2016年10月28日
第2回歴史第3部中世8【ヨーロッパ中世とは何か】
6・長く深く沈潜する西ヨーロッパ中世−続き2
〈皇帝と教皇1077〜12世紀〉
8世紀から10世紀までのヨーロッパは、絶えずノルマンなどの異民族からの侵略に脅かされており、そこから土地と身を守るために城塞都市がつくられます。この城を中心として中世の町は作られます。最下部は農民(働く人)、その上が騎士(戦う人))、そして僧侶(祈る人)という縦社会の封建制度が作られていきます。修道院は祈る人だけでなく働く人で、優れた精錬技術や羊毛技術も持ち合わせ、荒廃した農業の立て直しにも多大な貢献をしています。その修道会や教会の、国を越えたネットワークのトップに君臨したのがローマ教皇であり、諸侯や国王よりも大きな権威を持っていました。
そのことを証明したのが、有名なカノッサの屈辱と呼ばれる叙任権闘争です。
フランク王国が、843年のヴェルダン条約などを経て、カペー朝(フランス)、イタリア王国、神聖ローマ帝国(ドイツ)の3国に分裂し、「帝権はドイツに、教権はイタリアに、そして学芸はフランス(パリ)に」という3つの中心を持つユニークな文化圏となったことは既に説明しました。その神聖ローマ帝国の皇帝ハインリッヒ4世は、勝手にミラノ大司教や中部イタリアの司祭を任命してローマ教皇を無視する行動に出ます。これは彼の作戦(帝国教会政策)だったんです(53)。
おりから教会改革運動の中心にいたグレゴリウス7世(クリュニー修道院出身)は、聖職売買の禁止の罪として、ハインリッヒ4世を破門しました。教皇は国を越えたネットワークの長ですから、皇帝の中央集権化に反対する諸侯も多くおり、その諸侯と皇帝の対立を利用したのです。その反皇帝派諸侯がもし破門が1年以内に解かれないなら、皇帝は廃位すると決議したため、困り果てたハインリッヒは1077年、教皇の滞在するイタリアのカノッサ城を訪ね、雪の積もる城門の前ではだしで3日間立ち尽くして、ようやく破門は解除された。これがカノッサの屈辱ですね。しかしこれで引き下がるハインリッヒではない。すぐに体制を整えて、反対諸侯を鎮圧し、その勢いでローマに入り、1085年、教皇を退位させた。こうしたいきさつから事は大きくなり、聖俗両権力の大闘争に発展しました。ようやく12世紀になり妥協は成立し、皇帝が俗権を、教皇が叙任権を保持することに決まった。以後皇帝の「帝国教会」支配は弱まり、聖俗諸侯勢力の台頭が顕著となり、皇帝の権力は後退することになりました。
ローマ教皇は、教皇権の更なる強化をもくろみ、セルジューク朝トルコの侵入により聖地エルサレムを奪われたビザンツ帝国から救援要請の来ていた機を利用して、1095年クレルモンで公会議を開き、熱狂的に聖地奪回を訴えた。この野心家教皇の名演説に乗せられて、1096年第1回の十字軍は出発した。5000人もの従軍慰安婦(娼婦)を伴った大遠征軍は、聖戦とは言えないような4万人のイスラム教徒の大虐殺と略奪を行った。その後エルサレムを互いに奪還しあい、結局第7回(1270年)迄続き、200年にわたった十字軍の熱狂は失敗に終わった。結局終わってみれば、ビザンツ帝国は衰退し、教皇権は失墜し、無理な遠征により諸侯・騎士は没落し、王権が回復し、兵士の輸送に携わったベネツィアやジェノヴァなどのイタリア諸都市が、イスラム商人との東方貿易などで成長する結果となった。
失敗続きで教皇の権威は地に落ち、カノッサの屈辱から220年、今度は教皇ポニファティウス8世が、サンピエトロ教会に詣でるものは贖宥 (罪の許し) を与えるとか、フランス国内の教会領への課税を巡ってフィリップ4世と対立するなど教皇権の絶対性を主張したが、1303年フィリプによりローマのアニーナで捕らわれた。これをアニーナ事件と言い、教皇権の失墜を象徴する出来事だった。正に「アニーナの屈辱」ですね。だがそれだけでは済まず、1309年、フランス王フィリップ4世は、フランス人でボルドー司教だったクレメンス5世がローマ教皇の時、圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させた。それ以後、1377年まで約70年間、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなる。このことはバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」とか、「教皇のアヴィニヨン捕囚」といわれる。英仏の百年戦争が長引いた原因の一つとされている。なぜなら、当時の国家間のもめごとは、ローマ教皇が調停するのが一般だったから。
ともあれ失敗ではあっても十字軍は、ヨーロッパという団結意識を芽生えさせたということは大きかったのではないでしょうか。
〈都市のネットワークとゴシック教会・11〜12世紀〉
10〜11世紀ごろから、封建制度も安定し、荘園内の生産も増大し、開墾と移住が行われ、人口は増加し、各地に余剰生産物の定期市が開かれるようになった。ヴァイキングなどの商業活動などで貨幣の使用も進み、十字軍の遠征や、モンゴル帝国(後述)が作ったユーラシア圏の交易網とともに、内陸部には道路が切り開かれ、教会の儀式や貴族の生活に欠かせない葡萄酒や毛織物も取引された。又海のネットワークも広がりつつあり、中国沿岸から東南アジア・インド・ペルシャ湾に至る海の道を活用して中国・イスラム商人は活発な交易をおこなった。ヨーロッパでは南(地中海から黒海)、北(バルト海からロシア)のネットワークに乗って商業が発達し、各地に「都市」を生み出しました。「祈る人」「戦う人」働く人」に「儲ける人(商人・ブルジョワ)」が加わって、近世への道が開かれるのです。
商人が加わって何が変わったのでしょうか。
それは「商人が都市に定住し、〈上下の従属〉でなく、〈誓約〉や〈契約〉という概念により人間関係を横に開くことで、従来の身分の構造を変えていった(54)」ことが挙げられます。これら商人や職人たちが横に繋がり、親方たちに対抗し、「ギルド(商人や手工業者の組合・市場独占と相互扶助で都市の自治を支えた)」を組織し、幾重にも構造化された共同体のブロックを作り、やがては都市全体が領主に対抗する「都市同盟」にまで至るのです。根底に托鉢修道会や聖母マリア信仰を精神的支柱としながら、都市の母体を形成したのです。
地中海ではベネチア、ジェノヴァ、ピサなどで東方貿易が、内陸のミラノやフィレンツェでは毛織物や金融業が、北海・バルト海では北ドイツのハンブルク、ブレーメン、フランドル地方のアントワープ、イギリスのロンドンなどが、木材・海産物・塩・穀物などの生活必需品の商いで栄えた。北のリューベック・ハンブルグを中心とした都市同盟である「ハンザ同盟」は、最盛期には100以上の都市が参加した都市同盟で、皇帝や諸侯の軍事的圧力に対抗し共同利益を確保した。
こうした中で、やがて12世紀から13世紀に入り異教文化プンプンのゴシック(55)時代が到来するのです。
「都市に立つ教会は大きく・高くなり、修道会は外に出て民衆の中に入り、キリストの教えを托鉢して説くように」なる。最後の審判で問われる罪を購っておきたい商人や農村からの移住者の免罪を求める意識と、その為に天国入りをとりなしてくれるはずである「赦し」の聖母マリア信仰も、本来のキリストの意志(父性)に反した異教から始まったにせよ、時代の恐怖がその勢いを増し、やむない教会の承認を得るまでになります(56)。同時に彼らは教会建設に惜しみなく富を寄贈しました。
