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プロフィール

冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2011年06月22日
モラトリアム
モラトリアム・・広辞苑によれば、法令により一定期間債務の履行を延期する措置。さしあたり実施を中止すること。
人間が成長して、なお社会的義務の遂行を猶予される期間とある。

私は一般の会社を定年近くに退職し、今は柄にもなく専門外の小中学生相手の塾講師をしていますが、時折とんでもない難問を仕掛けてくる生徒がいます。

「一生懸命勉強して、良い高校・大学に行ったって、いい会社に就職できるか判らない、だから勉強なんかしても無駄じゃないですか?」と言ったものが多くを占める。

進学目的で来ているのかと思いきや、もっと前の段階で悩んでる。しかも成績は非常に良い子がそういう疑問を投げかけてくる。
まず、自分の(←人類共通のではない)人生の目的が判らない。いい(?)会社に入ることが目的なのだろうか?そう教えられているだけで、実際のところは判らないのだ。

私もこれが正解だと言う物を、言いきることは避けなければならない。一人一人のケース毎にみな違う事情を持っているからだ。またこういう問題は、体験してみないと判らないことだからだ。

私は私なりの結論を持っている。しかしそれは、他の人には当てはまらないのだ。

20世紀はみんな、定型の目標を持ち、それと一体になることがいいことだと信じすぎた。一流大学を出て、一流会社に就職し、郊外の立派な家に住み、家族と庭で戯れて・・・
仕事はインターネットを駆使して、ネットワークを活用し世界をまたにかけて、グローバルな世界を渡り歩く・・・・・
皆が皆、同じことを実現しようとしすぎた。まるで病院や刑務所のように、みんな同じ箱に入って同じ時間に縛られて。どんどん競争して(させられて?)身の丈を忘れた、コントロール不能の世界規模の国家を追求して、自分が原因なのに、政治のせいにして今頃「閉そく感」などと判った様なことを言っている。「幸せ」などというケーキのようなものを、みんな同じように捕まえて。

金子みすずではないけれど「みんな違っていい」。合同でなく相似でいい。一人一人が皆同じ方向を持っていれば、合同である必要はない。平均値などという物は、唯の数字上のもので実体がなく、あるのは違いを持つ個々の存在だけだ。(これが無ければ平均は成り立たない。)

話がそれてしまったが、そんなことで、まず目先のいい高校・大学に絞ってみよう。会社のことはその先でいい。

高校・大学は学ぶところであり、出会うところだ。今の世は、出家から芸能人に至るまで、数多の職業がある。それを並べ立てるだけでも何日もかかる。一体その中で自分が本当にやりたいこと、一番向いていることは何だろうか?
それを考えたり、友と語り合ったり、試してみたり、先人の後ろ姿を見たりして、
「あーこういう風に生きてみたいな」という希望を(或いは絶望かもしれないが)探す時間・猶予・モラトリアムをくれる装置が学校ではないか?

それでも実際飛び込んでみて、理想通りになるかどうかはわからない。でも自分が納得して飛び込んだ道だ。後悔は無い。軌道修正だってできるしその時の失敗は、必ず後で生きてくる。

平安時代には「元服」といって、15歳に達した男子は成人したことを表すためにこの儀式を強制された。当時は自分で考えて納得することができた人はまれだったのではないだろうか。 その様な時間は無駄として社会が許さなかった。それでもというなら出家しかなかった。(勿論当時は世間や社会が身の丈に合った助け合いコントロールできた社会だったから、不思議に思わなかったのでしょう。
見合結婚が必ず不幸だなんて誰も言えませんよね。)

でも今の目線で見れば、選べないということはとても納得のいかないことではないでしょうか?その考える時間を、2年なり4年なり与えてくれるのだから、本当にありがたいとともに無駄にはできませんよね。

じゃー良い学校に行くのは?結論から言えば、何処でも同じです。ただ残念ながら高度に発達した情報社会で自分の思いを貫くためには、多くの情報に負けない・コントロールできる思考力が 必要です。競争に勝ち抜いた人たちはその力を持った人が多い。(答えのある問題しか解けない子が多いですけどね)
そういう人たちに出会い、刺激を受け、広く自分の世界を広げていくことで
より深く自分の思いを見つめるチャンスに出会えるかもしれないからです。
確率の問題ですけどね。

