2015年04月30日
富士山世界文化遺産登録の理由・・・・「芸術の源泉」とは
平成25年6月22日文化庁の報道発表によれば、
カンボジアのプノンペンで開催されている第37回ユネスコ世界遺産委員会において、我が国が世界文化遺産に推薦していた「富士山」についての審議が行われ、現地時間6月22日(土) 15:28(日本時間6月22日(土) 17:28)に、世界遺産一覧表に三保松原を含めて「記載」することが決定されました。また、記載する名称は、「Fujisan, sacred place and source of artistic inspiration (富士山−信仰の対象と芸術の源泉)」に決定されました。
記載に関わる決議の概要の中で、評価基準(B)「信仰の対象」及び(vi)「芸術の源泉」により世界遺産一覧表に記載するとされました。評価の内容(vi)については、湖沼及び海から立ち上がる独立成層火山としての富士山の図像は、古来、詩・散文その他の芸術作品にとって、創造的感性の源泉であり続けた。とりわけ19世紀初期の葛飾北斎及び歌川広重により浮世絵に描かれた富士山の図像は、西洋の芸術の発展に顕著な影響をもたらし、今なお高く評価されている富士山の荘厳な形姿を世界中に知らしめた、とされています。
さて、このユネスコによる評価基準の一つ、「19世紀初期の葛飾北斎及び歌川広重により浮世絵に描かれた富士山の図像は、西洋の芸術の発展に顕著な影響をもたらし」たと書かれた「影響の中身」ついて考えてみたいと思います。
それには3つのキーワードが必要になります。
一つはこの世紀中頃に登場した「写真」、次に写真登場後の西洋絵画の混乱を象徴する「印象派」と呼ばれた絵画技法、最後に北斎及び広重に代表される「浮世絵」の絵画技法です。
@写真
19世紀中頃にヨーロッパに「写真」が登場すると、徐々にそれまでのアカデミックな宮廷の画家たちは、物をみた目そっくりに描くという仕事を奪われてしまいます。この背景には20世紀初頭から続々と発表されるアインシュタイン(1879-1955)の「特殊相対性理論」やフロイト(1856-1939)の「精神分析入門」に代表される「目にみえるものは、見える通りのものではない」、或いは「こころというものは、背後に自分でもわからない広大な無意識というものを抱えている」という科学の発見がありました。写真は当時の人達が絵画から与えられていた「そっくり」が、偽物だったことを知らせました。人が見ていないところまで全て写しだします。しかしそれは「そっくり過ぎた」のです。
「私、写真写りが悪いから、嫌い」という人は意外に多いものですが、これは写真が対象を(写真の様に)「瞬間で切断し、全てを=そっくり過ぎに」見ており、肉眼が「動きの中で、選択して=自分の思う様にそっくりに」見ていることの証かもしれません。ワルター・ベンヤミンはこのことを(肉眼で立ちあらわれる)「人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、(写真は)無意識が織り込まれた空間が立ちあらわれるのである」「それは衝動における無意識的なものが、精神分析によってはじめて知られるのと同様である(1)」と述べた。(現代ではこの特性を更に先鋭化したデジタル画像なるものが時流の先端にいる。しかし写真もその瞬間しか捉え得ないという限界との戦いを放置すれば、やがて絵画技法が立たされたものと同様な危機に直面するだろう。)
A印象派絵画
印象派と呼ばれる絵画技法が登場したのは、そんな頃でした。「そっくり」という絵画技法がその種明かしをされてしまった以上、もう絵画の価値は亡くなってしまったのでしょうか。
印象派という言葉は、「そっくり」を絵だと考えていた人達にとって、へたくそでしたから、「モネは永続する物より束の間の印象をかきたがっている」と彼をからかう為に当時のジャーナリストに付けた名称でした。しかしモネ(1840〜1926)は「印象」など描きたいのではなく、写真によって打ち砕かれた「人が見ること」とは何か、視覚とは何かを示したかったのですが、理解されませんでした。モネの最大の理解者はセザンヌ(1839-1906)でした。「モネは眼その物だ、だが何と言う眼だ!」と晩年に呟いていました。
