2016年12月21日
第2回歴史第3部中世14【日本古代・華厳から密教へ】
〈華厳の毘盧遮那仏から密教の大日如来へ〉
平城京には多くの寺院の伽藍が建ち並び、既に遷都前からの飛鳥・藤原時代からの国家大寺院として薬師寺や法隆寺(飛鳥寺)、大安寺などがあり、更には遷都後に建てられた興福寺・東大寺・西大寺などがあり、これら寺院において研究された仏教は、南都六宗(83)と呼ばれた。中でも東大寺の華厳教(84)は、その中心となり、仏教によって国家の安定を図ろうという鎮護国家の思想を、東大寺大仏(毘盧遮那仏)を中心として全国に国分寺(国分尼寺)を配置する、藤原氏の国家イデオロギーともいうべき華厳ネットワークに乗せて拡げました。
しかし、このような民衆の信仰を伴わない、学術的宗教だけではいずれ形骸化し衰退するのは目に見えていて、それは中国で唐以降仏教が衰退したのと同様の道だった。当時の感覚では仏教はモダンでセレブな文化で、僧はエリート層であり、渡来僧や商人などの中国語や朝鮮語など様々な言語が飛び交う平城京においては、僧侶はバイリンガルとして羨望の眼差しを向けられる対象だった。そんな中で、日本においては山にこもり修行に励む修験・雑蜜などの山岳仏教、民衆への布教と共に社会事業を行い国家からの弾圧にもめげず、後に大僧正に任命されて大仏造営に協力する行基、貧しい孤児や病人の為社会福祉活動を行った光明皇后などが黙々と活動します。
又仏教も決して神道が特に社会的権力を目指さない限り弾圧することもなく、共存の道を探るのです。各地に神宮寺や神願寺といった神仏集合思想(85)に基づく、神社であり且つ寺である寺院が建立され、近くには神を祀る社(やしろ)や祠(ほこら・小さなやしろ)が新たにつくられ、「鎮守(ちんじゅ)」と呼ばれるその土地や場所を守護する神も祀られるようになりました。なぜなら、仏教は日本に限らず、伝播した土地の固有信仰を取り込みながら発展してきたのであって、インドでも(梵天・帝釈天・阿修羅などと)中国でも(道教と)習合を繰り返している。日本でも同様に神道との習合を繰り返したのは珍しい話ではありません。日本の場合は、中国からの習合思想の影響もみられるが、在地の有力者や郡司(86)などに信仰された神が、彼らが私的に行った、春に農民に稲を貸し出し、秋に重い利息をつけて返済させる金貸しならぬ稲貸し(私出挙・しすいこ)や、天災、疫病などで村落は荒廃し、求心力を失っていた状況が、仏教に取り込まれる要因を作っていた。こうした窮状を見て、寺院と山林や諸国を渡り歩く遊行僧らは、神が仏の力を借りて救済される神仏習合の仲立ちをしたのです。神の苦悩は、時代の変化(律令化強化・平安化)についていけない有力者達の苦悩でもあったのです。
桓武天皇は、この郡司の譜代制も廃止して才用制とし(これも郡司には打撃となった)、併せて国司の不正を摘発する令外官(天皇直属のスタッフ⇦⇦律令のラインには乗らない)である勘解由使(かげゆし)を設置した。
桓武はこうして地方管理体制を強化しながら、蝦夷の征伐で国家の威信を国内に示そうとした。小中華思想と言われます。最初の征夷はアテルイなどの反撃で敗退したが、二度目には坂東(碓氷峠と足柄坂より東の地域)を兵站基地とし兵糧(糠・ぬか)14万石を用意し、10万の征夷軍を養い、勝利を収めた。このとき副使に任命されたのが坂上田村麻呂でした。三度目の征夷は800年から、(797年に征夷大将軍に任命されていた)田村麻呂を中心に出発し、蝦夷征伐に成功し、族長アテルイらを引き連れて上京し、田村麻呂は彼等の投降が自首であることから除名嘆願したが公卿らの反対にあって処刑となった。このような造都や征夷という膨大な出費が可能となったのも、気候の安定や経済的基盤が安定していたこともあるが、唐末の政局の混乱や新羅の内乱などで、対外的な軍事費が不要だったことも寄与していた。
それでも度重なる征夷や造都の費用は農民(地方)を圧迫し、高齢で病弱になった桓武は、殿上に藤原緒継と菅野真道を呼び、徳政(徳のある政治)について論じさせた。そして緒継の意見を採り入れて、天下の苦しみである「軍事(征夷)」と「造作(造都)」を停止した(徳政相論)。併せて側近の藤原種継暗殺事件の際に葬った早良親王の怨霊を恐れて、淡路に寺院を建立したり、最澄を殿上に呼び、悔過(罪を償う行事)を行わせた。
神道に関しても、桓武天皇は伊勢神宮を深く信仰し、平安遷都に際しては賀茂社や、母の出身貴族である百済王氏の祀る神社を平安京に勧請(かんじょう・神の分霊を迎え祀る)したり、諸国の神主の任命権を手中にし、国家の管理下に置いた。
こうした中で、華厳のような正統に伝わった経伝仏教ではなく、裏として早くから伝わっていた密伝仏教である南伝仏教(87)を基にした山岳仏教がいよいよ出番となってきます。行基のように同じ山林派であっても、大僧正として華厳派に取り込まれず、山林にこもり修行に耐えてきたこのグループを、唐帰りの最澄・空海は雑蜜として採り入れ、よく整理して純蜜として体系化し、いよいよ密教(88)の時代を切り開くのです。
桓武も、顕教(89)の政治介入には嫌気がさしており、平安遷都の際には、平城京時代の寺院の移設を認めず、官立の東寺、西寺以外の私的寺院の建立も認めなかった。同時に最澄らの新仏教を支持した。道鏡が下野の国に流され、久々に天智系の光仁天皇が即位し、その子である「桓武には、天智系の血とは別に、百済亡命一族の血が流れていた。・・その桓武が選んだ新京の地が、山門(やまと)ではなく、山背(やましろ)である山城であったことはすこぶる興味深い(90)」ですね。(吉野の入り口である)山門は大和=奈良=平城京であり、山背は国都のあった大和国から見て、山の裏側(反対側)の国という意味ですが、新しい国都が「背」ではまずいので桓武天皇が、都にふさわしい「城」に変更したようですが、「山城」といえば思い出すのは、国防の為に、百済に学んだ古代朝鮮式山城ですね。日本の古代のところでやりましたね。
密教の宗教としての詳細については、第10回予定の宗教のところで検討しましょう。
注83) 南都六宗
三輪、成実、法相、倶舎、華厳、律の宗派。信仰よりも教典の学術的研究に力がそそがれた。
注84) 華厳経
日本の古代史を覆った宗教であり、哲学であり、科学だった。全世界をヴァイロチャーナ=ビルシャナ(奈良大仏)仏の顕現とし、一微塵の中に全世界を映じ、一瞬の中に永遠を含むという一即一切・一切即一の世界を展開する。古代国家が一人のリーダーとしての帝王を置いて国を治めるモデルとして使いやすかった為、日本も取り入れられた(鎮護国家)。「唯心縁起」を重視する世界観によって出来上がったもので、言葉使いが述語的につながっている(西田幾多郎の「述語的包摂(*)」参照)という特徴をもつ。密教と禅は華厳を分母として発達した。
華厳経の教理の特色は人間には仏性があり、仏になるとした。そのプロセスを「性起(**)」に託し、理性起(自己の仏性に気づく)→行性起(師や経典に学ぶ)→果性起(清らかな仏果現る)の3段階に分けた。
仏陀が悟った真理は「縁起」から見た世界にあるとした。「縁起相由」といい、事象の関係発見のプロセスを示した。諸縁各異(事象には全て個性あり)と互編相違(全体の調和は個性が構成する)→倶存無碍(多様な関係が生まれる)→相即相入(多くの個性の関係が真理となり、真理は多くの個性の関係になる) →同異円備(多くの個性が関係しあって調和をつくり出す)
