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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2013年01月29日
春近し



西に傾く「月の入り」真近の月とともに、梅見に出かけました。
満月の2日後でしたね。



蠟梅は梅とは一線を画した雰囲気を持っていますね。



ようやく、芽吹いた命。

「梅固し 豊後はいまだ 夢枕」(堀内一郎・俳句歳時記)

ですね。

2013年01月11日
「トトロ」と独り言1
「トトロ」と独り言1
「トトロ」と言えば知らない人はいないくらい有名な宮崎駿さんの代表作ですね。
新年早々何の事かとい唐突に思われる方もおられることと察します。特に他意はないのですが、娘が最近、トトロは居るんだと教え続け、サンタさんのように 降参せずに未だに主張し続けている私に、大ととろ・中ととろ・小ととろのセットを買ってくれたのがきっかけで、話したくなったのです。
ストーリは皆さんよく御存じなので省略しますが、私がものの本で知った周辺知識をお伝えすればより親しみがわくのではと思い、僅かな、また聞きの内容ではありますが紹介させていただきます。(この内容は正木晃さんの「お化けと森の宗教学」からお借りしました)
トトロは大トトロ1302歳、中トトロ679歳、小トトロ109歳の特に親子というわけではないがミミズクによく似た長寿な生き者だ。それもそのはず、トトロはメイが初めて会った場所、即ち巨大な楠の精であり、その「うろ(=穴・空洞)に住むフクロウに姿を変えた巨木の精霊なのだ。
初めてメイが会ったのもこのうろの中に眠っていた大トトロのおなかの上だった。楠はクスノキ科の常緑樹で、冬でも緑を放つところから、神の降り立つ樹として信仰を集めた。クスノキには「くすしい木」=奇しい=神々しい=不思議という意味を持たれていた。(常緑樹信仰は日本だけではない。)
蛇足だが、法隆寺の救世観音立像や百済観音立像、アルカイックスマイルで有名な京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩も楠で彫られている。
さて日本の文化的伝統では「七歳までは神の内」といって、数え年で7歳までの子どもは、神の領域にある存在として人間とはみなされなかった。(昔は医療も栄養状態も悪く、ちょっとしたことで命を落とした。つまり生と死の境にいた。)そういう存在だからメイは、神にも(トトロにも妖怪にも)出逢えると考えられていた。
病院のお母さんにトウモロコシを届けようと、疲れ果てて「六地蔵」の足元で座り込んでいるメイの姿は意味深長なのだそうだ。時刻は夕暮れ。この時間帯は「黄昏=タソガレ)」といって「誰そ彼」とも書かれ自分と他人の区別がつかず主客転倒の可能な、占いの辻師の立つ時刻でありまたトトロなどの妖怪が徘徊する時刻なのだ。メイはまだ神の内だ。ちょっとしたきっかけで、「六地蔵の或るところつまり、隣村との境以上に、この世とあの世の境である「賽の神」のまつってあったところ」で(仏教の広まる前は境には「賽の神」があり、「賽」sai=さえぎる=境となり道祖神などが代表的なものだが、仏教の拡がりとともにお地蔵さんに地位を譲った)あの世に引きずり込まれないとも限らない。
自然豊かな時代の事故と言えば川でおぼれたり山に迷い込んだり危険の多い環境だった。特に水難事故は多かった。(江戸時代徳川吉宗の肝煎り(きもいり)で、美しい、いい光を天空高く投げ上げることによって水神の怒りを鎮め、水難事故を防ぎ、川で亡くなって迷っている魂が、花火に導かれ天国に行けるように、との思いが込めらた隅田川花火大会が催されたことは、「美しい光」で話したとうりですね。(2011.6.20「美しい光」参照)
だからメイが行方不明になったときサツキはあんなにうろたえたのだ。そこで彼女は、昔取った杵柄ではないが、トトロに助けを求めた。あとは御存じのとおり。トトロが呼んでくれた高速の「猫バス」でメイを見つけ、里山を越えて、お母さんのいる病院まで 運んでくれたのだ。七国山のモデルは所沢市の八国山で、この山の頂に立つと上野(群馬県)・下野(栃木県)・常陸(茨城県)・安房(千葉県)・相模(神奈川県)・駿河(静岡県)・信濃(長野県)・甲斐(山梨県)の八カ国を眺められることから名ずけられたそうだ。この八国山にある東京白十字病院が七国山病院のモデルであることは想像に難くない。
この八国山の様な人里に近くあまり高くない山を里山と言うが、昔から人々に薪や芝刈りや山菜や茸を提供し何らかの収穫や楽しみを与える自然だった。里山はヒトの為の人工自然だ。里山にとっても人の手が入ることで無駄な枝や下草が刈られることで緑が必要以上に濃くなるのを防いでいる。(里山でなくとも、年をとりすぎた老木や病気になった木や風・雪などで傷ついた木を伐採する。また幼木の成長を助けるために、ササやつるを取り払う。逆に密度が薄くなりすぎたところは苗木を植える。こうしたグループ毎に木と対話しながら、その森のこれから動いていこうとしている方向を見つけ、林分(グループ)に応じた作業を行い、天然でない「高多層林」(幼木と高齢木がバランスよく配置され多種類の木で構成され生産力が高く環境保全能力が高い森)に誘導していく必要性があるのだそうだ。
ではなぜ里山なのか。かつて里山には特別な意味があった。日本列島に住んで来た私達の先祖は、里山に死後の安住の地を見出してきた。人が死ぬとその魂は身体を抜け出し、生前住んでいた土地に近い山里山に行ってそこでしばらく休らう。幾世代かが通り過ぎるとまた同族のおなかの中に戻ってきて再び生を得る。と信じられていた。風通しのよい、千の風に吹かれながら。
このほとんど永遠の繰り返しを、往古の人たちは想定していたようだ。
まだ地方に行くと、村や町を見下ろす丘や斜面にお墓があるのが見られる。
霊魂にとって、とても幸せなことですね。
(続く)

