2016年10月14日
第2回歴史第3部中世6【ビザンツ帝国の盛衰】
〈東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の盛衰395〜1453年〉
キリスト教の歴史のところで、コンスタンチヌス帝の改宗について述べましたが、その後東ローマ帝国はどこに向かったのでしょうか。東ローマ帝国は、この名前が示す通り、「ローマ」という建前(伝統)が何より大切な国であり、その実はギリシャ人であり、ギリシャ語を用いていた。あたかも中世ドイツが、ローマという名(神聖ローマ帝国)を欲したように。それが1000年を生き抜くプライドでした。
968年、神聖ローマ皇帝オットー一世の使節としてコンスタンティノープルを訪れたリュートプラントは、ローマ教皇から帝冠を受けたものの、自分にもローマ皇帝の称号を認めてもらいたいというオットーの申し出を持って東ローマ帝国のニケフォロス二世を訪ねたが、ローマ皇帝は一人という信念に難色を示された。オットーはローマ帝国の伝統を真に継いでいるのはビザンチンであることを認めているからこそ訪ねたのに。その時、とりなしに入ったローマ教皇が、ニケフォロス二世のことを(本当のこととはいえ)「ギリシャ人の皇帝」と呼んだから大変。申し出は却下され、わざわざ慕って来たにもかかわらずリュートプラントも、今後ローマ人の皇帝と呼ぶことを約束されてはじめて帰国を許される始末で、土産の高級絹織物も持ち出しを禁止され、コンスタンチノープルに来る人の最大の楽しみをも奪われた。 (神聖)「ローマ皇帝」オットーの使者と名乗ったことが怒らせたのだという。彼は「ギリシャ人を信じるな」という詩を作って憂さを晴らすしかなかったという。これほど「ローマ」という建前は互いに重要だったわけです。
この国家イデオロギーは、コンスタンチヌスにふさわしく2つの顔を持った矛盾したものであり、「支配者たちのものである〈ローマ理念〉に、民衆の心を深く捉えた〈キリスト教〉を融合させた(38 )」もので、国家と宗教が一体となった文明は人間の自由と発展は阻害されるであろうと、マルクスに「最悪の国家」と呼ばせたものでした。しかし、現実は必ずしもそうではなかった。市民は気に入らなければ過去の皇帝を引き合いに出して、間接的にではあるが、容赦なく批判した。過去の皇帝に対する批判は珍しくなかった。マルクスもそうですがどうもこっち系統の人たちは、形(制度)ばかりにこだわって、肝心のその中での暮らしやその機微についてはどうでも良いと、たかをくくっているきらいがあるようです。お決まりのものを与えておけばいい。どっこいそこが人生なんで、「配給された平等」なんて糞くらえなんです。そりゃー形(制度)がいい方がいいに決まってます。だけど、中身が退屈なものではそんなもの願い下げなんです。しかも「ところ変われば品代わる、難波の葦も伊勢の浜荻」であって、一律じゃないんです。自由だろうが不自由だろうが、押し付けじゃなく自分で選べることが重要なんです。それが無い国はまずい。何でも平等にしたがる人間は、「自分だけいい思いをしたい」或いは「お前はずるい、俺にもやらせろ・よこせ」の裏返しに過ぎない。だから本末転倒で、その形を守ることが生きがいになってしまうんです。それは正義なんだから、正義のためなら何をやってもいいという話になってしまう。おまけに、他所の国にまで押し付けようとする。でも「これが正しいから従え」は、反対勢力も同じですがね。以前紹介した山極寿一さんの、人間だけができる生き方「抑制と同調」は、「私はあなたを殺害することもできる力を持っている。でもそれをしたくない。あなたと仲良くしたい。場合によってはあなたに従いたい。」であって、「強いものに従え(縄張り意識)」ではないわけです。そして「より良い選択ができる教育」が保証されればいいわけです。自由が守られればいいのです。ただしその自由も、「自由も度が過ぎれば、社会という船を一方ばかりに傾け、転覆させてしまう危険を孕む。そんなときは、わが理性の錘を反対側、即ち秩序の方に移したい。この錘はささやかなものに過ぎないが、ゆらぎ掛けたバランスを少しでも回復したい(39)」という、自己をコントロールできる自由が大切なんです。