宇宙は多様な要素が全て相互にネットワークし合って、秩序をつくりあげている。「四種縁起」といい華厳世界のプロセス示す。事法界(現実世界・森羅万象)→理法界(真理を追究して現れる「空」の世界)→理事無碍法界(現実と真理が融合した世界)→事事無碍法界(全事象が相互関係を起こしている世界)にまとめられる。
(*)「西田幾多郎は〈判断というものは、実は主語を述語が包摂することだ〉と書いた。これは〈特殊〉としての主語に対し、述語が〈一般〉であることを強調したものである。その為人間の知識は、この〈一般〉の無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだと捉えられた。言い換えれば、人間は自分自身の底辺にある〈述語面で〉あらゆる意味と意味のつながりを連絡づけているということだった。〈意識の範疇は述語性にある〉というとびぬけて素晴らしい結論を出したのだ。(松岡正剛・知の編集工学・朝日新聞社p278)」
(**)「性起」・・現象世界は、真如・法相(ホッショウ)などの根本原理の生起したものとする見方。
注85) 神仏集合思想
仏教と在来の神祇思想(*)とを混融調和するためにとなえられた教説。奈良時代は経典知識の普及により、神を仏教の護法善神として「神宮寺・じんぐうじ」が建立され、(寺の中で)神前読経が行われた(鎌倉にある鶴岡八幡宮は明治初期まで神宮寺だったし、奈良の春日大社では正月に般若心経が読み上げられる)。
平安時代になると神に菩薩号が与えられ、権現の名で呼ぶようになった。以降は末法思想の中、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が展開され、仏が神の姿で、人々の救済に顕現したとされた(仏が本地、神が垂迹)。具体的には、大日如来は天照大神に、阿弥陀如来は八幡神や熊野権現に、地蔵菩薩は愛宕権現(あたごごんげん)に、大黒天は大国主神(おおくにぬしのかみ)にといった具合である。
鎌倉・室町期には反本地垂迹説(神が仏の姿をとって顕現した)により、神道の理論化が図られた。更に江戸時代には、儒者や国学者からもこれは俗神道として排撃されたが、村の鎮守の神として、村落の宗教生活には浸透していった(角川日本史辞典より)。ここでは、このように相反するモノすら統合してしまう、古代から現代まで脈々と通じている極めて日本的な性向を自覚しておきましょう。ここからもわかるように、日本は無宗教ではありませんが、さりとて体系立てた宗教に支配されている訳でも反宗教でもないんです。非宗教なんです。唯素直に感動したものや人やコトに頭を下げる。それだけなんです。だからこのような矛盾したと思えることが平気でできるんです。海外からの批判も受けるのです。でもそれを宗教からの自由と言いましょう。
(*)神に関わる観念や信仰の総称。
もともと日本では天地の神や人格的な祖先と系譜神を祭る慣行はなく、教説もなく、各種の自然形象を共同体や生業の神として祭った。その後仏教や仏像や道教などと接触する中で、神を偶像として命名することやケガレ・祓いを重視したり、神話作りが進んだ。そして天皇祭祀のもと、天神地祇(天の神と地の神。天つ神と国つ神。・・日本では、高天原たかまのはらに生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国あしはらのなかつくにに誕生した神を地祇とする)の考えが編み出された。更に奈良時代の「氏神祭祀」、平安時代の「御霊信仰」が生まれる。
注86) 郡司
令制の地方官。前身は7世紀後半の国造(くにのみやつこ)などの伝統的な豪族などで、終身官だった。国府内に留まらず、国内を巡行したり京と任国を往還する国司は、実質郡司級の豪族の在地支配に依存していた。
注87) 南伝仏教
南方アジアで広まったで上座部仏教で小乗仏教とも呼ばれる。厳しい戒律を持ち僧侶の修行によって悟りをひらき、庶民は僧侶に功徳を積む事で救われるとするもの。(これに対し、マントラ(真言)を唱える事で誰でも救われるとする大乗仏教は、漢訳やチベット訳の仏典で伝わった、チベット・モンゴル・中国・朝鮮・日本における北方仏教といわれ、比較されるが厳密ではない)
注88)密教 【最澄と空海】
宇宙の実相を仏格化した根本仏とされる大日如来(智の働きを表す金剛界大日如来と、理を表す胎蔵界大日如来の二尊がある)の教え。大日如来とは華厳の教主となったヴァイローチャナ(サンスクリット語=日本名ビルシャナ・毘盧遮那=大仏)が、再昇華したマハー(大)ヴァイローチャナをさす。尊格は同じですが、密教はゴータマ・ブッダを選ばず、アスラから転身を遂げたマハー・ヴァイローチャナ・ブッダを選んだのです。
奈良時代後半には、仏教が政治に深く関与して弊害をもたらした。桓武天皇は平安遷都に伴い、最澄によってもたらされた新しい仏教を支持した。
一介の私度僧に過ぎなかった空海は、優れた著作は残しつつも中央にその名を轟かせることはなく、唐に渡る伝手は無かった筈だが、叔父の阿刀大足を介して、有力者(伊予親王)の推薦を受け20年の任期を持つ長期の遣唐留学僧に選ばれたと推測される。私費で(勿論伊予親王の資金援助は受けていたろうが)渡った留学僧だった。ただ伊予親王は桓武の死後謀反の疑いで自殺した為、その名を隠したと推測される。空海は長安に入り、その才能をいかんなく発揮して、般若心経や華厳経を中国語に翻訳した博覧強記のインド人・般若三蔵の知己を得、梵語(サンスクリット語)やバラモン教を学び、その仲介もあってか修行者二千人に及ぶ密教の本山ともいうべき青龍寺の恵果を訪ねる。恵果は空海が来るのを知っていたかのように「我、先より汝の来るを待つや久し」と言って早くも両部密教の秘法の研鑽に入る。胎蔵界の灌頂でも金剛界の灌頂でも、先立つ投華の儀式で投げた花が大日如来の上に落ちる。「不可思議!不可思議!」と手を打つ。どちらも不眠不休で打ち込んだ。恵果は大日如来の密号である「遍照金剛」の号を空海におくり、何と、真言密教の第八祖となりました(「大日如来-金剛薩埵-龍猛-龍智-金剛智-不空-恵果-空海」)。中国密教界の最大最上の付法が与えられたのです。
インド伝来の聖教、曼荼羅、仏画、法具、仏舎利80粒などのことごとくがおくられた。結局、義明が早死した為、金胎両部の秘法を伝授されたのは空海一人だった。入唐して3年になろうとしていた。もはや中国に留まる理由はないと帰国を計画した。僅かに越州の龍興寺の密教阿闍梨である順暁(じゅんぎょう)に合っている。順暁は最澄に密教の付法を伝授した人物であり、その一部始終を聞き、最澄の学んだ密教がどの程度のものかおおよそを知る。先を越されたと思ったかもしれないし、自分の掴んだ世界の広さに自信を深めたかもしれない。帰国に当たっては、高齢にあって(70歳)尚日本への布教に熱意を枯らさない翻訳の天才・般若三蔵に後を託され、膨大な教典を受け取った。唯空海は、帰国してすぐには都に入らない。桓武の死も耳に入る。九州・筑紫に留まり機の熟すを待った。本来20年を学ばねばならない還学僧が僅か3年足らずで戻ったとあれば咎めをうけることは間違いない。それなりの成果を挙げたことを暗に知らせ、都の反応を見た。又空海を留学僧に推薦・資金援助したと思われる伊予親王が桓武の後の平城天皇に対する謀反の疑いで自害していたことから政治的謀略に巻き込まれる恐れもあった。桓武の死後宮中の勢力が交替し、右大臣となった藤原内麻呂は最澄の新仏教より奈良旧仏教に味方し始めた。その機を見て空海は、京に向かう高橋真人に長安などで得た教典他の全目録(「請来目録)を託した。現物は渡さない。「請来目録」は、そのあまりの偉大な内容に判定できる者が見つからず、日本密教の最高指導者に登っていた最澄の手に渡った。それを見るだけで最澄は、ただならぬ空海の実力を見抜いた。長安に入らなかったのを悔いたかもしれない。本格的な密教の到来に、畏れと共に、大いなる友を得た心強さを持ったかもしれない。
