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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2016年10月27日
第2回歴史第3部中世7【ヨーロッパの中世の原点・修道院活動】
6・長く深く沈潜する西ヨーロッパ中世−続き1

〈大開墾時代(農業革命)と修道院活動・〉
 11〜12世紀に小さな温暖化を迎えた地球で、ブナ・カシの森に覆われた暗い森のヨーロッパが、修道院活動を中心とした大規模な開墾運動が展開され、明るく広い農地が出現しました。更に、重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき)という農具の普及がキッカケとなって、農業技術が進歩し、牛や馬を使って重い犂で広い畑が耕され、粘土質の土壌の深耕が可能となり、収穫量は蒔いた種の2〜3倍だったものが6〜7倍に増加した。又水車や風車を使った製粉や、3年に1度農地を休ませる三圃制(45)の発明などにより、農地の形状が変化し、農民の共同作業が進み、散村から集村化が進み、領主直営の多くは農民の保有地となり古典的な荘園制度は崩壊し、保有地からの貢納形式に、更には地代の金納化に進み、農奴の地位も向上していった。こうして、農業全体が飛躍的な成長を遂げ、人口も増加しました。この農業革命によって、ようやく辺境に過ぎなかったヨーロッパは、世界史の一画に顔を出すのです。
 シトー修道会は、開墾に主導的役割を果たしたばかりか、民衆に教育を施し、農作業を改善し、ワインの作り方を教える(古代ローマのワイン作りの技術は教会・修道院(46)に引き継がれていた)など経済的成長にも寄与しました。修道院活動は又、教会の腐敗と世俗化に対する内部批判の動きであり、最も早い「宗教改革」の動きでした。その先駆けとなったのはフランス南部のブルゴーニュに建てられたクリュニー修道院でした。6世紀のころの聖ベネディクトの精神(ベネディクトゥス戒律=祈り且つ働け)に立ち返ろうとする運動の大きな成果だった。「一切の世俗的支配を免れるべし」をモットーに、ローマ教皇のみに属し、国を問わない組織(国単位を越えて、小さな村に至るまで教区を設定した)でその力は、ヨーロッパの隅々に及んだという。世俗や他の権力の支配を受けないという「自由」を得たのです。この運動の背後にあったのは、間違いなくキリスト生誕1000年という「この世の終わりが近いことを告げる千年王国説(47)」だった。

裁きの日の到来によって、サタンが鎖から解き放たれ出現するという恐れと結びついて、丹毒の病の流行や1033年の大飢饉も語られた。人々はその日を前にして、「善を行い、悪と戦う」ことで来世の安穏を願った。こうした精神の高揚期・聖なる「熱狂」は、外に向けては「歩く熱狂」として十字軍に、或いはサンチャゴ・デ・コンポステーラへの大巡礼(48)に、内に向けては「隠れて生きる静かなる熱狂」として修道院生活に向かったのです。
 これらの熱狂は、気候の安定期・経済の好転と合わせて、多くのロマネスク(49)の聖堂を建て、善悪二元の劇的なテーマと、悪との戦いへの励ましを半円形の壁面に刻み、又「祈る祈祷所」に加え、建物の外側に、垂直に採光ができ且つ外の音と風の来ない空間である「回廊と中庭」を作り、瞑想や写本(印刷術の無かった時代に、聖書を写すのに、一人で1年3か月もかかる重労働だった)などの手仕事を行った。
こうして修道院生活の、神とかかわり求心性を持つ「ひとり隠れて生きる」ことと「共に労働に励む」という、背反するものの共存という特性が出来上がっていく。ヨーロッパでは修道院のような建物以外に、民家に回廊のようなものがあるのかはわかりませんが、日本には「縁側」という、内と外の橋渡しの素晴らしいアイディアがありましたね。暮らしの中に(こころの内と外を想う)瞑想と、(場の内と外を繋ぐ)辺境の工夫を取り入れるなんて、日本人の感性の素晴らしさを感じますね。でも今はもう忘れ去られてしまった。それと共に日本人のこころの縁側も消えた。懐の深さも、瞑想も消えたのです。

