2010年04月06日
風景X
うつくしきみ寺なり
み寺にさくら繚乱たれば
うぐいすしたたり
さくら樹にすずめら交わり
かんかんと鐘鳴りてすずろなり。
かんかんと鐘鳴りてさかんなれば
乙女らひそやかに
ちちははのなすことをして遊ぶなり。
門もくれない炎々と
美しき春のみ寺なり
「春の寺」犀星
桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ(巻10 1855)春の雑歌より
(まだ散る時ではないが、愛でてくれる人がいる今こそ散ろうと、桜はその絶頂に散るのだろう)
散るには、きっかけが要ります。春風もその一つですが、愛でてくれる人のため
「引き際」を意識して散ってくれることもあるのかも・・・。生き物だから・・・
惜しみなくその瑞々しさを散らす「引き際」。勇ましい「散り際」と勘違いしないでください。
あんずよ
花着け
地ぞ早に輝け
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
ああ あんずよ花着け
小景異情 犀星
春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり
言わずと知れた 西行法師の詩だが、まったくもって不思議な詩で、今の空が現実なら、昨日の空も現実。これは「凧(いか)のぼり、昨日の空のありどころ」で蕪村が示してくれているが、同様に瞬きをする前とした後の世界の違っていることが判りますか?両方とも同じだが違った夢、すなわち現実なんですよ。その「うつろい」が「このまま」から「そのまま」と盤珪和尚が言ったことで、一瞬一瞬夢が、現実が創られていっているんだということ。
夢と現実は対比するものじゃないですよ。夢は夢ですが現実は、現実だけじゃ何もない。夢を見る人(?)が夢を取り込んではじめて現実が成立するんですよ。という関係。だからその気になれば、昨日も今日も同じということ。それも現実、これも現実。全ての夢は覚めていないと見えない。永遠を感じられない。瞬きよりも短い刹那に・・・・・。
一期一会というも、このことを置いて成り立たない。
そしてそれは「会うべくして会った」につながる。
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