やがてそして徐々に、空海を必要とされる時が近づいてくる。最初は、最澄の弟子ではあるが空海を評価していた勤操の管理する和泉の国・槙尾山寺に、そして次には、京に上って最澄ゆかりの高雄山寺に入るようにとの、太政官・官符が、彼の住む国の国司に下った。奈良仏教者達も、最澄の痛烈な批判を受けて立てるのは空海しかいないと感じていたし、最澄も完成された、正統の流れを汲んだ密教の膨大な教えが広まるのを素直に喜んだに違いない。空海はどちらにつくというものではない、密教がこれまでの仏教流派の一つでしかなかったのを、全ての頂に立つものとして、超越的な立場を持ち、華厳すら下位に置く仏教最高の宗教とする構想を持っていた。
空海は嵯峨天皇から、六朝期の秀句を選りすぐって六曲一双の屏風に書くよう依頼された。謙遜しながらも、長安では五筆和尚の名をもらったほどの優れた書家でもあった彼はあっという間に感性豊かな嵯峨天皇を魅了した。
最澄はほどなく、空海付法の金胎両部の灌頂を受けたいと山城の国の乙訓寺を訪ねた(空海は、嵯峨天皇からの命で、早良親王の幽閉されていた山城の国の乙訓寺に入ていた。怨霊の魂鎮めか、兼ねて望んでいた荒れ果てたこの寺の修理を願ってなのか定かではない)。唯、南都諸宗を攻撃する最澄が空海に三顧の礼を尽くしているということは、只ならぬことだった。既に最澄は空海に教典閲覧の申し出をしていたし、手紙の末尾には、「下僧最澄」と記していた。最澄とはそういう正直な人間だった。信仰の前には社会的地位などに囚われない直情の人だった。
空海も最澄の姿勢によくこたえて借覧にも協力し、灌頂も多数行った。最澄もこの空海の活動を資金を含めて惜しみなく援助した。しかしやがてその借覧も断られ、最澄の熱望していた灌頂も、阿闍梨(あじゃり=密教の僧職)の位を得るための「伝法灌頂」はしてもらえず、曼荼羅諸僧との縁を結ぶ「結縁灌頂」までに過ぎなかった。このまま続けてすべてを持っていかれるのを恐れたのか。事が政治的に語られるならそうであろう。強かでもあったろう。しかし空海はそのような秤で語られるようなスケールの人間ではなかった。最澄とは住む場所が違っていた。空海は最澄が嫌いではなかったが、うっとうしかった筈だ。こんなことにかかずらってはいられない、それが本心だったろう。早くおのれの信念を世に問いたい。
善悪などを超越した、生命の矛盾を前に、大輪廻を前に、その悪夢から、慈父である覚者が黙って見てはいられないという叫びを発した。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを知らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
(自分には自分は判らないし
生には生は判らない(まして死などわからない)
生の始めは判らないし
死の終わりも又わからない
自分に与えられた相を生きることが、そのまま全体を生きることになる)
三界に輪廻し、四生に蛉足幷(りょうびょう)す
大覚の慈父、これを見て何ぞ黙したまわん
(生きとし生けるものは悪無限的な繰り返しを生きている。
そうした生命の海の輪廻の悪夢を黙って見てはいられない)
もはや「祈り(信仰)」だけではすまされない、生命の矛盾(共存と共食い=他の生命の殺戮(*))を受け止め、身をもって示すという大事業が、彼を突き動かしていた。誰がこの根本問題を理解しただろうか。僅かに最澄がそのスケールに気付くのみだが、その深く広い哲学を理解しているとは感じられない。むしろその中途半端な理解は、これからの構想に有害ですらある。根本が違っていた。最澄を始めとした大方の仏教は「生きる救い」を目指したのに対し、空海の根本解決は誤解を恐れずに言えば「自殺」だった。輪廻の悪夢を断つ「即身成仏」とはそのことだった。それは決して生命の否定ではない。生きとし生ける者たちの中で、人間だけが善人面をしていることへの「喝」だった。(一汁一菜で暮らせばいいというものではない、そんなものは自己満足に過ぎない)。このようなことが理解できる筈もない。だが薄々感じられるものなのだ。それが不安という形をとって、忍び寄る。そこを身をもって、先頭をきって、「生命の定義=あり方」を示しておく、釘を刺しておくのが空海の答えだった。
「仏教は中インドから南インドあたりで形成された般若や中観哲学、いわば「空の哲学」という頂点と、これに対する唯識哲学をも組み込んだ「悲の哲学」という頂点との、二つの絶頂を極めたのであるが、密教は時代的な流れから、この「空と悲」の統合を何とか果たさなければならないところに差し掛かっていた(**)」わけです。
一人の欲望や食欲や暴力などの想像力の根拠を自己のみに求めず、原因と結果の必然性に秩序維持を頼る因果律の脈絡に関しても一人自分のせいだと考えず、もっと広く、「生きてある者と死んである者との(想像力と因果律との)共有まで進んだ時に、宗教は初めて「生命の海」をもつことになる。空海はそのことを「即身」というふうに見た(***)」(松岡正剛「空海の夢」春秋社参照)
彼の伝えた密教(大日経・金剛頂経)は、修行によって奥義を極めたものにしか深遠な悟りは開けないとしたが、人間はありのままの姿で既に仏であり、修行によってそれを自覚できるとした「即身成仏」の考えは、輪廻転生の苦しみを経験しなくとも成仏できるという画期的な思想で(もう既においしい所は、民衆より先に味わい尽くした)貴族らの支持を集めた。おそろしく壮大な言語論を持つ体系から真言密教(東密)と呼ばれた。
一方、桓武に重用されたのは最澄の方で、既に名声のあった彼は、桓武の強い要請から、請益僧(しょうやくそう・特定の課題について、短期に学問や教義・教典上の疑問点を高僧らに問い帰国した短期留学僧****)として遣唐使に随行した。
最澄の伝えた法華経は、「一切皆成仏」として人間の仏性の平等を説いた。後に、既に唐が廃仏をやっている頃に入唐して、還俗させられた僧が多い中の唐から帰国した、弟子の円仁らにより密教化され、天台密教(台密)とされた。
これ以前からあった、山にこもり修行した修験雑蜜(ぞうみつ)と区別してこれら(東密・台密)を純蜜と呼ぶ。
