2010年04月19日
心眼
私達の目にする仏像の、ほとんどのその眼は開いていない。と言ってつぶられてもいない。その智恵は私達に何を教えてくれているのだろうか?
私の眼の前にある木造の菩薩も、京都の大学で教鞭をとっている友人から送られた、作者不詳の木像だが、そのまなこは半眼で、ほとんど開かれていない。
唯耳は大きく、鼻筋通り、指を丸めて球を包んでいる。
孤高の詩人・吉田一穂の言葉に「半眼微笑」という言葉があり、
「佛顔は生理的に不可能な表情を、つまり半眼と微笑の相反する二つの筋肉運動を、彫刻としての面の上で、この矛盾を止揚して一個の「藝術」と化したのである。」
とある。全てを厳しく認識し悪を許さない神の目と、慈愛に満ちた優しさを表す微笑みの両方を兼ね備えた「半眼微笑」。これは確かに仏の秘密を簡潔に言いえて妙である。不遇でその才能も永らく認められずにいた極北の詩人にふさわしい発見であったと思う。私はこの名解説に何をも批評しようとも思わない。ただ凡人の付け足しを言わせてもらうなら、「「理性の窓」といいわれる眼や視覚にばかりとらわれず、感性の器官である聴覚・嗅覚・臭覚・触角なども強く働かせ、耳でよく聞き、鼻でよく嗅ぎ、手でよく感じているのが仏の姿である」(木村庄三郎・歴史の風景)という言葉を思い起こす。
「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」(山口素堂)
(原典は「目には青葉 山郭公(カッコウ) 初松魚」)
これは確かに縁起物としての初鰹を珍重した唄として、伝えられていますが、私には、新たに芽ざした新緑の若葉の広がりを見る「視覚」と静寂とひんやりとした涼しさの中に冴えわたるホトトギスの甲高い声を聴く「聴覚」と新鮮かつよそよそしい味覚と風味を味わう「嗅覚・味覚」を総動員して、自然の恵みは味わうものだととれる。
ルソーは「エミール」という教育論の中で、「最も速く遠くまで届く視覚は、全ての感覚の中で最も誤りやすい。視覚を触角に従属させ、その奔放さを触角の正確さでおさえこまねばならない。」としている。数学や科学の合理主義の、鈍感かつ絶対に間違えない・疑問点を隅から着実に埋めていくおそい発想は、今やコンピュータと言う強力なスピード力を見方につけて未来まで見えると錯覚するまでになった。
「かつて「時」は日本でも西欧でも「現象」だった。星が巡る、四季が巡る、草が芽吹く枯れる、歳をとる。それらは時の流れであった。やがて国家が成立し、キリスト教が確立し朝儀(朝廷の儀式)や市場が開かれると時を告げる必要が出てきた。しかしこの場合の時は、鐘を打つとかベルがなるとか、耳から入る音の数が「時」でした。それが中世に初めて何処かの都市のシティホールの中央に大きな円形機械時計が出現して「時」が見えるようになった。
「耳から入る時刻」から「見える時間」に変わった。」
現代人は「時」を聞かずに「見ている。」時計で、携帯で、テレビで。「時」は空間となり、計算できるものとなった。計画できるものとなった。人を縛るものとなった。「他者」が刻むものとなった。」(松岡正剛・20世紀の忘れもの)
この「電子手段をフル活用しているマスコミ」は視覚の奴隷と化し、我々凡人を錯覚の世界に迷わせている。パソコンやインターネットだけで未来は開かれないのだということを、今こそ思い起こし、「写真で済ますだけでなく、手で書いてみて、人に聞くだけでなく、自分で触って・匂いを嗅いで総合的に、全体で、瞬時に感覚する必要があるのではないだろうか?」
「心眼」でものを見よう!そして感じよう!そして自分の時を刻もう!
サンサシオン!
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