」た。左右対称ではなく、左右競合とでもいうべき、同じものを、ちょっとした工夫を添えるだけで別のものに変えて表現することもできるという、一つの部屋に四季の移ろいを映し出せる柱と柱の「間」の文化を生みました(やがてそれも、ワンルームから小割の部屋に分割する書院造(92)へ移行していきますが)。屏風・衝立(ついたて)などあってないようなもの。それでもプライバシーだとか、権利だとか、ぎすぎすしないんですね。これは現代人にとっては、非常にルーズで気持ち悪いのかもしれません。でも、どうせ空しい生を生きているのに、何をそんなに隠すというか、閉じこもり一人専有する必要があるのでしょう。そんなところには感動(もののあわれ)はいない。みんなで共有するところに居座ってくれる。減るもんじゃないのに(これは言い過ぎか)。花の命は短いのに。といったところでしょうか。このような平安時代の貴族たちは、実は「不安時代」の無常を強く実感していたからこそこのような生き方ができたのでしょう。
もしこれが、不安は国家に預けてしまい、肝心の人生とは何か、どう生きようかについてはそっちのけで、政治的に平等であること(機会均等)だけが神聖な目的となっている現代であれば、決して生まれない文化でしょう。寄ってたかって「けしからん!」「ずるい!」「おれにも覗かせろ!」でしょうか。
寝殿造の暮らし(源氏物語絵巻・徳川美術館)
〈漢詩から和歌へ・蔵人制と昇殿制と古今和歌集の成立〉
9世紀には唐の影響を受けて、唐風文化が花開いたが、とくに漢詩文が流行した。更に作法に則って文章が書ける文官が重視され、国家の運営には文章が不可欠との儒教的な考えが重視された。書の達人として三筆(嵯峨天皇・空海・橘逸勢)が知られている。又日本では古代からウジ(氏)の貴賤がはっきりし、能力だけでは官人としての出世が叶わず、中国の科挙の様な制度は発達しなかったが、9世紀に入ってからは漢詩文の流行と共に、「文章経国思想(もんじょうけいこくしそう)」といって、国家を運営するには文章が不可欠であり、それができる文官は重視されるようになり、下級氏族であっても菅原道真や春澄善縄(はるすみのよしただ)など出世が可能となった。既に対外戦争の起きる可能性は低下し、国内でも争乱が減少してきたこの時期に、大陸の文化の消化吸収が進み、それだけでは飽き足らなくなってきた日本人は、わが国独自の文化の生まれる感性を磨きつつあった。その一つが「和歌」といわれるものだった。
依然として漢詩文が盛んだった中、私的な宴会などでは和歌が詠まれ、在原業平など六歌仙と呼ばれる人々の活躍もなされるようになり、裏では確固たる位置を占めるようになっていた。
当時から、儒教的な中国人や朝鮮の人びとと違って日本人は恋愛文学というものを低くは見なかった。なぜなら、社会を含めたあらゆる人間の文化の発生のメカニズムに、恋愛という幻想(観念)は大きく関与していたからです。
何しろ、動物は本能に従って、やることをやるだけで、相手がどんな顔をしているか(=精神性を覗かせているか)なんて眼中にないわけですから、だれでもよかった。人間はそうはいかない。人間は本能の上に「物語」の目を重ねて相手を見るから、好き嫌いが発生してしまう。
しかも、その物語の始まりは、自分では決められないから(確率的に好き嫌いは殆ど通らないから)、諦めから出発するしかない。そこにドラマが生まれるわけで、何でも思う通りに進んだら有難味なんて感じられない。自分で決められない生まれつきの百人百様のハンデ(「生まれ生まれて、生の始めに昏し」)を背負っての始まりは、生まれること事体がそういうもので、それは宿命とでもいうものです。そこにこだわって、不可能なハンデの改変の為に一生を費やしてしまう人もいるでしょうし、そんな「いい条件か」どうかなんて物語の本質にあらずと、人と生まれれば誰にでも備わっている「切実さ・情愛」という宝石を見つけ、それを守るこころを大切にすることができる人(動物ではなく)に成れる人もいるでしょうし、様々です。ある時は密通という道徳的規範を破ってでも守り通そうとする。