レベルの低いと言われているところに、素晴らしい心を持った方がいる確率もありますから、落ちたからって悲観することは無いんです。(答えの無い問題に出会った時力を発揮する子がいることもあります)
出会いは「縁」です。何がきっかけで出会うか判りません。素敵じゃないですか。どちらに転んだって、見る眼・捉まえる眼さえしっかり持っていれば探せるんです。

そういった時間をくれる社会。モラトリアムを認める社会。とりあえず、目的に疑問を持った子達にとっては、いいことなのでは無いでしょうか?
そういって、たいていの子は納得してくれます。

寿命や世代の間隔が伸びたことで、社会構造が変わったのでしょうが
それより、何と言っても
「人間だけが学習することを覚えた、希有な存在ですからね」(ネオテニー参照)

だから、大学に入ったら、ぼやぼやしてないで、「何を自分はやりたいのかを必死に探すんだよ、時間はあっという間に過ぎ去っちゃうよ!」と言ってやります。

2011年06月20日
美しい光
梅雨入りして、もう2週間にもなる。
昨年も「雨」というタイトルで、おはなししましたので、雨の話は飛ばしますが、この時期、どうしても心が晴れないのは、空のせいでもあるかもしれませんね。それでも雨露をたっぷり含んで、朝もやの中に僅かにさす光の中で、静かに息づいている紫陽花のたたずまいは、凛として私達の姿勢を正すような落ち着いた気品のある神秘を漂わせます。

      あじさいや真水の如き色つらね(高木晴子)

高木さんは、高浜虚子の娘さんで、紫陽花を真水の如きと読む心は、変幻自在に色の変わる花の特徴をうまく捉えられていますね。
思い込みを捨てて、一旦心を空しくして、そののちに改めて無心で見る花は常識(定義)を超えた、色そのものに出会うことができるのかもしれませんね。

      さみだれや 大河を前に 家 二軒 (蕪村)

良く知られた句ですが、絵画的なイメージは湧いても、家二軒というのが只ならぬ気配を漂わせていますね。五月雨を集めて、洪水のように激しい自然の猛威の中で、小さく力無い人の立てた家が二軒、一生懸命拮抗している。
これって「ハチドリのひと雫」と同じ様に、自然に対する人間の戦い方を象徴しているようですね。身の丈にあったやり方で。

さて梅雨もあければ、間もなく暑い夏がやってきます。被災された方々は、晴れれば晴れたで、暑く苦しく大変な日々が待っているのかもしれません。
間もなく日本中で夏の夜空を彩る花火大会も催されるでしょう。

時は18世紀、パリではルイ15世騎馬隊の広場建立を記念して大花火大会が催された。東西共に天変地異や穀物不作・飢饉の多かった時期で
日本でも同じ18世紀の徳川吉宗の治世に「両国の花火大会」を始めた。
全国的な凶作や悪疫の退散や、災害による餓死者の慰霊を願って幕府が催した。
それは川施餓鬼や水神祭の光のイベントだった。

そこには美しい、いい光を天空高く投げ上げることによって水神の怒りを鎮め、水難事故を防ぎ、川で亡くなって迷っている魂が、花火に導かれ天国に行けるように、との思いが込められていた。

先行き不透明な現代も、人は切実に希望の光を求めて、この花火に願いを託すのだろうか。それぞれの思いを込めて。

2011年06月09日
人間とは何か(T章)
先週土曜夜、TBSテレビでの3時間スペシャル「人間とは何か」をご覧になりましたか?私は都合で後半部分しか見られませんでしたが、とても示唆に富んだ興味ある内容だったと思いました。
唯、そのテーマが余りに大きく深い・というより神秘を伴う理解を超えた高い次元の話であった為、表面をなぞるだけで、時間が来てしまった感は否めません。そこで私なりに、これと思う大事な点を、ピックアップして考えてみました。
     地球は46年億年の間に何回も姿を激変させ、その度に生きものは
     絶滅と繁栄を繰り返し、やがて人間が誕生したことなどを
     俯瞰して…。
     人間にまつわるいくつもの疑問・・・
     なぜ、男と女が存在するのか?
     子どもにとって父親とは何なのか?母親とは?
     なぜヒトは二本足で歩くのか?
     赤ちゃんはなぜかわいいのか?
     なぜ人間の赤ちゃんは卵から生まれないのか?
     なぜ、なぜ・・・・

