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定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2016年10月28日
第2回歴史第3部中世8【ヨーロッパ中世とは何か】
6・長く深く沈潜する西ヨーロッパ中世−続き2

〈皇帝と教皇1077〜12世紀〉
 8世紀から10世紀までのヨーロッパは、絶えずノルマンなどの異民族からの侵略に脅かされており、そこから土地と身を守るために城塞都市がつくられます。この城を中心として中世の町は作られます。最下部は農民(働く人)、その上が騎士(戦う人))、そして僧侶(祈る人)という縦社会の封建制度が作られていきます。修道院は祈る人だけでなく働く人で、優れた精錬技術や羊毛技術も持ち合わせ、荒廃した農業の立て直しにも多大な貢献をしています。その修道会や教会の、国を越えたネットワークのトップに君臨したのがローマ教皇であり、諸侯や国王よりも大きな権威を持っていました。
 そのことを証明したのが、有名なカノッサの屈辱と呼ばれる叙任権闘争です。
フランク王国が、843年のヴェルダン条約などを経て、カペー朝(フランス)、イタリア王国、神聖ローマ帝国(ドイツ)の3国に分裂し、「帝権はドイツに、教権はイタリアに、そして学芸はフランス(パリ)に」という3つの中心を持つユニークな文化圏となったことは既に説明しました。その神聖ローマ帝国の皇帝ハインリッヒ4世は、勝手にミラノ大司教や中部イタリアの司祭を任命してローマ教皇を無視する行動に出ます。これは彼の作戦(帝国教会政策)だったんです(53)。
 おりから教会改革運動の中心にいたグレゴリウス7世(クリュニー修道院出身)は、聖職売買の禁止の罪として、ハインリッヒ4世を破門しました。教皇は国を越えたネットワークの長ですから、皇帝の中央集権化に反対する諸侯も多くおり、その諸侯と皇帝の対立を利用したのです。その反皇帝派諸侯がもし破門が1年以内に解かれないなら、皇帝は廃位すると決議したため、困り果てたハインリッヒは1077年、教皇の滞在するイタリアのカノッサ城を訪ね、雪の積もる城門の前ではだしで3日間立ち尽くして、ようやく破門は解除された。これがカノッサの屈辱ですね。しかしこれで引き下がるハインリッヒではない。すぐに体制を整えて、反対諸侯を鎮圧し、その勢いでローマに入り、1085年、教皇を退位させた。こうしたいきさつから事は大きくなり、聖俗両権力の大闘争に発展しました。ようやく12世紀になり妥協は成立し、皇帝が俗権を、教皇が叙任権を保持することに決まった。以後皇帝の「帝国教会」支配は弱まり、聖俗諸侯勢力の台頭が顕著となり、皇帝の権力は後退することになりました。
ローマ教皇は、教皇権の更なる強化をもくろみ、セルジューク朝トルコの侵入により聖地エルサレムを奪われたビザンツ帝国から救援要請の来ていた機を利用して、1095年クレルモンで公会議を開き、熱狂的に聖地奪回を訴えた。この野心家教皇の名演説に乗せられて、1096年第1回の十字軍は出発した。5000人もの従軍慰安婦(娼婦)を伴った大遠征軍は、聖戦とは言えないような4万人のイスラム教徒の大虐殺と略奪を行った。その後エルサレムを互いに奪還しあい、結局第7回(1270年)迄続き、200年にわたった十字軍の熱狂は失敗に終わった。結局終わってみれば、ビザンツ帝国は衰退し、教皇権は失墜し、無理な遠征により諸侯・騎士は没落し、王権が回復し、兵士の輸送に携わったベネツィアやジェノヴァなどのイタリア諸都市が、イスラム商人との東方貿易などで成長する結果となった。
失敗続きで教皇の権威は地に落ち、カノッサの屈辱から220年、今度は教皇ポニファティウス8世が、サンピエトロ教会に詣でるものは贖宥 (罪の許し) を与えるとか、フランス国内の教会領への課税を巡ってフィリップ4世と対立するなど教皇権の絶対性を主張したが、1303年フィリプによりローマのアニーナで捕らわれた。これをアニーナ事件と言い、教皇権の失墜を象徴する出来事だった。正に「アニーナの屈辱」ですね。だがそれだけでは済まず、1309年、フランス王フィリップ4世は、フランス人でボルドー司教だったクレメンス5世がローマ教皇の時、圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させた。それ以後、1377年まで約70年間、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなる。このことはバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」とか、「教皇のアヴィニヨン捕囚」といわれる。英仏の百年戦争が長引いた原因の一つとされている。なぜなら、当時の国家間のもめごとは、ローマ教皇が調停するのが一般だったから。
ともあれ失敗ではあっても十字軍は、ヨーロッパという団結意識を芽生えさせたということは大きかったのではないでしょうか。

〈都市のネットワークとゴシック教会・11〜12世紀〉
 10〜11世紀ごろから、封建制度も安定し、荘園内の生産も増大し、開墾と移住が行われ、人口は増加し、各地に余剰生産物の定期市が開かれるようになった。ヴァイキングなどの商業活動などで貨幣の使用も進み、十字軍の遠征や、モンゴル帝国(後述)が作ったユーラシア圏の交易網とともに、内陸部には道路が切り開かれ、教会の儀式や貴族の生活に欠かせない葡萄酒や毛織物も取引された。又海のネットワークも広がりつつあり、中国沿岸から東南アジア・インド・ペルシャ湾に至る海の道を活用して中国・イスラム商人は活発な交易をおこなった。ヨーロッパでは南(地中海から黒海)、北(バルト海からロシア)のネットワークに乗って商業が発達し、各地に「都市」を生み出しました。「祈る人」「戦う人」働く人」に「儲ける人(商人・ブルジョワ)」が加わって、近世への道が開かれるのです。
商人が加わって何が変わったのでしょうか。
それは「商人が都市に定住し、〈上下の従属〉でなく、〈誓約〉や〈契約〉という概念により人間関係を横に開くことで、従来の身分の構造を変えていった(54)」ことが挙げられます。これら商人や職人たちが横に繋がり、親方たちに対抗し、「ギルド(商人や手工業者の組合・市場独占と相互扶助で都市の自治を支えた)」を組織し、幾重にも構造化された共同体のブロックを作り、やがては都市全体が領主に対抗する「都市同盟」にまで至るのです。根底に托鉢修道会や聖母マリア信仰を精神的支柱としながら、都市の母体を形成したのです。
地中海ではベネチア、ジェノヴァ、ピサなどで東方貿易が、内陸のミラノやフィレンツェでは毛織物や金融業が、北海・バルト海では北ドイツのハンブルク、ブレーメン、フランドル地方のアントワープ、イギリスのロンドンなどが、木材・海産物・塩・穀物などの生活必需品の商いで栄えた。北のリューベック・ハンブルグを中心とした都市同盟である「ハンザ同盟」は、最盛期には100以上の都市が参加した都市同盟で、皇帝や諸侯の軍事的圧力に対抗し共同利益を確保した。
 こうした中で、やがて12世紀から13世紀に入り異教文化プンプンのゴシック(55)時代が到来するのです。
「都市に立つ教会は大きく・高くなり、修道会は外に出て民衆の中に入り、キリストの教えを托鉢して説くように」なる。最後の審判で問われる罪を購っておきたい商人や農村からの移住者の免罪を求める意識と、その為に天国入りをとりなしてくれるはずである「赦し」の聖母マリア信仰も、本来のキリストの意志(父性)に反した異教から始まったにせよ、時代の恐怖がその勢いを増し、やむない教会の承認を得るまでになります(56)。同時に彼らは教会建設に惜しみなく富を寄贈しました。
又、十字軍の成果もはかばかしくなく、諸侯も力尽きて、教会の権威が危うくなってくるにつれ、司教も国王もそれぞれの思惑で、権威を欲しがり、且つそれが失われることへの恐れから、象徴としての荘厳な教会建築に熱心になっていったのです。こうして、「畏敬の内に待たれていた、世の終わり(ミレニアム)もついには訪れず、中世のルネッサンスという時代(57 )」に入っていきます。

〈百年戦争・1339〜1453年〉
 イギリス人とフランス人は互いに、フランスのオンドリ野郎、イギリスのブルドックとののしり合うほど、仲が悪い。14世紀初め、イギリスのプランタジネット朝の王はフランスの西半分を支配する(今のパリも含まれていた)大貴族で、フランスのカペー朝との対立が強まっていた。両国は毛織物の産地フランドル地方とワインの産地ギュイエンヌ地方を欲しがって対立しており、1339年イギリス王エドワードの母がカペー朝の出身であるとし、フランスに攻め込んだ。これが1453年迄続いた百年戦争の始まりです。フランス内部がイギリス国王派とフランス国王派に分かれた為、フランス本土を戦場とする戦争がイギリス優位に続いていました。もうイギリスの勝利が確信された最終局面で、神のお告げを受けたというオルレアンの17歳の娘が、フランスを救った。彼女の名前はジャンヌダルクといった。彼女は甲冑に身を固め、白馬にまたがり、聖母マリアに王室の花ユリをちりばめた軍旗を掲げ、フランス軍の指揮を高め、愛国心を鼓舞して形勢逆転させた。1430年ブルゴーニュ派に囚われ、イギリス軍に引き渡され、宗教裁判にかけられ「魔女」としてルーアンの広場で処刑されたが、フランス軍の勢いは衰えず、1453年イギリス軍がカレーを除いたドーバー海峡より北に撤退し百年戦争は終わりました。

〈ジャンヌダルク現象〉
このままでは、何かこのジャンヌダルクの話には、隠されたものがありそうで納得がいきません。どうやら、残された裁判記録から、ジャンヌダルクは普通の少女だったという、友人の言葉などから見えてきます。勿論軍事訓練など受けた様子もなければ、実際に戦いに加わったという様子も芝居がかってはっきりしません。この現象を理解するには「英仏百年戦争」という言葉から疑問を持つ必要がありそうです。この名は近代になって後からつけられた言葉であり、フランスという国とイギリスという国の戦いではなかったようです。あの場所に領地を持つ諸侯たちの領地獲得或いは継承戦争に過ぎず、フランス人同士の戦いであったようです。こうした争いの中から「愛国精神」「国民国家」の意識が芽生え、結果としてフランスという国が出来上がったのだと捉えるのが良いようです。中世の人間で幻覚を見ないものなどいなかったといわれるように、「神の声」は誰にでも聞こえていた。彼女が特殊なのではなかった。彼女が強かったのではなく、あちこちで戦いは起きていたが、それと同じ以上にあちこちで皆休んでいた。当時の騎士は1年に40日程度の従軍義務しかなかったし、そういう軍人を使って戦争をしていたのだから、近代戦から見れば、スカスカだったわけです(長期化した原因の一つもそこにあります)。村全体の、或いは領地全体参加の芝居の行列がすり抜けることもできたでしょう。噂が噂を呼び、「こうあってほしい」期待の方が、事実を上回って人々が動いた。危機に際して愛国心があのような形を作ったとしか考えられません。何の力もない田舎の少女という設定こそ、神がかりに真実味を加え、一気にドラマは作られていったでしょう。「国民国家」の発想をヨーロッパ中に植え付けたナポレオンが、ジャンヌダルクを発見したということもうなずけます。それまでは誰も特に取り上げてはいない。彼は自己を正当化するいい材料を見つけた。フランスでは、国家が窮地に陥ると、国民の中から救世主が出て必ず国家を救うものだとし、自分とジャンヌ・ダルクを重ねて、ナショナリズムに訴えた。結局情報を検証する通信網もろくなものがなく、都合のいい情報だけが独り歩きできるあの時代だからこそ、神話は、芝居は実演できたのであって、嘘でできていようが、何でできていようが、愛国心に一本化されたからこそ勝てたのです。操り人形にされた彼女の憐れさが残ります。勿論この戦いによって没落した諸侯や騎士たちや、何の仲裁もできず戦いを長期化させた教皇も権威を失墜し、国王による中央集権が強まり「国家」といわれるものが誕生するのです。戦場とならなかったイギリスも、貴族同士の内乱であるバラ戦争(1455〜85)が勃発し、最後に残ったチューダ朝の下で王権が強まりました。大砲が普及して、地方の領主は城塞補強程度では、身を守れなくなったことも大きかったようです。