大半の人たちはそういうものを「女々しさ」のもとに切り捨て、公的規範の支配下に置こうとする「たてまえ」で物語を統率しようとする。そのような理念に風穴を開け、物語を勧善懲悪論から解放された文学にまで高めたのが、後の源氏物語です。
そこには、「たてまえ」からからスタートする現実離れした漢文化にはない、国風の文学があります。
少し砕けた言い方をすれば、私はあの人となら付き合ってもいいとか、あの人はいやだとかいうのは、動物には基本的にありません(その時の環境やタイミングに左右されることはありますが)。でも人間はそこが一番大事で、いやなやつとはやりたくない。なぜ同じ持ち物を持ちながら、好きときらいが発生するのか。それはそれぞれが自分の物語(93)を持っていて、それに合うか合わないかを品定めしているからですね。物語なんてどうでもいいなら、誰とやろうが、誰と結婚しようが関係ない。そこからほとんどの文化は派生するわけです。家族ができて、社会ができて、道具ができて、愛ができて、憎しみができてというふうに。家族ができない独身はどうなるといったって、何かしら友達でも、犬でも、仕事でも、月でも、ゲームでも、相手は必要なんですね。つまりヒトが生きていくのに恋愛は非常に重要な要素なんです。下品だとか何とか言って下に見るのは、男の自己正当化の為のごり押しに過ぎないわけです。日本の古代は、最初は男の政略から始まった摂関政治作戦も、女性なしでは成り立たないほど、その役割の重要性が高まりました。もともと男一人で何ができるわけもないのです。もともと言葉と言い、社会と言い、文化と言い、全て人の物語が作り出した砂上の楼閣でもあるのです。そういう観念が判らなければ、数億もかかる豪邸も、唯の洞穴も(動物から見れば)何も変わらないわけです。一人一人が物語を持っていればこその価値がある豪邸なんです。先ほど言ったように恋愛はその典型ですね。それを歌(和歌)にするということは、一人一人の違った物語の確認なんですね。人間が一番求めるのは自分の抱いた物語の確認なんです。それが無ければ動物と変わらない唯の本能による行為に終わってしまう。物語として完成させる必要があるんです。それで「後朝の歌」が必要なんです(94)。
平安の人たちが、何で暗闇の中で性交渉をし、朝がほのぼのと明けるまで、或いは結婚しても何日もたった後、妻が油断して見られてしまうまで顔というものを見せなかったかということも、顔というものが、魅力的ではあっても、物語(幻想)にとって如何にその本質を曲げてしまう邪魔な要素だったかということを物語ります。顔というものは、身体の中で最もその人のアイデンティティーを象徴します。そして最も具体的に個々の特殊性を示します。もし顔や性格にしか、各人の物語の照準を合わせられないとしたら、相手とのマッチング(実現性)は限りなく不可能になります。その特殊性、リアリティーは人をひきつけますが、逆に合わなければ僅かの差異も寄せ付けません。人付き合いもほとんどなく、引きこもりの貴族社会にあって、殆ど情報というものが無い中で、「顔で選ぶ」なんて言い出したら社会の構造でも壊れなければ可能性は殆どありません(現代すら、社会構造も開放的に成り、あれほどの情報が飛び交う中ですら、マッチングはかなり厳しく、独身者があふれる要因の一つとなっています。写真のリアリティーに毒されて、ものが見えなくなってしまっているのです)。又、実は顔や映像は物語のゴールではありません。それは単なる憧れです。アンナカレーニナの「幸福な家庭はどこも似通っているが、不幸な家庭はひとつずつみな違う」というのは、幸福が憧れだから似通っているのです。そして憧れは空想に過ぎず、すぐ飽きます。「美人は三日で飽きる」ですね。それは相交わる物語が無いからです。かっこいい車と同じです。あれば彩を添えるが、無ければならないというものではない。それだけでは一時しか持たない代物なんです。そんなものだけを追い続け、もっと肝心な物語を生きずに棒に振ってしまうこともあるのです。だから美(顔の美も)は魔物なんです。