又、十字軍の成果もはかばかしくなく、諸侯も力尽きて、教会の権威が危うくなってくるにつれ、司教も国王もそれぞれの思惑で、権威を欲しがり、且つそれが失われることへの恐れから、象徴としての荘厳な教会建築に熱心になっていったのです。こうして、「畏敬の内に待たれていた、世の終わり(ミレニアム)もついには訪れず、中世のルネッサンスという時代(57 )」に入っていきます。
〈百年戦争・1339〜1453年〉
イギリス人とフランス人は互いに、フランスのオンドリ野郎、イギリスのブルドックとののしり合うほど、仲が悪い。14世紀初め、イギリスのプランタジネット朝の王はフランスの西半分を支配する(今のパリも含まれていた)大貴族で、フランスのカペー朝との対立が強まっていた。両国は毛織物の産地フランドル地方とワインの産地ギュイエンヌ地方を欲しがって対立しており、1339年イギリス王エドワードの母がカペー朝の出身であるとし、フランスに攻め込んだ。これが1453年迄続いた百年戦争の始まりです。フランス内部がイギリス国王派とフランス国王派に分かれた為、フランス本土を戦場とする戦争がイギリス優位に続いていました。もうイギリスの勝利が確信された最終局面で、神のお告げを受けたというオルレアンの17歳の娘が、フランスを救った。彼女の名前はジャンヌダルクといった。彼女は甲冑に身を固め、白馬にまたがり、聖母マリアに王室の花ユリをちりばめた軍旗を掲げ、フランス軍の指揮を高め、愛国心を鼓舞して形勢逆転させた。1430年ブルゴーニュ派に囚われ、イギリス軍に引き渡され、宗教裁判にかけられ「魔女」としてルーアンの広場で処刑されたが、フランス軍の勢いは衰えず、1453年イギリス軍がカレーを除いたドーバー海峡より北に撤退し百年戦争は終わりました。
〈ジャンヌダルク現象〉
このままでは、何かこのジャンヌダルクの話には、隠されたものがありそうで納得がいきません。どうやら、残された裁判記録から、ジャンヌダルクは普通の少女だったという、友人の言葉などから見えてきます。勿論軍事訓練など受けた様子もなければ、実際に戦いに加わったという様子も芝居がかってはっきりしません。この現象を理解するには「英仏百年戦争」という言葉から疑問を持つ必要がありそうです。この名は近代になって後からつけられた言葉であり、フランスという国とイギリスという国の戦いではなかったようです。あの場所に領地を持つ諸侯たちの領地獲得或いは継承戦争に過ぎず、フランス人同士の戦いであったようです。こうした争いの中から「愛国精神」「国民国家」の意識が芽生え、結果としてフランスという国が出来上がったのだと捉えるのが良いようです。中世の人間で幻覚を見ないものなどいなかったといわれるように、「神の声」は誰にでも聞こえていた。彼女が特殊なのではなかった。彼女が強かったのではなく、あちこちで戦いは起きていたが、それと同じ以上にあちこちで皆休んでいた。当時の騎士は1年に40日程度の従軍義務しかなかったし、そういう軍人を使って戦争をしていたのだから、近代戦から見れば、スカスカだったわけです(長期化した原因の一つもそこにあります)。村全体の、或いは領地全体参加の芝居の行列がすり抜けることもできたでしょう。噂が噂を呼び、「こうあってほしい」期待の方が、事実を上回って人々が動いた。危機に際して愛国心があのような形を作ったとしか考えられません。何の力もない田舎の少女という設定こそ、神がかりに真実味を加え、一気にドラマは作られていったでしょう。「国民国家」の発想をヨーロッパ中に植え付けたナポレオンが、ジャンヌダルクを発見したということもうなずけます。それまでは誰も特に取り上げてはいない。彼は自己を正当化するいい材料を見つけた。フランスでは、国家が窮地に陥ると、国民の中から救世主が出て必ず国家を救うものだとし、自分とジャンヌ・ダルクを重ねて、ナショナリズムに訴えた。結局情報を検証する通信網もろくなものがなく、都合のいい情報だけが独り歩きできるあの時代だからこそ、神話は、芝居は実演できたのであって、嘘でできていようが、何でできていようが、愛国心に一本化されたからこそ勝てたのです。操り人形にされた彼女の憐れさが残ります。勿論この戦いによって没落した諸侯や騎士たちや、何の仲裁もできず戦いを長期化させた教皇も権威を失墜し、国王による中央集権が強まり「国家」といわれるものが誕生するのです。戦場とならなかったイギリスも、貴族同士の内乱であるバラ戦争(1455〜85)が勃発し、最後に残ったチューダ朝の下で王権が強まりました。大砲が普及して、地方の領主は城塞補強程度では、身を守れなくなったことも大きかったようです。
〈ヨーロッパ中世とは何だったのか〉
長くヨーロッパ中世を巡ってきましたが、結局のところ中世とは何だったんでしょうか。それはこれまでの話で、決して暗黒時代とひとくくりにできるような時代ではなく、まして世界史の発展段階としての中世などではなく、別のタイプの世界システムが存在していたことはお分かりいただけたと思います。
中世のこころは、一言でいえば「自己を低めようとした時代」だったと饗庭孝男さんは言います。それは、「クローデルが、アンドレ・ジイドに向かって「山は遠くにあるとき、人はおのれと同じ高さだと思うが、山に近づくに従って、おのれが如何に低い、小さな存在であるかを知ることができる」と述べたことばに例えられる(58)」という。
神護寺だったろうか、学生のころ冬休みを利用して、京都の友人に案内されて山の寺(寺は皆、浜にあろうと山ですが)に向かったことがありました。曲がりながら上がる長い道を、黙々と踏みしめていく中で、覆い繁る木々の下で、自然との交感が為されたのか肉体的な疲労感も手伝って、先ほどまで思いめぐらしていた雑念は、山の真厳な霊気に洗われ、ただひたすら自分が物のように感じられ、何物でもなくなるという不思議な体験を味わいました。境内を過ぎて本堂に赴いたとき、唯々素朴で神々しい雰囲気に打たれるのみでした。翌日その友人の紹介で、お会いした司馬さんにそのことを話したら、真剣に聞いていただき、黙ってうなずいておられた。印象的な瞬間だった。そのあと、定かではないが、恐らくこのクローデルの言葉と推測されるお話をしていただいたように記憶している。
長くなりましたが、中世が自己を低めようとした時代であるならば、近世(ルネサンスから)は、(無邪気な)自己を高めようとした時代といえるでしょう。そして古代はといえば、未だ「こころ」が(自己というものが)なかった時代だといえると思います。
「自己を低めることは敬虔であり畏れである。その心が美しいものをつくるのである(59)」。中世の芸術家は作者個々の名前を作品に刻んでいません。「無名の自覚によって自己の術が生き、それが自ずから教会を支えることになる・・彼らは自分の名前が刻まれることを、後の世に残ることを望まなかった。人に呼ばれ(称賛され)、伝えられる名前が何であろうか。唯、夜と闇の中で、たった一人神と向かい合った時、神が彼を呼ぶ名前を持ちさえすればよかったのである(60)」
