2015年05月19日
博物館における「学び」の一例
第1章;博物館と学校の違い・共通点
博物館における学びと学校における学びの違いを考えた場合、すぐに頭に浮かぶのは、「もの」(「物質」と同時に、加工されたり、様々な感覚や感動を呼び起こす媒体としての「もの」)を媒介とするか、即ち「具体的に」学ぶか、或いは「言葉」(数学や科学も「数」という言葉の世界と考えられる)を媒介とするか、即ち「普遍的な方法で学ぶか」の違いが思い起こされる。この違いは方法の違いに過ぎず、究極には学びと言う意味において目指すところは同じものなのだが。それでもなお、この違いが必要なのは何故なのか。そこに人間の成長のライフステージとの絡みが影響してくる。早生と晩生、中井久夫氏の言われる分裂病親和者と強迫症親和者(執着気質)など学ぶ側の様々な気質の違いなどである。結論としては、現代のような多様な環境で各人の学びのスタートとして、どちらからから入った方が良いのかを断定する必要はない。
又「もの」(結果)を介するのと言葉を介する(文学者や数学者のようにそれ自体を目的とする場合は除く)のでは、導くところに違いも生じる可能性がある。「もの」を介する学びは、「もの」が既に当初の役割を終了し(最終では無いにしろ)、或るひとつの「資料」と化した「ものの生涯全体」を暗示している。これに対し言葉を介する世界は基礎の基礎を学ぶ(=まねる)ことから入り、普遍を目指すがため、はじめは目標とする世界が見通しにくく、示しにくく、退屈されやすい。また教師や友人・両親等の人が介在する為、寄り道をしやすい。間違えばそのまま本来の「したいもの」を発見できずに、10歳を過ぎたころから始まる性への眼ざめが行く道を逸らしたり、「その(本来のしたいものの)為の障壁を緩和する一つにすぎないもの」(例えば社会的地位の向上や金銭的裕福、競争の勝利など)や、「学んだ力」(1)のみを目的と化して生涯を終わってしまうこともしばしばである。勿論その逆もある。学校教育の中でも、先生に代表される人の介在がきっかけで、生涯の目標に出会う事も、生まれ落ちた土地の価値に出会う事もある。潜在的カリキュラムの効用でもある(2)。博物館に於いてもその展示物への興味から学ぶ意欲が掻き立てられ、より現実的な技術や歴史を学ぶことが出来る反面で、全ての博物館を体験しきることは不可能に近く、本当に自分の求めるものに出会える保証はない(「博物館の教育方法は非系統的であり、非集団的であり、(全体を)ひとつの目標へ到達させることに価値を置かない)(3)。又その性格上「知的探究心を軸としており(3)」自ら学ぼうとする姿勢が無ければそれを目の前にしても宝の持ち腐れとなる。それでも学校教育の終了した人達はもとより、学校で学んでいる人達も違った角度から学びを考え、体験する (生涯学習) など、学校教育を補完する役割を持っていることも事実である。従って双方の特徴・利点を学ぶ側がより活用しやすいかにかかっていると言う事になる。この為、まずは「学ぼうとする意欲」が何処からか湧きあがり、その後にお互いの足りないところを補い合って、その意欲を後押しすることが出来るかが肝心である。
第2章;自ら学ぶ意欲はどう生まれるか。普遍ではなく、個性に重点を置き、「もの」でしか伝えられないことを担当する博物館
ではその学ぼうとする意欲とはどのように生まれてくるのか。本人がその気が無ければ、いくら意欲を持ちなさいと百回伝えても効果は無い。チャンスは瑕瑾であり、夢(思い込み)から揺りおこされる体験である。それは人生における大きな曲がり角を形成する事件や事故の体験である。父の死、友人との別れ、大切にしていた物の喪失、この世とも思われない美しい物との出逢い、想像もしていなかったものや世界との出逢いなど様々だが、いままで慣れ親しみ、こうだと思って信じていた事実が壊れ去った時、現実というものに突き落とされるそのとき、初めて自分はどのような観念の・世界の中に閉じこもっていたのかを知らされる(ダメージが大きすぎて、ずっと現実を受け入れられないひともいる)。