〈ヨーロッパ中世とは何だったのか〉
 長くヨーロッパ中世を巡ってきましたが、結局のところ中世とは何だったんでしょうか。それはこれまでの話で、決して暗黒時代とひとくくりにできるような時代ではなく、まして世界史の発展段階としての中世などではなく、別のタイプの世界システムが存在していたことはお分かりいただけたと思います。
中世のこころは、一言でいえば「自己を低めようとした時代」だったと饗庭孝男さんは言います。それは、「クローデルが、アンドレ・ジイドに向かって「山は遠くにあるとき、人はおのれと同じ高さだと思うが、山に近づくに従って、おのれが如何に低い、小さな存在であるかを知ることができる」と述べたことばに例えられる(58)」という。
 神護寺だったろうか、学生のころ冬休みを利用して、京都の友人に案内されて山の寺(寺は皆、浜にあろうと山ですが)に向かったことがありました。曲がりながら上がる長い道を、黙々と踏みしめていく中で、覆い繁る木々の下で、自然との交感が為されたのか肉体的な疲労感も手伝って、先ほどまで思いめぐらしていた雑念は、山の真厳な霊気に洗われ、ただひたすら自分が物のように感じられ、何物でもなくなるという不思議な体験を味わいました。境内を過ぎて本堂に赴いたとき、唯々素朴で神々しい雰囲気に打たれるのみでした。翌日その友人の紹介で、お会いした司馬さんにそのことを話したら、真剣に聞いていただき、黙ってうなずいておられた。印象的な瞬間だった。そのあと、定かではないが、恐らくこのクローデルの言葉と推測されるお話をしていただいたように記憶している。

長くなりましたが、中世が自己を低めようとした時代であるならば、近世(ルネサンスから)は、(無邪気な)自己を高めようとした時代といえるでしょう。そして古代はといえば、未だ「こころ」が(自己というものが)なかった時代だといえると思います。

「自己を低めることは敬虔であり畏れである。その心が美しいものをつくるのである(59)」。中世の芸術家は作者個々の名前を作品に刻んでいません。「無名の自覚によって自己の術が生き、それが自ずから教会を支えることになる・・彼らは自分の名前が刻まれることを、後の世に残ることを望まなかった。人に呼ばれ(称賛され)、伝えられる名前が何であろうか。唯、夜と闇の中で、たった一人神と向かい合った時、神が彼を呼ぶ名前を持ちさえすればよかったのである(60)」
彼らはアルティスト(芸術家)ではなくアルティザン(職人)という意識で共同体の為に生きたのす。これらはみな中世の職人のこころを表した言葉ですが、農民たちのこころも神(光)や大地に対し同様の敬虔を持ち合わせていました。「祈る人」を含め、彼らがこのように教会や修道院を支え、社会や都市の底辺を固め、政治的には為すがままの服従でもなく、さりとて妙な色気を出すでもなく、聖なるものに心が向いていたからこそ、中世は政治的な主体に、思うがままにさせず(専制を許さず)、皇帝と教皇の2つの中心を巧みにコントロールし、多様性をもたらしたのでした。この多様性は、封建制の主従関係(べらぼうな数の主君に仕える家臣はよくいた)おいても、皇帝と諸侯との間(多数の王に仕える諸侯は珍しくなかった)においても、領主と司教と国王との裁判権においても(すべてが裁判権を持つと主張しあったり)見られた。政治的には中央集権の求心力ではなく、個々の多様性が力を持った遠心力の働いた時代だったと思います。

 近代的な見方、見える化になれた我々の目には、領土の境もはっきりしない、敵見方もはっきりしない、国家間の主権平等などという当然な考えも持たない、わかりにくく重層的な世の仕組みは曖昧で我慢できないのかもしれませんが、これが中世の仕組み(61)なんです。
世俗的な欲望を何重にも分散させているのです。戦いは、大規模であっても私戦であって、公私の区別はない。政治的に一言でいえば権威と権力の分離といってしまえばそれでおしまいなのですが、それすらも一律ではなく多様なのです。十字軍の失敗などを契機に興った教皇権の失墜、諸侯の没落、或いは商人の勢力拡大は、王の権力拡大につながり、中世は終わりを告げ、「自己を高める」アルティストや豪商(メディティ家)や国王の闊歩する「合理的で求心的な」近世が、ルネサンスが、国家が、公式の正当化された戦争が始まります。



注53) 帝国教会政策
 各地の豪族に対抗して帝権を強化するため,司教や修道院に領土,裁判権,関税権などを(皇帝が)与えてこれを皇帝権の有力な支柱にしようとした。

注54) 饗庭孝雄「知の歴史学」新潮社1997年10月P174

注55) ゴシック様式
 ゴシック様式は(ロマネスクのところで少し述べましたが、壁の厚さで重量を維持するロマネスク様式では、高さに限界があり、都市に、開墾されてしまった嘗ての森を建物で復活させることはできません)、ヨーロッパの、失われた森の象徴・石の森でもあります。ロマネスクの建築上の限界を克服したのが、「オジーヴ」と呼ばれる尖塔アーチと、「リブ・ヴォールト」と呼ばれるヴォールト(曲面天井)を補強する局面に沿った補材と、「フライイング・バットレス」と呼ばれる、ヴォールトを支える柱を強化し教会堂を力学的に支える為に建物外側に張り出した支柱構造の3つです。これらを基礎にしてゴシック建築は、天に向かって上昇していくのです。この上昇感がゴシックだといわれます。音楽においても、ノートルダム楽派の人たちが、上下2種のポリフォニー(*)が、対応し、下声が伴奏するその上を、自由なリズムを持った旋律が急速に上昇していく高揚感がゴシックらしさを醸しだします。こうして神秘的で天国にまで届こうかという高さとなり、そして薄く抑えられた壁面に作られた高窓(ステンドグラス)が、(ロマネスク時の)壁画の代わりになり、光を取り入れ、より美しく、装飾的になる。ステンドグラスにはあらゆる職業(ギルド)が教会建設の為に奉仕したことを示す、働く様子が描かれます。壁面の制約で窓を大きく取れなかった初期キリスト教やビザンツ建築では、ガラス・大理石・色のある石などをはめ込んで、セメントで固め、きらきらと光る石で「神の国」を表現・象徴したモザイクが、キリスト教の教義を教えるために多用されましたが、西ヨーロッパでは、ゴシック様式が発案されるとステンドグラスがこれに代わったのです。どちらも「光の形而上学」であり、土俗的にあった太陽信仰を、異なった物質により表し且つ思想的・宗教的に(キリスト教的に)変えていく絵画空間を作り出したわけです。
ゴシックの最も特徴的なことは、聖書の情報を建築上に立体化しようとしたことだと、ラスキンは述べました。またこれは思想上のスコラ哲学(**)に対応するとも言われます。まことにその通りなのですが、これらは知識人側から見た見解だと思います。実際のゴシック教会はもっと妥協的というかヨーロッパお得意の、2点を中心とする楕円構造を持つ思想でした。
1点はラスキンの言うように聖書の情報が詰められた世界のキリスト教の殿堂でありステンドグラスの光に代表される装飾や典礼が天井の神を肯定するのに対し、もう一方では、「大聖堂は在俗の布教機関であり、・・圧倒的多数の表面的キリスト教徒に妥協せざるを得なかった。・・聖母信仰、巨木(森)崇拝、苦悩のイエス像への偏愛、政体崇拝熱、道化の祭り、ポリフォニー聖歌、怪物図像、こうした異教とキリスト教の二重性を帯びた雑多な要素が共存していた。堂内の途方もない高みから降ってくる絶対的カリスマ的光輝に包まれており、キリスト教の非物質的神性と異教の物質的聖性の二重構造のうちにあった(***)」のです。中世の大半の人は、難しい理屈よりも、目の前に尋常でない高さから「神の似姿」を見せつけられ、ステンドグラスで視覚的効果をとることで、或いは「グレゴリオ聖歌に代表されるような単声音で世界を捉えるモノフォニーから、異なった音が同時に調和して発せられる数的比率で人体の動きや宇宙の調和(****)」を捉えるポリフォニーに変化して、神との遭遇体験をより効果的に高めることで、この世の支配者の存在を実感したのです。ポリフォニーの発想はやがてオーケストラに繋がります。中世の森に拡がる悪霊や野生動物たちの叫び声に対抗して鐘をガンガン鳴らしていた人たちが、又都市の住人となっては職人の仕事の歌や教会の鐘の音や物売りの声など様々な音がまじりあって交差する世界に暮らしていた人たちが、それぞれの階級にふさわしい天上の音の世界に憧れて「選別されたいい音」を作り出したのがオーケストラ(管弦楽団)の音でした。
又スコラ哲学にしても、大聖堂がこの哲学を具現しようとしたものというより、同時並行的に進められたもので、この時代が聖も俗も同じ方向を向いていたことの証ではないでしょうか。
フランスの大聖堂は1つとして完成したことがないと学者は言う。それは高さへの限りない希みにあり、調和に満足せず、より一層の高さを希求したことによる。それは現実の高さばかりか俗物的な物質性も同時に発展させて(二重構造)、当時「発狂したピラミッド」と揶揄されたパリのエッフェル塔や、眼球を頂くトウモロコシの塔とも、既に風化が始まっているにも拘わらず完成しない、醜悪で野暮ったいサクラダ・ファミリア聖堂に繋がっている。異教との混在は、多様性の容認と共に現代にまで続いているのです。

(*)ポリフォニー
 多声音楽あるいは複音楽と訳され,多声性の一形態を指す。古代ギリシア語のpolys(多くの)とphōnē(音,声)を語源とする。音楽は純粋な単旋律であるモノフォニーと,複数の音が同時的に鳴らされる多声的な音楽とに大別される。後者は多声性(あるいは多音性)という概念で総括されるが,これにはポリフォニー,ホモフォニー,ヘテロフォニーなどが含まれる。いずれも音の水平的連続(旋律)と垂直的な響き(和音)から成り立つことで共通しているが,ポリフォニーは,とくに複数の声部が互いに独立的に進行し,横の線的な流れに重点が置かれるような音楽あるいはその作曲様式をいう。(世界大百科事典)
13世紀前半にノートルダム大聖堂が、ゴシック様式に改築された時代にポリフォニーは発展し、民衆の押し寄せる祝日のミサ曲に歌われるようになった。後にノートルダム楽派と呼ばれるようになる。今、その楽派のマショーという作曲家の「ノートルダムミサ曲」を聞いています。以前ご紹介したモノフォニー(単声)のグレゴリオ聖歌などと違い、音価(音符や休符の支配する長さ)の分割を増やしたり、自由なリズムを採用したり、3度・6度を重視した和声、半音階の効果的使用など重層的に組み立てたものらしく(専門的なことは判りませんが)、より荘厳さを増す中、異様なというか自由な構成で、且つ一人で(個人で)通作し名を遺したことといい、後のルネサンスやバロックを予感させる曲です。

(**)スコラ哲学
 スコラ学は、信仰と知の調和を目指す学問だが、実際には勉学に裏付けられた民衆への説教活動に重点が置かれた。スコラ学の不滅の教典、トマス・アキナスの「神学大全」はアラビア語として辛くも保存されていたアリストテレスを翻訳し、その哲学的概念と推論形式を応用し、堅固な三段階論法(弁証法)によって、既存の神学上の知識を整理して見せ、権威ある結論を得た。
スコラ学で中心的な課題となったのが「普遍論争」というものだった。たとえば「ポチは犬である」といった場合、ポチは個であり、犬は普遍である。そのような、「犬」とか、「動物」といったものは実際に存在するのかどうか、という論争だった(「普遍」とは「個」に対する概念)。
 まずスコラ学の父・イギリスのアンセルムスは、「普遍は実在性をもち、個に先だって存在する」と主張し、実在論を説いた。これに対し「普遍はたんなる名辞に過ぎず、ただ個のみが実存する(普遍は個の後ろにある)」という唯名論(ノミナリズム)が主張され「普遍論争」が展開された。普遍って、プラトンの「イデー」のことですね。トマス=アクィナスは「実在論」の立場にたってスコラ学を体系づけ、神を普遍的な存在として実存するという思想としてローマ=カトリック教会における正統派とされた。しかし、14世紀にはウィリアム=オッカムなどの「唯名論」が復活し、観念的な思考を廃して観察や実験によって真理を探究する近代思想の萌芽につながっていく。中世の後退ですね。

(***)酒井健「ゴシックとは何か」講談社新書2000年1月P90〜91
(****)阿部勤也「中世賎民の宇宙」ちくま学芸文庫2007年2月P339
ステンドグラス・シャルトル大聖堂.jpg
シャルトル大聖堂(内部)