しかし彼は、視覚だけが見ることではなく、対象から得る印象を身体の中に受け入れて、心がその影響を受けることも含まれると考えました。彼は見ることを、視覚だけでなく感覚まで拡げて考えました。前から後ろから何度でも見て、触って見て、食べてみてその対象の質感を、写真のような瞬間だけに囚われず、色の効果で追求しました。そっくりというより、食べてみたくなるリンゴ、太陽のもと鼻を衝く木々の真っ青な匂いや、サンヴィクトワールの大理石の香りが調和する山を色の構成で表そうとしました。瞬間しか捉えない、写真では表現できない「物の深さ」を表現しようとしました。
言葉に言葉の論理が、数に数の論理があるように、色に色の論理があり、それを感覚の論理として、絵画を追求しました。「絵は色の論理であり、線を使うものは絵では無い」とまで言いました。
彼がデッサンを嫌ったのは、視覚が知性との協力で、物の存在よりも、他との区別・輪郭を引き出すに過ぎないからでした。
B浮世絵
このような周囲の無理解と苦悶の中に、1889年パリの万博を機にヨーロッパにもたらされたのが、北斎や広重に代表される富士山の描かれた浮世絵群でした。セザンヌの後継者を自任していたマチス(1869-1954)は、驚きました。「絵とは色である」「線によるデッサンから出発する絵画を認めない」というセザンヌの信念は良くわかるものの、線をそこまで貶めることに抵抗を感じていたところに出会った浮世絵の手法は、大きなヒントを与えてくれました。
浮世絵の余分なものはどんどん切り捨ててしまう、遠近法にはこだわらない手法、「平板な色を次々と並べ、動きと形とを捕える独特の線を出(2)」す「デッサンがもつこの動作性とでもいうべきもの(3)」にマチスは魅了されました。マチスは、セザンヌの様に色のコンポジションだけでマッス(ヴォリューム)を表すのではなく、線(デッサン)でマッスを囲い込むことと、色を使って量感(マッス)を出す為の陰影をつける様な無理はさせず、平滑な色どうしを反響させあうことで二者の両立を図ることをめざしました。マチスはこうして色と線の両立を「豪奢U」(コペンハーゲン国立美術館蔵)で達成しました。
又ゴッホ(1853-1890)は、浮世絵のきちんと物を囲い込む線(デッサン)に心の平静を見ます。そして全く影というものを描こうとしない手法にも、自分の求めていたものを発見し自信をもちます。それは「ひまわり」や「僕の寝室」などで一つの安定を見ます。晩年には、恐れていた癲癇や精神病が再び影を呼び込みながらも「烏のいる麦畑」で「色とデッサンの格闘」「色は画面の至るところで線に捉えられ、苦しげに円や孤や螺旋や渦巻きのアラベスクを作る」「影も遠近も雰囲気も無い(4)」線と色との苦闘を通じ、両者の危うい均衡を表現しました。
また浮世絵の描く空間はこれだけではありませんでした。広重の描く浮世絵の地平線の赤いぼかし(名所江戸百景 日本橋 雪晴、駿河 三保の松原 他参照)は、当時の非ユークリッド幾何学にいうロバチェフスキー(1793-1856)の主張する馬の鞍のような宇宙、つまり視線を延長していくと逆に視覚が増大していく、近づいて見えるという効果も出していました。画家の天性が無意識に見つけた感覚なのかもしれません。
これらは西欧における絵画の再発見でした。
絵画とは、後にピカソが絶賛する、ラスコーの壁画に見られるように、二次元の立体を、カンバスという1次元の表面に置き換えるもので、そこに遠近法という工夫で立体的に見せるものだけが優れているという見方は当てはまらない。写真は絵画の究極では決してない。
同時代に生まれた、ヴォリンガーは、その著書「抽象と感情移入(4)」(1908)のなかで、むしろこのような(西洋のアカデミックな)表現法は世界的に見ても、地域的な特殊なものに分類され、決してそれだけが普遍的なものではなく、「感情移入衝動」からくる表象(具象)も、「抽象衝動」からくる抽象も同じ「芸術意欲」の表現方法の違いに過ぎないとしています。
こうして日本の浮世絵という版画が、写真という強力な写実手段に破壊されかけた西欧絵画の再構築に一役買ったのでした。
注1.ベンヤミンコレクション1「写真小史」1995年 筑摩学芸文庫 P558
注2.小林秀雄全集 10巻「ゴッホ」(P79)-ゴッホのの手紙No.Y 1967年10月 新潮社
注4 .前田英樹著 「絵画の二十世紀」(P66) 2004年4月 NHK BOOKS
注3.小林秀雄全集 11巻「近代絵画」(P118) 1967年10月 新潮社
注4.ヴォリンゲル著 「抽象と感情移入」1953年9月 岩波文庫