しかし最澄は天台宗を起こし延暦寺で教えを広めたが、彼が起こしたのは法華経を中心教典とした天台教学(天台学、密教、禅、戒律の四種相承を特色とする、つまり法華経、浄土教、禅、密教を教えます)であり、密教中心ではなかった。何しろ短期留学僧で時間がなかった。幸運にも天台の正統な継承者・順暁に密教の胎蔵界と金剛界の灌頂(*****)を授けられ弟子として認められたものの、僅か1年間で、長安にも行っていない。これが後に空海との社会的立場の逆転を招くことになる。
それでも、鑑真から続く多様な天台の教えと、最澄の謙虚さは、後の浄土教の源信や偉大な鎌倉新仏教の開祖たち(法然・日蓮ら)をそこから輩出した。
逆に空海は、密教に専念し、高野山・金剛峯寺で大日如来の真の言葉を指す真言宗を開き、奥義の深遠なことから日本の密教の代表とされた。密教は、日本の土俗ともよく溶け合い、体系化された、インド発の世界普遍の哲学宗教でした。空海の思想は完璧すぎた。一人ですべてをやってのけ、高い頂に行ってしまった。恵果が中国の地で、密教の継承を託せる弟子に恵まれず(唐に教えを広める筈だった、若くして亡くなった義海を除けば)存亡の危機にあった時、彼が予知していた通り(東国に教えを広める役割の)継承者は突然日本から現れた。そして東洋の小さな島国で密教は完成されたものの、文字通り秘密の裏に閉じられてしまったのです。空海は次の偉大な継承者には出逢えなかったのです。その軌跡は「結び」の品である彼の膨大な著作と胎蔵界・金剛界の曼荼羅(******)と法具(*******)に託されました。
(*)生命の矛盾
矛盾は無常でもある。生命現象が、一人自給自足ができる植物を除いて、彼らの作り出す酸素や他の有機物の生命を飲み込んでしか(エントロピーを食べながらしか)生きられれないという、人間の宿命である弱肉強食(そればかりか神々の世界でも、ゾロアスターや仏教世界での善神と魔神との殺し合いの構造がみられる)の中で、人間中心の善を語り美を語り、浄土をのぞみ、悟りを云々することの矛盾を如何に引き受けるかを、即ち大輪廻の渦に放り込まれた人間の迷いから如何に救い出すかを正面から体を張って答えたのが空海だった。これは「祈り」で解決できる問題ではなかった。
或るテーマパークで、魚の死骸をスケートリンクに埋め込んで、氷上のスケートを楽しんでもらいたいという、これ以上ない皮肉な企画が実現され、ネットが炎上した。
魚がかわいそう、血がみえる、悪趣味、命の軽視、残酷すぎる、氷の水族館の企画に対する批判は、何とも人間の身勝手の極みをみせられて、腹立たしい。「悪趣味だ」という、お手前こそ、現実を見せられて動揺して、覆い隠したいという心理の醜さを見せているのではありませんか?あなたにとっての真実は、都合のよいもの、つまり偽装されたものにすぎず、都合のわるいものは、真実ではなく、見えない所に隠して無かった事にしたいわけだ。魚をぶっ殺して、油が乗って美味いとしゃあしゃあと言ってるし、牛をぶっ殺して、柔らかいとか、とろけるとしゃあしゃあと言ってるじゃないですか。それは、悪趣味じゃないわけだ。生命の矛盾ですね。テーマパークの企画さんも、作戦失敗でした。サント・ヴーヴの「毒(現実)は薄めなければ使えない」の原則を無視してしまいましたね。化粧品の原料も、薄めて初めて使い物になるのでしたね。今回の騒ぎは、うっかり生の真実を出してしまった為に袋叩きにあった教訓ですが、人間一人が、(他の生物たちに対し)善人面をしていることへの強烈な皮肉でした。
(**)松岡正剛「空海の夢」春秋社1984年7月p298
(***)同p340
(****)還学僧(けんがくそう)とも。
(*****) 灌頂(かんじょう)=如来の五智を象徴する水を仏弟子の登頂に注ぎ仏の位の継承を示す密教の儀式。最澄は弟子となるための「受明灌頂」までだったが、空海は恵果から、阿闍梨(あじゃり=密教の僧職)の位を得るための「伝法灌頂」まで受けていた。これが後に、最澄は空海に灌頂を願ったが、結縁灌頂に留まり、最後まで「伝法灌頂」は受けられなかったことにより、二人の立場の大逆転をもたらした因縁である。更には、最澄、或いは比叡山・延暦寺で教えを受けたものでも、日本で正式な僧となるためには、対立する南都東大寺の戒壇で受戒しなければならなかった。延暦寺に戒壇を設けることが許可されたのは最澄死去の7日後だった。桓武のバックアップがあったとしても、南都仏教の壁は厚かったのであり、その点空海は南都仏教とは協調を保ちながら、独自の世界を築いていった。
(******)曼荼羅・・・古代インドのサンスクリット語での音を漢字にあてたもので、悟りの境地に達することを意味し、密教の世界観を象徴的に構図化したもの。マンダラとは、サンスクリット語で、「マンダ」(真理、本質)と「ラ」(得る)を付けた語。密教の根本神である大日如来を中心に修行の過程にある各尊像を秩序に従い配置する。
両界曼荼羅(大悲胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の一対)、別尊曼荼羅(大日如来以外の、病気治癒、国家安泰など特定の目的のための本尊が描かれたもの)、浄土曼荼羅(阿弥陀如来の極楽浄土を描いたもの)、垂迹曼荼羅(神仏習合思想に基づき在来の神々を仏教の諸仏が姿を変えて現した)、文字曼荼羅(日蓮宗や法華宗の本尊として、南無妙法蓮華経などのお題目を文字で書いたもの)、羯磨曼荼羅(かつままんだら=立体曼荼羅であり密教の曼荼羅を、実際に諸仏を配置して表現したもの。全ての仏が大日如来の変身した化身と言われます)など様々な表現形式があり、これを内容によって分けると、大日如来を中心に各部の諸尊を配置した都部曼荼羅と大日の分身である阿弥陀、観音、阿閦(あしゅく)などの特定尊を本尊とした別尊曼荼羅とにも分けられる。
空海が持ち帰ったのは、都部曼荼羅に属し、胎蔵界(仏の理)と金剛界(智の世界)の一対からなる密教の根本本尊である曼荼羅図。今は痛んで見られないが、これを基にして作られたものが東寺にあります。胎蔵とは、母体で胎児を保護育成することに例え万法を含みおさめることで、大日如来の深い慈悲を表わしている。これを図像化したものが胎蔵界曼荼羅。金剛界は、金剛のような堅固な知恵に支えられた悟りの境地をいい、大日如来のゆるぎない知恵を表わすとされる。この境地に至る過程を図像化したものが金剛界曼荼羅。曼荼羅はユングが言うように「自然の自己治癒の試み」であり、夢を見るのと同様の、出会った自然や体験を前にしての自己の補償行為であり、人生の意味づけ行為なのです。
両界曼荼羅(元禄本)江戸時代 教王護国寺(東寺)蔵
(*******)法具・・・@煩悩を打ち破る金剛杵(こんごうしょ)A仏性を覚醒させる金剛鈴(こんごうれい)Bこれらを載せる金剛盤の3つ。
教王護国寺(東寺)蔵
注89) 顕教
釈迦の教え。一般には法華経や華厳経、阿弥陀如来の教えである浄土経典の教理を意味した。南都六宗に代表される。空海は、密教以外をすべて顕教とした。東大寺大仏は華厳のネットワークの中心(毘盧遮那仏)。藤原一族の国家イデオロギーに使われた(鎮護国家の思想)。
学問的で、言語によって明らかに説き示された(「顕れた教え」)仏教の教えを意味する。これは永遠の仏が直接に絶対的な真理を垂示するのではなく、衆生を教化するためにお釈迦様として現世に姿を顕された仏が、教えを聞く相手の能力に応じて説かれたものとした。