注56) 明治日本で、キリストの強い父性だけでは人間は救われない、と最初に気づいたのが、芥川龍之介でした。明治の知識人が目覚めた日本独特の「近代」というものの解釈の源泉は、内村鑑三に代表される禁欲的な人格主義と、親鸞の「歎異抄」解禁による人間(肉)解放の2つの大きな流れでした。親鸞には女犯を宿報として許容する思想(女犯偈)がありますが、通じるところは同じですがマリア信仰とは少し違います。
芥川は、同じ救済の思想でも、人を厳しい姿勢で引っ張ってくれるキリストだけではなく、聖母マリア・「赦す」存在としての慈悲のこころも無ければ人は救われないことに気付いたのです(*)。
ミケランジェロの遺作といわれる「ピエタ像」は、人類の生み出した彫像の最高傑作だと私は思っています。未完の作品ですが、ぴったり焦点は合っていると思います。これ以上何を加える(削る)必要があるのでしょうか。加えれば加えるほど、この奇跡のような「出現」から遠ざかってしまいます。
(ピエタはイタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意味です。またピエタ像とは、磔刑にされ十字架から降ろされた我が子イエス・キリストの亡骸を腕に抱き、別れを告げる聖母マリアを描いた彫刻です。)
ミケランジェロ・ピエタ スフォルツァ城.jpg
ミラノ・スフォルツァ城博物館

(*)饗庭孝雄「ヨーロッパとは何か」小沢書店p19

注57) 饗庭孝雄「ヨーロッパ古寺巡礼」新潮社p33
中世ルネッサンス〜
十字軍派遣によって、西洋文化とイスラム文化が交じり合ったことは以前説明しました。ですがビザンツ帝国・イスラムを通じて、ギリシャ文化も取り入れたことが12世紀ルネサンスといわれる所以なのです。(イスラムではビザンツ帝国やムセイオンを通じて、ギリシャ文化がもたらされていりましたが、そのギリシャ文化が、十字軍派遣を通してイスラム文化圏から西欧文化圏へと逆輸入されたということです。)
ギリシャ文化は、アレクサンドロス大王がアレクサンドリア市のムセイオンという大規模研究所で研究を進めさせました。後にアレクサンドリアはイスラム勢力に取り込まれますが、イスラムはギリシャ文化を保存したのです。西欧キリスト教はアンチ・ギリシャでしたね。ところが十字軍遠征がキッカケで、イスラム文化・ギリシャ文化に刺激されて西欧世界では、多数のギリシャ語文献がラテン語へと翻訳されました。こうして、「学ぶ」ことへの気運が高まり中世ヨーロッパで初の大学が生まれます。最古の大学はイタリアのサレルノ大学(医学)、他にも法学のボローニャ大学、神学のパリ大学が誕生します。更には、トマス・アクィナス(パリ大学)は、スコラ学の普遍論争を実在論(普遍的概念こそ真の実在とする)の立場から擁護し、この論争を終結に向かわせます(「神学大全」)。彼はアリストテレス的な自然現象と神(プラトンの「イデア」のような普遍的な存在)の両者を結びつけました。具体的には、「運動には必ず動かし手」がいる。そして、太陽や月が地球を中心に廻っているのは、天の彼方に「神」がいるからだ、と証明(?)した。理屈じゃないんです。人々の「希望」を代弁したんです。それは三位一体の考えと同じです。後には実在論に対抗した唯名論(個物だけが存在し、普遍概念は、それらの共通性に与えられた名前や記号としてのみ存在する)的考え方が、信仰と哲学・科学の分離を促し、自然科学の発達に繋がった。どちらが正しいなんて争うこと事体が間違いの始まりなんです。現代は後者に偏り過ぎて見えない不幸を数多く生んでいます。フランス革命を冷静に分析したバークリーの、どちらにも偏り過ぎない、バランスをとれるこころの自由をいつも忘れないようにしたいものです。竜樹の「中庸」も同じです。
この12世紀ルネサンスが14〜16世紀にメディチ家などの大商人たちのバックアップで、イタリア諸都市・市民の間に、ローマ文化を含めて広まったのがいわゆる「ルネッサンス」です。時代は中世を脱しつつあり、個人・市民の横のつながりが、主役に躍り出る近世に向かっていました。キリスト教から見れば、異教的によそ見(浮気)をした時代ということになります。

注58) 饗庭孝男「中世を歩く」小沢書店1994年3月P8
注59) 同p11
注60) 饗庭孝男「石と光の思想」平凡社ライブラリー1998年11月p96
注61) 中世の仕組み
それでも、問答無用の暴力は、直ちには防げません。犠牲を伴う、時間の解決に頼るしかないのです。小競り合いも、大規模な戦争もありました。宗教的恐怖もありましたし、何より暮らしは貧しかった。
「権力」を象徴する神聖ローマ皇帝と「権威」を象徴するローマ教皇が牽制しあっていた、といえば聞こえはいいが、それは制度上のことで実際はそれぞれに揺れ動いて浮き沈みを繰り返していた。権力や権威がしっかりしていなければ、個人は孤独と向き合い、しっかりとした人格を持とうとする。「敬虔」と「畏れ」を知る人間になりやすい。逆に、ナポレオンから始まる国民国家がしっかりしてきた近代では、市民が自己を高めると言えば聞こえはいいが、国家に心の不安(苦悩)を預けてしまい、飼い馴らされて、「敬虔」も無ければ「畏れ」も忘れた堕落人間に成り下がったともいえる。松岡正剛さんがどこかで言われていた「政治は議員に預け、法律は弁護士に預け、食事はレストランに預け、笑いはタレントに預け」、旅(巡礼)は、感動の仕方までも含めツアー会社に預ける近代はすぐそこに来ています。


2016年10月27日
第2回歴史第3部中世7【ヨーロッパの中世の原点・修道院活動】
6・長く深く沈潜する西ヨーロッパ中世−続き1

〈大開墾時代(農業革命)と修道院活動・〉
 11〜12世紀に小さな温暖化を迎えた地球で、ブナ・カシの森に覆われた暗い森のヨーロッパが、修道院活動を中心とした大規模な開墾運動が展開され、明るく広い農地が出現しました。更に、重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき)という農具の普及がキッカケとなって、農業技術が進歩し、牛や馬を使って重い犂で広い畑が耕され、粘土質の土壌の深耕が可能となり、収穫量は蒔いた種の2〜3倍だったものが6〜7倍に増加した。又水車や風車を使った製粉や、3年に1度農地を休ませる三圃制(45)の発明などにより、農地の形状が変化し、農民の共同作業が進み、散村から集村化が進み、領主直営の多くは農民の保有地となり古典的な荘園制度は崩壊し、保有地からの貢納形式に、更には地代の金納化に進み、農奴の地位も向上していった。こうして、農業全体が飛躍的な成長を遂げ、人口も増加しました。この農業革命によって、ようやく辺境に過ぎなかったヨーロッパは、世界史の一画に顔を出すのです。
 シトー修道会は、開墾に主導的役割を果たしたばかりか、民衆に教育を施し、農作業を改善し、ワインの作り方を教える(古代ローマのワイン作りの技術は教会・修道院(46)に引き継がれていた)など経済的成長にも寄与しました。修道院活動は又、教会の腐敗と世俗化に対する内部批判の動きであり、最も早い「宗教改革」の動きでした。その先駆けとなったのはフランス南部のブルゴーニュに建てられたクリュニー修道院でした。6世紀のころの聖ベネディクトの精神(ベネディクトゥス戒律=祈り且つ働け)に立ち返ろうとする運動の大きな成果だった。「一切の世俗的支配を免れるべし」をモットーに、ローマ教皇のみに属し、国を問わない組織(国単位を越えて、小さな村に至るまで教区を設定した)でその力は、ヨーロッパの隅々に及んだという。世俗や他の権力の支配を受けないという「自由」を得たのです。この運動の背後にあったのは、間違いなくキリスト生誕1000年という「この世の終わりが近いことを告げる千年王国説(47)」だった。

裁きの日の到来によって、サタンが鎖から解き放たれ出現するという恐れと結びついて、丹毒の病の流行や1033年の大飢饉も語られた。人々はその日を前にして、「善を行い、悪と戦う」ことで来世の安穏を願った。こうした精神の高揚期・聖なる「熱狂」は、外に向けては「歩く熱狂」として十字軍に、或いはサンチャゴ・デ・コンポステーラへの大巡礼(48)に、内に向けては「隠れて生きる静かなる熱狂」として修道院生活に向かったのです。
 これらの熱狂は、気候の安定期・経済の好転と合わせて、多くのロマネスク(49)の聖堂を建て、善悪二元の劇的なテーマと、悪との戦いへの励ましを半円形の壁面に刻み、又「祈る祈祷所」に加え、建物の外側に、垂直に採光ができ且つ外の音と風の来ない空間である「回廊と中庭」を作り、瞑想や写本(印刷術の無かった時代に、聖書を写すのに、一人で1年3か月もかかる重労働だった)などの手仕事を行った。
こうして修道院生活の、神とかかわり求心性を持つ「ひとり隠れて生きる」ことと「共に労働に励む」という、背反するものの共存という特性が出来上がっていく。ヨーロッパでは修道院のような建物以外に、民家に回廊のようなものがあるのかはわかりませんが、日本には「縁側」という、内と外の橋渡しの素晴らしいアイディアがありましたね。暮らしの中に(こころの内と外を想う)瞑想と、(場の内と外を繋ぐ)辺境の工夫を取り入れるなんて、日本人の感性の素晴らしさを感じますね。でも今はもう忘れ去られてしまった。それと共に日本人のこころの縁側も消えた。懐の深さも、瞑想も消えたのです。

修道院は又、異教徒に対する・内部の「異端」に対する容赦のない対処も行った。「今日のような価値の相対化の無い時代において、キリスト教世界を絶対視する彼らの態度も、その時代に視点を戻して改めて考えるべき問題(50)」だと思います。
しかしクリュニー修道院は大きくなり過ぎた。法外な高さ、途方もない広さ、豪華な装飾は礼拝者の目を惑わし、祈りを妨げた。生活の贅沢さも徐々に身について、他の領主や諸侯のように奴隷を使い、典礼にほとんどの時間が費やされ、労働の時間は少なくなった。ミイラ取りがミイラになったのです。シトー修道会の批判はこのようなものだった。正に、シャルル・ペギーがドレフュス事件(51)に言及した有名な言葉「すべては神秘に始まり、政治に終わる」のです。

やがて13世紀頃になると教会も大きくなり、都市にも建てられるようになる。ドミニコ会・フランチェスコ会など、修道院から出て民衆の中、都市に入り説教をするものが多くなった。「働く人・戦う人・祈る人の三身分によって構成されていた社会は、やがて、働ける人(ブルジョア・商人)の身分を都市に組み込んで、新しい時代(ゴシック時代)が作られていく(52)」
のです。このブルジョアとカテドラル創建と贈与慣行については、既にお話ししました。「注36の贈与慣行」の項を参照ください。

又この大開墾も後に、大きな試練を招くことになる。
14世紀になると、中国雲南地方の風土病・ペストがモンゴル帝国の遠征でヨーロッパにもたらされたところに、森を破壊した結果、クマネズミを食べる小動物(オオカミ、キツネ、イタチ、フクロウなど)が激減し大繁殖したこと、マキの不足で、皮衣類の十分な乾燥ができず、ペストを媒介するノミの繁殖を防止できなかったことに加え、何よりも13世紀ごろから開墾運動も沈滞し穀物生産も伸び悩み、人口増による価格上昇も始まった(気候の寒冷化と小麦の高騰で十分な栄養がとれずに免疫力が落ちていた)ことなどから、ペストは大流行し、人口の三分の一が死亡する一大危機となったのです。都市の発達で人口が集中し、感染しやすくなったことも大きいでしょう。南フランスやライン沿岸の都市では、ペスト流行はユダヤ人の仕業として虐殺も行われた。絵画や彫刻にも頻繁に死が取り上げられた。
大開墾が悪いとは言いませんが、全ては繋がっており、ええとこ取りばかりすることには、目に見えない支えを破壊している部分があることに気付かないで、結果思わぬところで、えらい目に合うことがあるという、強烈な教訓ですね。
 ペストの終焉は、17世紀に入ってからだが、ジャガイモの輸入で食糧事情が好転したとか、木の家からレンガの家に変わり、ネズミが屋根裏に住みにくくなったことや、毛織物に代わって、木綿という乾きやすい素材でノミの繁殖が防がれたことなどが言われています。
〈続く〉


注45) 三圃式農業
中世ヨーロッパで広く行われた農業形態。畑作を主とするヨーロッパでは,連作による地力の消耗を防ぐために耕地を3つに区分し,1つを休閑とする輪作が行われた。耕地は夏作物 (大麦,燕麦、など) と冬作物 (小麦,ライ麦など) の作付けにあて,休閑地に家畜 (牛,馬,羊,豚など) を放牧,その糞尿により地力の回復をはかった。 (ブリタニカ国際大百科事典)