そこをバネとして新しい世界の存在を知り、そこを体験したいという気持ちが生まれた時、過去の「自分が自分であろうとすることと、世界と折り合いをつけて生きていく」(4)こととの隙間をどう埋めていくかがその人の人生の課題となる (生まれつき好奇心旺盛な子はそんな瑕瑾など体験しなくても意欲はあるという人がいるが、それは人の情念や傷つきやすさ<フラジャイル>に気付かない人の言葉である) 。そんな時である、舞台は整った。博物館は様々な展示された「もの」で、驚きの癒えない心を無言で迎え入れてくれる。強制は無い。押し付けもない。過去の人々の生きざまの断片が、それぞれのライフステージ毎の、人生の体験を語ってくれる。歴史博物館でも「動物園でも、水族館でも、博物館でもそこに並べられた動物や魚、或いは品物は、事柄の一部、切り取られた断面」(5)である。しかし断片だからこそ見えると言う事がある。我々がそこに包まれている自然も、そっくりそのまま持ってこられても何の理解もできない。それは「全体」を目の前にすると言う事は主体と対象との距離が無いということで、理解という行為が成り立たないということなのである。我々の認識はそれに耐えられない。それはハイゼンベルクの「不確定性原理」として人類が経験したことなのだ。従ってユクスキュルの言う様にそれぞれの「種」によっても知覚しているものは全く違うし、また同じ「種」の中でも時代によって、見えている世界は違って良いし、絶対の真実など追究する必要もない。視覚障害者が、様々なサポートはあったにせよ、触角で感じる世界も又一つの真実なのだ。従って断片は観念で言うところの真実とは違うが、我々の感じている世界も同様なのだ。我々の祖先はそれを「見たて(部分をみて、足りない部分を想像で補う日本独特の美意識)」と言って、むしろ書き過ぎてしまうよりも多様な世界が拡がる。北斎はたった一つの富士山という単純なものから、36もの「見たて」を引きだしたし、ハリーポッターにしても映画にしてしまえばあれだけのものだが、「とてもあんなものじゃない。もっともっと・・」という人は多い。原本にはもっともっとたくさんの見立てが詰めこまれているというわけだ。だから映画にしてしまわないほうがいい。それは確かに、ひとつの見立てではあるが、あれですべてと思われたら、ファンはたまらない。
自然や歴史から過ぎ去ったものや人の足跡(断片)をたどることの中から、その苦闘や諦念や成り立ちを垣間見る(想像で補う)ことは、自分の人生で「世界と自分との折り合いをつけていく」ひとつの方法を見つけるヒントになるのではないだろうか。そこに、「獲得すべき知識が他者によって決められていない、自由な学びの場」(6)でしか伝えられないことが存在するところに、博物館の教育の意義のひとつがあるのではないかと考えられる。(ここで述べたような目覚め体験は、勿論言葉の世界でも可能である。唯博物館は「もの」という痕跡でそれを語るだけに、感じやすく、具体と抽象を行き来しつつの理解は深まると思われる。)
第3章まとめ;「自分探し」は生涯学習の要
博物館に限らないが、自然から取り出された「もの」に触れた時に感じられてくるもの、見えてくるものとは何だろう。そこにそれが存在する或いはそれがつくられた背景や環境、又その構造やつくられた過程、更には作者(自然も作者である)の導かれたもの、作者を憑き動かしたものなど多くの情報が詰まっている(勿論自然そのものにもこれらの情報は詰っている。しかしそれは余りに広く大きく連続しており、認識しずらい。(一度に全てを見ると言う事は何も見ないと同等である。)。それに心動かされ人生の糧を見つけるのも一つの方法である。だがそれは周辺情報であり、「もの」が伝える全き情報では無い。良寛の書ひとつをみても、その打点の高さと、自由な筆の運びから三千大世界(みちあふち)の中で自由自在に飛び交う粉雪に模した彼の生きざまを見る。あたかも妖精が尻尾に墨をつけて、自由に紙の上に痕跡を落としていると言った印象である。