2010年04月26日
栗のみ食いたる娘
徒然草は、事あるごとに読み返しては、感心し、また考え直すき機会を与えてくれる貴重な古典だ。そのいくつもの段落の中で、以前から気になっている段が1つあった。
中学校の頃から、この人は何が言いたいんだろう、なぜこんなことのみを書いて筆を閉じたのだろうか、と。それは、第四十段
因幡の国に、何の入道とかや言うものの娘
容貌(かたち)良しと聞きて、人数多、言い渡りけれども、
この娘ただ栗のみを食いて、更に、米の類を食はざりければ、
「かかる異様のもの、人に見ゆべきにあらず」とて、
親、許さざりけり。
(因幡の国に、誰それ入道とかや言う人の娘が、見目麗しいというので
多くの男たちが求婚したが、この娘は栗のみしか食べないで、更に、米の類を全く食べないので、「このような変わり者の娘は、結婚などす べきでない」ということで、父親は許さなかった。)
幼心に、この娘はキツネが化けたものだったのだろうとか、人間だったら栗だけしか食べないような女性んなんてほんとに居るのだろうかとか、ぼんやりそんな事を思っただけで、通り過ごしてしまっていた。心に引っ掛かりながらも。
60年近い歳月が流れ、或る日第四十一段を読む機会に恵まれた。
五月五日、賀茂の競べ馬を身侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込めて、分け入りぬべきやうもなし。かかる折に、向ひなる楝の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給え」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。
(五月五日、賀茂(上賀茂神社)の競べ馬(馬の祭。馬を競わせ て走らせる)を見ましたが、車(牛車)の前に雑人(町人、あるいは群衆)立ち隔っていて見えなかったので、おのおの下りて、埒(柵)のきわに寄ったけれど、殊に人が多く立ち込んで、分け入りようもない。かかる折(このような状況のなか)に、向いの楝(あふち)の木に、法師が、登って、木の股に居ついて、物見ている。取りつきながら、いたう(ひどく)睡り(居眠りし)て、落ちるべき時に目を醒ます事、度々である。これを見る人、あざけりあさみ(あきれ)て、「世のしれ物かな。かくも危い枝の上にて、安き心ありて(安心して)睡るらんよ(眠っているよ)」と言うので、我が心にふと思うままに、「我等が生死の到来だって、ただ今であるかもしれない。それを忘れて、物見て日を暮す(祭の見物に一日を費やす)のは愚かなる事においてなお勝るものだ」と言ったらば、前なる人ども「まことにそうです。もっとも愚かで御座います」と言って、皆、後を見返り入、「ここへらせ給え」とて、所を去りて(場所を空けて)、呼び入れて下さいました。かほど(これぐらい)の理(理屈)、誰かは思いつくだろうが、折から(こんな時)に、思いがけぬ心地(気持ち)がして、胸に当りけるにや(感動したのだろう)。人、木石であらねば、時により、物に感ずる事がないこともない。)
徒然草で日付が(5月5日)入っているのは珍しい事のようだ。兼好研究家の島内裕子さんによれば、因幡の娘のように、兼好は本ばかり読んできた。理屈は判っても、八方塞がりの境地だったかもしれない。鏡の中の世界に入り込んで、書物の世界に沈潜して、現実から隔てられてしまうのは本末転倒だ。そんな時、賀茂の祭りの青葉若葉のなかで、傷つくことを恐れず、思わず思ったことをしゃべることや、庶民とともに賀茂の競べ馬を楽しむことで、市井に入る体験をすることができた。そんな体験をすることで、あんなに完璧と思っていた世界が、(現実の愚かさと思われるものと、ふれあうだけで、)あっという間にもろくも崩れ去り、新鮮な空気を吹き込まれた。そんな新しい出発・人生観の飛躍の時とすることができた、つまり「鏡の国の魔」から解き放たれた記念日として、この日付を入れたのだろうと。もし彼が先のような講釈をたれるだけで、踵を返してこの場から立ち去り、折角、「ここへ入らせ給え」と席を空けてくれた行為を無視して、皆と共に楽しまなかったら、「因幡の娘」に逆戻りするところだった。
此処に生まれたのは「色即是空」から「空即是色」への転換(ユーターン)であり、、「我等が生死の到来だって、ただ今であるかもしれないのに、それを忘れて物見て日を暮す」、唯「その場の慰み」を追いかけてその日をむなしく過ごす対象である「色」ではなく、「死」を、「覚悟」を「再生」を含んだ心底から自然を、人間を感じられる新しい「色」だ。
やっと解けた、「栗のみ食いたる娘」の謎。