注46)修道院と修道会
 3世紀エジプトやシリアの隠修士によって独居・散住(「ひとり」住む)形式から始まり、東方に引き継がれた。一方で西方修道院では共住様式(「ともに」住む)がベネディクトによって発展した。共住と言ってもこの二通りを組み合わせたもので、個々の部屋ではひとりであっても、祈りや労働では共に働く。その為に回廊や教会ができるのです。アイルランド教会は、東方的で深い学問性を持ち、7世紀にローマ教会との確執が強まるまでは、西欧へ布教に行き多くの修道院を建てています。「アイルランド・ウエールズに布教に行ったのは、エジプトのコプト人(*)たちで知られる東方教会に属する人たちです。地中海を横切り、(ローマへは行かず、西欧の中心部も通らず)スペインを越えアイルランドに入りました(**)」。結局、教会では瞑想や修行・研究はできない。そこで生まれたのが修道院なのです。だから修道院の発想は、エジプトからの輸入なんですね。
一方で、修道会とは、修道院同志を、会則と会憲のもとに結合させ、権威を高めるために認可された団体のことで、政治化の一環です。宗教改革で修道会を無縁としたプロテスタントも結局19世紀には修道会を発足させている。

(*)ヘレニズム化したエジプト人と言われる。修道制、修道院を確立する。コプト修道院のネットワークはアフリカ・シリア・ヨーロッパからブリテン島に拡大。その文化はヘレニズム・古代エジプト・ビザンチンの混ざった美しい独自の文化で世界に影響を与えた。
コプト織4(柳宗玄「中世の美術」河出書房).gif
コプト織4(ナイル川で遊ぶ子供たち・柳宗玄「中世の美術」河出書房)

(**)饗庭孝男「ヨーロッパとは何か」小沢書店1991年7月p40

注47)千年王国説(ミレニアム)
神によって悪魔サタンが捕らえられている一千年間に,再臨したキリストがまずよみがえった義人とともに地上に平和王国を創設し,それを支配する,その間一般の罪人も復活するが,その千年の至福の期間の終わりに最後の審判が行われるとする教説(大辞林)。終末論(*)です。この有名な根拠は、聖書の「ヨハネ黙示録」であり、反キリスト的なものの一掃が前提にあり、これが後々、民衆の変革思想となり、ピューリタン革命を始めとして形を変え様々な時代に・地域に現れる(三省堂・世界史辞典)。
あとで話しますが、ほぼ同時期に、日本においても「末法思想」がまん延し、権勢を誇った藤原道長すら、自宅の庭に作った阿弥陀堂の如来像に五色の糸を結び、その糸を握りしめながら往生を待ったそうです。一遍などはこの民衆の恐怖のエネルギーを集めて「時宗」を広めていった。ヨーロッパの「死の踊り」のような、「念仏踊り」を広げました。サンチャゴ・デ・コンポステーラの大巡礼のような、補陀落渡海(ふだらくとかい)の信仰や「蟻の熊野詣」と言われる巡礼ブームがおこります。
(*)終末論
現世の悪に対して、世界の窮極的破滅、最後の審判、人類の復活、理想世界の実現などを説く。

注48)サンチャゴ・デ・コンポステーラへの大巡礼
十字軍が聖地エルサレムへの巡礼であれば、(スペイン・ガリシア地方の端の岬にある)サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼は聖ヤコブという聖人の遺骨に参る巡礼です。エルサレム・ローマと並ぶ中世ヨーロッパ三大巡礼の一つ。病気治癒や来世での救済に効験ありとされた。
神は本来表現してはならないという考え方は根強く、教会の半円形の壁面では右手だけで表すのが慣例でしたが、どうしても神そのものを表したいという願いは強く、こういう願望はヘレニズム的発想であり、してはならないというのはユダヤ教的発想です。ここにも二者を対立・発展させる西欧的構造があります。既に見ましたが8〜9世紀のビザンチンでの偶像崇拝禁止と共に古いイコン(*)が破壊されました。イコンとはキリスト、聖母、諸聖人の偉業などを木版に描いた聖画像で、これを所有し崇めると効力があるとされました。ロシア大聖堂では壁面に大型のイコンが飾られ、家庭では小型のイコンが崇拝の対象となった。東欧やビザンツでも同様だった。モザイクはこれをガラス・大理石・色のある石などを壁面にはめ込んで表したものです。これに対し西欧では、聖遺骨・聖遺物が「表された神」として崇められていたのです。
制度としてのヨーロッパを作ったのが、英米やわが国のような判例法ではなく、ユスチニアヌス帝が受け容れた、制定法(コモンロー)である「ローマ法大全(*)」であり、精神的な共同体としてのヨーロッパを作ったのが修道院であれば、経済文化圏のネットワークとしてのヨーロッパを作ったのはサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼を始めとした三大巡礼でした。何しろ旅はカネがかかるし、先々でカネを落としてくれる。経済効果ですね。
勿論ヨーロッパを作ったのには、それらすべて(特に聖書)を繋ぎとめる文字であった「ラテン語」に聖書を訳したヒエロニムス(347〜420)、ゴート人でありながら、キリスト教の本質を見抜き、長年ローマの要職を務めた後、550年故郷の南イタリアのペレナ川のほとりに修道院を設立,文献の収集・翻訳,写本の製作や修道士の教育をなし,中世修道院の学問活動の模範を提示したカッシオドルス(480〜583)、530年にヨーロッパ初のモンテ・カッシーの「修道院」を設立し、ベネディクト会則を制定し、12世紀に至るまで修道生活の唯一の基準となったベネディクトなど忘れてはいけませんね。

(*)「ヨーロッパでは社会生活を法的ルールで守ろうとする意識が強い。それは取りも直さず、(荘園領主に対する農民の、支配権力を受け止める横の関係や、中世都市の領主権力に対する市民意識など)一方的な支配というものに対する抵抗の姿勢であり、団体意識の源泉である」(増田四郎「ヨーロッパとは何か」岩波新書p191)

注49)ロマネスク
ロマネスクは「ローマ風の」の意味で、まさしくローマの建築スタイルを踏襲したものだった。クリュニー修道院を始めとしたこの時代の教会建築様式であるロマネスクは、ラテン十字形(バジリカ方式)の平面とローマ風の半円形アーチを用いた天井と厚い壁面を持ち、重量感を感じさせます。「半円形のドームは、夜、砂漠を歩いていると、世界が星の輝く宇宙として見えることから来ている(*)」といいます。まさにキリスト教は本来、地中海(イタリア)やゲルマンの森ではなく、エルサレムという砂漠から生まれた宗教であることが判ります。ユダヤは、究極には反ヘレニズムなんです。
ロマネスクは人跡少ない山野や森や泉のほとりに建てられた「祈り且つ働く」修道院時代です。これがヨーロッパ中世であり、これに対するゴシック(ゴート人っぽい、つまりドイツ風)は、外に出て都市を目指すカテドラルの時代です。カテドラルは、開墾された森の復活のイメージでもある大聖堂なのです。それは既に近世を孕み異教的な臭いを残す(つまりヘレニズムに向かう)ルネサンスの始まりなのです。
 ロマネスク教会は上から見ると通常十字架の形をしている。十字のまじわったところにある高い塔は採光塔で、こちらがわに突き出している十字架の頭にあたるところが後陣です。腕に当たる部分は翼廊。身体にあたるところは身廊と呼ばれる。足にあたるところにも塔がたっていることが多い。この塔の下の空間をナルテックス(**)といい、本来は未洗礼者に洗礼をするところである。壁と柱で自重を支えるだけの単純な構造です。ですから壁は厚く窓は小さくなります。それでロマネスク教会は壁画が多いのです。又高さを得ようとすれば壁を厚くしなければならず、厚くすれば更に自重が増すという悪循環に陥ってしまうので低い建物になります(ゴシックはこの欠陥を、飛翼とアーチで自重を分散させ、高さと壁の薄さが可能となり、天に届く飛翔と、天を魅せるステンドグラスを獲得するのです)。又閉ざされた空間の中で、瞑想と共同作業のための回廊(***)も9世紀頃から中庭に付け加えられるようになった。
マリーア・ラーハのベネディクト会大修道院.jpg
マリーア・ラーハのベネディクト会大修道院教会堂

(*)饗庭孝男「ヨーロッパとは何か」小沢書店p143
(**)キリスト教聖堂の正面入口の前に設ける広間。聖堂建築において正面入口と身廊本体の間に設けられる広間。玄関の間ともいう。本来は聖堂内の儀式に参加できない未洗礼者,あるいは一時的に信徒の資格を停止された悔悟者の場所であった。厳密には外気から閉鎖されたものをいい,外気に開放されたものはポーチとよぶ(世界大百科事典第2版)。
(***)回廊
「ひとり」と「ともに」を両立させる形が修道院の元型を形作った。
キリスト教建築では,修道院内の中庭を囲む屋根付き列柱歩廊をさす。西洋では〈閉ざされた場所〉を意味するラテン語のclaustrumから発展し,修道士の住居を中庭でつなぎ,さらにこの中庭を列柱廊で囲んだもの

注50)饗庭孝男「ヨーロッパ古寺巡礼」新潮社1995年5月P22

注51)ドレフュス事件
 フランスで起きたユダヤ人のドレフュス大尉に対する冤罪事件。
1894年彼はドイツのスパイとして逮捕され、南米ギニアに流刑になったが、ゾラや歴史家モノーらの救援活動で、99年再審を勝ち取り、1906年無罪となり名誉回復した。フランス世論は「ナショナリズム・軍国主義・反ユダヤ主義」対「国際主義・平和主義・民主主義」に二分され、危機に陥るが、再審と共に共和化や政教分離が進んだ。

注52)饗庭孝男「ヨーロッパ古寺巡礼」新潮社1995年5月P34


2016年10月14日
第2回歴史第3部中世6【ビザンツ帝国の盛衰】
〈東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の盛衰395〜1453年〉
 キリスト教の歴史のところで、コンスタンチヌス帝の改宗について述べましたが、その後東ローマ帝国はどこに向かったのでしょうか。東ローマ帝国は、この名前が示す通り、「ローマ」という建前(伝統)が何より大切な国であり、その実はギリシャ人であり、ギリシャ語を用いていた。あたかも中世ドイツが、ローマという名(神聖ローマ帝国)を欲したように。それが1000年を生き抜くプライドでした。
 968年、神聖ローマ皇帝オットー一世の使節としてコンスタンティノープルを訪れたリュートプラントは、ローマ教皇から帝冠を受けたものの、自分にもローマ皇帝の称号を認めてもらいたいというオットーの申し出を持って東ローマ帝国のニケフォロス二世を訪ねたが、ローマ皇帝は一人という信念に難色を示された。オットーはローマ帝国の伝統を真に継いでいるのはビザンチンであることを認めているからこそ訪ねたのに。その時、とりなしに入ったローマ教皇が、ニケフォロス二世のことを(本当のこととはいえ)「ギリシャ人の皇帝」と呼んだから大変。申し出は却下され、わざわざ慕って来たにもかかわらずリュートプラントも、今後ローマ人の皇帝と呼ぶことを約束されてはじめて帰国を許される始末で、土産の高級絹織物も持ち出しを禁止され、コンスタンチノープルに来る人の最大の楽しみをも奪われた。 (神聖)「ローマ皇帝」オットーの使者と名乗ったことが怒らせたのだという。彼は「ギリシャ人を信じるな」という詩を作って憂さを晴らすしかなかったという。これほど「ローマ」という建前は互いに重要だったわけです。
 この国家イデオロギーは、コンスタンチヌスにふさわしく2つの顔を持った矛盾したものであり、「支配者たちのものである〈ローマ理念〉に、民衆の心を深く捉えた〈キリスト教〉を融合させた(38 )」もので、国家と宗教が一体となった文明は人間の自由と発展は阻害されるであろうと、マルクスに「最悪の国家」と呼ばせたものでした。しかし、現実は必ずしもそうではなかった。市民は気に入らなければ過去の皇帝を引き合いに出して、間接的にではあるが、容赦なく批判した。過去の皇帝に対する批判は珍しくなかった。マルクスもそうですがどうもこっち系統の人たちは、形(制度)ばかりにこだわって、肝心のその中での暮らしやその機微についてはどうでも良いと、たかをくくっているきらいがあるようです。お決まりのものを与えておけばいい。どっこいそこが人生なんで、「配給された平等」なんて糞くらえなんです。そりゃー形(制度)がいい方がいいに決まってます。だけど、中身が退屈なものではそんなもの願い下げなんです。しかも「ところ変われば品代わる、難波の葦も伊勢の浜荻」であって、一律じゃないんです。自由だろうが不自由だろうが、押し付けじゃなく自分で選べることが重要なんです。それが無い国はまずい。何でも平等にしたがる人間は、「自分だけいい思いをしたい」或いは「お前はずるい、俺にもやらせろ・よこせ」の裏返しに過ぎない。だから本末転倒で、その形を守ることが生きがいになってしまうんです。それは正義なんだから、正義のためなら何をやってもいいという話になってしまう。おまけに、他所の国にまで押し付けようとする。でも「これが正しいから従え」は、反対勢力も同じですがね。以前紹介した山極寿一さんの、人間だけができる生き方「抑制と同調」は、「私はあなたを殺害することもできる力を持っている。でもそれをしたくない。あなたと仲良くしたい。場合によってはあなたに従いたい。」であって、「強いものに従え(縄張り意識)」ではないわけです。そして「より良い選択ができる教育」が保証されればいいわけです。自由が守られればいいのです。ただしその自由も、「自由も度が過ぎれば、社会という船を一方ばかりに傾け、転覆させてしまう危険を孕む。そんなときは、わが理性の錘を反対側、即ち秩序の方に移したい。この錘はささやかなものに過ぎないが、ゆらぎ掛けたバランスを少しでも回復したい(39)」という、自己をコントロールできる自由が大切なんです。