それは一つの見方に過ぎないかも知れないが、それは「嬰孩性(えいがいせい)・・表現の手が作意なく嬰児の心につながってしまうこと」(7)と言う事であり「老人には幼児への退行があり又幼児には先駆的な老翁性がある」という「生命的なるものの本質」(7)が見られることにつながる。老人が老翁性を持つとは人がそう言うだけであり幼児性を持たないことにはならないのに、いつしか人は自身が老人になった時その観念(知識)に合わせてしまう。良寛は隠さずそれを見せた。そのことに気付くだけで、世界の広さ深さの前に、(知らないことは無限にあるという)「謙虚」というこころの持ちようを知るだろう。大自然の中の、社会の中の自分の立ち位置を自覚することは、人生の指針となろう。それは生涯学習の中で、実用的な技術を学ぶばかりでなく、学ぶ技術、思考する技術、更には判断する意志を磨くことにつながるだろう。
「神経心理学者・山鳥重(あつし)によると、知情意と言うが、(この3つは対等ではなく)順序は情知意だという。知や意は情の大海の上に浮かぶ船、中に泳ぐ魚に過ぎないと言う事であろう」(8)とあるように、ともすれば我々は言葉による定義に縛られて生きてしまう事が多く、又都合が良い。しかしそれは人を思い込みの型にはめてしまうデメリットでもある。汲めど尽きぬ「情」で感じられている大海を見ようとせず、実証できないものは考えないというアカデミズムだけに生きるのではなく、全てを語りで説明しきろうとするのでもなく、「もの」で示すことで主観と対象の限界を知る試みに至るところまでは行けなくとも、異文化・異世界・深い次元の存在を意識すると言う事は、それと対峙する自分とは何かに思い至るということでもある。かくして博物館の教育は、他の教育との対抗などでは無く、学ぶ機会の拡大と捉え、別の方法の提示と発見と考えるべきであり、学校教育ともども、生涯学習は「人間という障害(限界)」に気付き、再出発する学びでもある。大宇宙の前で生まれる「謙虚さ」に気付くことでもある。
このことは教育する側にとっても同等で、相手からも・「もの」からも教えられるという共育にもつながってくるものと思われる。
ノバーリスは嘗て、「光についての論文 2120節 新断片集」で
「すべての見えるものは 見えないものに触っている
すべての聞こえるものは きこえないものに触っている
感じられるものは感じられないものにさわっている
おそらく、考えられるものは、考えられないものに
さわっているだろう。」
と書いた(9)。
注(1)博物館教育論 新井孝喜著 八洲学園大学 第4章「学び」を考える P87
注(2)博物館教育論 新井孝喜著 八洲学園大学 第4章「学び」を考える P63
注(3)市民の中の博物館 伊藤寿朗著 吉川弘文館 1993年4月 P152
注(4)博物館へ行こう 木下史青 2007年7月 岩波書店 P188
注(5)博物館学を学ぶ 水野眞 2007年11月 山川出版社 P12
※著者はここで美術品などは断片ではなく、完結したものと断じている。筆者はこれと
思いを異にする。この完結性は額縁などの人工的な閉じ込め操作であって、作品はその外も見なければならないと思っている。描きすぎては絵では無く、「絵具や画材とは何か」の方に向いてしまう。
注(6)新時代の博物館学 第7章博物館教育論 芙蓉書房出版 2012年3月 P277
注(7)外は良寛 松岡正剛 芸術新聞社 P333
注(8)徴候・記憶・外傷 中井久夫著 みすず書房 2004年4月 P327
注(9)邦訳では、ノヴァーリス作品集第1巻 今泉文子訳 ちくま文庫 P350に掲載
・・・・因みにその訳は
「可視のものはみな不可視のものと境を接し、聞き取れるものは聞き取れないものと 触知しうるものは触知しえないものとぴったり接している。おそらくは思考しうるものは思考しえないものに。」となっている。
参考文献;「分裂病と人類」中井久夫著 東京大学出版会 P7〜P38