カンボジアのプノンペンで開催されている第37回ユネスコ世界遺産委員会において、我が国が世界文化遺産に推薦していた「富士山」についての審議が行われ、現地時間6月22日(土) 15:28(日本時間6月22日(土) 17:28)に、世界遺産一覧表に三保松原を含めて「記載」することが決定されました。また、記載する名称は、「Fujisan, sacred place and source of artistic inspiration (富士山−信仰の対象と芸術の源泉)」に決定されました。
記載に関わる決議の概要の中で、評価基準(B)「信仰の対象」及び(vi)「芸術の源泉」により世界遺産一覧表に記載するとされました。評価の内容(vi)については、湖沼及び海から立ち上がる独立成層火山としての富士山の図像は、古来、詩・散文その他の芸術作品にとって、創造的感性の源泉であり続けた。とりわけ19世紀初期の葛飾北斎及び歌川広重により浮世絵に描かれた富士山の図像は、西洋の芸術の発展に顕著な影響をもたらし、今なお高く評価されている富士山の荘厳な形姿を世界中に知らしめた、とされています。
さて、このユネスコによる評価基準の一つ、「19世紀初期の葛飾北斎及び歌川広重により浮世絵に描かれた富士山の図像は、西洋の芸術の発展に顕著な影響をもたらし」たと書かれた「影響の中身」ついて考えてみたいと思います。
それには3つのキーワードが必要になります。
一つはこの世紀中頃に登場した「写真」、次に写真登場後の西洋絵画の混乱を象徴する「印象派」と呼ばれた絵画技法、最後に北斎及び広重に代表される「浮世絵」の絵画技法です。
@写真
19世紀中頃にヨーロッパに「写真」が登場すると、徐々にそれまでのアカデミックな宮廷の画家たちは、物をみた目そっくりに描くという仕事を奪われてしまいます。この背景には20世紀初頭から続々と発表されるアインシュタイン(1879-1955)の「特殊相対性理論」やフロイト(1856-1939)の「精神分析入門」に代表される「目にみえるものは、見える通りのものではない」、或いは「こころというものは、背後に自分でもわからない広大な無意識というものを抱えている」という科学の発見がありました。写真は当時の人達が絵画から与えられていた「そっくり」が、偽物だったことを知らせました。人が見ていないところまで全て写しだします。しかしそれは「そっくり過ぎた」のです。
「私、写真写りが悪いから、嫌い」という人は意外に多いものですが、これは写真が対象を(写真の様に)「瞬間で切断し、全てを=そっくり過ぎに」見ており、肉眼が「動きの中で、選択して=自分の思う様にそっくりに」見ていることの証かもしれません。ワルター・ベンヤミンはこのことを(肉眼で立ちあらわれる)「人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、(写真は)無意識が織り込まれた空間が立ちあらわれるのである」「それは衝動における無意識的なものが、精神分析によってはじめて知られるのと同様である(1)」と述べた。(現代ではこの特性を更に先鋭化したデジタル画像なるものが時流の先端にいる。しかし写真もその瞬間しか捉え得ないという限界との戦いを放置すれば、やがて絵画技法が立たされたものと同様な危機に直面するだろう。)
A印象派絵画
印象派と呼ばれる絵画技法が登場したのは、そんな頃でした。「そっくり」という絵画技法がその種明かしをされてしまった以上、もう絵画の価値は亡くなってしまったのでしょうか。
印象派という言葉は、「そっくり」を絵だと考えていた人達にとって、へたくそでしたから、「モネは永続する物より束の間の印象をかきたがっている」と彼をからかう為に当時のジャーナリストに付けた名称でした。しかしモネ(1840〜1926)は「印象」など描きたいのではなく、写真によって打ち砕かれた「人が見ること」とは何か、視覚とは何かを示したかったのですが、理解されませんでした。モネの最大の理解者はセザンヌ(1839-1906)でした。「モネは眼その物だ、だが何と言う眼だ!」と晩年に呟いていました。