その批判精神が、バランス感覚が持てず、一方にばかり傾き過ぎて、極論、(滅亡なんてしたくはありませんが)その結果が人類滅亡であってもしょうがないわけです。自業自得なんです。何百億年の宇宙の暦のなかで、そんな変わった生き物がいたということだけで充分でしょう。ミミズの岩石砕きではありませんが、何のためにこんな行動をとっているかなんて、とても人類などにわかるものではないのですから。自分たちだけが抜け目なく生き残ろうなんて、それこそ、人類の欲望のために犠牲になってきた数多の微生物から始まる亡くなった人間を含めた犠牲者、生物や地球や月や太陽に失礼極まりない。「存在」なんて、人類滅亡くらいで揺らぐような、そんなものじゃない。

キリスト教を公認したコンスタンチヌスの死後、ユスティニアヌス1世が、古代共和制との決別を果たしたものの、後継者はその威光を守れず、国家の危機は続いていた。610年カルタゴの将軍ヘラクレイオスは難なくコンスタンチノープルを攻め落とし、皇帝に即位した。彼は当初、宿敵ペルシャに後れを取り、一時は逃亡も図ったものの、戦場で泥にまみれ祖国のために命をかけて戦い続け、ついには宿敵ペルシャを倒した。彼は、宮殿の中で快適な生活をしており何の戦いもしていないユスチニアヌスが大帝と呼ばれるのに比して、後継者問題にしくじったというだけで厳しい評価を下されたのです。いくら一生懸命に古代ローマの皇帝の栄誉を復活させようとしても、時代は既に中世に向かっていたのです。
又対イスラム戦争の功績者でもある優れた軍人皇帝コンスタンチヌス5世は、偶像崇拝を禁止し、反対する者は修道士であろうと弾圧・処刑した。彼は「サラセン好み=偶像崇拝を禁止するイスラム教風という意味で」とそしられ、「糞」とさげすまれた。
コンスタンチヌスの甥である、背教者ユリアヌスのように、コンスタンチヌスの2つの顔を嫌い、ローマ古来の信仰に戻った皇帝もいた。ビザンツ人は、あんな専制皇帝の下でもしっかり批評していた(選んでいた)のです。そんな「やわ」じゃ無かった。

ビザンツ帝国は、建前と現実を使い分け、ある時は強靭な国家となり、ある時は創造性ある文明を開化させたのです。
 国の威信をかけて5年5万人の労力を動員し完成させた巨大なドームを持ち、壁画やモザイクで飾られた「聖ソフィア大聖堂」は、ロシア人がキエフを首都とした頃、イスラム・ユダヤ・カトリック・ギリシャ正教のどれを国家宗教にしようかと迷っていたウラジミル公に、宣教師の勧めるギリシャ正教に引かれつつ調査団を派遣し、その報告する、「他の教会で行われている典礼はさっぱり美しさを感じないが、聖ソフィア教会での式典はこの世のものとは思われない美しさに満ちていた(40 )」という内容にギリシャ正教を選ぶ決意をさせたほどに強い魅力を持っていました。また、ビザンチンの美しい絹織物は「大英帝国にとっての石炭、アメリカの世界戦略の要の石油に当たるものが、ビザンチンの絹である(41)」とさえ言わしめました。

6世紀にはイベリア半島南部からエジプト、シリア、黒海沿岸、ドナウ川以南のバルカン半島、イタリア半島を配下に収めていたビザンツ帝国も、7世紀からのイスラム勢力の征服に後退し、穀倉地帯のエジプト、商業地帯のシリアを奪われ弱体化してくる。それでも「ギリシャの火」と呼ばれる石灰と松脂と硫黄、精製油などを組み合わせた武器や、バシレイオス2世など、3代の優秀な軍人皇帝時代の重装歩兵部隊を駆使して、不死鳥のように何度も蘇り、強大な帝国が維持されたのです。優秀な軍隊は、軍役につく代わりに税金を免除される、やる気のある兵士たちから構成されていました。
しかし、これも長期の遠い遠征が続けば、農作業も行えず、村を捨て、土地を捨て、有力貴族のもとに走るようになる。中国や日本の中世の荘園と同じですね。ここに進んでいた変化は、兵農分離でした。彼らと貴族たちは「戦う人」に、その貴族の土地で働く小作農民は「働く人」に分かれていきます。貴族たちは力をつけ、皇帝の家臣から、友人へ変化していきます。早い話が文明人に、変わり身の早い、すれっからしになっていくのです。
 11世紀のコンスタンチノープルはヨーロッパとアジア、地中海と黒海を結ぶ十字路に位置し、国際商業都市として栄えていました。ビザンチン帝国の発行するノミスマ金貨は、国際通貨として使われ、「中世のドル」とも呼ばれました。しかし政府の中身は徐々に生産より消費に、働かずにうまいこと儲けようの気風が強くなります。彼らは「働く人」「祈る人」「戦う人」の他に「儲ける人(ブルジョワ)」がいなかったんですね。西ヨーロパがやったように(注36で述べたように、商人を贈与慣習の世間に加えてやり、富のやり場を、教会への寄贈によって彼らの来世の安泰を保証するという形で、作ってやることで、教会も商人も双方が栄えるという方法)、商人を教会や修道院のヒエラルキーやネットワークの活力に使うことをしなかった。商人を育てなかった・甘く見たんですね。結局ヴェネチアの商人たち或いは北海・バルト海の商人たちを蔑んで利用するだけの、身分外に置いた。これが最後には命取りとなりました。

安上がりだった農民兵はもう使えなくなって、外敵侵入に対し傭兵を雇うというローマ帝国が嘗て陥ったコースを辿ります。安易に増税すれば農民は逃亡してしまう。こうして「禁じ手」に手を染めるわけです。赤字国債です(わが国もこの病気にすっかり麻痺していますね。まだまだ大丈夫と・・)。即ちここでは「官位販売」という形をとりました。購入者の狙いは、年金付きというところです。一度手を染めたごまかしはなかなか止められません。こうして国家に寄生する連中はとめどなく増加していきます。国債を返還しようにも農村は兵農分離が進み、農民は減り、税収は増えない。困った政府は金貨改悪などで対抗しますが、これは実質的な給与の引き下げですから利にさといビザンチン人が黙っていない。より高い官位への昇進を求める。こうして寄生虫だらけとなった。日本でいえば円安政策と株や債券の投資家・輸出企業対策ですね。人の良い日本人は騙されていることも知らず、株が上がったから、景気も良くなるだろうと喜んでいる。或いは俺たちに関係ないと言い放っている。とんでもない大ありなんです。上がった分の金額はどこからか突然わいてきたんじゃないんです。関係のないはずの我々の金が、分捕られているんです(42)。

また逸れてしまいましたが、こうしてビザンチン帝国も財政の泥沼を掛け落ちたのです。
ここに救世主が現れました。優れた武将であるとともに貴族出身のアレクシオス1世コムネノスでした。何をしたかというと、国家破産を宣言し、寄生虫たちに支払いを停止したのです。彼は自分と同じ貴族たちを帝国を支える柱として、従来の貴族や古い官位を無価値にし、総入れ替えを行ったんです。過去の国債を紙くずにしたのです。ちゃぶ台をひっくり返したのです。新しい貴族たちには新しい官位を与えこの体制に協力させた。こうするしかなかったでしょう。日本もいよいよとなれば、これしかないでしょうか(43)。

こうして、大変な犠牲を出して、新たな船出をしたかと思えるビザンチン帝国ですが、相も変わらず侵攻するノルマン人、トルコ人(イスラム勢力)に手を焼き、ノルマン対策にはヴェネチア海軍の、トルコ対策には西ヨーロッパ軍・十字軍の援軍に頼ることになります。しかし、十字軍を擁する西ヨーロッパは、素朴で乱暴です。しっかり聖地エルサレムの回復という目標を持った融通の利かない田舎者達です。一方ビザンチン人はすれっからしで、ころころ提携先を変える、聖地回復などお題目に過ぎない「狡猾なギリシャ人」なのです。反りがあうわけがない。やがてこの不信感は、1204年第4回十字軍で表面化し、十字軍・ヴェネチア人がそこに(都で仲良くすみ分けていた)イスラム教徒に傍若無人の狼藉を働いたことに対し、ヴィザンチン人は異教徒イスラム教徒に同情して西欧人と戦ったことなどから、やがて十字軍からコンスタンチノープルが攻撃されてしまうことになります。その末路は哀れです。
国家は滅亡し、十字軍に占領されラテン帝国なるものが打ち立てられたり、その後もスキをついて再びヴィザンツ帝国を打ち立てたといっても名ばかりで、金はないし(ヴェネチア商人に持っていかれました)、艦隊も持たず、唯の人口10万程度の観光都市に落ちたコンスタンチノープルのビザンツ帝国は、最後まであがき続けた後1453年、オスマン帝国に滅ぼされます。コンスタンチノープルは破壊されずに、イスタンブールと改名され、オスマン帝国の都として現在に引き継がれています。

弱体化しながらも、ビザンツ帝国はキリスト教世界の、イスラム教世界からの防波堤の役割をしたことは事実です。ギリシャ正教をスラブ系民族にもたらし、彼らの文明の基礎を担った。ギリシャ・ローマの文化を保存しルネッサンスに影響を与えた。これもみな事実でしょう。しかし、彼らにもプライドがあります。そんなヨーロッパ中心の見方だけでは、西ローマ帝国がゲルマンの手に落ちたようには、異民族に屈せず、「ローマ」の理念を守った彼らからすれば、不満です。何といっても「自由と民主主義」とか言っている古代ギリシャ・ローマに比べ、「皇帝の奴隷」などと言って自己を卑下していたビザンチン人の方が、結果として女性の権利を始めとした人権の拡大も実現しました。しかも千年も持ちこたえたのです。彼らは知識人も含め、陰でではあっても、絶えず批判精神にあふれ、皇帝賛美と皇帝批判を併せ持ち続けたのでした。あの時代にそれは精いっぱいの抵抗だったでしょう。そして少しずつではあってもアヒルの水かき効果はもたらされたのです。

平等な制度ばかり整備したって、やる気のないものはやらないんです。民主主義といういい制度がつくられたって、怠惰をむさぼって自滅する者はするんです。どんな環境でもやるヒトはやるんです。だからと言って圧政がいいなどと言ってません。制度は腕力で正すものじゃないということです。個人個人の絶えることのない内なる革命の結果、後からついてくるものじゃなければ意味がないということです。
 「ビザンチン人は「改革」を嫌い「伝統」に信念を持った。彼らにとって「民主主義」とは、好き勝手な権利ばかり主張する、船頭ばかりの忌むべき政体であり、正しいのは皇帝による独裁政治であった(44)」。