博物館における学びと学校における学びの違いを考えた場合、すぐに頭に浮かぶのは、「もの」(「物質」と同時に、加工されたり、様々な感覚や感動を呼び起こす媒体としての「もの」)を媒介とするか、即ち「具体的に」学ぶか、或いは「言葉」(数学や科学も「数」という言葉の世界と考えられる)を媒介とするか、即ち「普遍的な方法で学ぶか」の違いが思い起こされる。この違いは方法の違いに過ぎず、究極には学びと言う意味において目指すところは同じものなのだが。それでもなお、この違いが必要なのは何故なのか。そこに人間の成長のライフステージとの絡みが影響してくる。早生と晩生、中井久夫氏の言われる分裂病親和者と強迫症親和者(執着気質)など学ぶ側の様々な気質の違いなどである。結論としては、現代のような多様な環境で各人の学びのスタートとして、どちらからから入った方が良いのかを断定する必要はない。
又「もの」(結果)を介するのと言葉を介する(文学者や数学者のようにそれ自体を目的とする場合は除く)のでは、導くところに違いも生じる可能性がある。「もの」を介する学びは、「もの」が既に当初の役割を終了し(最終では無いにしろ)、或るひとつの「資料」と化した「ものの生涯全体」を暗示している。これに対し言葉を介する世界は基礎の基礎を学ぶ(=まねる)ことから入り、普遍を目指すがため、はじめは目標とする世界が見通しにくく、示しにくく、退屈されやすい。また教師や友人・両親等の人が介在する為、寄り道をしやすい。間違えばそのまま本来の「したいもの」を発見できずに、10歳を過ぎたころから始まる性への眼ざめが行く道を逸らしたり、「その(本来のしたいものの)為の障壁を緩和する一つにすぎないもの」(例えば社会的地位の向上や金銭的裕福、競争の勝利など)や、「学んだ力」(1)のみを目的と化して生涯を終わってしまうこともしばしばである。勿論その逆もある。学校教育の中でも、先生に代表される人の介在がきっかけで、生涯の目標に出会う事も、生まれ落ちた土地の価値に出会う事もある。潜在的カリキュラムの効用でもある(2)。博物館に於いてもその展示物への興味から学ぶ意欲が掻き立てられ、より現実的な技術や歴史を学ぶことが出来る反面で、全ての博物館を体験しきることは不可能に近く、本当に自分の求めるものに出会える保証はない(「博物館の教育方法は非系統的であり、非集団的であり、(全体を)ひとつの目標へ到達させることに価値を置かない)(3)。又その性格上「知的探究心を軸としており(3)」自ら学ぼうとする姿勢が無ければそれを目の前にしても宝の持ち腐れとなる。それでも学校教育の終了した人達はもとより、学校で学んでいる人達も違った角度から学びを考え、体験する (生涯学習) など、学校教育を補完する役割を持っていることも事実である。従って双方の特徴・利点を学ぶ側がより活用しやすいかにかかっていると言う事になる。この為、まずは「学ぼうとする意欲」が何処からか湧きあがり、その後にお互いの足りないところを補い合って、その意欲を後押しすることが出来るかが肝心である。
第2章;自ら学ぶ意欲はどう生まれるか。普遍ではなく、個性に重点を置き、「もの」でしか伝えられないことを担当する博物館
ではその学ぼうとする意欲とはどのように生まれてくるのか。本人がその気が無ければ、いくら意欲を持ちなさいと百回伝えても効果は無い。チャンスは瑕瑾であり、夢(思い込み)から揺りおこされる体験である。それは人生における大きな曲がり角を形成する事件や事故の体験である。父の死、友人との別れ、大切にしていた物の喪失、この世とも思われない美しい物との出逢い、想像もしていなかったものや世界との出逢いなど様々だが、いままで慣れ親しみ、こうだと思って信じていた事実が壊れ去った時、現実というものに突き落とされるそのとき、初めて自分はどのような観念の・世界の中に閉じこもっていたのかを知らされる(ダメージが大きすぎて、ずっと現実を受け入れられないひともいる)。