その批判精神が、バランス感覚が持てず、一方にばかり傾き過ぎて、極論、(滅亡なんてしたくはありませんが)その結果が人類滅亡であってもしょうがないわけです。自業自得なんです。何百億年の宇宙の暦のなかで、そんな変わった生き物がいたということだけで充分でしょう。ミミズの岩石砕きではありませんが、何のためにこんな行動をとっているかなんて、とても人類などにわかるものではないのですから。自分たちだけが抜け目なく生き残ろうなんて、それこそ、人類の欲望のために犠牲になってきた数多の微生物から始まる亡くなった人間を含めた犠牲者、生物や地球や月や太陽に失礼極まりない。「存在」なんて、人類滅亡くらいで揺らぐような、そんなものじゃない。
キリスト教を公認したコンスタンチヌスの死後、ユスティニアヌス1世が、古代共和制との決別を果たしたものの、後継者はその威光を守れず、国家の危機は続いていた。610年カルタゴの将軍ヘラクレイオスは難なくコンスタンチノープルを攻め落とし、皇帝に即位した。彼は当初、宿敵ペルシャに後れを取り、一時は逃亡も図ったものの、戦場で泥にまみれ祖国のために命をかけて戦い続け、ついには宿敵ペルシャを倒した。彼は、宮殿の中で快適な生活をしており何の戦いもしていないユスチニアヌスが大帝と呼ばれるのに比して、後継者問題にしくじったというだけで厳しい評価を下されたのです。いくら一生懸命に古代ローマの皇帝の栄誉を復活させようとしても、時代は既に中世に向かっていたのです。
又対イスラム戦争の功績者でもある優れた軍人皇帝コンスタンチヌス5世は、偶像崇拝を禁止し、反対する者は修道士であろうと弾圧・処刑した。彼は「サラセン好み=偶像崇拝を禁止するイスラム教風という意味で」とそしられ、「糞」とさげすまれた。
コンスタンチヌスの甥である、背教者ユリアヌスのように、コンスタンチヌスの2つの顔を嫌い、ローマ古来の信仰に戻った皇帝もいた。ビザンツ人は、あんな専制皇帝の下でもしっかり批評していた(選んでいた)のです。そんな「やわ」じゃ無かった。
ビザンツ帝国は、建前と現実を使い分け、ある時は強靭な国家となり、ある時は創造性ある文明を開化させたのです。
国の威信をかけて5年5万人の労力を動員し完成させた巨大なドームを持ち、壁画やモザイクで飾られた「聖ソフィア大聖堂」は、ロシア人がキエフを首都とした頃、イスラム・ユダヤ・カトリック・ギリシャ正教のどれを国家宗教にしようかと迷っていたウラジミル公に、宣教師の勧めるギリシャ正教に引かれつつ調査団を派遣し、その報告する、「他の教会で行われている典礼はさっぱり美しさを感じないが、聖ソフィア教会での式典はこの世のものとは思われない美しさに満ちていた(40 )」という内容にギリシャ正教を選ぶ決意をさせたほどに強い魅力を持っていました。また、ビザンチンの美しい絹織物は「大英帝国にとっての石炭、アメリカの世界戦略の要の石油に当たるものが、ビザンチンの絹である(41)」とさえ言わしめました。
6世紀にはイベリア半島南部からエジプト、シリア、黒海沿岸、ドナウ川以南のバルカン半島、イタリア半島を配下に収めていたビザンツ帝国も、7世紀からのイスラム勢力の征服に後退し、穀倉地帯のエジプト、商業地帯のシリアを奪われ弱体化してくる。それでも「ギリシャの火」と呼ばれる石灰と松脂と硫黄、精製油などを組み合わせた武器や、バシレイオス2世など、3代の優秀な軍人皇帝時代の重装歩兵部隊を駆使して、不死鳥のように何度も蘇り、強大な帝国が維持されたのです。優秀な軍隊は、軍役につく代わりに税金を免除される、やる気のある兵士たちから構成されていました。
しかし、これも長期の遠い遠征が続けば、農作業も行えず、村を捨て、土地を捨て、有力貴族のもとに走るようになる。中国や日本の中世の荘園と同じですね。ここに進んでいた変化は、兵農分離でした。彼らと貴族たちは「戦う人」に、その貴族の土地で働く小作農民は「働く人」に分かれていきます。貴族たちは力をつけ、皇帝の家臣から、友人へ変化していきます。早い話が文明人に、変わり身の早い、すれっからしになっていくのです。