その後ローマの亡霊(帝国理念や宗教)は、今度はロシアに受け継がれ、ロシアは第3のローマとして、東方正教会(ロシア正教)の中心を担っていきます。

ビザンチン帝国の盛衰はこれで終わりです。
さー、皆さんは、どう考えますか。

注38) 井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P59

注39) エドマンド・バーグ「フランス革命の省察」PHP研究所2011年3月P317

注40)井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P164

注41)同 P168

注42)円安政策
 どういうことかというと、円安政策でカネの価値を下げたのだから、株を買う代金も以前よりたくさん払わなければ買えない。だから、当然金額は高くなる、つまり株が上がるわけで、何も価値が上がったわけではない。金の価値が下がった分だけ修正が入っただけなんです。食料自給率が低く輸入品に依存する日本で、円安は商品の値上げに等しい。円が1ドル80円だったものが100円に成るということは、今80円出せば買えていたバナナが100円出さなければ買えなくなったということで(株価も同じで)、25%の実質値上がりです。全部輸入品で暮らすわけではないにせよ、理屈としては20万の給料をもらっていた人は、実質25%引きの15万に引き下げと同じです。そこに気付かない。じゃーその差額はどこに消えるのか。輸入元にじゃないですよ。過去に(円安になる前から))株を持っていた人間の株が上がったり、輸出企業の決済金額が跳ね上がったりつまり、そっちにカネが移されてしまったのです。態の良い略奪をされたともいえるわけです。つまり騙されたわけです。ミクロにズームインすれば、こういうことになります。今ロンドンでEU離脱に関わるポンドの下落が騒がれていますが、株は上がっているから悪いことばかりじゃない。輸出企業はもうかっているなどと報道されていますが。株は上がっているんじゃない、下落したポンドで換算しなおした修正が入っているだけです。その瞬間を跨いで株を保有していたり、輸出と決裁をした企業が差額を一時的に手にしただけです。差額はどこから来たのかは、日本と同じです。
日本の株高はそればっかりじゃない。日銀や年金基金があれだけたくさん買っていれば上がるのは当然。株式市場は既に(民間の)自由市場ではなく、(国が大株主ばかりの)統制市場になっている。マスコミも民間も政府の顔色ばかり窺っている。マスコミも批判ができなくなっている。それでも実効果は庶民には徐々に来るから実感がわかないで、なんとなく収支が苦しくなってくる。日銀にまで国債を買わせて、つまりますます大量に、裏付けのない、薄めて増やしたカネを増やし、見かけを大事にする。そうしておいて、人口比率も投票率も高い高齢者に対しては、陰でこそこそ物価スライドと給与スライドの両方を組み合わせた年金法案を通してしまう。物価が上がっても給与が上がっていないからと年金は据え置き(又は下げる)、だからと言って給与が上がっても物価は上がっていないからと年金は据え置き(又は下げる)という大変巧妙な仕組みで、何とも情けない。人口比率が少なく投票率の低い若者に対しては、怖くないから堂々と派遣改悪法を通して、若者潰しを平気でやった。安い給与でも親のすねをかじることができるうちは、大変なことという実感が湧かないから気付かない。その親も何時かはいなくなる。その時初めて、こんな給与や待遇では結婚もできないと慌てる。その時はもう遅い。いよいよ老人に矛先を変えたのでしょう。無理だったから下げますと正直に言えばいい。本当にカネを回したいなら、資産をしこたま貯め込んで動かさない老人たちに対し、相続税をゼロにすれば若い世代にカネは一気に向かい回り出します。怖くてできないですかね。そんなことできるわけがないだろうと、馬鹿にして笑うくらいしかできないんでしょうか。又本当に信用できる政府なら、増税にも耐えなければならないでしょう。批判もできない、バランス感覚も持てない国民なら、投票権など猫に小判でしょう。どう思いますか。ちょっとミクロに政治的に入り込みすぎました、すみません。

注43) 起死回生策は切り捨て御免のこと
 このままでは、いずれ、日本もビザンチン帝国が落ちったときのように、この現象がやってこないとは言えません。国債は紙くずになりかねない。確かにアメリカのように日本や中国から大量に国債を買ってもらっているということは無いかもしれない。又国民の預金残高が国債残高を上回っているから大丈夫だというでしょう。日本は世界最大の債権大国だというでしょう。しかしその根底である貨幣自体が、「信用」で成り立つものである以上、一たび不安に火が付けばそんな理屈は、全く通用しない。相手は素直な日本国民だけじゃないんです。既に世界とつながった時代なんですから。相互依存の「新しい中世」に入っているんですから。いい加減に目を覚ましましょう。実は我々はそんなに金持ちじゃー無いんです。俄か成金なんです。税収の何倍の暮らしをしているか考えただけで判ります。これは一面的な見方かも知りませんが。さー、皆さんはどう考えますか。話がまた政治的になってしまいました。これではGDPの大きさで国の格付けをするの愚に陥った人たちと変わりません。すみません。

注44) 井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P274


2016年10月05日
第2回 歴史 第3部 中世5【ヨーロッパ中世】
6・長く深く沈潜する西ヨーロッパ中世

〈ヨーロッパの風土と民族〉
 ヨーロッパ(28)は大きく地中海地方、西ヨーロッパ、東ヨーロッパに区分されています。地中海地方は、地形的によく似た我が国の瀬戸内海とよく似て夏季に雨が少なく温暖な気候です。それに加えて、石灰岩質の痩せた土地でオリーブなどの果樹栽培に適した半面、小麦不足の為交易や植民が欠かせず地中海・黒海沿岸に都市が発達した。一方でアルプス以北の西ヨーロッパは、陽光は少ないが、西岸海洋性気候の、南からの暖流である北大西洋海流や偏西風のおかげで、冬は緯度に比して温暖で降水量も平均しており広汎な農作物が栽培や酪農も可能な環境だった。唯当時は、内陸は広葉樹・針葉樹の森林におおわれて、寒冷で開発は遅れていた。ただ地味も肥えていた為、後の大開墾や農業技術の進歩(三圃式農法・後述)などで、有畜農業(29)が行われた。交通は道路が舗装されておらず、雨となれば通れたものではなく、勢い河川が動脈として利用され、そこに沿って都市が発達した。東ヨーロッパは、雨量は少なく寒暖の差の大きい大陸性気候で、草原地帯が広がり、黒海北岸は肥沃な黒土で地中海の穀倉として知られ、東方からの遊牧民の侵入に脅かされた。

一方、この広大なヨーロッパ(イベリア半島からアルプス以北)に古くから住み着いたのはケルト人(30)でした。彼らはイベリア半島やアルプス以北を活動の拠点としていましたが、北方のゲルマン系民族中、西ゲルマンと東ゲルマンがライン・ドナウ両川以北に拡がり、4〜6世紀にゲルマン民族移動により一部は自然の障壁アルモリカン山脈に守られたブルターニュ地方へ、一部は北方に追いやられ、アイルランドなどに駆逐されてしまいました(実はそのもっと前には、紀元前6000年〜1800年には巨石文化を持つ先住民族が住んでいました。巨大な石を太陽である神に捧げたと言われます。どうやって動かしたのかは不明のようですが、もしこれが花崗岩なら節理に沿って雨で割れた可能性もあります)。
ケルト文化は縄文の日本人と似て、文字を持たなかった民族なので、伝承や音楽や芸術的なものからしか推し量ることができないのですが、アイルランドなど一部の地域では(科学的な見地では当時の資料たりうる伝統は残りうるはずもないのですが)、僅かな言い伝えや遺跡やアイルランドの昔話などから、想像力を借りてのケルト世界の一端を垣間見ることは可能です。なぜケルト文化にこだわるのかというと、そこには、辺境ヨーロパの根っこの部分や、大陸からの辺境の地・日本との共通の風土が匂うからなのです。特に森の中の木の住居は我々に親しい。縄文土器に見られる観念の渦巻く模様は、ケルトの渦巻き模様思わせますし、昔話における変身譚において、グリム童話などのように呪文や魔法などの操作を挟まないで、ごく当たり前に変身は行われます。これは人間と動植物の境界が無いというか、隔たりの無い同等の関係にあるので、会話したり変身したり、特別な操作無く可能なんです。おそらくこれは日本とケルトだけということでは無く、原始の人類共通の能力であり、会話自体がもともとそういうものであり、認識や視覚自体も、現代の写真というものがクリアー過ぎて、覆ってしまっている向こう側まで見えたりするものだったのだろうと思います。つまり現代人が自分と切り離そうとしている、非合理な無意識やカオスとの連絡が取れているからこそ見える・感じられる豊かな世界を持っていたろうと思われるからなのです。「古代から渦は、偉大なる母の子宮の象徴と考えられてきた。それは、生まれてくるという意味と、そこに引き込まれて死ぬという二つの意味を併せ持っている。・・まさに輪廻転生を象徴するものなのだ。・・つまり母性の象徴なのである(31)」。これは後にヨーロッパを席巻するキリスト教の父性と対立するものなのです。遂には「赦す」存在、神へのとりなしをしてくれるマリアの必要性を認めたカトリックよりも更に父性の強い、プロテスタントと対立するものです。ヨーロッパの優れた文学でケルト文化に影響を受けた人たちはアイルランドのイエーイツ、ジョイス、フランスのマルセル・プルーストなど20世紀の代表的な作家がいますし、ワグナーの「トリスタンとイズー」伝説もアイルランドに源泉があります。墓の中から蘇る愛の「嵐が丘」の結末もアイルランド起源です。もっと言えば、ケルトの場所の一つであるアイルランドは、ノルマンの侵略から始まり、12世紀から続いたイギリスによる修道院文化の破壊、弾圧と圧政から、新大陸に避難したアメリカのルーツでもあるのです。今日でもアイルランドへの観光客の多くはアメリカ人です。自分のルーツを探しているのです。ケネディーもレーガンも同じルーツでした。

いずれにしても、ケルトは日本の縄文のように、ローマや古代ゲルマン族らによって(縄文人は弥生人たちによって)、跡形もなく破壊されてしまったのです。フランスのブルターニュやアイルランドに僅かに残るのみです。(ヨーロッパの)石の文化は残りますが、森(木)の文化は断片しか残りません。歴史家の木村尚三郎さんは、パリに行くといつも訪ねるところがあるといいます。それはサン・ジェルマン・アン・レイにあるフランス古代博物館の、銀でできたケルトの木々の葉のコレクションです。
病気や怪我の治癒に感謝して、ケルトの神々に捧げた奉納板であり、その空中に舞うがごとき美しい光からは森の歌が、大自然への畏怖と森の木々に神秘を見た彼らの豊かな情感がこみ上げてくる感動を覚えるといいます。曰くヨーロッパ版縄文の歌だそうです。
もともとローマ帝国の辺境だった西ヨーロッパは地中海と比べると寒冷で、森に覆われた未開の地だった。麦の収穫も少なかった。ローマ人がケルト人を森の人と呼んだのはその為だった。そこでは森が神々の住まう神域として敬われ、その神々は聖なる木・カシ(32 )の木に宿るとされたのです。カシは寿命は2000年に及ぶと言われ、新しい葉が生えるまで古い葉は残り、日本でも一族の繁栄のシンボルとして子どもの日にカシワ餅が食されます。銀の葉もおそらくカシワでしょう。実物を見てみたいものですね。

 長くなりましたが、ゲルマン人は征服民とはいえ、ヨーロッパという同じ風土で育ったという点でケルトの民と底では繋がっています(我々も大陸からの稲作や渡来人の弥生に染まっているとはいえ、地中奥深くには縄文の熱い血潮が渦巻いているのと同じです。土俗の盆踊りはその情念を「をどり」によって踏みしめ・吸収する行事です)。後に一神教であるキリスト教によって否定され変化を強要され、地中深く埋められたこの多神教の世界は、ゲルマンの神々と共に、ことあるごとに対抗の炎を燃やし各地で噴火するのです。(クリスマスツリーやハロウゥンの)ケルトはヨーロッパの底辺なのです。縄文が日本の底辺であるように。
こうしてヨーロッパは、中世前期に、地中海にラテン系民族、西ヨーロッパにはゲルマン系民族(33)、東ヨーロッパにはスラブ系民族(34)という分布が出来上がりました。唯、ハンガリーとフィンランドだけはウラル・アルタイ語系(アヴァール・マジャール・モンゴル・トルコ人)の言語を持ちます。彼らはアジア方面から移住してきた遊牧民の子孫だったのです。

〈ゲルマン民族大移動・375〜476年〉
 ゲルマン人は、ローマ人からすれば随分と素朴で荒々しい牧畜と狩猟と小規模の農業とで暮らしをたてていた部族集団だった。それでも、貴族・平民・奴隷の階級と民会という意志決定機関を持っていた。ゲルマン人の信仰していた神々の名は自然現象から来ていて、曜日の呼称として残っている。主神オーディンはWednesday、その妻フリッグはFridayなど。