人間の胎児は受胎してから30日を過ぎてから短い間に、魚類、両生類などの姿とそっくりな形を経て(まるで1億年分の進化の歴史を再現するかの様にも見えます)人間らしい形に変わっていきます。お母さんのおなかの中でごく小さな受精卵が胎児となり、ぐんぐんと成長して人間らしくなり、心が生まれていく姿は感動的です。新生児とお母さんの愛の絆とともに描いていきます。
生まれた間もない赤ちゃんの手のひらに指を乗せると、大人顔負けの強い力で手をぎゅっと握られます。これは把握反射といい、サルがお母さんの体にしがみついて移動していたころの 名残と考えられています。

後から出てきますが、地殻変動により、出現した地球の巨大な裂け目・大地溝帯はもともとあった水分豊かな熱帯雨林と違って、乾燥した広い草原でした。そこに出て行った人類の祖先は、遠くからの敵を速く察知するためもあって、立ちあがった(二足歩行)のです。
森林による日陰もままならない場所では、身体についている毛皮を脱ぎ捨て、汗を大量に出して身体を涼しくする汗腺の発達をみます。お母さんの体毛が無くなったことで、しがみつくことのできない赤ちゃんは「泣きます」。人類だけの特徴です。
人間は大人になると、泣くことは女々しいこととして、嫌います。しかし、本当にそれでいいのでしょうか?それは、全ての生物は兄弟であり、お互いの行為がお互いに強く影響し合っているという真実を、気持ちを、忘れさせようという試みに思えます。事実現代人の行っていることは、大切な仲間をわすれ、人間さえ良ければという暴走に見えます。
もっといえば、エコ(地球にやさしい)などというブームすら、上から目線で、自分たちにだけ都合のよい、飽食を生きながらえる自分勝手な都合に過ぎないと感じられます。
6500万年前、エベレスト山に匹敵する大きさの彗星が、現在のメキシコのユカタン半島に衝突、恐竜王国を滅亡させました。巨大な噴煙で日光を遮られ、激しい寒波と酸性雨の中、生き残ったのは、死肉を食べるごく小型の哺乳類でした。これが“わたし”の祖先です。
子どもを卵ではなく、お腹の中で成長させてから産むというやりかたも、恐竜から逃げるのに有利だったと考えられています。(卵のまま産んでしまうと、そこに固定され移動できない。)恐竜から逃れるために、夜ひっそりと草陰で行動していたことが幸いし、恐竜が消えた地球で爆発的に繁栄していきました。