注90) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P94
平城京には多くの寺院の伽藍が建ち並び、既に遷都前からの飛鳥・藤原時代からの国家大寺院として薬師寺や法隆寺(飛鳥寺)、大安寺などがあり、更には遷都後に建てられた興福寺・東大寺・西大寺などがあり、これら寺院において研究された仏教は、南都六宗(83)と呼ばれた。中でも東大寺の華厳教(84)は、その中心となり、仏教によって国家の安定を図ろうという鎮護国家の思想を、東大寺大仏(毘盧遮那仏)を中心として全国に国分寺(国分尼寺)を配置する、藤原氏の国家イデオロギーともいうべき華厳ネットワークに乗せて拡げました。
しかし、このような民衆の信仰を伴わない、学術的宗教だけではいずれ形骸化し衰退するのは目に見えていて、それは中国で唐以降仏教が衰退したのと同様の道だった。当時の感覚では仏教はモダンでセレブな文化で、僧はエリート層であり、渡来僧や商人などの中国語や朝鮮語など様々な言語が飛び交う平城京においては、僧侶はバイリンガルとして羨望の眼差しを向けられる対象だった。そんな中で、日本においては山にこもり修行に励む修験・雑蜜などの山岳仏教、民衆への布教と共に社会事業を行い国家からの弾圧にもめげず、後に大僧正に任命されて大仏造営に協力する行基、貧しい孤児や病人の為社会福祉活動を行った光明皇后などが黙々と活動します。
又仏教も決して神道が特に社会的権力を目指さない限り弾圧することもなく、共存の道を探るのです。各地に神宮寺や神願寺といった神仏集合思想(85)に基づく、神社であり且つ寺である寺院が建立され、近くには神を祀る社(やしろ)や祠(ほこら・小さなやしろ)が新たにつくられ、「鎮守(ちんじゅ)」と呼ばれるその土地や場所を守護する神も祀られるようになりました。なぜなら、仏教は日本に限らず、伝播した土地の固有信仰を取り込みながら発展してきたのであって、インドでも(梵天・帝釈天・阿修羅などと)中国でも(道教と)習合を繰り返している。日本でも同様に神道との習合を繰り返したのは珍しい話ではありません。日本の場合は、中国からの習合思想の影響もみられるが、在地の有力者や郡司(86)などに信仰された神が、彼らが私的に行った、春に農民に稲を貸し出し、秋に重い利息をつけて返済させる金貸しならぬ稲貸し(私出挙・しすいこ)や、天災、疫病などで村落は荒廃し、求心力を失っていた状況が、仏教に取り込まれる要因を作っていた。こうした窮状を見て、寺院と山林や諸国を渡り歩く遊行僧らは、神が仏の力を借りて救済される神仏習合の仲立ちをしたのです。神の苦悩は、時代の変化(律令化強化・平安化)についていけない有力者達の苦悩でもあったのです。
桓武天皇は、この郡司の譜代制も廃止して才用制とし(これも郡司には打撃となった)、併せて国司の不正を摘発する令外官(天皇直属のスタッフ⇦⇦律令のラインには乗らない)である勘解由使(かげゆし)を設置した。
桓武はこうして地方管理体制を強化しながら、蝦夷の征伐で国家の威信を国内に示そうとした。小中華思想と言われます。最初の征夷はアテルイなどの反撃で敗退したが、二度目には坂東(碓氷峠と足柄坂より東の地域)を兵站基地とし兵糧(糠・ぬか)14万石を用意し、10万の征夷軍を養い、勝利を収めた。このとき副使に任命されたのが坂上田村麻呂でした。三度目の征夷は800年から、(797年に征夷大将軍に任命されていた)田村麻呂を中心に出発し、蝦夷征伐に成功し、族長アテルイらを引き連れて上京し、田村麻呂は彼等の投降が自首であることから除名嘆願したが公卿らの反対にあって処刑となった。このような造都や征夷という膨大な出費が可能となったのも、気候の安定や経済的基盤が安定していたこともあるが、唐末の政局の混乱や新羅の内乱などで、対外的な軍事費が不要だったことも寄与していた。
それでも度重なる征夷や造都の費用は農民(地方)を圧迫し、高齢で病弱になった桓武は、殿上に藤原緒継と菅野真道を呼び、徳政(徳のある政治)について論じさせた。そして緒継の意見を採り入れて、天下の苦しみである「軍事(征夷)」と「造作(造都)」を停止した(徳政相論)。併せて側近の藤原種継暗殺事件の際に葬った早良親王の怨霊を恐れて、淡路に寺院を建立したり、最澄を殿上に呼び、悔過(罪を償う行事)を行わせた。
神道に関しても、桓武天皇は伊勢神宮を深く信仰し、平安遷都に際しては賀茂社や、母の出身貴族である百済王氏の祀る神社を平安京に勧請(かんじょう・神の分霊を迎え祀る)したり、諸国の神主の任命権を手中にし、国家の管理下に置いた。
こうした中で、華厳のような正統に伝わった経伝仏教ではなく、裏として早くから伝わっていた密伝仏教である南伝仏教(87)を基にした山岳仏教がいよいよ出番となってきます。行基のように同じ山林派であっても、大僧正として華厳派に取り込まれず、山林にこもり修行に耐えてきたこのグループを、唐帰りの最澄・空海は雑蜜として採り入れ、よく整理して純蜜として体系化し、いよいよ密教(88)の時代を切り開くのです。
桓武も、顕教(89)の政治介入には嫌気がさしており、平安遷都の際には、平城京時代の寺院の移設を認めず、官立の東寺、西寺以外の私的寺院の建立も認めなかった。同時に最澄らの新仏教を支持した。道鏡が下野の国に流され、久々に天智系の光仁天皇が即位し、その子である「桓武には、天智系の血とは別に、百済亡命一族の血が流れていた。・・その桓武が選んだ新京の地が、山門(やまと)ではなく、山背(やましろ)である山城であったことはすこぶる興味深い(90)」ですね。(吉野の入り口である)山門は大和=奈良=平城京であり、山背は国都のあった大和国から見て、山の裏側(反対側)の国という意味ですが、新しい国都が「背」ではまずいので桓武天皇が、都にふさわしい「城」に変更したようですが、「山城」といえば思い出すのは、国防の為に、百済に学んだ古代朝鮮式山城ですね。日本の古代のところでやりましたね。
密教の宗教としての詳細については、第10回予定の宗教のところで検討しましょう。
注83) 南都六宗
三輪、成実、法相、倶舎、華厳、律の宗派。信仰よりも教典の学術的研究に力がそそがれた。
注84) 華厳経
日本の古代史を覆った宗教であり、哲学であり、科学だった。全世界をヴァイロチャーナ=ビルシャナ(奈良大仏)仏の顕現とし、一微塵の中に全世界を映じ、一瞬の中に永遠を含むという一即一切・一切即一の世界を展開する。古代国家が一人のリーダーとしての帝王を置いて国を治めるモデルとして使いやすかった為、日本も取り入れられた(鎮護国家)。「唯心縁起」を重視する世界観によって出来上がったもので、言葉使いが述語的につながっている(西田幾多郎の「述語的包摂(*)」参照)という特徴をもつ。密教と禅は華厳を分母として発達した。
華厳経の教理の特色は人間には仏性があり、仏になるとした。そのプロセスを「性起(**)」に託し、理性起(自己の仏性に気づく)→行性起(師や経典に学ぶ)→果性起(清らかな仏果現る)の3段階に分けた。
仏陀が悟った真理は「縁起」から見た世界にあるとした。「縁起相由」といい、事象の関係発見のプロセスを示した。諸縁各異(事象には全て個性あり)と互編相違(全体の調和は個性が構成する)→倶存無碍(多様な関係が生まれる)→相即相入(多くの個性の関係が真理となり、真理は多くの個性の関係になる) →同異円備(多くの個性が関係しあって調和をつくり出す)