 ゲルマン民族大移動とは、ローマから見ればそうなりますが、ゲルマン民族から見れば、農業進歩と人口増による土地不足と、匈奴の末裔・フン族からの逃走であり、フン族から見れば中国(鮮卑系の北魏)の圧力からの逃走でもあったわけです。
そして西ヨーロッパ世界の形成は、ローマから見れば、地中海世界に進出したイスラム勢力からの逃亡とゲルマン勢力であるフランク王国との提携でもあったのです。当時のイスラム勢力とフランク王国の力の差は、首都バクダードの人口150万人に対し、フランクの首都アーヘンは、僅かに3000人という差から見ても歴然としたものでした。ど田舎の農村から出発したヨーロッパは、イスラムの大征服圧力に、けなげにも連帯し、北方の「ゲルマン人のローマ帝国」を辛うじて確保したのです。両方から挟まれた西ローマ帝国は、攻撃的なイスラムよりも、素朴で一神教を持たない、比較的平和的な移住をしてきたゲルマン人との提携の方を選んだのです。ローマ人の都落ちですね(395年ローマ帝国は東西に分裂しました。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)は、古い伝統を受け継ぎ、皇帝と教皇一体主義の体制(帝権と教権の分離をしない)をとり、昔ながらの制度国家を維持しました。一方でゲルマン人と組んだ西ローマ帝国は、ゲルマンの諸王国が群雄割拠し、強大さを競う状態でした。
西部に建設された諸国の中でゲルマン人の人口比率は僅かなもの(3%程度)でした。にもかかわらず軍事的主導権を握った為、やがてゲルマン傭兵隊長オドアケルが、476年西ローマ帝国を滅ぼし、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の臣下となった。以降ゲルマン諸民族の王は東ローマ皇帝に従属し権威を利用した。ここに西ローマ帝国という国は滅亡したのです(ローマ教会は、東ローマ帝国とは別に生き残ります)。時に、倭王「讃」(仁徳天皇?)が東晋に使者を出し、中国では北魏と東晋がしのぎを削り、ビザンツ帝国と朝が対立する時代でした。
そうした中で西ヨーロッパ最大の勢力になったのがフランク王国(メロヴィング朝)でした。5世紀末のゲルマン部族は、カトリックではなく異端とされたアリウス派(35)を信仰していたが、フランク王国のクローヴィスは諸国に先駆けて496年に臣下と共に正統のアタナシウス派に改宗し、旧ローマ貴族やローマ教会の支持を取り付け勢力を伸ばした。その後次第に衰え宮宰(宮廷の家政を取り仕切る役人)一族に実権は移ったが、7〜8世紀にかけての、シリア・エジプト・ササン朝までもを倒したアラブ人民族大移動である「イスラム大征服運動(後述)」により、イベリア半島(現スペイン)まで征服され西ゴート王国も滅ぶに及び、危機感は一気に高まった。フランク王国宮宰でカロリング家のカール・マルテルは救援の要請に、国土の3分の1を没収し騎士に与えることで強力な重装騎兵を組織し、既にポワチエが落とされた後、キリスト教の聖地のひとつであるトゥールでイスラム軍と激突し、勝利した。マルタン修道院も守られた(トゥール・ポワティエ間の戦い)。しかし、イベリア半島と地中海一帯は長らくイスラムの支配に置かれたことを考えると大勝利などと言えるものではなかった。それでもこの勝利が無ければ、今のヨーロッパは無く、イスラム世界になっていたことは確実でしょう。

これをきっかけにカロリング家は台頭し、カール・マルテルの子ピピンはカロリング朝を起こした。ピピンは教皇領を寄進し、この機にビザンツ皇帝と対立していたローマ教皇は、カロリング朝と接近し権威確立に利用した。ピピンの子・カール大帝は800年ローマ教皇から、ローマ皇帝の帝冠を授けられた。こうしてローマ帝国は、ローマ人ではなく、「ゲルマン人のローマ帝国」として復活しました。

〈カール大帝の戴冠と西欧世界の誕生・486〜870年〉
カール大帝がキリスト教に戴冠(たいかん)したことが、なぜヨーロッパ世界の誕生につながるのでしょうか。その背景には、遡ること300年、メロビング朝のクローヴィス(クロードヴィッヒ)がカトリック(正統のアタナシウス派)に改宗し、塗油(油または脂を人または物に塗ってそれらのものが神聖なものとの新しい関係を得たことを象徴する儀式)の儀式によって、王がゲルマンの神々にではなく、キリスト教の神に贈り物をし、民衆の平和を祈らなければならなくなったことに象徴されます。つまり、従前の、家臣に戦利品を気前よく配ったり、生活の隅々まで浸透していた贈与慣行(36)
は保ちつつ、王がもっていた民衆の病を治し、収穫を増加させるという力の行使を教会に移し、もって民衆に対しては伝道を進めることに絞る代わりに、死者への贈与(生前・死後を問わず自己の幸運を保証してもらう為の取引)として財宝を地下に埋める慣習をやめさせ、教会に寄進させることで、つまり神への贈与に換えることで、天国で報われることを聖職者の祈りで保証する形に転換させた。
こうすることで、教会は寄進された財産で大聖堂を建て、権威を高め、王は名誉という社会的権威も、聖堂の周囲に立つ市の開催による収入も確保できた。貨幣は埋められて腐ることなく市井に循環し始めたのです。贈与経済体制から、売買による(利潤を目的とする)貨幣経済への移行期にいたのです。勿論、カトリックを信仰していた旧ローマ人との障害も少なくなったことは言うまでもありません。こうしてヨーロッパは教権と帝権のバランス(聖俗2つの中心を持つ楕円のような)のもとに一体となる独特の共同体を形成していくのです。これは後のヨーロッパ文化の特色であるバロック(ヴィヨンやヴェルニーニなどに見られる二律背反な「敬虔」と「猥雑」の2つの中心を持つ、楕円構造の持つダイナミックな)文化をも生み出すのです。それはやがて、現世での善行や教会への寄進は、天国での救いを約束するものではないと、教会の欺瞞を暴いたルターの登場まで続くのです。

フランク族には、子が財産を分割して相続するという慣習があり、843年のヴェルダン条約などを経て、カペー朝(フランス)、イタリア王国、神聖ローマ帝国(ドイツ)の3国に分裂しました。これが「帝権はドイツに、教権はイタリアに、そして学芸はフランス(パリ)にという3つの中心を持つユニークな文化圏となった(37)」のです。彼らはナショナリズム一辺倒ではなく、この時代から王侯貴族同士の通婚を認めたり、市民や農民も地域社会の特色を認め合い、国の如何に関わらず同一身分の同格性など相認め合う意識も持っていたようです。
少なくともヨーロッパ内に限って言えば、最初から異なった文化を認め合った上で統合していこうという国際的な自覚を持った集団でした(勿論ヨーロッパ連合の、外に対しては傲慢で、鼻持ちならない優越意識が、多くの犠牲を強いたことも事実ですが)。

〈カロリングルネッサンス〉
アーヘン(森の中の小さな町に過ぎない)を中心としたルネッサンスと言っても、同時期のバクダードや長安(両方とも100万都市)と比べたら、本当に月とスッポンぐらいみじめな差があったことは述べました。それでも、「ゲルマン人のローマ帝国」を復活させたカール大帝は、国造りの為のインフラ整備に加え、自らは文字の読み書きはできなかったものの文教政策に力を入れ、各地の修道院や教会に付属学校を設置させ、各地からアルクインなどの高名な学者を招き、当時の俗化したラテン語に対し、古典を模範にした正しいラテン語の復興や文化の研究に当たらせた。その結果修道院では、それまでの文字が「アンシャル体」という荘重なローマ字中心だったものを、カロリング小文字(アルファベットの小文字)という独特の書体で多くの写本が作成され、古典文化の継承がしやすくなった。
カール大帝の西ローマ帝国は、単なる古代帝国の復活ではなく、古代の古典文化に加え、キリスト教、ゲルマン的要素の融合した新しい世界の誕生を象徴するものでした。アルクイン(735〜804)は古典学芸とキリスト教信仰の調和につとめ、カロリングルネサンスの中心人物となりました。

〈ヴァイキングと東西ヨーロッパ9〜11世紀〉
9世紀から11世紀にかけては、ノルマン人・ヴァイキング(ノルウェーの入り江=ヴィークに住むところからこう呼ばれた)と呼ばれる北ゲルマン(スウェーデン人・ノルウェー人・デンマーク人=ディーン人)は、スカンジナヴィア半島やユトランド半島で農業に従事していたが、気候は悪く農地不足で、人口増を賄うことができず、彼らは巧みな航海技術で川や海を往来し、横波に強く、左右どちらからでも岸に付けることが可能で、帆で航海し河川をオールで遡るヴァイキング船を駆使し、交易や移住や略奪を行い、その勢力を広げた。
これを、ゲルマン民族大移動の落ち着いた後の、第二次民族大移動と言います。

スウェーデン系ヴァイキングは、バルト海から南下する川を遡り、ヴォルガ川やドニエプル川を下り、カスピ海・黒海に至る交易路を開発し、イスラムやビザンツ帝国との交易をおこなった。イスラム商人との交易ではアラブ銀貨が流入し、北欧から西欧にヨーロッパの貨幣経済をもたらした。トルコ系遊牧民がヴォルガ川下流の草原地帯を占拠すると、孤立したヴァイキングはスラブ人と混血し、森林地帯の集落を集めて毛皮の集散地だったノヴゴロドに、「ノヴゴロド公国」を建国、更に交易の中継都市キエフに南下して、「キエフ公国」を誕生させた。これがロシアの始まりです。

ノルウェー系バイキングは、征服した国々の習俗・宗教には関心を払わず、村を焼き払い、墓をほりかえし、無防備な修道院の十字架などの貴金属を奪い、人々を虐殺し、残虐で荒々しい方法でアイルランドやスコットランド、フランク王国など沿岸各地を襲い、略奪の限りを尽くしました。カペー朝(フランス)は彼らに海沿いの領地を与え(西フランクとイングランドの間)、ノルマンディー公国とし、同族のヴァイキングの撃退に当たらせたが、飼い馴らし作戦はうまくいかず却って1066年ノルマンディー公は、イングランドに攻め入り、ノルマン朝を開いた(イングランドには、ゲルマン民族移動期にアングル人・サクソン人が住み着いていた。イングランドはアングル人の土地という意味)。その為14〜15世紀にわたる英仏間の百年戦争が終わるまでは、イギリスの公用語はフランス語だった。英語でフランス語由来の単語は多い。


注28) ヨーロッパ
 ギリシャ神話の、ゼウスが白い牡牛に変身して、恋に落ちたテュロスの王女エウローペーを誘惑した話にちなんで名づけられており(牡牛座もここから来ています)、そのラテン語形であるというのは有名ですが、セム語(アッカド語)の「エレブ」(夕暮れ=西方)が由来になっているとする説の方が信憑性が高いとされます。ヨーロッパは国の名前ではありません。各国の統合名称です。これが示すように、ある時は民族の自決を主張して分裂の力が強く、ある時は外圧(イスラムなどの強大な外圧や日本などの経済的進出の外圧)に逢って団結してこれに当たり、膨張力と求心力のダイナミックな力を持つ稀に見る自治統合体なのです。決して一つの領土国家ではなく、帝国でもないのです。EUが経済統合したからと言って、将来一つの国になろうなんて、これっぽっちも考えてなどいないのです。
世界の社会体制が、古代から中世にかけて、「世間」という集団体制を普遍としたとき、ヨーロッパだけは、11・12世紀を境に、そうした「人間が集団の中に埋没して相互に依存しあう、世間体制」から離脱し、「個人を単位としながら、結合する」という社会の実現に成功したのです。これを可能としたのは、(阿部勤也さんから学びましたが)カソリック・キリスト教の父性的性格や、個人に対する「告解(告白)」の強制です。これが「自分自身を見つめること」を覚えさせ、社会から孤独な「個人」の自立をもたらしたのです。やがて自意識を生み、身体から離れた客観主義や、自然を人間に奉仕する存在と見る「自然科学」の見方を生みます(これは、キリスト教の発生のところで、アウグスチヌスと共に説明しました)。これが様々な文化や技術を生み、産業革命も起こしました。18世紀から19世紀にかけての「ヨーロッパの優位」を生み出した要因です。勿論様々な副作用も生まれました。それが鬼子であるアメリカも、怨念のイスラム過激派も、パレスチナ問題も、そして魔法のような「自由と民主主義」も生んだのです。現代はその魔法が解け、新しい中世(豊かな中世)に向けての長く苦しい模索の時代に入っています。新しい古代ではありません。新しい古代(=近代国家・帝国主義・共産主義)を目指した動きは悉く自壊しています。せいぜい遅れてやってきた今の中国位でしょうか。中央政府を脅かす勢力などどこにも見当たりませんから。未だに日本以上に贈与の経済が民間では盛んで、人権問題など非難するのは、彼らには理解できないでしょう。その素朴に世界は振り回されているのです。やがて時間は、資本主義を経験している彼らに観念の中世をもたらすでしょう。