やっぱり、兼好法師は、唯の世捨て人ではありませんでしたね。
中学校の頃から、この人は何が言いたいんだろう、なぜこんなことのみを書いて筆を閉じたのだろうか、と。それは、第四十段
因幡の国に、何の入道とかや言うものの娘
容貌(かたち)良しと聞きて、人数多、言い渡りけれども、
この娘ただ栗のみを食いて、更に、米の類を食はざりければ、
「かかる異様のもの、人に見ゆべきにあらず」とて、
親、許さざりけり。
(因幡の国に、誰それ入道とかや言う人の娘が、見目麗しいというので
多くの男たちが求婚したが、この娘は栗のみしか食べないで、更に、米の類を全く食べないので、「このような変わり者の娘は、結婚などす べきでない」ということで、父親は許さなかった。)
幼心に、この娘はキツネが化けたものだったのだろうとか、人間だったら栗だけしか食べないような女性んなんてほんとに居るのだろうかとか、ぼんやりそんな事を思っただけで、通り過ごしてしまっていた。心に引っ掛かりながらも。
60年近い歳月が流れ、或る日第四十一段を読む機会に恵まれた。
五月五日、賀茂の競べ馬を身侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込めて、分け入りぬべきやうもなし。かかる折に、向ひなる楝の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給え」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。
(五月五日、賀茂(上賀茂神社)の競べ馬(馬の祭。馬を競わせ て走らせる)を見ましたが、車(牛車)の前に雑人(町人、あるいは群衆)立ち隔っていて見えなかったので、おのおの下りて、埒(柵)のきわに寄ったけれど、殊に人が多く立ち込んで、分け入りようもない。かかる折(このような状況のなか)に、向いの楝(あふち)の木に、法師が、登って、木の股に居ついて、物見ている。取りつきながら、いたう(ひどく)睡り(居眠りし)て、落ちるべき時に目を醒ます事、度々である。これを見る人、あざけりあさみ(あきれ)て、「世のしれ物かな。かくも危い枝の上にて、安き心ありて(安心して)睡るらんよ(眠っているよ)」と言うので、我が心にふと思うままに、「我等が生死の到来だって、ただ今であるかもしれない。それを忘れて、物見て日を暮す(祭の見物に一日を費やす)のは愚かなる事においてなお勝るものだ」と言ったらば、前なる人ども「まことにそうです。もっとも愚かで御座います」と言って、皆、後を見返り入、「ここへらせ給え」とて、所を去りて(場所を空けて)、呼び入れて下さいました。かほど(これぐらい)の理(理屈)、誰かは思いつくだろうが、折から(こんな時)に、思いがけぬ心地(気持ち)がして、胸に当りけるにや(感動したのだろう)。人、木石であらねば、時により、物に感ずる事がないこともない。)
徒然草で日付が(5月5日)入っているのは珍しい事のようだ。兼好研究家の島内裕子さんによれば、因幡の娘のように、兼好は本ばかり読んできた。理屈は判っても、八方塞がりの境地だったかもしれない。鏡の中の世界に入り込んで、書物の世界に沈潜して、現実から隔てられてしまうのは本末転倒だ。そんな時、賀茂の祭りの青葉若葉のなかで、傷つくことを恐れず、思わず思ったことをしゃべることや、庶民とともに賀茂の競べ馬を楽しむことで、市井に入る体験をすることができた。そんな体験をすることで、あんなに完璧と思っていた世界が、(現実の愚かさと思われるものと、ふれあうだけで、)あっという間にもろくも崩れ去り、新鮮な空気を吹き込まれた。そんな新しい出発・人生観の飛躍の時とすることができた、つまり「鏡の国の魔」から解き放たれた記念日として、この日付を入れたのだろうと。もし彼が先のような講釈をたれるだけで、踵を返してこの場から立ち去り、折角、「ここへ入らせ給え」と席を空けてくれた行為を無視して、皆と共に楽しまなかったら、「因幡の娘」に逆戻りするところだった。
此処に生まれたのは「色即是空」から「空即是色」への転換(ユーターン)であり、、「我等が生死の到来だって、ただ今であるかもしれないのに、それを忘れて物見て日を暮す」、唯「その場の慰み」を追いかけてその日をむなしく過ごす対象である「色」ではなく、「死」を、「覚悟」を「再生」を含んだ心底から自然を、人間を感じられる新しい「色」だ。
やっと解けた、「栗のみ食いたる娘」の謎。
やっぱり、兼好法師は、唯の世捨て人ではありませんでしたね。
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