11世紀のコンスタンチノープルはヨーロッパとアジア、地中海と黒海を結ぶ十字路に位置し、国際商業都市として栄えていました。ビザンチン帝国の発行するノミスマ金貨は、国際通貨として使われ、「中世のドル」とも呼ばれました。しかし政府の中身は徐々に生産より消費に、働かずにうまいこと儲けようの気風が強くなります。彼らは「働く人」「祈る人」「戦う人」の他に「儲ける人(ブルジョワ)」がいなかったんですね。西ヨーロパがやったように(注36で述べたように、商人を贈与慣習の世間に加えてやり、富のやり場を、教会への寄贈によって彼らの来世の安泰を保証するという形で、作ってやることで、教会も商人も双方が栄えるという方法)、商人を教会や修道院のヒエラルキーやネットワークの活力に使うことをしなかった。商人を育てなかった・甘く見たんですね。結局ヴェネチアの商人たち或いは北海・バルト海の商人たちを蔑んで利用するだけの、身分外に置いた。これが最後には命取りとなりました。
安上がりだった農民兵はもう使えなくなって、外敵侵入に対し傭兵を雇うというローマ帝国が嘗て陥ったコースを辿ります。安易に増税すれば農民は逃亡してしまう。こうして「禁じ手」に手を染めるわけです。赤字国債です(わが国もこの病気にすっかり麻痺していますね。まだまだ大丈夫と・・)。即ちここでは「官位販売」という形をとりました。購入者の狙いは、年金付きというところです。一度手を染めたごまかしはなかなか止められません。こうして国家に寄生する連中はとめどなく増加していきます。国債を返還しようにも農村は兵農分離が進み、農民は減り、税収は増えない。困った政府は金貨改悪などで対抗しますが、これは実質的な給与の引き下げですから利にさといビザンチン人が黙っていない。より高い官位への昇進を求める。こうして寄生虫だらけとなった。日本でいえば円安政策と株や債券の投資家・輸出企業対策ですね。人の良い日本人は騙されていることも知らず、株が上がったから、景気も良くなるだろうと喜んでいる。或いは俺たちに関係ないと言い放っている。とんでもない大ありなんです。上がった分の金額はどこからか突然わいてきたんじゃないんです。関係のないはずの我々の金が、分捕られているんです(42)。
また逸れてしまいましたが、こうしてビザンチン帝国も財政の泥沼を掛け落ちたのです。
ここに救世主が現れました。優れた武将であるとともに貴族出身のアレクシオス1世コムネノスでした。何をしたかというと、国家破産を宣言し、寄生虫たちに支払いを停止したのです。彼は自分と同じ貴族たちを帝国を支える柱として、従来の貴族や古い官位を無価値にし、総入れ替えを行ったんです。過去の国債を紙くずにしたのです。ちゃぶ台をひっくり返したのです。新しい貴族たちには新しい官位を与えこの体制に協力させた。こうするしかなかったでしょう。日本もいよいよとなれば、これしかないでしょうか(43)。
こうして、大変な犠牲を出して、新たな船出をしたかと思えるビザンチン帝国ですが、相も変わらず侵攻するノルマン人、トルコ人(イスラム勢力)に手を焼き、ノルマン対策にはヴェネチア海軍の、トルコ対策には西ヨーロッパ軍・十字軍の援軍に頼ることになります。しかし、十字軍を擁する西ヨーロッパは、素朴で乱暴です。しっかり聖地エルサレムの回復という目標を持った融通の利かない田舎者達です。一方ビザンチン人はすれっからしで、ころころ提携先を変える、聖地回復などお題目に過ぎない「狡猾なギリシャ人」なのです。反りがあうわけがない。やがてこの不信感は、1204年第4回十字軍で表面化し、十字軍・ヴェネチア人がそこに(都で仲良くすみ分けていた)イスラム教徒に傍若無人の狼藉を働いたことに対し、ヴィザンチン人は異教徒イスラム教徒に同情して西欧人と戦ったことなどから、やがて十字軍からコンスタンチノープルが攻撃されてしまうことになります。その末路は哀れです。