私達人類は、死肉を食べる生き者だと言う事実から目をそむけてはならないと思います。また私はここに、なぜ赤ちゃんはおなかの中で十分成長させてから生むと言いながら、他の動物と違って生まれてすぐに立てないのか?という疑問を付け加えておきます。その答えは、最後に。
私たちは人間だけが豊かな心を持つ特別な存在だと、何となく感じながら、都会という閉ざされた空間で生活しています。しかし、ゴリラを見ていると、決してそうではないことに気付かされます。
私たちはゴリラの生態を撮影しに、アフリカ・コンゴに向かいました。シルバーバックと呼ばれるオスの子煩悩な愛と群れを守る勇気、子供たちの好奇心、空想を楽しんでいるとしか思えない表情の豊かさ…。真実を見つめるかのごとき澄んだまなこ。
「それは誤解さ。ゴリラに真実なんて判る筈もない。そんな風に見えるだけさ。」そういう声が聞こえてきそうです。でも本当にそうなんでしょうか?
それでは人間は判っているというのでしょうか?或いはいつかは判る方向に向いているというのでしょうか?
私はそれは、ヒトの傲慢だと思います。言葉を生み、環境を変え、人から人へと知識や技術を繋ぎバベルの塔を登ったとしても、それで得られるものはなんでしょう?同じところをぐるぐる回っているだけ。真実ってそういうものではない。
ゴリラとヒトは正反対の方向を向き、何もしないゴリラと知識を蓄え何でも知ろうと走り続けたヒトとが再び出会い、同じ「不思議の窓」(眼)から自然を見つめる姿は、まるでそこでサークルが閉じる完結された環のようです。結局どちらも同じだった・・・。我々は何も分かっていなかった・・・・。
進化の歴史をさかのぼれば、「強者」とはその時々の地球環境に適応した生きものということがわかります。ヒトは、確かに「強者」ではありますが、今の地球環境に適応した一形態に過ぎないのです。地球環境が変われば絶滅しても不思議ではない、ひとつの種…。
しかし、私たち人間はまた、生命38億年の歴史の中で、叩かれても襲われてもどんなに厳しい環境変化の中でも、逞しく生き抜いてきた生きものたちの子孫あることも確かなのです。
そして、今、地球上に生きているすべての“命”が、一緒に生き延びた兄弟であり、互いに深く関わりあっているのです。
“命”の底知れぬパワーとは、何と素晴らしいものなのでしょうか!
というエンディングで終了しました。
さーこのエンディングで、最後に問われた、「人間と他の生物との決定的な違いは?」という問いに、「人はその時々の地球環境に適応してきたということに加えて、生きる為に「環境」を変える力を持った生き者だ。」という結論とともに、それゆえその環境を変える行為が、周囲の生き者の環境を変え、まわり回って、我々を苦しめることに繋がりつつあることに警告を発して終わりました。
まさしく、今問われている人類の課題でもあります。でも私にはいくつか期待外れのところが散見されました。
紙面の関係で、その全てを述べることはできませんが、「人間と他の生物との決定的な違いは?」という問いに、一つだけ私は、ヒトが「ネオテニー」という遺伝子戦略をとったことだと付け加えたいと思います。
(続く)

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2011年06月09日
人間とは何か(U章)・ネオテニー
ネオテニー、それは「幼形成熟」と訳され、発育過程が「遅滞」することで、胎児や幼児の特徴がそのまま保持される風変わりな生物学的現象をいう。
ギリシャ語の「若さ(neos)」と「延長する」(tenio)を合わせた造語で、1884年バーゼル大学の動物学者ユリウス・コルマンがイモリやウーパールーパーなどの水槽での幼態の特徴を示すのに使った用語とされている。

ダーウィンの「種の起源」が広まりつつあった頃、自然淘汰が「適者生存」という進化をもたらすというセオリーが検証されていた。そんなころ1868年ペンシルバニア大学のエドワード・コープは、進化にはおそらく自然淘汰だけでなく、「加速と遅滞」の法則というべき作用が働いていることを指摘した。
更に自然淘汰が適者生存によってもたらされるのに対し、「加速と遅滞」はどんな適応度にも関係なく自律的に進化や分化にかかわるとみなした。

ヒトの成長過程を観察する中で、直立二足歩行をすることにより、従来より、骨盤や子宮や産道が変化して妊娠期間が長期間になるだけでなく、そうして生まれた赤ちゃんも1人では何もできないほど未成熟になり育児期間も他の動物に比べ異例に長くなったということがおこった。初期の成長をあえて遅らせ、つまり「遅滞」させて、その分育成期間をゆっくりとった。これを人のネオテニーという。

ヒトは、一元的に進化の競争の中にはまることなく、「脇見」をしたのかもしれない。そして通常では考えられない「進化の競争の外に抜け出た存在」になったのだ。つまり動物からの「自立」という大それたことをしたのだ。

ハーバード大学の巨人スチーブン・グールドは、我々人間はずば抜けて学習する動物である。肉体的には特に優れていることはない。しかし、我々の長所は、経験から学ぶ素晴らしい能力を持っている、その脳に或る。と説明した。
そして人は、性の成熟が独立心をもたらす前に、それを遅らせて、自分たちの学習を強化させて弱々しい幼児期を引き延ばしたのではないだろうか?とも説明している。
事実サルやチンパンジーの脳は、出世時既に生体の脳の70%程に達しているのに、人間の生まれたての脳は、わずか23%くらいしか出来上がっていない。そして大量の情報を後天的に入力していく。