彼らはアルティスト(芸術家)ではなくアルティザン(職人)という意識で共同体の為に生きたのす。これらはみな中世の職人のこころを表した言葉ですが、農民たちのこころも神(光)や大地に対し同様の敬虔を持ち合わせていました。「祈る人」を含め、彼らがこのように教会や修道院を支え、社会や都市の底辺を固め、政治的には為すがままの服従でもなく、さりとて妙な色気を出すでもなく、聖なるものに心が向いていたからこそ、中世は政治的な主体に、思うがままにさせず(専制を許さず)、皇帝と教皇の2つの中心を巧みにコントロールし、多様性をもたらしたのでした。この多様性は、封建制の主従関係(べらぼうな数の主君に仕える家臣はよくいた)おいても、皇帝と諸侯との間(多数の王に仕える諸侯は珍しくなかった)においても、領主と司教と国王との裁判権においても(すべてが裁判権を持つと主張しあったり)見られた。政治的には中央集権の求心力ではなく、個々の多様性が力を持った遠心力の働いた時代だったと思います。
近代的な見方、見える化になれた我々の目には、領土の境もはっきりしない、敵見方もはっきりしない、国家間の主権平等などという当然な考えも持たない、わかりにくく重層的な世の仕組みは曖昧で我慢できないのかもしれませんが、これが中世の仕組み(61)なんです。
世俗的な欲望を何重にも分散させているのです。戦いは、大規模であっても私戦であって、公私の区別はない。政治的に一言でいえば権威と権力の分離といってしまえばそれでおしまいなのですが、それすらも一律ではなく多様なのです。十字軍の失敗などを契機に興った教皇権の失墜、諸侯の没落、或いは商人の勢力拡大は、王の権力拡大につながり、中世は終わりを告げ、「自己を高める」アルティストや豪商(メディティ家)や国王の闊歩する「合理的で求心的な」近世が、ルネサンスが、国家が、公式の正当化された戦争が始まります。
注53) 帝国教会政策
各地の豪族に対抗して帝権を強化するため,司教や修道院に領土,裁判権,関税権などを(皇帝が)与えてこれを皇帝権の有力な支柱にしようとした。
注54) 饗庭孝雄「知の歴史学」新潮社1997年10月P174
注55) ゴシック様式
ゴシック様式は(ロマネスクのところで少し述べましたが、壁の厚さで重量を維持するロマネスク様式では、高さに限界があり、都市に、開墾されてしまった嘗ての森を建物で復活させることはできません)、ヨーロッパの、失われた森の象徴・石の森でもあります。ロマネスクの建築上の限界を克服したのが、「オジーヴ」と呼ばれる尖塔アーチと、「リブ・ヴォールト」と呼ばれるヴォールト(曲面天井)を補強する局面に沿った補材と、「フライイング・バットレス」と呼ばれる、ヴォールトを支える柱を強化し教会堂を力学的に支える為に建物外側に張り出した支柱構造の3つです。これらを基礎にしてゴシック建築は、天に向かって上昇していくのです。この上昇感がゴシックだといわれます。音楽においても、ノートルダム楽派の人たちが、上下2種のポリフォニー(*)が、対応し、下声が伴奏するその上を、自由なリズムを持った旋律が急速に上昇していく高揚感がゴシックらしさを醸しだします。こうして神秘的で天国にまで届こうかという高さとなり、そして薄く抑えられた壁面に作られた高窓(ステンドグラス)が、(ロマネスク時の)壁画の代わりになり、光を取り入れ、より美しく、装飾的になる。ステンドグラスにはあらゆる職業(ギルド)が教会建設の為に奉仕したことを示す、働く様子が描かれます。壁面の制約で窓を大きく取れなかった初期キリスト教やビザンツ建築では、ガラス・大理石・色のある石などをはめ込んで、セメントで固め、きらきらと光る石で「神の国」を表現・象徴したモザイクが、キリスト教の教義を教えるために多用されましたが、西ヨーロッパでは、ゴシック様式が発案されるとステンドグラスがこれに代わったのです。どちらも「光の形而上学」であり、土俗的にあった太陽信仰を、異なった物質により表し且つ思想的・宗教的に(キリスト教的に)変えていく絵画空間を作り出したわけです。
ゴシックの最も特徴的なことは、聖書の情報を建築上に立体化しようとしたことだと、ラスキンは述べました。またこれは思想上のスコラ哲学(**)に対応するとも言われます。まことにその通りなのですが、これらは知識人側から見た見解だと思います。実際のゴシック教会はもっと妥協的というかヨーロッパお得意の、2点を中心とする楕円構造を持つ思想でした。
1点はラスキンの言うように聖書の情報が詰められた世界のキリスト教の殿堂でありステンドグラスの光に代表される装飾や典礼が天井の神を肯定するのに対し、もう一方では、「大聖堂は在俗の布教機関であり、・・圧倒的多数の表面的キリスト教徒に妥協せざるを得なかった。・・聖母信仰、巨木(森)崇拝、苦悩のイエス像への偏愛、政体崇拝熱、道化の祭り、ポリフォニー聖歌、怪物図像、こうした異教とキリスト教の二重性を帯びた雑多な要素が共存していた。堂内の途方もない高みから降ってくる絶対的カリスマ的光輝に包まれており、キリスト教の非物質的神性と異教の物質的聖性の二重構造のうちにあった(***)」のです。中世の大半の人は、難しい理屈よりも、目の前に尋常でない高さから「神の似姿」を見せつけられ、ステンドグラスで視覚的効果をとることで、或いは「グレゴリオ聖歌に代表されるような単声音で世界を捉えるモノフォニーから、異なった音が同時に調和して発せられる数的比率で人体の動きや宇宙の調和(****)」を捉えるポリフォニーに変化して、神との遭遇体験をより効果的に高めることで、この世の支配者の存在を実感したのです。ポリフォニーの発想はやがてオーケストラに繋がります。中世の森に拡がる悪霊や野生動物たちの叫び声に対抗して鐘をガンガン鳴らしていた人たちが、又都市の住人となっては職人の仕事の歌や教会の鐘の音や物売りの声など様々な音がまじりあって交差する世界に暮らしていた人たちが、それぞれの階級にふさわしい天上の音の世界に憧れて「選別されたいい音」を作り出したのがオーケストラ(管弦楽団)の音でした。
又スコラ哲学にしても、大聖堂がこの哲学を具現しようとしたものというより、同時並行的に進められたもので、この時代が聖も俗も同じ方向を向いていたことの証ではないでしょうか。
フランスの大聖堂は1つとして完成したことがないと学者は言う。それは高さへの限りない希みにあり、調和に満足せず、より一層の高さを希求したことによる。それは現実の高さばかりか俗物的な物質性も同時に発展させて(二重構造)、当時「発狂したピラミッド」と揶揄されたパリのエッフェル塔や、眼球を頂くトウモロコシの塔とも、既に風化が始まっているにも拘わらず完成しない、醜悪で野暮ったいサクラダ・ファミリア聖堂に繋がっている。異教との混在は、多様性の容認と共に現代にまで続いているのです。
(*)ポリフォニー
多声音楽あるいは複音楽と訳され,多声性の一形態を指す。古代ギリシア語のpolys(多くの)とphōnē(音,声)を語源とする。音楽は純粋な単旋律であるモノフォニーと,複数の音が同時的に鳴らされる多声的な音楽とに大別される。後者は多声性(あるいは多音性)という概念で総括されるが,これにはポリフォニー,ホモフォニー,ヘテロフォニーなどが含まれる。いずれも音の水平的連続(旋律)と垂直的な響き(和音)から成り立つことで共通しているが,ポリフォニーは,とくに複数の声部が互いに独立的に進行し,横の線的な流れに重点が置かれるような音楽あるいはその作曲様式をいう。(世界大百科事典)