国家は滅亡し、十字軍に占領されラテン帝国なるものが打ち立てられたり、その後もスキをついて再びヴィザンツ帝国を打ち立てたといっても名ばかりで、金はないし(ヴェネチア商人に持っていかれました)、艦隊も持たず、唯の人口10万程度の観光都市に落ちたコンスタンチノープルのビザンツ帝国は、最後まであがき続けた後1453年、オスマン帝国に滅ぼされます。コンスタンチノープルは破壊されずに、イスタンブールと改名され、オスマン帝国の都として現在に引き継がれています。
弱体化しながらも、ビザンツ帝国はキリスト教世界の、イスラム教世界からの防波堤の役割をしたことは事実です。ギリシャ正教をスラブ系民族にもたらし、彼らの文明の基礎を担った。ギリシャ・ローマの文化を保存しルネッサンスに影響を与えた。これもみな事実でしょう。しかし、彼らにもプライドがあります。そんなヨーロッパ中心の見方だけでは、西ローマ帝国がゲルマンの手に落ちたようには、異民族に屈せず、「ローマ」の理念を守った彼らからすれば、不満です。何といっても「自由と民主主義」とか言っている古代ギリシャ・ローマに比べ、「皇帝の奴隷」などと言って自己を卑下していたビザンチン人の方が、結果として女性の権利を始めとした人権の拡大も実現しました。しかも千年も持ちこたえたのです。彼らは知識人も含め、陰でではあっても、絶えず批判精神にあふれ、皇帝賛美と皇帝批判を併せ持ち続けたのでした。あの時代にそれは精いっぱいの抵抗だったでしょう。そして少しずつではあってもアヒルの水かき効果はもたらされたのです。
平等な制度ばかり整備したって、やる気のないものはやらないんです。民主主義といういい制度がつくられたって、怠惰をむさぼって自滅する者はするんです。どんな環境でもやるヒトはやるんです。だからと言って圧政がいいなどと言ってません。制度は腕力で正すものじゃないということです。個人個人の絶えることのない内なる革命の結果、後からついてくるものじゃなければ意味がないということです。
「ビザンチン人は「改革」を嫌い「伝統」に信念を持った。彼らにとって「民主主義」とは、好き勝手な権利ばかり主張する、船頭ばかりの忌むべき政体であり、正しいのは皇帝による独裁政治であった(44)」。
その後ローマの亡霊(帝国理念や宗教)は、今度はロシアに受け継がれ、ロシアは第3のローマとして、東方正教会(ロシア正教)の中心を担っていきます。
ビザンチン帝国の盛衰はこれで終わりです。
さー、皆さんは、どう考えますか。
注38) 井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P59
注39) エドマンド・バーグ「フランス革命の省察」PHP研究所2011年3月P317
注40)井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P164
注41)同 P168
注42)円安政策
どういうことかというと、円安政策でカネの価値を下げたのだから、株を買う代金も以前よりたくさん払わなければ買えない。だから、当然金額は高くなる、つまり株が上がるわけで、何も価値が上がったわけではない。金の価値が下がった分だけ修正が入っただけなんです。食料自給率が低く輸入品に依存する日本で、円安は商品の値上げに等しい。円が1ドル80円だったものが100円に成るということは、今80円出せば買えていたバナナが100円出さなければ買えなくなったということで(株価も同じで)、25%の実質値上がりです。全部輸入品で暮らすわけではないにせよ、理屈としては20万の給料をもらっていた人は、実質25%引きの15万に引き下げと同じです。そこに気付かない。じゃーその差額はどこに消えるのか。輸入元にじゃないですよ。過去に(円安になる前から))株を持っていた人間の株が上がったり、輸出企業の決済金額が跳ね上がったりつまり、そっちにカネが移されてしまったのです。態の良い略奪をされたともいえるわけです。つまり騙されたわけです。ミクロにズームインすれば、こういうことになります。今ロンドンでEU離脱に関わるポンドの下落が騒がれていますが、株は上がっているから悪いことばかりじゃない。輸出企業はもうかっているなどと報道されていますが。株は上がっているんじゃない、下落したポンドで換算しなおした修正が入っているだけです。その瞬間を跨いで株を保有していたり、輸出と決裁をした企業が差額を一時的に手にしただけです。差額はどこから来たのかは、日本と同じです。