そのパンドラの箱を開けてしまったのが、院政期から始まる道徳と暴力とリアリズムの武者の世だったのです。男性的時代の出現です。大塚ひかりさんは、平家物語は、女嫌いの(ホモセクシュアリティーか?)人が書いた・語ったのではと書かれているが、さもありなんと思われます。「美人が好きな男は女嫌い」というのは、美人という概念の中にどうしても必要な要素(男っぽさ・少年ぽさ)必要だということを見抜いているからに違いありません。ここは皆さんの胸に聞いてもらうことにして、あまり深く追及はしません。女好きの川端は、感情むき出しで大騒ぎをして男が自己主張する平家物語が嫌いでしたし、男好きの三島や谷崎は、感情を抑え、世間体を大切にし我慢し、怨霊まで生んだ、ものの憐れをしみじみ追求した源氏物語が嫌いでした。源氏については、後でまた取り上げます。
というわけで、文化や詩の成立に大きくかかわる恋愛文学は、漢詩などと比べても、より日常生活に密接しており、立派に男女の関わりという形で、存在を語りうるわけです。
漢詩と比べてどちらが低いとか高いとかいう代物ではないわけです。漢詩ばかりでは実生活と遊離してしまう。嘘っぽくなってしまいます。それは西欧の自我中心主義も同じです。
こうして徐々に和歌も興隆し始める。菅原道真を抜擢した宇多上皇はこの時代の空気を先取りして、和歌の興隆に力を注いだ。近くに仕えた道真も、自身は漢詩が得意ではあったが、和歌の興隆を時代の流れとして、自ら著した随行記の中で予測している。
9世紀中頃に片仮名と共にひらがなが発明されたのも大きい。万葉仮名を崩して生まれたであろうひらがなは、アルファベットのように表音文字だから種類も少なく、習得も容易で、歴史的な発明であることは何度も言っていますが、和歌の流行にはうってつけだった。この流れを決定的にしたのが古今和歌集の編纂だった。泳者のほとんどが宇多天皇、醍醐天皇の近親者であり、背後に両王朝の正統性を詠う意図があったことが推測されている。そして和歌は恋愛の道具から、貴族の嗜みとなり、漢詩の「たてまえ」と対立する理念にまで近づいていくのです。
王朝の権威を高める計画は、和歌ばかりではなく、宮中の制度にも示された。昇殿制(95)や蔵人制(96)の強化がその一つの試みだった。宇多は藤原氏との血縁が薄く、近臣が少なかったことから、他の官職との兼任であり、私的な機関であった蔵人に高い官職のものを就けたり、大臣か大納言を蔵人所別当に充てるなど、チームを私的な機関から公的な機関に引き上げ、自己に忠実な近臣で側近を固めた。こうして、天皇の近臣が、私的な立場から公的な立場へ積極的に位置づけられたことで、藤原氏との対決を含め、忠実な近臣の育成に力を入れた。この制度は以後の宮廷社会の中で長く生き続け、貴族文化に大きな影響を与えた。
その宇多の対決計画も、後醍醐天皇の世になって、藤原時平の陰謀による腹心・菅原道真謀反というでっちあげで、儚くも費えることになる。
〈受領(ずりょう)の成立と郡司・氏族の弱体化〉
律令制のもとでは、地方は諸国に分かれ、国の下に郡がおかれ、郡の下に里(後に郷)が置かれ、国を統治する国司が中央から派遣された。国司は郡の有力者を郡司として、徴税を含む在地の統治・運営を行っていた。9世紀末には税の納入の遅れや庸(布や米)や調(布や特産物)の粗悪化がひどかった。困窮に苦しむ現場を見ようともしない中央政府の怠慢や国司・郡司の横領が原因だった。この状況を打開するための方法が受領国司制だった。