2013年01月11日
「トトロ」と独り言2
続く(ここで転調します)
ところで、人はなにげにブツブツと独り言をつぶやいたり、言い訳したり、怒りながらひとりしゃべることが良くある。それがどうしたと言われれば、大したことでは無いのですが、なぜ独り言を言うのかとなるとすこし厄介になってきます。更には、一体誰にしゃべっているのかとなれば、話は簡単ではない。
いつも言いますが、人はみな自分の物語を生きています。自分なりにうまく納得がいかなかったことや、しくじったことを、知らず知らずのうちに修正していることがあります。自分の物語を修復しているんですね。或いはこれから伝えようとしている事柄を練習していることもあります。
勿論嘗てうまく伝えられなかった時の相手を想定しているのでしょうが、以前より話がうまく繋がっているか確認をしながら進めます。

「そうだよな、・・・・」「いけない、いけない、そういう自分だって同じことしてたじゃん」
そういって、視線を目の裏に向けて、一人ぶつぶつ・・・・。
一体誰に向かってしゃべったり、相談したり、審判を仰いでいるのでしょうか?

何か自分ではないものにお伺いを立てる、自分だけの相談相手ですね。そうトトロなんです。
7歳(神の子)を過ぎたつまり完成した子どもや大人にはすっかり見えなくなりますが、本当に孤独になったり、心細くなったり、誰かの危機に立ちあったりすると大人でもその世界に入ることができる時がある。
めいにはいつでも見えますが、さつきが、めいの消息を真剣に心配して、藁にもすがりたいと神経が研ぎ澄まされHereでなくThere(あちら)の世界に向けてアンテナが立った時にトトロは「六地蔵」とともにさつきの隣にすっと立っていました。さつきの必死の心が呼び寄せたんですね。

よく霊が見えるという子どもに話を聞くと、特に不思議には思ってない。それもいつもという訳ではない。いろんなところでちょっと出ては消えているんだと思うんです。
UFOを見たというのも同様なんじゃないですか?
或いは、鎌倉の世に、浄土宗が流行ったころ、大日如来が他の菩薩などを引き連れて、空高く現れる「来迎」も、UFOのことだったのではないかと思うんです。

或いは、その生涯を日本の批評(Critic=境界線・危機線上にあるものがどちらなのか見分ける仕事)に捧げた有名な小林秀雄がその晩年近くに著した(本人は失敗作と言って出版を禁じたが)「感想」という大作の初めに、・・・少し長いが引用してみよう。

「終戦の翌年、母が死んだ。母の死は非常に私の心にこたえた。・・・・戦後初めて発表した「モオツアルト」も、それを本にした時「母上の霊に捧ぐ」と書いたのも、ごく自然な真面目な気持からであった。」・・・・・・・
・・・・「母が死んだ数日後の或る日妙な体験をした。誰にも話したくなかったし、話したことは無い。
尤も、妙な気分が続いてやり切れず「或る童話的体験」という題を思いついて、よほど書いてみよう
と考えたことはある。今はただ簡単に事実を記する。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気付き、買いに出かけた。
私の家は扇ケ谷の奥にあって、家の前の道に沿うて小川が流れていた。もう夕暮れであった。

門を出ると、行く手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。このあたりには毎年蛍をよく見かけるのだが
その年は初めて見る蛍だった。見たこともない大ぶりのもので見事に光っていた。
おっかさんは今は蛍になっている、と私はふと思った。・・・・・実を言えば私はおっかさんが蛍になったとさえ考えはしていなかった。何もかも当たり前であった。正直に書けば、おっかさんという蛍が飛んでいたと書くことになる。」・・・・最後に「何もかもがよくよく考えれば不思議なのに何かを特別に不思議がる理由は無いであろう。」とこの節を閉じている。
何か精神的に参っていて、幻覚を見たとかそういう片付け方ではすまされないものがありますね。
こういう体験に我々の心が動くこと自体が、こういうものの存在を示していますね。蛍は彼のトトロだったんですね。
いつも目に見えるものだけでなく、微妙な境界にも神経をそばだてている人なら、大人でも母の死とか何か、自らが依って立つ存在が別の世界に立つと、精神の危機に立ちあうとそういうものに出会うことがあるのでしょうか。これは科学を超えたオーバーマインドな世界との触れ合い体験なんですね。