ヨーロッパとその子であるアメリカには新しい体制をリードする可能性があります。しかし彼らは嘗て、ひどく手を汚してしまいました。これが致命的な問題です。残念ながら、今のところ、素朴が先進文明を滅ぼすという、古代的な動きが優勢です。逆戻りですが仕方ありません。優越意識が墓穴を掘ったのです。日本も、それを覆す智慧もあるのですが、やはり過去に手を汚してしまいました。警戒心は根深いものがあります。辛抱しきれずに積極的平和主義などという訳の分からないことも言い出しています。何をビビってるんでしょうか。日本の本当の力はハードではありません。本当に平和を望むなら(リスクを潰すなどという安易な排除の論理では太刀打ちできないのです)、危機を逃げてはやってきません。そう、平和は掴むのではなく、やってくるものなんです。ソフトなのです。急がば回れです。
しかし、もっともっと巨大な問題・地球環境が既に取り返しの利かない状態になってしまっているという問題がのしかかっています。にもかかわらず、目を閉じて、これを見ようともせず、目先の豊かさばかりにうつつを抜かし、未だナショナリズムにあくせくこだわるのは如何でしょうか。地球温暖化が齎す環境の変化は、もしかしたら生物全体が望んでいたことなのではないか。もう20年も前に、松井孝典さんは喝破されています。人類のことしか頭にない身勝手な人類主義で考えれば、困ったことかもしれません。しかしそんな人類団結主義すら、もう通用しない時代なのです。ミミズが何億年もかけて岩を砕き土にしているのは、誰の為なのでしょうか。人間が利用して耕すため?とんでもない思い違いですよね。

注29)有畜農業
 作物の栽培と家畜の飼育を組合せた農業形態。ヨーロッパの三圃式農業より発展した。狭義では,家畜飼養が商品生産部門として未確立の段階にあるものをいう。混合農業や酪農はその代表的なもの。家畜の飼育はそれが現金収入をもたらすだけでなく,地力維持のための肥料を生産する(ブリタニカ国際大百科事典)。

注30)ケルト人
インド・ヨーロッパ語族のうち西方系の民族。ギリシャ語でケルトイ、ラテン語でケルタエ、ガリーとも。原住民は南ドイツ地方。紀元前8世紀頃、鉄製武器と戦車で前2世紀ごろまでにイベリア半島からブリテン諸島、小アジアまで広大な地が彼らの世界となったが、前1世紀からローマ人に、前5世紀からゲルマンに圧迫・征服された(角川世界史辞典)。ガリア人、ブリトン人、スコット人はケルト系民族。

注31)河合隼雄「ケルトを巡る旅」講談社α文庫2010年7月 P75



注32)カシとカシワとOAK

カシはカシの木で、カシワはカシの葉のことを指したが、いつの間にか別の植物のように使われることもあった。更にカシワはカシの葉ばかりか、食事の際に使う葉を総称して、カシワというようになったと、本居宣長の「古事記伝」にあるようです。

加之波(かしは)(かしは)といふは、もと一樹の名には非ず。何樹にまれ、飲食に用ひる葉をいへり。・・すべて上代には飲食の具に、多くの葉を用ひしことにて、・・・飯を炊くにも甑(こしき)(こしき)に葉を敷きもし、覆(おほ)(おほ)ひもして、炊きつるものから、炊(かし)葉(は)(かしは)の意にて加志波(かしは)とはいへるなり。

カシワは一樹の名前ではない。何の樹であれ、飲食に用いる葉をカシワといったという説です。
又明治のころ、oakを誤ってカシと訳していた頃があり、時に英和辞典にも未だその名残があります。正解は楢です。これは、昔日本では木材 としてのナラ(楢)の評価が低く、ヨーロッパでありがたがられている oak が楢であるはず がないとの思い込みから誤ってカシ(樫)と訳されたのが原因のようです。
冬になりカシの葉が落ちると、丸くボールのように固まった常緑の大きな寄生植物・「宿り木(ギイ)」が(鳥に実を啄ばんでもらうために)カシの枯れ木につく。その光景は灰色の空に浮かび上がった濃緑色のオブジェのように妖気漂う雰囲気を醸し出す。フランス人はこのギイを見ると、幼いころ祖父母から聞かされたケルトの伝承を思い出す。霊魂の不滅や輪廻転生を信じた太古のケルト人たちにとり、このギイは、枯れて死んだ木の命がそこに移り住んだ神の住まいであり、天からの贈り物と考えたという。フランス語には今も「木に触れる(トゥーシェ・ドゥ・ボワ)」という表現があり、お守りの意味だそうです(*)が、木肌に触れることで、そこに「気」を感じ取っているのでしょうか。
(*)木村尚三郎「成熟の時代」日本経済新聞社P202

注33)ゲルマン民族
 インド・ヨーロッパ語族で、ゲルマン諸派に属する言語(英語、ドイツ語、スウェーデン語、デンマーク語、アイスランド語、オランダ語など)を話し、オーディンを主神とする神話や習俗を持つバルト海沿岸を原住地としていた人々の総称。東(東ゴート、西ゴート、ヴァンダル人、ブルグント人、ロンバルト人)、西(アングロ・サクソン人、フランク人など)、北(ディーン人、ノルマン人)に大別される。ゲルマン系民族が支配する国はドイツ、オーストリア、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、またイギリスのアングロサクソン人、ベルギーのフランデン人などのゲルマン系の血を引いているが混血で、特に民族の意識は弱いようです。外見的特徴も、白色人種で、髪の色は金髪が一般的といわれていますが、ゲルマン系ドイツ人の過半数は黒髪や茶髪であり、必ずしも金髪が多いとは言えない。又長身、青い目、頬が角ばっているなどの特徴があるようです。

注34)スラブ民族
ゲルマン人と同様のインド・ヨーロッパ語族で、スラブ諸語(ロシア語・ポーランド語など)を話す人々の総称。外見では白色人種であり、髪型は薄い茶色・亜麻色〜黒、ゲルマン民族と比べて顔が丸く彫が浅く、身長は高くないとされるが、そうでない人も見られ、混血が進んでいるので、特に意識は強くない。宗教面で、東方正教会に帰依した東スラブ(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)、南スラブ(ブルガリア人、セルビア人、マケドニア人)と、ローマ・カトリックに帰依した西スラブ(ポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人)、南スラブ(スロヴェニア人、クロアチア人)に大別される。ゲルマン民族のうち移動せずにライン川以東に留まったものをスラブ人という大きな分類の仕方もある。

注35)アリウス派
子たるキリストは父なる神に従属するとする考え方。父と子は同質とし、後に
父と子と精霊の「三位一体説」を確立したアタナシウス派と争い、コンスタンティヌス帝が招集したニカイア公会議で異端とされた(よって東ローマ帝国内でも異端だった)。イエスも神と同格で無ければ、キリスト教の特徴はなくなってしまい、イエスの言葉である聖書も、神の言葉になり、他の一神教と変わらなくなってしまいますものね。神が身を借りて、この世に「出現」したというリアリティイーがなくなってしまう。ここは譲れないでしょう。

注36)贈与慣行
 贈与慣行は中世ヨーロッパに限ったことではありませんが、商業活動や貨幣経済の近代経済を理解する上でも重要なキーワードです。
古代から労働は徳ではなく、楽園から追放された罰として与えられた苦役とされ、富を蓄積するために労働することは罪人や奴隷のすることとして否定されていた。
それでも11世紀ごろから、都市も教会も多くの富を集積していた。これを正当化する理屈はどのようなものかというに、まずは当時の人たちの富に対する考え方を認識しておく必要があります。
当時の首長や戦士たちは略奪行を行い戦利品や財宝を手に入れても、これを自分の為に貯えずに、宴会を開き、戦利品を配り見栄を張り、自身の権威を高め、優越性・勇敢さを示すための手段と考え、吝嗇は軽蔑され、人間関係を破滅に導くものだった。金の切れ目が縁の切れ目ではありませんが、贈るものが無くなれば家臣たちは離れていった。又貨幣に換えたとしてもこれを支払い手段としてはあまり用いられず、寧ろ装飾品・財宝と捉えられ、自分の人格(魂)が籠った「モノ」として、他者の所有に帰するのを嫌い(幸運を他者に奪われないように)、死を予期した人は地中に埋めることが多かった。だから物を贈るという行為は、贈与自体に意味があるのではなく、相手と付き合いたいという希望表明であり、贈るものの人格が刻み込まれている物を受け取った場合は、相応のお返しをしなければならない。それができなければ贈り主に対し奉仕・隷属関係を結ばなければならなくなる。悪意をもってそれが為されることもあったという。
「贈与は単に財産・動産・不動産など物の交換であったばかりか、饗宴・軍事奉仕・婦女子・祭礼なども交換され、宗教・法・道徳・政治・経済の全制度を包含する全体的社会現象だった(*)」わけです。従って「人格的触れ合いを求めず(モノに籠った魂を抜き取った金銭で)物のみの交換に終始する商人とは、対等な人間関係を結べない( **)」として軽蔑された。
こうした背景を理解したうえで、正当化の理屈を見ていくと、まずは、商業は富を蓄積する為の便利な手段だったことが挙げられる。その貨幣経済は、貨幣の「匿名性」と「価値基準の一元性」により瞬く間に都市に浸透した(便利なのです。アシもつかない)。しかし世間や神の厳しい目に耐えられず、良心の呵責にさいなまれる商人たちもいた。こうした矛盾の橋渡しをしたのがカトリック教会だったと阿部勤也さんは言います。
どうしたかというと、贈与慣行を否定したのではなく転換したのです。労働という賤しい手段によって蓄えた富も、見ず知らずの人間関係を持たない人々への饗応を行うなどの手間のかかる(商人としての)贈与をしなくても、お返しするものの代表、つまり公的な機関・教会や聖所・巡礼の宿坊等に贈与することで、教会側からお返しなしに贈与が成立するとしたのです。これによって、冨者の贈与に対する教会からの=神からのお返しは、死後の救いが賭けられるものだから、彼岸によって成立するものとなる。よって現世においては何の見返りも求めないことになる。即ちこれが「無償の贈与」の成立になるというわけです(***)。こうした考え方が民衆まで浸透してくると、この贈答の慣習は、クリスマスと誕生日や復活祭以外はほとんど行われなくなっていく。この変化は経済的な話だけでなく、時空意識の変化ともつながっており、家(安心な小宇宙)の周囲の森に象徴される(危険・恐怖に満ちた)大宇宙の区別は取り払われ、神のもとに拡がる一つの宇宙のみの空間と、永遠に続く循環する時間でなく、始まりと終わりを持つ、即ち原因と結果を持つ「意味」を持つ直線的な時間に変わった。ここに今まで個人や村の為に大宇宙との橋渡しをしていた職業、迷信と言われる観念の上に成り立っていた職業、即ち死とかかわる職業(刑吏、墓掘人、塔守りなど)・動物とかかわる職業(皮剥ぎ、豚の去勢人など)・大地や水や火とかかわる職業(道路、煙突掃除人、煉瓦工、粉ひきなど)・性に関わる職業(娼婦)などの特殊な能力をもって畏敬のまなざしをもたれていた人たちは、徐々に仕事がなくなっていくのです(****)。会社が合併すれば、中間管理職はそんな何人も必要ないわけです。やがて残ったとしても賤しい職業として、賤民扱いに至り、差別発生に向かいます。普通じゃない人間はいらなくなってくるのです。もっと大切なことは、神という超越的な存在を証人とすることで、例え共同体や家や縁の介在なしの1対1の関係ですら、「公」的な意識が介在したということです。「打つならお打ちなさい、神様が見ていらっしゃるよ」と大きな鞭を持った番人に毅然と見合った少年時代のアンデルセンの、底冷えするほど孤独な心を一人一人が知るに至ったということです。自覚を持った「個人」の誕生です。
贈与経済から貨幣経済への移行は、(土地ごとに異なり、個々の人間関係で出来上がっている、癖のある)「文化」から、(地上の全てが神の視点から一義的に説明可能な)「文明」への移行でした。
日々の気持ちの籠った文(ふみ)や発声による挨拶から、贈与互酬を伴う、思い思われるいたわりの人間関係を過ごし、自然の姿に人間の立ち位置を日々確認して生きられる文化は、携帯やメールによる匿名性を持つ伝達手段や、神の視点でドラマをわがものとするテレビジョンによる「三人称的生活感」の占拠、時間の壁を限りなく破壊した交通手段、病気という病気を次々に排除の論理で撃破していく(その実ますますウイルスを強靭に鍛えているわけですが)医学、悩みや葛藤を引き起こす現実の人間関係をバーチャルに置き換え人工の幸福に満足してしまう科学技術などにズームインした「文明」に占拠・浸食されてしまうのです。焦点の合っていない周辺は気にしない。「いい悪いは別にして」のおまじないで、無かったことにしてしまうのです。

(*)阿部勤也「中世の星の下で」--カテドラルの世界−ちくま学芸文庫P256
( **)同P262
(***)阿部勤也「中世選民の宇宙」ちくま学芸文庫p121
(****)同p260

注37)増田史郎「ヨーロッパとは何か」岩波新書1967年7月 P196

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