修道院は又、異教徒に対する・内部の「異端」に対する容赦のない対処も行った。「今日のような価値の相対化の無い時代において、キリスト教世界を絶対視する彼らの態度も、その時代に視点を戻して改めて考えるべき問題(50)」だと思います。
しかしクリュニー修道院は大きくなり過ぎた。法外な高さ、途方もない広さ、豪華な装飾は礼拝者の目を惑わし、祈りを妨げた。生活の贅沢さも徐々に身について、他の領主や諸侯のように奴隷を使い、典礼にほとんどの時間が費やされ、労働の時間は少なくなった。ミイラ取りがミイラになったのです。シトー修道会の批判はこのようなものだった。正に、シャルル・ペギーがドレフュス事件(51)に言及した有名な言葉「すべては神秘に始まり、政治に終わる」のです。

やがて13世紀頃になると教会も大きくなり、都市にも建てられるようになる。ドミニコ会・フランチェスコ会など、修道院から出て民衆の中、都市に入り説教をするものが多くなった。「働く人・戦う人・祈る人の三身分によって構成されていた社会は、やがて、働ける人(ブルジョア・商人)の身分を都市に組み込んで、新しい時代(ゴシック時代)が作られていく(52)」
のです。このブルジョアとカテドラル創建と贈与慣行については、既にお話ししました。「注36の贈与慣行」の項を参照ください。

又この大開墾も後に、大きな試練を招くことになる。
14世紀になると、中国雲南地方の風土病・ペストがモンゴル帝国の遠征でヨーロッパにもたらされたところに、森を破壊した結果、クマネズミを食べる小動物(オオカミ、キツネ、イタチ、フクロウなど)が激減し大繁殖したこと、マキの不足で、皮衣類の十分な乾燥ができず、ペストを媒介するノミの繁殖を防止できなかったことに加え、何よりも13世紀ごろから開墾運動も沈滞し穀物生産も伸び悩み、人口増による価格上昇も始まった(気候の寒冷化と小麦の高騰で十分な栄養がとれずに免疫力が落ちていた)ことなどから、ペストは大流行し、人口の三分の一が死亡する一大危機となったのです。都市の発達で人口が集中し、感染しやすくなったことも大きいでしょう。南フランスやライン沿岸の都市では、ペスト流行はユダヤ人の仕業として虐殺も行われた。絵画や彫刻にも頻繁に死が取り上げられた。
大開墾が悪いとは言いませんが、全ては繋がっており、ええとこ取りばかりすることには、目に見えない支えを破壊している部分があることに気付かないで、結果思わぬところで、えらい目に合うことがあるという、強烈な教訓ですね。
 ペストの終焉は、17世紀に入ってからだが、ジャガイモの輸入で食糧事情が好転したとか、木の家からレンガの家に変わり、ネズミが屋根裏に住みにくくなったことや、毛織物に代わって、木綿という乾きやすい素材でノミの繁殖が防がれたことなどが言われています。
〈続く〉


注45) 三圃式農業
中世ヨーロッパで広く行われた農業形態。畑作を主とするヨーロッパでは,連作による地力の消耗を防ぐために耕地を3つに区分し,1つを休閑とする輪作が行われた。耕地は夏作物 (大麦,燕麦、など) と冬作物 (小麦,ライ麦など) の作付けにあて,休閑地に家畜 (牛,馬,羊,豚など) を放牧,その糞尿により地力の回復をはかった。 (ブリタニカ国際大百科事典)

注46)修道院と修道会
 3世紀エジプトやシリアの隠修士によって独居・散住(「ひとり」住む)形式から始まり、東方に引き継がれた。一方で西方修道院では共住様式(「ともに」住む)がベネディクトによって発展した。共住と言ってもこの二通りを組み合わせたもので、個々の部屋ではひとりであっても、祈りや労働では共に働く。その為に回廊や教会ができるのです。アイルランド教会は、東方的で深い学問性を持ち、7世紀にローマ教会との確執が強まるまでは、西欧へ布教に行き多くの修道院を建てています。「アイルランド・ウエールズに布教に行ったのは、エジプトのコプト人(*)たちで知られる東方教会に属する人たちです。地中海を横切り、(ローマへは行かず、西欧の中心部も通らず)スペインを越えアイルランドに入りました(**)」。結局、教会では瞑想や修行・研究はできない。そこで生まれたのが修道院なのです。だから修道院の発想は、エジプトからの輸入なんですね。
一方で、修道会とは、修道院同志を、会則と会憲のもとに結合させ、権威を高めるために認可された団体のことで、政治化の一環です。宗教改革で修道会を無縁としたプロテスタントも結局19世紀には修道会を発足させている。