13世紀前半にノートルダム大聖堂が、ゴシック様式に改築された時代にポリフォニーは発展し、民衆の押し寄せる祝日のミサ曲に歌われるようになった。後にノートルダム楽派と呼ばれるようになる。今、その楽派のマショーという作曲家の「ノートルダムミサ曲」を聞いています。以前ご紹介したモノフォニー(単声)のグレゴリオ聖歌などと違い、音価(音符や休符の支配する長さ)の分割を増やしたり、自由なリズムを採用したり、3度・6度を重視した和声、半音階の効果的使用など重層的に組み立てたものらしく(専門的なことは判りませんが)、より荘厳さを増す中、異様なというか自由な構成で、且つ一人で(個人で)通作し名を遺したことといい、後のルネサンスやバロックを予感させる曲です。
(**)スコラ哲学
スコラ学は、信仰と知の調和を目指す学問だが、実際には勉学に裏付けられた民衆への説教活動に重点が置かれた。スコラ学の不滅の教典、トマス・アキナスの「神学大全」はアラビア語として辛くも保存されていたアリストテレスを翻訳し、その哲学的概念と推論形式を応用し、堅固な三段階論法(弁証法)によって、既存の神学上の知識を整理して見せ、権威ある結論を得た。
スコラ学で中心的な課題となったのが「普遍論争」というものだった。たとえば「ポチは犬である」といった場合、ポチは個であり、犬は普遍である。そのような、「犬」とか、「動物」といったものは実際に存在するのかどうか、という論争だった(「普遍」とは「個」に対する概念)。
まずスコラ学の父・イギリスのアンセルムスは、「普遍は実在性をもち、個に先だって存在する」と主張し、実在論を説いた。これに対し「普遍はたんなる名辞に過ぎず、ただ個のみが実存する(普遍は個の後ろにある)」という唯名論(ノミナリズム)が主張され「普遍論争」が展開された。普遍って、プラトンの「イデー」のことですね。トマス=アクィナスは「実在論」の立場にたってスコラ学を体系づけ、神を普遍的な存在として実存するという思想としてローマ=カトリック教会における正統派とされた。しかし、14世紀にはウィリアム=オッカムなどの「唯名論」が復活し、観念的な思考を廃して観察や実験によって真理を探究する近代思想の萌芽につながっていく。中世の後退ですね。
(***)酒井健「ゴシックとは何か」講談社新書2000年1月P90〜91
(****)阿部勤也「中世賎民の宇宙」ちくま学芸文庫2007年2月P339
シャルトル大聖堂(内部)
注56) 明治日本で、キリストの強い父性だけでは人間は救われない、と最初に気づいたのが、芥川龍之介でした。明治の知識人が目覚めた日本独特の「近代」というものの解釈の源泉は、内村鑑三に代表される禁欲的な人格主義と、親鸞の「歎異抄」解禁による人間(肉)解放の2つの大きな流れでした。親鸞には女犯を宿報として許容する思想(女犯偈)がありますが、通じるところは同じですがマリア信仰とは少し違います。
芥川は、同じ救済の思想でも、人を厳しい姿勢で引っ張ってくれるキリストだけではなく、聖母マリア・「赦す」存在としての慈悲のこころも無ければ人は救われないことに気付いたのです(*)。
ミケランジェロの遺作といわれる「ピエタ像」は、人類の生み出した彫像の最高傑作だと私は思っています。未完の作品ですが、ぴったり焦点は合っていると思います。これ以上何を加える(削る)必要があるのでしょうか。加えれば加えるほど、この奇跡のような「出現」から遠ざかってしまいます。
(ピエタはイタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意味です。またピエタ像とは、磔刑にされ十字架から降ろされた我が子イエス・キリストの亡骸を腕に抱き、別れを告げる聖母マリアを描いた彫刻です。)
ミラノ・スフォルツァ城博物館
(*)饗庭孝雄「ヨーロッパとは何か」小沢書店p19
注57) 饗庭孝雄「ヨーロッパ古寺巡礼」新潮社p33
中世ルネッサンス〜
十字軍派遣によって、西洋文化とイスラム文化が交じり合ったことは以前説明しました。ですがビザンツ帝国・イスラムを通じて、ギリシャ文化も取り入れたことが12世紀ルネサンスといわれる所以なのです。(イスラムではビザンツ帝国やムセイオンを通じて、ギリシャ文化がもたらされていりましたが、そのギリシャ文化が、十字軍派遣を通してイスラム文化圏から西欧文化圏へと逆輸入されたということです。)
ギリシャ文化は、アレクサンドロス大王がアレクサンドリア市のムセイオンという大規模研究所で研究を進めさせました。後にアレクサンドリアはイスラム勢力に取り込まれますが、イスラムはギリシャ文化を保存したのです。西欧キリスト教はアンチ・ギリシャでしたね。ところが十字軍遠征がキッカケで、イスラム文化・ギリシャ文化に刺激されて西欧世界では、多数のギリシャ語文献がラテン語へと翻訳されました。こうして、「学ぶ」ことへの気運が高まり中世ヨーロッパで初の大学が生まれます。最古の大学はイタリアのサレルノ大学(医学)、他にも法学のボローニャ大学、神学のパリ大学が誕生します。更には、トマス・アクィナス(パリ大学)は、スコラ学の普遍論争を実在論(普遍的概念こそ真の実在とする)の立場から擁護し、この論争を終結に向かわせます(「神学大全」)。彼はアリストテレス的な自然現象と神(プラトンの「イデア」のような普遍的な存在)の両者を結びつけました。具体的には、「運動には必ず動かし手」がいる。そして、太陽や月が地球を中心に廻っているのは、天の彼方に「神」がいるからだ、と証明(?)した。理屈じゃないんです。人々の「希望」を代弁したんです。それは三位一体の考えと同じです。後には実在論に対抗した唯名論(個物だけが存在し、普遍概念は、それらの共通性に与えられた名前や記号としてのみ存在する)的考え方が、信仰と哲学・科学の分離を促し、自然科学の発達に繋がった。どちらが正しいなんて争うこと事体が間違いの始まりなんです。現代は後者に偏り過ぎて見えない不幸を数多く生んでいます。フランス革命を冷静に分析したバークリーの、どちらにも偏り過ぎない、バランスをとれるこころの自由をいつも忘れないようにしたいものです。竜樹の「中庸」も同じです。
この12世紀ルネサンスが14〜16世紀にメディチ家などの大商人たちのバックアップで、イタリア諸都市・市民の間に、ローマ文化を含めて広まったのがいわゆる「ルネッサンス」です。時代は中世を脱しつつあり、個人・市民の横のつながりが、主役に躍り出る近世に向かっていました。キリスト教から見れば、異教的によそ見(浮気)をした時代ということになります。
注58) 饗庭孝男「中世を歩く」小沢書店1994年3月P8
注59) 同p11
注60) 饗庭孝男「石と光の思想」平凡社ライブラリー1998年11月p96
注61) 中世の仕組み
それでも、問答無用の暴力は、直ちには防げません。犠牲を伴う、時間の解決に頼るしかないのです。小競り合いも、大規模な戦争もありました。宗教的恐怖もありましたし、何より暮らしは貧しかった。
「権力」を象徴する神聖ローマ皇帝と「権威」を象徴するローマ教皇が牽制しあっていた、といえば聞こえはいいが、それは制度上のことで実際はそれぞれに揺れ動いて浮き沈みを繰り返していた。権力や権威がしっかりしていなければ、個人は孤独と向き合い、しっかりとした人格を持とうとする。「敬虔」と「畏れ」を知る人間になりやすい。逆に、ナポレオンから始まる国民国家がしっかりしてきた近代では、市民が自己を高めると言えば聞こえはいいが、国家に心の不安(苦悩)を預けてしまい、飼い馴らされて、「敬虔」も無ければ「畏れ」も忘れた堕落人間に成り下がったともいえる。松岡正剛さんがどこかで言われていた「政治は議員に預け、法律は弁護士に預け、食事はレストランに預け、笑いはタレントに預け」、旅(巡礼)は、感動の仕方までも含めツアー会社に預ける近代はすぐそこに来ています。