人間が文化を創造しえたのは、胎内期間が短くて、未熟児として放りだされた幼児たちがネオテニーによって成長を遅滞させることで、様々な遊びや実験やコミュニケーションに夢中になったおかげではないか?とアラスカ大学のガスリーは考えた。
更には現代ドイツの哲学者アーノルド・ゲーレンも「ネオテニーこそ「意識の発生」と関係があるのではとの仮説もだしているという。

「ネオテニーが人間にもたらした最大の成果は、脳だ。
ネオテニーは我々成人に幼年期の「未熟感」をとどめさせ、何歳になっても努力と勇気を発揮しない限り何も手に入らないことを教えた。また我々には、幼年期の記憶に基づいた「幼な心」がひそんでいて、いつでも童心に帰れることも教えた。年をとるにつれ、老人が可愛くなるのもそのせいだった。」(「背中のない日本」松岡正剛)

ネオテニー、それは我々内側に潜んでいる「最も奇妙な弱々しさ」を利用した戦略である。人が樹上から草原に降り立った時に必要とした戦略だろう。それとともにネオテニーは「可愛らしいもの」や「弱々しいもの」に惹かれる古い起源を明かしている。人間だろうとラッコだろうと子猫であろうと抱きしめたくなるのは、攻撃を控えさせるのは、おそらく我々の内なる戦略が生物競争史の中で描いたシナリオだった。

なぜどんな動物のこどもも可愛いのか、なぜぬいぐるみは大人になった女性を引き付けるのか、なぜ恋人同志は幼児言葉で話したくなるのか。
何故ちびまるこやドラエモンやミッキーマウスが好きなのか?

T章で、「赤ちゃんは泣きます。人類だけの特徴です。人間は大人になると、泣くことは女々しいこととして、嫌います。しかし、本当にそれでいいのでしょうか?それは、全ての生物は兄弟であり、お互いの行為がお互いに強く影響し合っているという真実を、気持ちを、忘れさせようという試みに思えます。」と書きました。
社会や国家や都市が出来上がるにつれて、法に基づく規律を重視する大人社会が、涙を女々しく役に立たないものとして捨てさせます。それでも我々は良くできたドラマやスポーツ選手の限界を見せられると、感極まって泣いてしまう。なぜだろう。
幼年期に辿った、弱々しかった頃の、自身の努力と勇気と母の体毛にすがりたくともすがれなかった、怖かったあの頃の自分を重ね合わせるからではないでしょうか?

「涙」を「法」に代わる基準とした、幼年期の王国を忘れるなと、赤ちゃんは警告している様に思えます。初心を、「幼な心」を忘れるなと。
遠い進化の競争の外から・・(ヘッセ・デーミアン、グラス・ブリキの太鼓参照)

最後に我らがセイゴウ先生とスチーブン・グールドの対話をどうぞ。

セイゴオ「人間が進化するかどうかですって?」
グールド「うん、発育不全によってネオテニーが生じたということは、その欠陥を何かで補ったからヒトができたということですよね」
セイゴオ「ええ、著しく学習をする動物になったわけですね」
グールド「そうですね。でも、その学習は遺伝するとはかぎらない。では、学習的な生物は何によって進化できるのか、問題はそこに向かってしまうんです」
セイゴオ「ヒトはまだ進化するんですか」
グールド「地質学的な時間ではかれば、そういうこともおこりえますよね」
セイゴオ「アフターマン?」
グールド「あはは、あの絵はまちがいが多いですけどね。どのように進化するかどうかはわからないけれど、おそらく進化は突然変異的におこるでしょうね。そのときにネオテニーを補完する何かが発現するかどうかです」
セイゴオ「はあ、そうすると、そのときは学習しない人間になるかもしれない?」
グールド「そうそう、そういうことです」
セイゴオ「ええーっ、内部器官で処理してしまう人間ができてくるわけですか」
グールド「いやですか?」
セイゴオ「ネオテニーのままでいいでしょうね」
グールド「ぼくもそうです。人間は永遠に発育不全のままのほうがいいんです」

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