(*)ヘレニズム化したエジプト人と言われる。修道制、修道院を確立する。コプト修道院のネットワークはアフリカ・シリア・ヨーロッパからブリテン島に拡大。その文化はヘレニズム・古代エジプト・ビザンチンの混ざった美しい独自の文化で世界に影響を与えた。
コプト織4(柳宗玄「中世の美術」河出書房).gif
コプト織4(ナイル川で遊ぶ子供たち・柳宗玄「中世の美術」河出書房)

(**)饗庭孝男「ヨーロッパとは何か」小沢書店1991年7月p40

注47)千年王国説(ミレニアム)
神によって悪魔サタンが捕らえられている一千年間に,再臨したキリストがまずよみがえった義人とともに地上に平和王国を創設し,それを支配する,その間一般の罪人も復活するが,その千年の至福の期間の終わりに最後の審判が行われるとする教説(大辞林)。終末論(*)です。この有名な根拠は、聖書の「ヨハネ黙示録」であり、反キリスト的なものの一掃が前提にあり、これが後々、民衆の変革思想となり、ピューリタン革命を始めとして形を変え様々な時代に・地域に現れる(三省堂・世界史辞典)。
あとで話しますが、ほぼ同時期に、日本においても「末法思想」がまん延し、権勢を誇った藤原道長すら、自宅の庭に作った阿弥陀堂の如来像に五色の糸を結び、その糸を握りしめながら往生を待ったそうです。一遍などはこの民衆の恐怖のエネルギーを集めて「時宗」を広めていった。ヨーロッパの「死の踊り」のような、「念仏踊り」を広げました。サンチャゴ・デ・コンポステーラの大巡礼のような、補陀落渡海(ふだらくとかい)の信仰や「蟻の熊野詣」と言われる巡礼ブームがおこります。
(*)終末論
現世の悪に対して、世界の窮極的破滅、最後の審判、人類の復活、理想世界の実現などを説く。

注48)サンチャゴ・デ・コンポステーラへの大巡礼
十字軍が聖地エルサレムへの巡礼であれば、(スペイン・ガリシア地方の端の岬にある)サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼は聖ヤコブという聖人の遺骨に参る巡礼です。エルサレム・ローマと並ぶ中世ヨーロッパ三大巡礼の一つ。病気治癒や来世での救済に効験ありとされた。
神は本来表現してはならないという考え方は根強く、教会の半円形の壁面では右手だけで表すのが慣例でしたが、どうしても神そのものを表したいという願いは強く、こういう願望はヘレニズム的発想であり、してはならないというのはユダヤ教的発想です。ここにも二者を対立・発展させる西欧的構造があります。既に見ましたが8〜9世紀のビザンチンでの偶像崇拝禁止と共に古いイコン(*)が破壊されました。イコンとはキリスト、聖母、諸聖人の偉業などを木版に描いた聖画像で、これを所有し崇めると効力があるとされました。ロシア大聖堂では壁面に大型のイコンが飾られ、家庭では小型のイコンが崇拝の対象となった。東欧やビザンツでも同様だった。モザイクはこれをガラス・大理石・色のある石などを壁面にはめ込んで表したものです。これに対し西欧では、聖遺骨・聖遺物が「表された神」として崇められていたのです。
制度としてのヨーロッパを作ったのが、英米やわが国のような判例法ではなく、ユスチニアヌス帝が受け容れた、制定法(コモンロー)である「ローマ法大全(*)」であり、精神的な共同体としてのヨーロッパを作ったのが修道院であれば、経済文化圏のネットワークとしてのヨーロッパを作ったのはサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼を始めとした三大巡礼でした。何しろ旅はカネがかかるし、先々でカネを落としてくれる。経済効果ですね。
勿論ヨーロッパを作ったのには、それらすべて(特に聖書)を繋ぎとめる文字であった「ラテン語」に聖書を訳したヒエロニムス(347〜420)、ゴート人でありながら、キリスト教の本質を見抜き、長年ローマの要職を務めた後、550年故郷の南イタリアのペレナ川のほとりに修道院を設立,文献の収集・翻訳,写本の製作や修道士の教育をなし,中世修道院の学問活動の模範を提示したカッシオドルス(480〜583)、530年にヨーロッパ初のモンテ・カッシーの「修道院」を設立し、ベネディクト会則を制定し、12世紀に至るまで修道生活の唯一の基準となったベネディクトなど忘れてはいけませんね。