〈皇帝と教皇1077〜12世紀〉
8世紀から10世紀までのヨーロッパは、絶えずノルマンなどの異民族からの侵略に脅かされており、そこから土地と身を守るために城塞都市がつくられます。この城を中心として中世の町は作られます。最下部は農民(働く人)、その上が騎士(戦う人))、そして僧侶(祈る人)という縦社会の封建制度が作られていきます。修道院は祈る人だけでなく働く人で、優れた精錬技術や羊毛技術も持ち合わせ、荒廃した農業の立て直しにも多大な貢献をしています。その修道会や教会の、国を越えたネットワークのトップに君臨したのがローマ教皇であり、諸侯や国王よりも大きな権威を持っていました。
そのことを証明したのが、有名なカノッサの屈辱と呼ばれる叙任権闘争です。
フランク王国が、843年のヴェルダン条約などを経て、カペー朝(フランス)、イタリア王国、神聖ローマ帝国(ドイツ)の3国に分裂し、「帝権はドイツに、教権はイタリアに、そして学芸はフランス(パリ)に」という3つの中心を持つユニークな文化圏となったことは既に説明しました。その神聖ローマ帝国の皇帝ハインリッヒ4世は、勝手にミラノ大司教や中部イタリアの司祭を任命してローマ教皇を無視する行動に出ます。これは彼の作戦(帝国教会政策)だったんです(53)。
おりから教会改革運動の中心にいたグレゴリウス7世(クリュニー修道院出身)は、聖職売買の禁止の罪として、ハインリッヒ4世を破門しました。教皇は国を越えたネットワークの長ですから、皇帝の中央集権化に反対する諸侯も多くおり、その諸侯と皇帝の対立を利用したのです。その反皇帝派諸侯がもし破門が1年以内に解かれないなら、皇帝は廃位すると決議したため、困り果てたハインリッヒは1077年、教皇の滞在するイタリアのカノッサ城を訪ね、雪の積もる城門の前ではだしで3日間立ち尽くして、ようやく破門は解除された。これがカノッサの屈辱ですね。しかしこれで引き下がるハインリッヒではない。すぐに体制を整えて、反対諸侯を鎮圧し、その勢いでローマに入り、1085年、教皇を退位させた。こうしたいきさつから事は大きくなり、聖俗両権力の大闘争に発展しました。ようやく12世紀になり妥協は成立し、皇帝が俗権を、教皇が叙任権を保持することに決まった。以後皇帝の「帝国教会」支配は弱まり、聖俗諸侯勢力の台頭が顕著となり、皇帝の権力は後退することになりました。
ローマ教皇は、教皇権の更なる強化をもくろみ、セルジューク朝トルコの侵入により聖地エルサレムを奪われたビザンツ帝国から救援要請の来ていた機を利用して、1095年クレルモンで公会議を開き、熱狂的に聖地奪回を訴えた。この野心家教皇の名演説に乗せられて、1096年第1回の十字軍は出発した。5000人もの従軍慰安婦(娼婦)を伴った大遠征軍は、聖戦とは言えないような4万人のイスラム教徒の大虐殺と略奪を行った。その後エルサレムを互いに奪還しあい、結局第7回(1270年)迄続き、200年にわたった十字軍の熱狂は失敗に終わった。結局終わってみれば、ビザンツ帝国は衰退し、教皇権は失墜し、無理な遠征により諸侯・騎士は没落し、王権が回復し、兵士の輸送に携わったベネツィアやジェノヴァなどのイタリア諸都市が、イスラム商人との東方貿易などで成長する結果となった。
失敗続きで教皇の権威は地に落ち、カノッサの屈辱から220年、今度は教皇ポニファティウス8世が、サンピエトロ教会に詣でるものは贖宥 (罪の許し) を与えるとか、フランス国内の教会領への課税を巡ってフィリップ4世と対立するなど教皇権の絶対性を主張したが、1303年フィリプによりローマのアニーナで捕らわれた。これをアニーナ事件と言い、教皇権の失墜を象徴する出来事だった。正に「アニーナの屈辱」ですね。だがそれだけでは済まず、1309年、フランス王フィリップ4世は、フランス人でボルドー司教だったクレメンス5世がローマ教皇の時、圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させた。それ以後、1377年まで約70年間、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなる。このことはバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」とか、「教皇のアヴィニヨン捕囚」といわれる。英仏の百年戦争が長引いた原因の一つとされている。なぜなら、当時の国家間のもめごとは、ローマ教皇が調停するのが一般だったから。
ともあれ失敗ではあっても十字軍は、ヨーロッパという団結意識を芽生えさせたということは大きかったのではないでしょうか。
〈都市のネットワークとゴシック教会・11〜12世紀〉
10〜11世紀ごろから、封建制度も安定し、荘園内の生産も増大し、開墾と移住が行われ、人口は増加し、各地に余剰生産物の定期市が開かれるようになった。ヴァイキングなどの商業活動などで貨幣の使用も進み、十字軍の遠征や、モンゴル帝国(後述)が作ったユーラシア圏の交易網とともに、内陸部には道路が切り開かれ、教会の儀式や貴族の生活に欠かせない葡萄酒や毛織物も取引された。又海のネットワークも広がりつつあり、中国沿岸から東南アジア・インド・ペルシャ湾に至る海の道を活用して中国・イスラム商人は活発な交易をおこなった。ヨーロッパでは南(地中海から黒海)、北(バルト海からロシア)のネットワークに乗って商業が発達し、各地に「都市」を生み出しました。「祈る人」「戦う人」働く人」に「儲ける人(商人・ブルジョワ)」が加わって、近世への道が開かれるのです。
商人が加わって何が変わったのでしょうか。
それは「商人が都市に定住し、〈上下の従属〉でなく、〈誓約〉や〈契約〉という概念により人間関係を横に開くことで、従来の身分の構造を変えていった(54)」ことが挙げられます。これら商人や職人たちが横に繋がり、親方たちに対抗し、「ギルド(商人や手工業者の組合・市場独占と相互扶助で都市の自治を支えた)」を組織し、幾重にも構造化された共同体のブロックを作り、やがては都市全体が領主に対抗する「都市同盟」にまで至るのです。根底に托鉢修道会や聖母マリア信仰を精神的支柱としながら、都市の母体を形成したのです。
地中海ではベネチア、ジェノヴァ、ピサなどで東方貿易が、内陸のミラノやフィレンツェでは毛織物や金融業が、北海・バルト海では北ドイツのハンブルク、ブレーメン、フランドル地方のアントワープ、イギリスのロンドンなどが、木材・海産物・塩・穀物などの生活必需品の商いで栄えた。北のリューベック・ハンブルグを中心とした都市同盟である「ハンザ同盟」は、最盛期には100以上の都市が参加した都市同盟で、皇帝や諸侯の軍事的圧力に対抗し共同利益を確保した。
こうした中で、やがて12世紀から13世紀に入り異教文化プンプンのゴシック(55)時代が到来するのです。
「都市に立つ教会は大きく・高くなり、修道会は外に出て民衆の中に入り、キリストの教えを托鉢して説くように」なる。最後の審判で問われる罪を購っておきたい商人や農村からの移住者の免罪を求める意識と、その為に天国入りをとりなしてくれるはずである「赦し」の聖母マリア信仰も、本来のキリストの意志(父性)に反した異教から始まったにせよ、時代の恐怖がその勢いを増し、やむない教会の承認を得るまでになります(56)。同時に彼らは教会建設に惜しみなく富を寄贈しました。