宇宙は多様な要素が全て相互にネットワークし合って、秩序をつくりあげている。「四種縁起」といい華厳世界のプロセス示す。事法界(現実世界・森羅万象)→理法界(真理を追究して現れる「空」の世界)→理事無碍法界(現実と真理が融合した世界)→事事無碍法界(全事象が相互関係を起こしている世界)にまとめられる。
(*)「西田幾多郎は〈判断というものは、実は主語を述語が包摂することだ〉と書いた。これは〈特殊〉としての主語に対し、述語が〈一般〉であることを強調したものである。その為人間の知識は、この〈一般〉の無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだと捉えられた。言い換えれば、人間は自分自身の底辺にある〈述語面で〉あらゆる意味と意味のつながりを連絡づけているということだった。〈意識の範疇は述語性にある〉というとびぬけて素晴らしい結論を出したのだ。(松岡正剛・知の編集工学・朝日新聞社p278)」
(**)「性起」・・現象世界は、真如・法相(ホッショウ)などの根本原理の生起したものとする見方。
注85) 神仏集合思想
仏教と在来の神祇思想(*)とを混融調和するためにとなえられた教説。奈良時代は経典知識の普及により、神を仏教の護法善神として「神宮寺・じんぐうじ」が建立され、(寺の中で)神前読経が行われた(鎌倉にある鶴岡八幡宮は明治初期まで神宮寺だったし、奈良の春日大社では正月に般若心経が読み上げられる)。
平安時代になると神に菩薩号が与えられ、権現の名で呼ぶようになった。以降は末法思想の中、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が展開され、仏が神の姿で、人々の救済に顕現したとされた(仏が本地、神が垂迹)。具体的には、大日如来は天照大神に、阿弥陀如来は八幡神や熊野権現に、地蔵菩薩は愛宕権現(あたごごんげん)に、大黒天は大国主神(おおくにぬしのかみ)にといった具合である。
鎌倉・室町期には反本地垂迹説(神が仏の姿をとって顕現した)により、神道の理論化が図られた。更に江戸時代には、儒者や国学者からもこれは俗神道として排撃されたが、村の鎮守の神として、村落の宗教生活には浸透していった(角川日本史辞典より)。ここでは、このように相反するモノすら統合してしまう、古代から現代まで脈々と通じている極めて日本的な性向を自覚しておきましょう。ここからもわかるように、日本は無宗教ではありませんが、さりとて体系立てた宗教に支配されている訳でも反宗教でもないんです。非宗教なんです。唯素直に感動したものや人やコトに頭を下げる。それだけなんです。だからこのような矛盾したと思えることが平気でできるんです。海外からの批判も受けるのです。でもそれを宗教からの自由と言いましょう。
(*)神に関わる観念や信仰の総称。
もともと日本では天地の神や人格的な祖先と系譜神を祭る慣行はなく、教説もなく、各種の自然形象を共同体や生業の神として祭った。その後仏教や仏像や道教などと接触する中で、神を偶像として命名することやケガレ・祓いを重視したり、神話作りが進んだ。そして天皇祭祀のもと、天神地祇(天の神と地の神。天つ神と国つ神。・・日本では、高天原たかまのはらに生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国あしはらのなかつくにに誕生した神を地祇とする)の考えが編み出された。更に奈良時代の「氏神祭祀」、平安時代の「御霊信仰」が生まれる。
注86) 郡司
令制の地方官。前身は7世紀後半の国造(くにのみやつこ)などの伝統的な豪族などで、終身官だった。国府内に留まらず、国内を巡行したり京と任国を往還する国司は、実質郡司級の豪族の在地支配に依存していた。
注87) 南伝仏教
南方アジアで広まったで上座部仏教で小乗仏教とも呼ばれる。厳しい戒律を持ち僧侶の修行によって悟りをひらき、庶民は僧侶に功徳を積む事で救われるとするもの。(これに対し、マントラ(真言)を唱える事で誰でも救われるとする大乗仏教は、漢訳やチベット訳の仏典で伝わった、チベット・モンゴル・中国・朝鮮・日本における北方仏教といわれ、比較されるが厳密ではない)
注88)密教 【最澄と空海】
宇宙の実相を仏格化した根本仏とされる大日如来(智の働きを表す金剛界大日如来と、理を表す胎蔵界大日如来の二尊がある)の教え。大日如来とは華厳の教主となったヴァイローチャナ(サンスクリット語=日本名ビルシャナ・毘盧遮那=大仏)が、再昇華したマハー(大)ヴァイローチャナをさす。尊格は同じですが、密教はゴータマ・ブッダを選ばず、アスラから転身を遂げたマハー・ヴァイローチャナ・ブッダを選んだのです。
奈良時代後半には、仏教が政治に深く関与して弊害をもたらした。桓武天皇は平安遷都に伴い、最澄によってもたらされた新しい仏教を支持した。
一介の私度僧に過ぎなかった空海は、優れた著作は残しつつも中央にその名を轟かせることはなく、唐に渡る伝手は無かった筈だが、叔父の阿刀大足を介して、有力者(伊予親王)の推薦を受け20年の任期を持つ長期の遣唐留学僧に選ばれたと推測される。私費で(勿論伊予親王の資金援助は受けていたろうが)渡った留学僧だった。ただ伊予親王は桓武の死後謀反の疑いで自殺した為、その名を隠したと推測される。空海は長安に入り、その才能をいかんなく発揮して、般若心経や華厳経を中国語に翻訳した博覧強記のインド人・般若三蔵の知己を得、梵語(サンスクリット語)やバラモン教を学び、その仲介もあってか修行者二千人に及ぶ密教の本山ともいうべき青龍寺の恵果を訪ねる。恵果は空海が来るのを知っていたかのように「我、先より汝の来るを待つや久し」と言って早くも両部密教の秘法の研鑽に入る。胎蔵界の灌頂でも金剛界の灌頂でも、先立つ投華の儀式で投げた花が大日如来の上に落ちる。「不可思議!不可思議!」と手を打つ。どちらも不眠不休で打ち込んだ。恵果は大日如来の密号である「遍照金剛」の号を空海におくり、何と、真言密教の第八祖となりました(「大日如来-金剛薩埵-龍猛-龍智-金剛智-不空-恵果-空海」)。中国密教界の最大最上の付法が与えられたのです。
インド伝来の聖教、曼荼羅、仏画、法具、仏舎利80粒などのことごとくがおくられた。結局、義明が早死した為、金胎両部の秘法を伝授されたのは空海一人だった。入唐して3年になろうとしていた。もはや中国に留まる理由はないと帰国を計画した。僅かに越州の龍興寺の密教阿闍梨である順暁(じゅんぎょう)に合っている。順暁は最澄に密教の付法を伝授した人物であり、その一部始終を聞き、最澄の学んだ密教がどの程度のものかおおよそを知る。先を越されたと思ったかもしれないし、自分の掴んだ世界の広さに自信を深めたかもしれない。帰国に当たっては、高齢にあって(70歳)尚日本への布教に熱意を枯らさない翻訳の天才・般若三蔵に後を託され、膨大な教典を受け取った。唯空海は、帰国してすぐには都に入らない。桓武の死も耳に入る。九州・筑紫に留まり機の熟すを待った。本来20年を学ばねばならない還学僧が僅か3年足らずで戻ったとあれば咎めをうけることは間違いない。それなりの成果を挙げたことを暗に知らせ、都の反応を見た。又空海を留学僧に推薦・資金援助したと思われる伊予親王が桓武の後の平城天皇に対する謀反の疑いで自害していたことから政治的謀略に巻き込まれる恐れもあった。桓武の死後宮中の勢力が交替し、右大臣となった藤原内麻呂は最澄の新仏教より奈良旧仏教に味方し始めた。その機を見て空海は、京に向かう高橋真人に長安などで得た教典他の全目録(「請来目録)を託した。現物は渡さない。「請来目録」は、そのあまりの偉大な内容に判定できる者が見つからず、日本密教の最高指導者に登っていた最澄の手に渡った。それを見るだけで最澄は、ただならぬ空海の実力を見抜いた。長安に入らなかったのを悔いたかもしれない。本格的な密教の到来に、畏れと共に、大いなる友を得た心強さを持ったかもしれない。