(*)「ヨーロッパでは社会生活を法的ルールで守ろうとする意識が強い。それは取りも直さず、(荘園領主に対する農民の、支配権力を受け止める横の関係や、中世都市の領主権力に対する市民意識など)一方的な支配というものに対する抵抗の姿勢であり、団体意識の源泉である」(増田四郎「ヨーロッパとは何か」岩波新書p191)

注49)ロマネスク
ロマネスクは「ローマ風の」の意味で、まさしくローマの建築スタイルを踏襲したものだった。クリュニー修道院を始めとしたこの時代の教会建築様式であるロマネスクは、ラテン十字形(バジリカ方式)の平面とローマ風の半円形アーチを用いた天井と厚い壁面を持ち、重量感を感じさせます。「半円形のドームは、夜、砂漠を歩いていると、世界が星の輝く宇宙として見えることから来ている(*)」といいます。まさにキリスト教は本来、地中海(イタリア)やゲルマンの森ではなく、エルサレムという砂漠から生まれた宗教であることが判ります。ユダヤは、究極には反ヘレニズムなんです。
ロマネスクは人跡少ない山野や森や泉のほとりに建てられた「祈り且つ働く」修道院時代です。これがヨーロッパ中世であり、これに対するゴシック(ゴート人っぽい、つまりドイツ風)は、外に出て都市を目指すカテドラルの時代です。カテドラルは、開墾された森の復活のイメージでもある大聖堂なのです。それは既に近世を孕み異教的な臭いを残す(つまりヘレニズムに向かう)ルネサンスの始まりなのです。
 ロマネスク教会は上から見ると通常十字架の形をしている。十字のまじわったところにある高い塔は採光塔で、こちらがわに突き出している十字架の頭にあたるところが後陣です。腕に当たる部分は翼廊。身体にあたるところは身廊と呼ばれる。足にあたるところにも塔がたっていることが多い。この塔の下の空間をナルテックス(**)といい、本来は未洗礼者に洗礼をするところである。壁と柱で自重を支えるだけの単純な構造です。ですから壁は厚く窓は小さくなります。それでロマネスク教会は壁画が多いのです。又高さを得ようとすれば壁を厚くしなければならず、厚くすれば更に自重が増すという悪循環に陥ってしまうので低い建物になります(ゴシックはこの欠陥を、飛翼とアーチで自重を分散させ、高さと壁の薄さが可能となり、天に届く飛翔と、天を魅せるステンドグラスを獲得するのです)。又閉ざされた空間の中で、瞑想と共同作業のための回廊(***)も9世紀頃から中庭に付け加えられるようになった。
マリーア・ラーハのベネディクト会大修道院.jpg
マリーア・ラーハのベネディクト会大修道院教会堂

(*)饗庭孝男「ヨーロッパとは何か」小沢書店p143
(**)キリスト教聖堂の正面入口の前に設ける広間。聖堂建築において正面入口と身廊本体の間に設けられる広間。玄関の間ともいう。本来は聖堂内の儀式に参加できない未洗礼者,あるいは一時的に信徒の資格を停止された悔悟者の場所であった。厳密には外気から閉鎖されたものをいい,外気に開放されたものはポーチとよぶ(世界大百科事典第2版)。
(***)回廊
「ひとり」と「ともに」を両立させる形が修道院の元型を形作った。
キリスト教建築では,修道院内の中庭を囲む屋根付き列柱歩廊をさす。西洋では〈閉ざされた場所〉を意味するラテン語のclaustrumから発展し,修道士の住居を中庭でつなぎ,さらにこの中庭を列柱廊で囲んだもの

注50)饗庭孝男「ヨーロッパ古寺巡礼」新潮社1995年5月P22

注51)ドレフュス事件
 フランスで起きたユダヤ人のドレフュス大尉に対する冤罪事件。
1894年彼はドイツのスパイとして逮捕され、南米ギニアに流刑になったが、ゾラや歴史家モノーらの救援活動で、99年再審を勝ち取り、1906年無罪となり名誉回復した。フランス世論は「ナショナリズム・軍国主義・反ユダヤ主義」対「国際主義・平和主義・民主主義」に二分され、危機に陥るが、再審と共に共和化や政教分離が進んだ。

注52)饗庭孝男「ヨーロッパ古寺巡礼」新潮社1995年5月P34


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