又、十字軍の成果もはかばかしくなく、諸侯も力尽きて、教会の権威が危うくなってくるにつれ、司教も国王もそれぞれの思惑で、権威を欲しがり、且つそれが失われることへの恐れから、象徴としての荘厳な教会建築に熱心になっていったのです。こうして、「畏敬の内に待たれていた、世の終わり(ミレニアム)もついには訪れず、中世のルネッサンスという時代(57 )」に入っていきます。
〈百年戦争・1339〜1453年〉
イギリス人とフランス人は互いに、フランスのオンドリ野郎、イギリスのブルドックとののしり合うほど、仲が悪い。14世紀初め、イギリスのプランタジネット朝の王はフランスの西半分を支配する(今のパリも含まれていた)大貴族で、フランスのカペー朝との対立が強まっていた。両国は毛織物の産地フランドル地方とワインの産地ギュイエンヌ地方を欲しがって対立しており、1339年イギリス王エドワードの母がカペー朝の出身であるとし、フランスに攻め込んだ。これが1453年迄続いた百年戦争の始まりです。フランス内部がイギリス国王派とフランス国王派に分かれた為、フランス本土を戦場とする戦争がイギリス優位に続いていました。もうイギリスの勝利が確信された最終局面で、神のお告げを受けたというオルレアンの17歳の娘が、フランスを救った。彼女の名前はジャンヌダルクといった。彼女は甲冑に身を固め、白馬にまたがり、聖母マリアに王室の花ユリをちりばめた軍旗を掲げ、フランス軍の指揮を高め、愛国心を鼓舞して形勢逆転させた。1430年ブルゴーニュ派に囚われ、イギリス軍に引き渡され、宗教裁判にかけられ「魔女」としてルーアンの広場で処刑されたが、フランス軍の勢いは衰えず、1453年イギリス軍がカレーを除いたドーバー海峡より北に撤退し百年戦争は終わりました。
〈ジャンヌダルク現象〉
このままでは、何かこのジャンヌダルクの話には、隠されたものがありそうで納得がいきません。どうやら、残された裁判記録から、ジャンヌダルクは普通の少女だったという、友人の言葉などから見えてきます。勿論軍事訓練など受けた様子もなければ、実際に戦いに加わったという様子も芝居がかってはっきりしません。この現象を理解するには「英仏百年戦争」という言葉から疑問を持つ必要がありそうです。この名は近代になって後からつけられた言葉であり、フランスという国とイギリスという国の戦いではなかったようです。あの場所に領地を持つ諸侯たちの領地獲得或いは継承戦争に過ぎず、フランス人同士の戦いであったようです。こうした争いの中から「愛国精神」「国民国家」の意識が芽生え、結果としてフランスという国が出来上がったのだと捉えるのが良いようです。中世の人間で幻覚を見ないものなどいなかったといわれるように、「神の声」は誰にでも聞こえていた。彼女が特殊なのではなかった。彼女が強かったのではなく、あちこちで戦いは起きていたが、それと同じ以上にあちこちで皆休んでいた。当時の騎士は1年に40日程度の従軍義務しかなかったし、そういう軍人を使って戦争をしていたのだから、近代戦から見れば、スカスカだったわけです(長期化した原因の一つもそこにあります)。村全体の、或いは領地全体参加の芝居の行列がすり抜けることもできたでしょう。噂が噂を呼び、「こうあってほしい」期待の方が、事実を上回って人々が動いた。危機に際して愛国心があのような形を作ったとしか考えられません。何の力もない田舎の少女という設定こそ、神がかりに真実味を加え、一気にドラマは作られていったでしょう。「国民国家」の発想をヨーロッパ中に植え付けたナポレオンが、ジャンヌダルクを発見したということもうなずけます。それまでは誰も特に取り上げてはいない。彼は自己を正当化するいい材料を見つけた。フランスでは、国家が窮地に陥ると、国民の中から救世主が出て必ず国家を救うものだとし、自分とジャンヌ・ダルクを重ねて、ナショナリズムに訴えた。結局情報を検証する通信網もろくなものがなく、都合のいい情報だけが独り歩きできるあの時代だからこそ、神話は、芝居は実演できたのであって、嘘でできていようが、何でできていようが、愛国心に一本化されたからこそ勝てたのです。操り人形にされた彼女の憐れさが残ります。勿論この戦いによって没落した諸侯や騎士たちや、何の仲裁もできず戦いを長期化させた教皇も権威を失墜し、国王による中央集権が強まり「国家」といわれるものが誕生するのです。戦場とならなかったイギリスも、貴族同士の内乱であるバラ戦争(1455〜85)が勃発し、最後に残ったチューダ朝の下で王権が強まりました。大砲が普及して、地方の領主は城塞補強程度では、身を守れなくなったことも大きかったようです。
〈ヨーロッパ中世とは何だったのか〉
長くヨーロッパ中世を巡ってきましたが、結局のところ中世とは何だったんでしょうか。それはこれまでの話で、決して暗黒時代とひとくくりにできるような時代ではなく、まして世界史の発展段階としての中世などではなく、別のタイプの世界システムが存在していたことはお分かりいただけたと思います。
中世のこころは、一言でいえば「自己を低めようとした時代」だったと饗庭孝男さんは言います。それは、「クローデルが、アンドレ・ジイドに向かって「山は遠くにあるとき、人はおのれと同じ高さだと思うが、山に近づくに従って、おのれが如何に低い、小さな存在であるかを知ることができる」と述べたことばに例えられる(58)」という。
神護寺だったろうか、学生のころ冬休みを利用して、京都の友人に案内されて山の寺(寺は皆、浜にあろうと山ですが)に向かったことがありました。曲がりながら上がる長い道を、黙々と踏みしめていく中で、覆い繁る木々の下で、自然との交感が為されたのか肉体的な疲労感も手伝って、先ほどまで思いめぐらしていた雑念は、山の真厳な霊気に洗われ、ただひたすら自分が物のように感じられ、何物でもなくなるという不思議な体験を味わいました。境内を過ぎて本堂に赴いたとき、唯々素朴で神々しい雰囲気に打たれるのみでした。翌日その友人の紹介で、お会いした司馬さんにそのことを話したら、真剣に聞いていただき、黙ってうなずいておられた。印象的な瞬間だった。そのあと、定かではないが、恐らくこのクローデルの言葉と推測されるお話をしていただいたように記憶している。
長くなりましたが、中世が自己を低めようとした時代であるならば、近世(ルネサンスから)は、(無邪気な)自己を高めようとした時代といえるでしょう。そして古代はといえば、未だ「こころ」が(自己というものが)なかった時代だといえると思います。
「自己を低めることは敬虔であり畏れである。その心が美しいものをつくるのである(59)」。中世の芸術家は作者個々の名前を作品に刻んでいません。「無名の自覚によって自己の術が生き、それが自ずから教会を支えることになる・・彼らは自分の名前が刻まれることを、後の世に残ることを望まなかった。人に呼ばれ(称賛され)、伝えられる名前が何であろうか。唯、夜と闇の中で、たった一人神と向かい合った時、神が彼を呼ぶ名前を持ちさえすればよかったのである(60)」