しかし彼は、視覚だけが見ることではなく、対象から得る印象を身体の中に受け入れて、心がその影響を受けることも含まれると考えました。彼は見ることを、視覚だけでなく感覚まで拡げて考えました。前から後ろから何度でも見て、触って見て、食べてみてその対象の質感を、写真のような瞬間だけに囚われず、色の効果で追求しました。そっくりというより、食べてみたくなるリンゴ、太陽のもと鼻を衝く木々の真っ青な匂いや、サンヴィクトワールの大理石の香りが調和する山を色の構成で表そうとしました。瞬間しか捉えない、写真では表現できない「物の深さ」を表現しようとしました。
言葉に言葉の論理が、数に数の論理があるように、色に色の論理があり、それを感覚の論理として、絵画を追求しました。「絵は色の論理であり、線を使うものは絵では無い」とまで言いました。
彼がデッサンを嫌ったのは、視覚が知性との協力で、物の存在よりも、他との区別・輪郭を引き出すに過ぎないからでした。
B浮世絵
このような周囲の無理解と苦悶の中に、1889年パリの万博を機にヨーロッパにもたらされたのが、北斎や広重に代表される富士山の描かれた浮世絵群でした。セザンヌの後継者を自任していたマチス(1869-1954)は、驚きました。「絵とは色である」「線によるデッサンから出発する絵画を認めない」というセザンヌの信念は良くわかるものの、線をそこまで貶めることに抵抗を感じていたところに出会った浮世絵の手法は、大きなヒントを与えてくれました。
浮世絵の余分なものはどんどん切り捨ててしまう、遠近法にはこだわらない手法、「平板な色を次々と並べ、動きと形とを捕える独特の線を出(2)」す「デッサンがもつこの動作性とでもいうべきもの(3)」にマチスは魅了されました。マチスは、セザンヌの様に色のコンポジションだけでマッス(ヴォリューム)を表すのではなく、線(デッサン)でマッスを囲い込むことと、色を使って量感(マッス)を出す為の陰影をつける様な無理はさせず、平滑な色どうしを反響させあうことで二者の両立を図ることをめざしました。マチスはこうして色と線の両立を「豪奢U」(コペンハーゲン国立美術館蔵)で達成しました。
又ゴッホ(1853-1890)は、浮世絵のきちんと物を囲い込む線(デッサン)に心の平静を見ます。そして全く影というものを描こうとしない手法にも、自分の求めていたものを発見し自信をもちます。それは「ひまわり」や「僕の寝室」などで一つの安定を見ます。晩年には、恐れていた癲癇や精神病が再び影を呼び込みながらも「烏のいる麦畑」で「色とデッサンの格闘」「色は画面の至るところで線に捉えられ、苦しげに円や孤や螺旋や渦巻きのアラベスクを作る」「影も遠近も雰囲気も無い(4)」線と色との苦闘を通じ、両者の危うい均衡を表現しました。
また浮世絵の描く空間はこれだけではありませんでした。広重の描く浮世絵の地平線の赤いぼかし(名所江戸百景 日本橋 雪晴、駿河 三保の松原 他参照)は、当時の非ユークリッド幾何学にいうロバチェフスキー(1793-1856)の主張する馬の鞍のような宇宙、つまり視線を延長していくと逆に視覚が増大していく、近づいて見えるという効果も出していました。画家の天性が無意識に見つけた感覚なのかもしれません。
これらは西欧における絵画の再発見でした。
絵画とは、後にピカソが絶賛する、ラスコーの壁画に見られるように、二次元の立体を、カンバスという1次元の表面に置き換えるもので、そこに遠近法という工夫で立体的に見せるものだけが優れているという見方は当てはまらない。写真は絵画の究極では決してない。
同時代に生まれた、ヴォリンガーは、その著書「抽象と感情移入(4)」(1908)のなかで、むしろこのような(西洋のアカデミックな)表現法は世界的に見ても、地域的な特殊なものに分類され、決してそれだけが普遍的なものではなく、「感情移入衝動」からくる表象(具象)も、「抽象衝動」からくる抽象も同じ「芸術意欲」の表現方法の違いに過ぎないとしています。
こうして日本の浮世絵という版画が、写真という強力な写実手段に破壊されかけた西欧絵画の再構築に一役買ったのでした。
注1.ベンヤミンコレクション1「写真小史」1995年 筑摩学芸文庫 P558
注2.小林秀雄全集 10巻「ゴッホ」(P79)-ゴッホのの手紙No.Y 1967年10月 新潮社
注4 .前田英樹著 「絵画の二十世紀」(P66) 2004年4月 NHK BOOKS
注3.小林秀雄全集 11巻「近代絵画」(P118) 1967年10月 新潮社
注4.ヴォリンゲル著 「抽象と感情移入」1953年9月 岩波文庫
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