我々素人にもよくわかる「不思議を解説」してくださる、素敵な佐治晴夫先生によれば、
・・・・「例えば、面世界(2次元空間)を3次元世界の物体が突き抜けると、まず球体が面に触れたところで、何も無いところに突然小さな点が現れ、やがて球体の断面が円になり、その大きさが大きくなって次第に消えていく、という風景が見えるでしょう。2次元世界では球体の切り口しか見えないからなんです。」「空間だけに限って言えば、私達3次元空間に一番近いのは4次元空間です。そこで起こっている事を、3次元空間からみると、突然謎の物体が現れたり消えたりしても(つまり4次元や5次元時空の世界が滲みだして来たとしても)何の不思議もありません」・・・・・・

すべては同じものの見る角度からの違いに過ぎない。
量子力学の考え方の基本は「ものごとの状態は、あらゆる可能性を秘めていて、それを認識した瞬間に、その中の一つの状態が、現実のこととしてたち現れる」のであって可能性として他の状態が現れることも十分あるんですね。
以前、「古代や中世の人は、自分と自然を突き放して見ることが出来ない」と書きました。つまり自分のこころと宇宙が繋がっているんですね。
従って当然ながら、何を体験しても自分の中の感動と、宇宙での事態が響き合うんですね。幸せな宗教的な体験ができるし、それを素直に神ということができたんですね。

近代人はそうはいきませんね。自分と突き放してしまうんですね。客観とか真理とかが一番大事で
その為なら人間なんか犠牲になっても構わないと本当に信じちゃってるんですから。リア王の末娘コーディリアみたいですね。認知症の父リア王に(真実なんて判らなくなって 猜疑心に満たされている父に)、本末転倒の「私だけがあなたのことを本当に心配しているという真実」を叫びつづけ、かえって益々二人の距離を遠く引き離させている。判っていても尚「真実だけが一番」とばかり、連呼し続ける。思い込みに取りつかれて「心」の柔軟性が失われた典型ですね。

我々現代人も同じ思い込みで眼の前しか見えなくなっていますね、深刻ですね。

それでは私も、仏壇の代わりに、三匹の私のトトロに今後を相談しようと思います。
(内緒ですよ。遂に認知が入ったかと変な目で見られてしまうので。)

2013年01月01日
新年

皆さん、明けましておめでとうございます。
またまた、元旦がやってきました。

年のやり直しという発想はとても人間の生理によくあった素晴らしいものだと思います。
去年と今年で何が変わる訳ではないのに、知らず知らずのうちにいつの間にか変化は起きている。それに気付かせるのがイニシエーション(儀式)なのだと思います。
それは何の意味もなく、ただ拡がっているだけの空間に意味を持たせ、区切りによって、生命のリズムを意識させる工夫だ。ヒトは言葉という高度なコミニュケーション手段を発明したが、これはヒトに偏った手段に過ぎず、全ての生命のコミニュケーション手段といったら、音・・特にリズムだ。

ヒトは老いるに従い、「歌詞を忘れ、次には旋律が曖昧になるが、最後まで残るのはリズム」だそうです。それは幼少の頃母の腕の中で揺られていた記憶であり、おなかの中で聞いていた母の心臓の鼓動でもあるのです。
認知症の老人でも、その本人に特有のリズムを外部刺激として与えると、突如過去の記憶が甦る臨床例があるそうです。

今年は伊勢神宮も恒例の20年に1度の生まれ変わりする年の様です。これもただまんべんと続く時の流れに節をつける知恵ですね。
私達もこの、何も無い空間に区切りをつけて長い人生のリズムの単位とする新年という工夫をかみしめ、また一つ年を取ったと嘆くのではなく、人生のリズムの節目節目としての新年を祝いましょう。みんなで一斉に、歳を重ねるんです。一人じゃないんです。

「私の誕生日は○日よ。」ではないんです。みんなで人生を奏でるんです。
運命を嘆くのでなく、宿命として受け止め、むしろそれを如何に奏でるかを考えましょう。
その意味で、何の味気もない満年齢などでなく、みなで揃って年を重ねる「数え年」こそ、人類らしい発想ですね。

さー今年も、年の節目をばねに大きくリズムを取りましょう。
そして人と人が屈託し、互いに不信の目で見合い、人と人を結ぶ絆を探しあぐねている現代のケチな猜疑心を吹き飛ばしましょう。

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