彼らはアルティスト(芸術家)ではなくアルティザン(職人)という意識で共同体の為に生きたのす。これらはみな中世の職人のこころを表した言葉ですが、農民たちのこころも神(光)や大地に対し同様の敬虔を持ち合わせていました。「祈る人」を含め、彼らがこのように教会や修道院を支え、社会や都市の底辺を固め、政治的には為すがままの服従でもなく、さりとて妙な色気を出すでもなく、聖なるものに心が向いていたからこそ、中世は政治的な主体に、思うがままにさせず(専制を許さず)、皇帝と教皇の2つの中心を巧みにコントロールし、多様性をもたらしたのでした。この多様性は、封建制の主従関係(べらぼうな数の主君に仕える家臣はよくいた)おいても、皇帝と諸侯との間(多数の王に仕える諸侯は珍しくなかった)においても、領主と司教と国王との裁判権においても(すべてが裁判権を持つと主張しあったり)見られた。政治的には中央集権の求心力ではなく、個々の多様性が力を持った遠心力の働いた時代だったと思います。
近代的な見方、見える化になれた我々の目には、領土の境もはっきりしない、敵見方もはっきりしない、国家間の主権平等などという当然な考えも持たない、わかりにくく重層的な世の仕組みは曖昧で我慢できないのかもしれませんが、これが中世の仕組み(61)なんです。
世俗的な欲望を何重にも分散させているのです。戦いは、大規模であっても私戦であって、公私の区別はない。政治的に一言でいえば権威と権力の分離といってしまえばそれでおしまいなのですが、それすらも一律ではなく多様なのです。十字軍の失敗などを契機に興った教皇権の失墜、諸侯の没落、或いは商人の勢力拡大は、王の権力拡大につながり、中世は終わりを告げ、「自己を高める」アルティストや豪商(メディティ家)や国王の闊歩する「合理的で求心的な」近世が、ルネサンスが、国家が、公式の正当化された戦争が始まります。
注53) 帝国教会政策
各地の豪族に対抗して帝権を強化するため,司教や修道院に領土,裁判権,関税権などを(皇帝が)与えてこれを皇帝権の有力な支柱にしようとした。
注54) 饗庭孝雄「知の歴史学」新潮社1997年10月P174
注55) ゴシック様式
ゴシック様式は(ロマネスクのところで少し述べましたが、壁の厚さで重量を維持するロマネスク様式では、高さに限界があり、都市に、開墾されてしまった嘗ての森を建物で復活させることはできません)、ヨーロッパの、失われた森の象徴・石の森でもあります。ロマネスクの建築上の限界を克服したのが、「オジーヴ」と呼ばれる尖塔アーチと、「リブ・ヴォールト」と呼ばれるヴォールト(曲面天井)を補強する局面に沿った補材と、「フライイング・バットレス」と呼ばれる、ヴォールトを支える柱を強化し教会堂を力学的に支える為に建物外側に張り出した支柱構造の3つです。これらを基礎にしてゴシック建築は、天に向かって上昇していくのです。この上昇感がゴシックだといわれます。音楽においても、ノートルダム楽派の人たちが、上下2種のポリフォニー(*)が、対応し、下声が伴奏するその上を、自由なリズムを持った旋律が急速に上昇していく高揚感がゴシックらしさを醸しだします。こうして神秘的で天国にまで届こうかという高さとなり、そして薄く抑えられた壁面に作られた高窓(ステンドグラス)が、(ロマネスク時の)壁画の代わりになり、光を取り入れ、より美しく、装飾的になる。ステンドグラスにはあらゆる職業(ギルド)が教会建設の為に奉仕したことを示す、働く様子が描かれます。壁面の制約で窓を大きく取れなかった初期キリスト教やビザンツ建築では、ガラス・大理石・色のある石などをはめ込んで、セメントで固め、きらきらと光る石で「神の国」を表現・象徴したモザイクが、キリスト教の教義を教えるために多用されましたが、西ヨーロッパでは、ゴシック様式が発案されるとステンドグラスがこれに代わったのです。どちらも「光の形而上学」であり、土俗的にあった太陽信仰を、異なった物質により表し且つ思想的・宗教的に(キリスト教的に)変えていく絵画空間を作り出したわけです。
ゴシックの最も特徴的なことは、聖書の情報を建築上に立体化しようとしたことだと、ラスキンは述べました。またこれは思想上のスコラ哲学(**)に対応するとも言われます。まことにその通りなのですが、これらは知識人側から見た見解だと思います。実際のゴシック教会はもっと妥協的というかヨーロッパお得意の、2点を中心とする楕円構造を持つ思想でした。
1点はラスキンの言うように聖書の情報が詰められた世界のキリスト教の殿堂でありステンドグラスの光に代表される装飾や典礼が天井の神を肯定するのに対し、もう一方では、「大聖堂は在俗の布教機関であり、・・圧倒的多数の表面的キリスト教徒に妥協せざるを得なかった。・・聖母信仰、巨木(森)崇拝、苦悩のイエス像への偏愛、政体崇拝熱、道化の祭り、ポリフォニー聖歌、怪物図像、こうした異教とキリスト教の二重性を帯びた雑多な要素が共存していた。堂内の途方もない高みから降ってくる絶対的カリスマ的光輝に包まれており、キリスト教の非物質的神性と異教の物質的聖性の二重構造のうちにあった(***)」のです。中世の大半の人は、難しい理屈よりも、目の前に尋常でない高さから「神の似姿」を見せつけられ、ステンドグラスで視覚的効果をとることで、或いは「グレゴリオ聖歌に代表されるような単声音で世界を捉えるモノフォニーから、異なった音が同時に調和して発せられる数的比率で人体の動きや宇宙の調和(****)」を捉えるポリフォニーに変化して、神との遭遇体験をより効果的に高めることで、この世の支配者の存在を実感したのです。ポリフォニーの発想はやがてオーケストラに繋がります。中世の森に拡がる悪霊や野生動物たちの叫び声に対抗して鐘をガンガン鳴らしていた人たちが、又都市の住人となっては職人の仕事の歌や教会の鐘の音や物売りの声など様々な音がまじりあって交差する世界に暮らしていた人たちが、それぞれの階級にふさわしい天上の音の世界に憧れて「選別されたいい音」を作り出したのがオーケストラ(管弦楽団)の音でした。
又スコラ哲学にしても、大聖堂がこの哲学を具現しようとしたものというより、同時並行的に進められたもので、この時代が聖も俗も同じ方向を向いていたことの証ではないでしょうか。
フランスの大聖堂は1つとして完成したことがないと学者は言う。それは高さへの限りない希みにあり、調和に満足せず、より一層の高さを希求したことによる。それは現実の高さばかりか俗物的な物質性も同時に発展させて(二重構造)、当時「発狂したピラミッド」と揶揄されたパリのエッフェル塔や、眼球を頂くトウモロコシの塔とも、既に風化が始まっているにも拘わらず完成しない、醜悪で野暮ったいサクラダ・ファミリア聖堂に繋がっている。異教との混在は、多様性の容認と共に現代にまで続いているのです。
(*)ポリフォニー
多声音楽あるいは複音楽と訳され,多声性の一形態を指す。古代ギリシア語のpolys(多くの)とphōnē(音,声)を語源とする。音楽は純粋な単旋律であるモノフォニーと,複数の音が同時的に鳴らされる多声的な音楽とに大別される。後者は多声性(あるいは多音性)という概念で総括されるが,これにはポリフォニー,ホモフォニー,ヘテロフォニーなどが含まれる。いずれも音の水平的連続(旋律)と垂直的な響き(和音)から成り立つことで共通しているが,ポリフォニーは,とくに複数の声部が互いに独立的に進行し,横の線的な流れに重点が置かれるような音楽あるいはその作曲様式をいう。(世界大百科事典)
13世紀前半にノートルダム大聖堂が、ゴシック様式に改築された時代にポリフォニーは発展し、民衆の押し寄せる祝日のミサ曲に歌われるようになった。後にノートルダム楽派と呼ばれるようになる。今、その楽派のマショーという作曲家の「ノートルダムミサ曲」を聞いています。以前ご紹介したモノフォニー(単声)のグレゴリオ聖歌などと違い、音価(音符や休符の支配する長さ)の分割を増やしたり、自由なリズムを採用したり、3度・6度を重視した和声、半音階の効果的使用など重層的に組み立てたものらしく(専門的なことは判りませんが)、より荘厳さを増す中、異様なというか自由な構成で、且つ一人で(個人で)通作し名を遺したことといい、後のルネサンスやバロックを予感させる曲です。