やがてそして徐々に、空海を必要とされる時が近づいてくる。最初は、最澄の弟子ではあるが空海を評価していた勤操の管理する和泉の国・槙尾山寺に、そして次には、京に上って最澄ゆかりの高雄山寺に入るようにとの、太政官・官符が、彼の住む国の国司に下った。奈良仏教者達も、最澄の痛烈な批判を受けて立てるのは空海しかいないと感じていたし、最澄も完成された、正統の流れを汲んだ密教の膨大な教えが広まるのを素直に喜んだに違いない。空海はどちらにつくというものではない、密教がこれまでの仏教流派の一つでしかなかったのを、全ての頂に立つものとして、超越的な立場を持ち、華厳すら下位に置く仏教最高の宗教とする構想を持っていた。
空海は嵯峨天皇から、六朝期の秀句を選りすぐって六曲一双の屏風に書くよう依頼された。謙遜しながらも、長安では五筆和尚の名をもらったほどの優れた書家でもあった彼はあっという間に感性豊かな嵯峨天皇を魅了した。
最澄はほどなく、空海付法の金胎両部の灌頂を受けたいと山城の国の乙訓寺を訪ねた(空海は、嵯峨天皇からの命で、早良親王の幽閉されていた山城の国の乙訓寺に入ていた。怨霊の魂鎮めか、兼ねて望んでいた荒れ果てたこの寺の修理を願ってなのか定かではない)。唯、南都諸宗を攻撃する最澄が空海に三顧の礼を尽くしているということは、只ならぬことだった。既に最澄は空海に教典閲覧の申し出をしていたし、手紙の末尾には、「下僧最澄」と記していた。最澄とはそういう正直な人間だった。信仰の前には社会的地位などに囚われない直情の人だった。
空海も最澄の姿勢によくこたえて借覧にも協力し、灌頂も多数行った。最澄もこの空海の活動を資金を含めて惜しみなく援助した。しかしやがてその借覧も断られ、最澄の熱望していた灌頂も、阿闍梨(あじゃり=密教の僧職)の位を得るための「伝法灌頂」はしてもらえず、曼荼羅諸僧との縁を結ぶ「結縁灌頂」までに過ぎなかった。このまま続けてすべてを持っていかれるのを恐れたのか。事が政治的に語られるならそうであろう。強かでもあったろう。しかし空海はそのような秤で語られるようなスケールの人間ではなかった。最澄とは住む場所が違っていた。空海は最澄が嫌いではなかったが、うっとうしかった筈だ。こんなことにかかずらってはいられない、それが本心だったろう。早くおのれの信念を世に問いたい。
善悪などを超越した、生命の矛盾を前に、大輪廻を前に、その悪夢から、慈父である覚者が黙って見てはいられないという叫びを発した。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを知らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
(自分には自分は判らないし
生には生は判らない(まして死などわからない)
生の始めは判らないし
死の終わりも又わからない
自分に与えられた相を生きることが、そのまま全体を生きることになる)
三界に輪廻し、四生に蛉足幷(りょうびょう)す
大覚の慈父、これを見て何ぞ黙したまわん
(生きとし生けるものは悪無限的な繰り返しを生きている。
そうした生命の海の輪廻の悪夢を黙って見てはいられない)
もはや「祈り(信仰)」だけではすまされない、生命の矛盾(共存と共食い=他の生命の殺戮(*))を受け止め、身をもって示すという大事業が、彼を突き動かしていた。誰がこの根本問題を理解しただろうか。僅かに最澄がそのスケールに気付くのみだが、その深く広い哲学を理解しているとは感じられない。むしろその中途半端な理解は、これからの構想に有害ですらある。根本が違っていた。最澄を始めとした大方の仏教は「生きる救い」を目指したのに対し、空海の根本解決は誤解を恐れずに言えば「自殺」だった。輪廻の悪夢を断つ「即身成仏」とはそのことだった。それは決して生命の否定ではない。生きとし生ける者たちの中で、人間だけが善人面をしていることへの「喝」だった。(一汁一菜で暮らせばいいというものではない、そんなものは自己満足に過ぎない)。このようなことが理解できる筈もない。だが薄々感じられるものなのだ。それが不安という形をとって、忍び寄る。そこを身をもって、先頭をきって、「生命の定義=あり方」を示しておく、釘を刺しておくのが空海の答えだった。
「仏教は中インドから南インドあたりで形成された般若や中観哲学、いわば「空の哲学」という頂点と、これに対する唯識哲学をも組み込んだ「悲の哲学」という頂点との、二つの絶頂を極めたのであるが、密教は時代的な流れから、この「空と悲」の統合を何とか果たさなければならないところに差し掛かっていた(**)」わけです。
一人の欲望や食欲や暴力などの想像力の根拠を自己のみに求めず、原因と結果の必然性に秩序維持を頼る因果律の脈絡に関しても一人自分のせいだと考えず、もっと広く、「生きてある者と死んである者との(想像力と因果律との)共有まで進んだ時に、宗教は初めて「生命の海」をもつことになる。空海はそのことを「即身」というふうに見た(***)」(松岡正剛「空海の夢」春秋社参照)
彼の伝えた密教(大日経・金剛頂経)は、修行によって奥義を極めたものにしか深遠な悟りは開けないとしたが、人間はありのままの姿で既に仏であり、修行によってそれを自覚できるとした「即身成仏」の考えは、輪廻転生の苦しみを経験しなくとも成仏できるという画期的な思想で(もう既においしい所は、民衆より先に味わい尽くした)貴族らの支持を集めた。おそろしく壮大な言語論を持つ体系から真言密教(東密)と呼ばれた。
一方、桓武に重用されたのは最澄の方で、既に名声のあった彼は、桓武の強い要請から、請益僧(しょうやくそう・特定の課題について、短期に学問や教義・教典上の疑問点を高僧らに問い帰国した短期留学僧****)として遣唐使に随行した。
最澄の伝えた法華経は、「一切皆成仏」として人間の仏性の平等を説いた。後に、既に唐が廃仏をやっている頃に入唐して、還俗させられた僧が多い中の唐から帰国した、弟子の円仁らにより密教化され、天台密教(台密)とされた。
これ以前からあった、山にこもり修行した修験雑蜜(ぞうみつ)と区別してこれら(東密・台密)を純蜜と呼ぶ。
しかし最澄は天台宗を起こし延暦寺で教えを広めたが、彼が起こしたのは法華経を中心教典とした天台教学(天台学、密教、禅、戒律の四種相承を特色とする、つまり法華経、浄土教、禅、密教を教えます)であり、密教中心ではなかった。何しろ短期留学僧で時間がなかった。幸運にも天台の正統な継承者・順暁に密教の胎蔵界と金剛界の灌頂(*****)を授けられ弟子として認められたものの、僅か1年間で、長安にも行っていない。これが後に空海との社会的立場の逆転を招くことになる。