受領は前任国司から国務を引き継ぐ(受領する)ことから生まれた言葉ですが、任国へ赴任しないで、一族や子弟などを目代(もくだい)として国衙(こくが=国府)に派遣して、そこから挙がった一定額の税を中央に納入していた遥任国司(ようにんこくし)とは違って、実際に現地に赴いて、検察や徴税を行ったり前任国司などに不正があれば正した。国家はこれらの権限と責任を任せる代わりに、国務に直接口出しを控えた。受領国司は赴任した国司の最上席者が任命された。これによって受領(長官である守・かみ)の権限は飛躍的に強化され、財を成すものが続出した。この為、任用国司(受領以外の国司、介(すけ)、掾(じょう)、目(もく)などの代行者)との争いも多かった。
受領の成立と共に、郡司も国司の任命制や推薦制となり地域での権力を失っていった。こうして国司が土着する中で、中央でも天皇以外の上皇・親王・女院などの皇室関係者や上流貴族(藤原氏)など(院宮王臣家という)もこの甘い汁を目当てに、地方に進出し、荘園経営などに当たり、国司より位階が高いため、しばしば納税を拒否したり、浮浪人や有力者などを使って国府の使者に暴力を振るったりした。彼らは院宮王家と主従関係を結んでいたと思われる。受領の方は金になる仕事として中・下級貴族たちの羨望を集める地位だった。紫式部の父も受領で財を成した。その蓄財の使い道は主に官職や受領再任工作に使われた。朝廷の儀式の費用負担や寺社造営の請負や公卿たちへの貢納が主な方法だった。こうして官職を得ることを成功(じょうごう)と言われた。成功によって、二度受領になることも難しかった時代に、官位の任期満了後も同じ官位に再任された。
注91) 「ハレとケ」 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P34
稲作文化を前提とした日本の一年のサイクルで、冬から春へ、春から秋へ、秋から冬へというエネルギーの連続的な移行として捉える中、「冬」を自然や生命の魂がふえるという意味の「殖ゆ」という言葉から連想し、「春」を次第にその魂のエネルギーが満ちてきて、蕾が張ってくる意味で「張る」になる。こうして冬を我慢の「ケ(褻)」として、余所行きでない日常・現実・おおやけでない時として捉え、春を弾ける「ハレ(晴)」として、非日常・特別で祭り(素朴な乱交パーティーの「歌垣」も含む)、踊る儀式や行事を行うときとした。(都市は、日常をハレにしてしまい、いつも「よそ行き」の生き方をしている魂の消費の地であり、魂を増やす日常の「ケ」を地方に預けて(犠牲にして)しまっていますね。毎日がよそ行きの為に、「ハレ」の有難さが感じられなくなって、マンネリになり、刺激を求めてますますエスカレートし、異常性愛に走るばかりですね)。
注92) 同P120
注93) 物語
物語は、野家啓一によれば「我々の多様で複雑な経験を整序し、それを他者に伝達することで、共有する為の最も原初的な行為である(*)」とし、小説と違い単なる虚構のみならず、「事実」の領域から「歴史叙述」にも及ぶという。柳田國男は印刷技術の発達により物語(口承文芸)が衰退したことを嘆く(物語作者は、語ることを自分の経験から引き出したり、他人からの報告から引き出したり、又語りに耳を傾ける人々の経験にしたりする時代の「様式」の中に生きた。
ところが小説は、社会とつながった自己を切り離し、孤独の中にある個人が密室の中で、自己の「内面」を吐露する告白という文体がその始まりとなる。告白されるべき「内面」が形成され、それを語る主語「私」=「自我」が必要になった。それは科学の発達とともに、超自我ともいうべき絶対的な神や天皇が信じられなくなり、自身の存在根拠を失った近代人が、新たに拠り所とせざるを得なかった「無意識」が、人間の存在を支えるどころか暴れ者で、時には人格を脅かし、とても安心して委ねられるような代物ではないことを知ることで陥った底知れない孤独と向き合う場を設けざるを得なかった。その場がいわば「内面」という「ミニ無意識」のようなものであり、その場をとりかこむのは更に巨大で不可思議な無意識の世界だった。