そこをバネとして新しい世界の存在を知り、そこを体験したいという気持ちが生まれた時、過去の「自分が自分であろうとすることと、世界と折り合いをつけて生きていく」(4)こととの隙間をどう埋めていくかがその人の人生の課題となる (生まれつき好奇心旺盛な子はそんな瑕瑾など体験しなくても意欲はあるという人がいるが、それは人の情念や傷つきやすさ<フラジャイル>に気付かない人の言葉である) 。そんな時である、舞台は整った。博物館は様々な展示された「もの」で、驚きの癒えない心を無言で迎え入れてくれる。強制は無い。押し付けもない。過去の人々の生きざまの断片が、それぞれのライフステージ毎の、人生の体験を語ってくれる。歴史博物館でも「動物園でも、水族館でも、博物館でもそこに並べられた動物や魚、或いは品物は、事柄の一部、切り取られた断面」(5)である。しかし断片だからこそ見えると言う事がある。我々がそこに包まれている自然も、そっくりそのまま持ってこられても何の理解もできない。それは「全体」を目の前にすると言う事は主体と対象との距離が無いということで、理解という行為が成り立たないということなのである。我々の認識はそれに耐えられない。それはハイゼンベルクの「不確定性原理」として人類が経験したことなのだ。従ってユクスキュルの言う様にそれぞれの「種」によっても知覚しているものは全く違うし、また同じ「種」の中でも時代によって、見えている世界は違って良いし、絶対の真実など追究する必要もない。視覚障害者が、様々なサポートはあったにせよ、触角で感じる世界も又一つの真実なのだ。従って断片は観念で言うところの真実とは違うが、我々の感じている世界も同様なのだ。我々の祖先はそれを「見たて(部分をみて、足りない部分を想像で補う日本独特の美意識)」と言って、むしろ書き過ぎてしまうよりも多様な世界が拡がる。北斎はたった一つの富士山という単純なものから、36もの「見たて」を引きだしたし、ハリーポッターにしても映画にしてしまえばあれだけのものだが、「とてもあんなものじゃない。もっともっと・・」という人は多い。原本にはもっともっとたくさんの見立てが詰めこまれているというわけだ。だから映画にしてしまわないほうがいい。それは確かに、ひとつの見立てではあるが、あれですべてと思われたら、ファンはたまらない。
自然や歴史から過ぎ去ったものや人の足跡(断片)をたどることの中から、その苦闘や諦念や成り立ちを垣間見る(想像で補う)ことは、自分の人生で「世界と自分との折り合いをつけていく」ひとつの方法を見つけるヒントになるのではないだろうか。そこに、「獲得すべき知識が他者によって決められていない、自由な学びの場」(6)でしか伝えられないことが存在するところに、博物館の教育の意義のひとつがあるのではないかと考えられる。(ここで述べたような目覚め体験は、勿論言葉の世界でも可能である。唯博物館は「もの」という痕跡でそれを語るだけに、感じやすく、具体と抽象を行き来しつつの理解は深まると思われる。)
第3章まとめ;「自分探し」は生涯学習の要
博物館に限らないが、自然から取り出された「もの」に触れた時に感じられてくるもの、見えてくるものとは何だろう。そこにそれが存在する或いはそれがつくられた背景や環境、又その構造やつくられた過程、更には作者(自然も作者である)の導かれたもの、作者を憑き動かしたものなど多くの情報が詰まっている(勿論自然そのものにもこれらの情報は詰っている。しかしそれは余りに広く大きく連続しており、認識しずらい。(一度に全てを見ると言う事は何も見ないと同等である。)。それに心動かされ人生の糧を見つけるのも一つの方法である。だがそれは周辺情報であり、「もの」が伝える全き情報では無い。良寛の書ひとつをみても、その打点の高さと、自由な筆の運びから三千大世界(みちあふち)の中で自由自在に飛び交う粉雪に模した彼の生きざまを見る。あたかも妖精が尻尾に墨をつけて、自由に紙の上に痕跡を落としていると言った印象である。