それでも、鑑真から続く多様な天台の教えと、最澄の謙虚さは、後の浄土教の源信や偉大な鎌倉新仏教の開祖たち(法然・日蓮ら)をそこから輩出した。
逆に空海は、密教に専念し、高野山・金剛峯寺で大日如来の真の言葉を指す真言宗を開き、奥義の深遠なことから日本の密教の代表とされた。密教は、日本の土俗ともよく溶け合い、体系化された、インド発の世界普遍の哲学宗教でした。空海の思想は完璧すぎた。一人ですべてをやってのけ、高い頂に行ってしまった。恵果が中国の地で、密教の継承を託せる弟子に恵まれず(唐に教えを広める筈だった、若くして亡くなった義海を除けば)存亡の危機にあった時、彼が予知していた通り(東国に教えを広める役割の)継承者は突然日本から現れた。そして東洋の小さな島国で密教は完成されたものの、文字通り秘密の裏に閉じられてしまったのです。空海は次の偉大な継承者には出逢えなかったのです。その軌跡は「結び」の品である彼の膨大な著作と胎蔵界・金剛界の曼荼羅(******)と法具(*******)に託されました。
(*)生命の矛盾
矛盾は無常でもある。生命現象が、一人自給自足ができる植物を除いて、彼らの作り出す酸素や他の有機物の生命を飲み込んでしか(エントロピーを食べながらしか)生きられれないという、人間の宿命である弱肉強食(そればかりか神々の世界でも、ゾロアスターや仏教世界での善神と魔神との殺し合いの構造がみられる)の中で、人間中心の善を語り美を語り、浄土をのぞみ、悟りを云々することの矛盾を如何に引き受けるかを、即ち大輪廻の渦に放り込まれた人間の迷いから如何に救い出すかを正面から体を張って答えたのが空海だった。これは「祈り」で解決できる問題ではなかった。
或るテーマパークで、魚の死骸をスケートリンクに埋め込んで、氷上のスケートを楽しんでもらいたいという、これ以上ない皮肉な企画が実現され、ネットが炎上した。
魚がかわいそう、血がみえる、悪趣味、命の軽視、残酷すぎる、氷の水族館の企画に対する批判は、何とも人間の身勝手の極みをみせられて、腹立たしい。「悪趣味だ」という、お手前こそ、現実を見せられて動揺して、覆い隠したいという心理の醜さを見せているのではありませんか?あなたにとっての真実は、都合のよいもの、つまり偽装されたものにすぎず、都合のわるいものは、真実ではなく、見えない所に隠して無かった事にしたいわけだ。魚をぶっ殺して、油が乗って美味いとしゃあしゃあと言ってるし、牛をぶっ殺して、柔らかいとか、とろけるとしゃあしゃあと言ってるじゃないですか。それは、悪趣味じゃないわけだ。生命の矛盾ですね。テーマパークの企画さんも、作戦失敗でした。サント・ヴーヴの「毒(現実)は薄めなければ使えない」の原則を無視してしまいましたね。化粧品の原料も、薄めて初めて使い物になるのでしたね。今回の騒ぎは、うっかり生の真実を出してしまった為に袋叩きにあった教訓ですが、人間一人が、(他の生物たちに対し)善人面をしていることへの強烈な皮肉でした。
(**)松岡正剛「空海の夢」春秋社1984年7月p298
(***)同p340
(****)還学僧(けんがくそう)とも。
(*****) 灌頂(かんじょう)=如来の五智を象徴する水を仏弟子の登頂に注ぎ仏の位の継承を示す密教の儀式。最澄は弟子となるための「受明灌頂」までだったが、空海は恵果から、阿闍梨(あじゃり=密教の僧職)の位を得るための「伝法灌頂」まで受けていた。これが後に、最澄は空海に灌頂を願ったが、結縁灌頂に留まり、最後まで「伝法灌頂」は受けられなかったことにより、二人の立場の大逆転をもたらした因縁である。更には、最澄、或いは比叡山・延暦寺で教えを受けたものでも、日本で正式な僧となるためには、対立する南都東大寺の戒壇で受戒しなければならなかった。延暦寺に戒壇を設けることが許可されたのは最澄死去の7日後だった。桓武のバックアップがあったとしても、南都仏教の壁は厚かったのであり、その点空海は南都仏教とは協調を保ちながら、独自の世界を築いていった。
(******)曼荼羅・・・古代インドのサンスクリット語での音を漢字にあてたもので、悟りの境地に達することを意味し、密教の世界観を象徴的に構図化したもの。マンダラとは、サンスクリット語で、「マンダ」(真理、本質)と「ラ」(得る)を付けた語。密教の根本神である大日如来を中心に修行の過程にある各尊像を秩序に従い配置する。
両界曼荼羅(大悲胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の一対)、別尊曼荼羅(大日如来以外の、病気治癒、国家安泰など特定の目的のための本尊が描かれたもの)、浄土曼荼羅(阿弥陀如来の極楽浄土を描いたもの)、垂迹曼荼羅(神仏習合思想に基づき在来の神々を仏教の諸仏が姿を変えて現した)、文字曼荼羅(日蓮宗や法華宗の本尊として、南無妙法蓮華経などのお題目を文字で書いたもの)、羯磨曼荼羅(かつままんだら=立体曼荼羅であり密教の曼荼羅を、実際に諸仏を配置して表現したもの。全ての仏が大日如来の変身した化身と言われます)など様々な表現形式があり、これを内容によって分けると、大日如来を中心に各部の諸尊を配置した都部曼荼羅と大日の分身である阿弥陀、観音、阿閦(あしゅく)などの特定尊を本尊とした別尊曼荼羅とにも分けられる。
空海が持ち帰ったのは、都部曼荼羅に属し、胎蔵界(仏の理)と金剛界(智の世界)の一対からなる密教の根本本尊である曼荼羅図。今は痛んで見られないが、これを基にして作られたものが東寺にあります。胎蔵とは、母体で胎児を保護育成することに例え万法を含みおさめることで、大日如来の深い慈悲を表わしている。これを図像化したものが胎蔵界曼荼羅。金剛界は、金剛のような堅固な知恵に支えられた悟りの境地をいい、大日如来のゆるぎない知恵を表わすとされる。この境地に至る過程を図像化したものが金剛界曼荼羅。曼荼羅はユングが言うように「自然の自己治癒の試み」であり、夢を見るのと同様の、出会った自然や体験を前にしての自己の補償行為であり、人生の意味づけ行為なのです。
両界曼荼羅(元禄本)江戸時代 教王護国寺(東寺)蔵
(*******)法具・・・@煩悩を打ち破る金剛杵(こんごうしょ)A仏性を覚醒させる金剛鈴(こんごうれい)Bこれらを載せる金剛盤の3つ。
教王護国寺(東寺)蔵
注89) 顕教
釈迦の教え。一般には法華経や華厳経、阿弥陀如来の教えである浄土経典の教理を意味した。南都六宗に代表される。空海は、密教以外をすべて顕教とした。東大寺大仏は華厳のネットワークの中心(毘盧遮那仏)。藤原一族の国家イデオロギーに使われた(鎮護国家の思想)。
学問的で、言語によって明らかに説き示された(「顕れた教え」)仏教の教えを意味する。これは永遠の仏が直接に絶対的な真理を垂示するのではなく、衆生を教化するためにお釈迦様として現世に姿を顕された仏が、教えを聞く相手の能力に応じて説かれたものとした。
注90) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P94