(**)スコラ哲学
スコラ学は、信仰と知の調和を目指す学問だが、実際には勉学に裏付けられた民衆への説教活動に重点が置かれた。スコラ学の不滅の教典、トマス・アキナスの「神学大全」はアラビア語として辛くも保存されていたアリストテレスを翻訳し、その哲学的概念と推論形式を応用し、堅固な三段階論法(弁証法)によって、既存の神学上の知識を整理して見せ、権威ある結論を得た。
スコラ学で中心的な課題となったのが「普遍論争」というものだった。たとえば「ポチは犬である」といった場合、ポチは個であり、犬は普遍である。そのような、「犬」とか、「動物」といったものは実際に存在するのかどうか、という論争だった(「普遍」とは「個」に対する概念)。
まずスコラ学の父・イギリスのアンセルムスは、「普遍は実在性をもち、個に先だって存在する」と主張し、実在論を説いた。これに対し「普遍はたんなる名辞に過ぎず、ただ個のみが実存する(普遍は個の後ろにある)」という唯名論(ノミナリズム)が主張され「普遍論争」が展開された。普遍って、プラトンの「イデー」のことですね。トマス=アクィナスは「実在論」の立場にたってスコラ学を体系づけ、神を普遍的な存在として実存するという思想としてローマ=カトリック教会における正統派とされた。しかし、14世紀にはウィリアム=オッカムなどの「唯名論」が復活し、観念的な思考を廃して観察や実験によって真理を探究する近代思想の萌芽につながっていく。中世の後退ですね。
(***)酒井健「ゴシックとは何か」講談社新書2000年1月P90〜91
(****)阿部勤也「中世賎民の宇宙」ちくま学芸文庫2007年2月P339
シャルトル大聖堂(内部)
注56) 明治日本で、キリストの強い父性だけでは人間は救われない、と最初に気づいたのが、芥川龍之介でした。明治の知識人が目覚めた日本独特の「近代」というものの解釈の源泉は、内村鑑三に代表される禁欲的な人格主義と、親鸞の「歎異抄」解禁による人間(肉)解放の2つの大きな流れでした。親鸞には女犯を宿報として許容する思想(女犯偈)がありますが、通じるところは同じですがマリア信仰とは少し違います。
芥川は、同じ救済の思想でも、人を厳しい姿勢で引っ張ってくれるキリストだけではなく、聖母マリア・「赦す」存在としての慈悲のこころも無ければ人は救われないことに気付いたのです(*)。
ミケランジェロの遺作といわれる「ピエタ像」は、人類の生み出した彫像の最高傑作だと私は思っています。未完の作品ですが、ぴったり焦点は合っていると思います。これ以上何を加える(削る)必要があるのでしょうか。加えれば加えるほど、この奇跡のような「出現」から遠ざかってしまいます。
(ピエタはイタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意味です。またピエタ像とは、磔刑にされ十字架から降ろされた我が子イエス・キリストの亡骸を腕に抱き、別れを告げる聖母マリアを描いた彫刻です。)
ミラノ・スフォルツァ城博物館
(*)饗庭孝雄「ヨーロッパとは何か」小沢書店p19
注57) 饗庭孝雄「ヨーロッパ古寺巡礼」新潮社p33
中世ルネッサンス〜
十字軍派遣によって、西洋文化とイスラム文化が交じり合ったことは以前説明しました。ですがビザンツ帝国・イスラムを通じて、ギリシャ文化も取り入れたことが12世紀ルネサンスといわれる所以なのです。(イスラムではビザンツ帝国やムセイオンを通じて、ギリシャ文化がもたらされていりましたが、そのギリシャ文化が、十字軍派遣を通してイスラム文化圏から西欧文化圏へと逆輸入されたということです。)
ギリシャ文化は、アレクサンドロス大王がアレクサンドリア市のムセイオンという大規模研究所で研究を進めさせました。後にアレクサンドリアはイスラム勢力に取り込まれますが、イスラムはギリシャ文化を保存したのです。西欧キリスト教はアンチ・ギリシャでしたね。ところが十字軍遠征がキッカケで、イスラム文化・ギリシャ文化に刺激されて西欧世界では、多数のギリシャ語文献がラテン語へと翻訳されました。こうして、「学ぶ」ことへの気運が高まり中世ヨーロッパで初の大学が生まれます。最古の大学はイタリアのサレルノ大学(医学)、他にも法学のボローニャ大学、神学のパリ大学が誕生します。更には、トマス・アクィナス(パリ大学)は、スコラ学の普遍論争を実在論(普遍的概念こそ真の実在とする)の立場から擁護し、この論争を終結に向かわせます(「神学大全」)。彼はアリストテレス的な自然現象と神(プラトンの「イデア」のような普遍的な存在)の両者を結びつけました。具体的には、「運動には必ず動かし手」がいる。そして、太陽や月が地球を中心に廻っているのは、天の彼方に「神」がいるからだ、と証明(?)した。理屈じゃないんです。人々の「希望」を代弁したんです。それは三位一体の考えと同じです。後には実在論に対抗した唯名論(個物だけが存在し、普遍概念は、それらの共通性に与えられた名前や記号としてのみ存在する)的考え方が、信仰と哲学・科学の分離を促し、自然科学の発達に繋がった。どちらが正しいなんて争うこと事体が間違いの始まりなんです。現代は後者に偏り過ぎて見えない不幸を数多く生んでいます。フランス革命を冷静に分析したバークリーの、どちらにも偏り過ぎない、バランスをとれるこころの自由をいつも忘れないようにしたいものです。竜樹の「中庸」も同じです。
この12世紀ルネサンスが14〜16世紀にメディチ家などの大商人たちのバックアップで、イタリア諸都市・市民の間に、ローマ文化を含めて広まったのがいわゆる「ルネッサンス」です。時代は中世を脱しつつあり、個人・市民の横のつながりが、主役に躍り出る近世に向かっていました。キリスト教から見れば、異教的によそ見(浮気)をした時代ということになります。
注58) 饗庭孝男「中世を歩く」小沢書店1994年3月P8
注59) 同p11
注60) 饗庭孝男「石と光の思想」平凡社ライブラリー1998年11月p96
注61) 中世の仕組み
それでも、問答無用の暴力は、直ちには防げません。犠牲を伴う、時間の解決に頼るしかないのです。小競り合いも、大規模な戦争もありました。宗教的恐怖もありましたし、何より暮らしは貧しかった。
「権力」を象徴する神聖ローマ皇帝と「権威」を象徴するローマ教皇が牽制しあっていた、といえば聞こえはいいが、それは制度上のことで実際はそれぞれに揺れ動いて浮き沈みを繰り返していた。権力や権威がしっかりしていなければ、個人は孤独と向き合い、しっかりとした人格を持とうとする。「敬虔」と「畏れ」を知る人間になりやすい。逆に、ナポレオンから始まる国民国家がしっかりしてきた近代では、市民が自己を高めると言えば聞こえはいいが、国家に心の不安(苦悩)を預けてしまい、飼い馴らされて、「敬虔」も無ければ「畏れ」も忘れた堕落人間に成り下がったともいえる。松岡正剛さんがどこかで言われていた「政治は議員に預け、法律は弁護士に預け、食事はレストランに預け、笑いはタレントに預け」、旅(巡礼)は、感動の仕方までも含めツアー会社に預ける近代はすぐそこに来ています。