2009年10月31日
脇見
「人はなぜ脇見をするのか」という言葉を嘗て稲垣足穂の本で読んだ記憶があり、気にかかっていた。
人ばかりでなく犬だって脇見をするが、そういう時は決まって散歩中とか人に決められた工程をやらされている時だ。
散歩の場合、人は犬の欲望を満たそうと或いはストレスの解消にと連れ出し一定の時間内に戻ることを目的とするが、犬にとっての目的は唯々自然との交感であり、時間は定まらず、ただ流れる。まして健康の為などという目的もない。首輪もなく、自由に動き出したら脇見はしないだろうと思う。
やはり脇見とは、キチンキチンと決められた目的や計画に正面切って逆らうのでなく、その目的は尊重しつつチョット「よそ見」することなのだ。そしてわたしはこういう人間が好きだ。「脇見」を誘導するのは、風であったり、鐘の音であったり、心の不安であったりあの人の事を想ってわくわくしていた気持であったり、いろいろだ。目的に拘束された自分でなく、人間の中の自然が動き出した時だ。
全ての眼で生き者たちは
開かれた世界を見ている。我々人間の眼だけが
いわば反対の方向を指している・・・・・・・
我々は嘗て一度も、一日も
開きゆく花々を限りなくひろく迎え取る
純粋な空間に向きあったことはない
ライナー・マリア・リルケ「ドゥイノの悲歌」
目的とやらが成就した暁に、何を得られるのだろうか?体制は出来上がった、でもどう享受したらいいか判らない。
これが人間が世界の中に置かれた状態であり、感覚はついに事物そのものに迫ることはできない。
その時、思い起こしてほしいのが、「脇見」していた時のことだ。そこには自分はいない。
私が見ているのではない。私も含めて見られている境地になっているだろう。
「一途」は尊いという神話がある。確かに、けなげで強さと脆さを持った美しさもある。だが一途でありたいと願うことは、突き詰めるとエゴでもある。その先にあるのは自己愛でもある。
時には立ち止まり、脇見をすることは余裕を生み、「騙されないぞ」と、「知ってるぞ」と「承知してやってるんだぞ」と天に向かって睨みを利かす強さと幅の広さでもある。「憑かれる」楽しさもよし、「トンネルを抜け出す」もよし。
突然新しい考えがひらめくとき、悟りを開くと言った経験をする時、目的とやらから解放されて「空っぽの状態」(ヴァキューム・ヴァカンス) にあるときだ。
風立ちぬ
いざ生きめやも
人ばかりでなく犬だって脇見をするが、そういう時は決まって散歩中とか人に決められた工程をやらされている時だ。
散歩の場合、人は犬の欲望を満たそうと或いはストレスの解消にと連れ出し一定の時間内に戻ることを目的とするが、犬にとっての目的は唯々自然との交感であり、時間は定まらず、ただ流れる。まして健康の為などという目的もない。首輪もなく、自由に動き出したら脇見はしないだろうと思う。
やはり脇見とは、キチンキチンと決められた目的や計画に正面切って逆らうのでなく、その目的は尊重しつつチョット「よそ見」することなのだ。そしてわたしはこういう人間が好きだ。「脇見」を誘導するのは、風であったり、鐘の音であったり、心の不安であったりあの人の事を想ってわくわくしていた気持であったり、いろいろだ。目的に拘束された自分でなく、人間の中の自然が動き出した時だ。
全ての眼で生き者たちは
開かれた世界を見ている。我々人間の眼だけが
いわば反対の方向を指している・・・・・・・
我々は嘗て一度も、一日も
開きゆく花々を限りなくひろく迎え取る
純粋な空間に向きあったことはない
ライナー・マリア・リルケ「ドゥイノの悲歌」
目的とやらが成就した暁に、何を得られるのだろうか?体制は出来上がった、でもどう享受したらいいか判らない。
これが人間が世界の中に置かれた状態であり、感覚はついに事物そのものに迫ることはできない。
その時、思い起こしてほしいのが、「脇見」していた時のことだ。そこには自分はいない。
私が見ているのではない。私も含めて見られている境地になっているだろう。
「一途」は尊いという神話がある。確かに、けなげで強さと脆さを持った美しさもある。だが一途でありたいと願うことは、突き詰めるとエゴでもある。その先にあるのは自己愛でもある。
時には立ち止まり、脇見をすることは余裕を生み、「騙されないぞ」と、「知ってるぞ」と「承知してやってるんだぞ」と天に向かって睨みを利かす強さと幅の広さでもある。「憑かれる」楽しさもよし、「トンネルを抜け出す」もよし。
突然新しい考えがひらめくとき、悟りを開くと言った経験をする時、目的とやらから解放されて「空っぽの状態」(ヴァキューム・ヴァカンス) にあるときだ。
風立ちぬ
いざ生きめやも