小説に如何に多くの登場人物がいようとも、たった一人の独白(モノローグ)に過ぎず、そこには他者(本当の無意識)は存在しないのです。
自我と無意識の間の緩衝地帯であるミニ無意識の場は、絶えず両者の間を取り持って、あわよくば巨大な無意識の僅かでも、自我の側に取り込んで、制御可能な世界(自我)を広く取ろうと努めている。実はその敵の様な巨大な無意識も自分の一部なのだが、「神様」や「お天道様」「他人様」などとして受け容れる方法を失ってから、そんなものは自分ではないと決めた時から、敵に回ってしまったのです。18世紀から19世紀にかけてヨーロッパでもその存在を意識し始め「エス」と名付けて考え始めた。小説とは、その中身が個人的な経験や物語風の創作であって「物語」の体裁をとろうとも、「エス」を敵に回した話であって、「エス」に守られた「物語」とは一線を画すのです。
世界を物語で捉えるという「布置(コンステレーション・一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係も意味もなしていないようであっても、あるとき、それらが一つのまとまりとして、全体的な意味を示してくるということに、気づくことができるようになる)」の方法は、人間の宿命ですし、それ以外に人のこころを救う方法はないわけです。「人生」という捉え方(観念)も同じです。人生に何の意味もないと思えばその通りですが、それが科学的な認識では見出し得ないからと言って無意味ととるか、初め(誕生)から終わり(死)までの一つの厳粛な過程として定義して、美しく(自分が美しいのではなく、人の一生が、星の一生と同じように美しいという意味です)感動的な体験として意味を見出すか勿論各自の自由ですが、前者は人生に何か意味が欲しいからこその気持ちの裏返しで、それが見つけられないから拗ねて、科学と心中しているだけに見えますし、後者はこの世に生を受けたこと事体を感動的な事と感じ、感謝しているだけの姿勢が見えて、期せずして後から意味が生まれているように見えます。
足立恒雄さんによれば、限りなく意味から自由で抽象的な言語で行う「数学すること」すら、「集合」を色々な方法で抽象する能力として定義しています。集合として捉えることは、そこに意味(関係)を見出すこと即ち物語をみることだと思います。
(*)野家啓一「物語の哲学」岩波現代文庫2005年5月P16
注94) 後朝(きぬぎぬ)の歌の必要性。
ウラジミール 生きたというだけじゃ満足できない
エストラゴン 生きたということを語らなければ
ウラジミール 死んだだけじゃあ足りない
エストラゴン ああ、足りない
(ベケット「ゴトーを待ちながら」白水社2013年6月p119)
注95) 昇殿制
清涼殿南廂の殿上の間に伺候することを許されたものを殿上人といい、同じ公卿でも昇殿が許されないものを地下(じげ)といって区別された。四・五位の中から選ばれた天皇の側近で、上級貴族の公卿の予備軍的存在だった。殿上人は一方で律令官僚制の官人(ライン)であり、もう一方では天皇の代替わり毎に選び直されるスタッフでもあった。これを、公卿-殿上人-諸大夫というラインに乗せ、天皇との個人的な関係からなっていた近臣たちを、公的な官職として位置付け、宮廷社会の性格を大きく変えた。
注96) 蔵人制(くろうどせい)
蔵人所は、薬子の変に際して、(平城上皇側に)嵯峨天皇側の情報保持のために設けられたもので、令外官としてそれなりの機能は持っており、側近として、藤原氏などの有力者ばかりでなく、琴や和歌など諸芸に秀でた人物も置かれていた。
宇多天皇はこの制度を整備し、それまで6位までだった蔵人任命を5位にまで引き上げ、蔵人処別当を設けるなどその地位を引き上げ、近臣の整備を図り、藤原氏排除の体制を徐々に固めていった。