それは一つの見方に過ぎないかも知れないが、それは「嬰孩性(えいがいせい)・・表現の手が作意なく嬰児の心につながってしまうこと」(7)と言う事であり「老人には幼児への退行があり又幼児には先駆的な老翁性がある」という「生命的なるものの本質」(7)が見られることにつながる。老人が老翁性を持つとは人がそう言うだけであり幼児性を持たないことにはならないのに、いつしか人は自身が老人になった時その観念(知識)に合わせてしまう。良寛は隠さずそれを見せた。そのことに気付くだけで、世界の広さ深さの前に、(知らないことは無限にあるという)「謙虚」というこころの持ちようを知るだろう。大自然の中の、社会の中の自分の立ち位置を自覚することは、人生の指針となろう。それは生涯学習の中で、実用的な技術を学ぶばかりでなく、学ぶ技術、思考する技術、更には判断する意志を磨くことにつながるだろう。
「神経心理学者・山鳥重(あつし)によると、知情意と言うが、(この3つは対等ではなく)順序は情知意だという。知や意は情の大海の上に浮かぶ船、中に泳ぐ魚に過ぎないと言う事であろう」(8)とあるように、ともすれば我々は言葉による定義に縛られて生きてしまう事が多く、又都合が良い。しかしそれは人を思い込みの型にはめてしまうデメリットでもある。汲めど尽きぬ「情」で感じられている大海を見ようとせず、実証できないものは考えないというアカデミズムだけに生きるのではなく、全てを語りで説明しきろうとするのでもなく、「もの」で示すことで主観と対象の限界を知る試みに至るところまでは行けなくとも、異文化・異世界・深い次元の存在を意識すると言う事は、それと対峙する自分とは何かに思い至るということでもある。かくして博物館の教育は、他の教育との対抗などでは無く、学ぶ機会の拡大と捉え、別の方法の提示と発見と考えるべきであり、学校教育ともども、生涯学習は「人間という障害(限界)」に気付き、再出発する学びでもある。大宇宙の前で生まれる「謙虚さ」に気付くことでもある。
このことは教育する側にとっても同等で、相手からも・「もの」からも教えられるという共育にもつながってくるものと思われる。
ノバーリスは嘗て、「光についての論文 2120節 新断片集」で
「すべての見えるものは 見えないものに触っている
すべての聞こえるものは きこえないものに触っている
感じられるものは感じられないものにさわっている
おそらく、考えられるものは、考えられないものに
さわっているだろう。」
と書いた(9)。
注(1)博物館教育論 新井孝喜著 八洲学園大学 第4章「学び」を考える P87
注(2)博物館教育論 新井孝喜著 八洲学園大学 第4章「学び」を考える P63
注(3)市民の中の博物館 伊藤寿朗著 吉川弘文館 1993年4月 P152
注(4)博物館へ行こう 木下史青 2007年7月 岩波書店 P188
注(5)博物館学を学ぶ 水野眞 2007年11月 山川出版社 P12
※著者はここで美術品などは断片ではなく、完結したものと断じている。筆者はこれと
思いを異にする。この完結性は額縁などの人工的な閉じ込め操作であって、作品はその外も見なければならないと思っている。描きすぎては絵では無く、「絵具や画材とは何か」の方に向いてしまう。
注(6)新時代の博物館学 第7章博物館教育論 芙蓉書房出版 2012年3月 P277
注(7)外は良寛 松岡正剛 芸術新聞社 P333
注(8)徴候・記憶・外傷 中井久夫著 みすず書房 2004年4月 P327
注(9)邦訳では、ノヴァーリス作品集第1巻 今泉文子訳 ちくま文庫 P350に掲載
・・・・因みにその訳は
「可視のものはみな不可視のものと境を接し、聞き取れるものは聞き取れないものと 触知しうるものは触知しえないものとぴったり接している。おそらくは思考しうるものは思考しえないものに。」となっている。
参考文献;「分裂病と人類」中井久夫著 東京大学出版会 P7〜P38
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