日本の株高はそればっかりじゃない。日銀や年金基金があれだけたくさん買っていれば上がるのは当然。株式市場は既に(民間の)自由市場ではなく、(国が大株主ばかりの)統制市場になっている。マスコミも民間も政府の顔色ばかり窺っている。マスコミも批判ができなくなっている。それでも実効果は庶民には徐々に来るから実感がわかないで、なんとなく収支が苦しくなってくる。日銀にまで国債を買わせて、つまりますます大量に、裏付けのない、薄めて増やしたカネを増やし、見かけを大事にする。そうしておいて、人口比率も投票率も高い高齢者に対しては、陰でこそこそ物価スライドと給与スライドの両方を組み合わせた年金法案を通してしまう。物価が上がっても給与が上がっていないからと年金は据え置き(又は下げる)、だからと言って給与が上がっても物価は上がっていないからと年金は据え置き(又は下げる)という大変巧妙な仕組みで、何とも情けない。人口比率が少なく投票率の低い若者に対しては、怖くないから堂々と派遣改悪法を通して、若者潰しを平気でやった。安い給与でも親のすねをかじることができるうちは、大変なことという実感が湧かないから気付かない。その親も何時かはいなくなる。その時初めて、こんな給与や待遇では結婚もできないと慌てる。その時はもう遅い。いよいよ老人に矛先を変えたのでしょう。無理だったから下げますと正直に言えばいい。本当にカネを回したいなら、資産をしこたま貯め込んで動かさない老人たちに対し、相続税をゼロにすれば若い世代にカネは一気に向かい回り出します。怖くてできないですかね。そんなことできるわけがないだろうと、馬鹿にして笑うくらいしかできないんでしょうか。又本当に信用できる政府なら、増税にも耐えなければならないでしょう。批判もできない、バランス感覚も持てない国民なら、投票権など猫に小判でしょう。どう思いますか。ちょっとミクロに政治的に入り込みすぎました、すみません。
注43) 起死回生策は切り捨て御免のこと
このままでは、いずれ、日本もビザンチン帝国が落ちったときのように、この現象がやってこないとは言えません。国債は紙くずになりかねない。確かにアメリカのように日本や中国から大量に国債を買ってもらっているということは無いかもしれない。又国民の預金残高が国債残高を上回っているから大丈夫だというでしょう。日本は世界最大の債権大国だというでしょう。しかしその根底である貨幣自体が、「信用」で成り立つものである以上、一たび不安に火が付けばそんな理屈は、全く通用しない。相手は素直な日本国民だけじゃないんです。既に世界とつながった時代なんですから。相互依存の「新しい中世」に入っているんですから。いい加減に目を覚ましましょう。実は我々はそんなに金持ちじゃー無いんです。俄か成金なんです。税収の何倍の暮らしをしているか考えただけで判ります。これは一面的な見方かも知りませんが。さー、皆さんはどう考えますか。話がまた政治的になってしまいました。これではGDPの大きさで国の格付けをするの愚に陥った人たちと変わりません。すみません。
注44) 井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P274
キリスト教の歴史のところで、コンスタンチヌス帝の改宗について述べましたが、その後東ローマ帝国はどこに向かったのでしょうか。東ローマ帝国は、この名前が示す通り、「ローマ」という建前(伝統)が何より大切な国であり、その実はギリシャ人であり、ギリシャ語を用いていた。あたかも中世ドイツが、ローマという名(神聖ローマ帝国)を欲したように。それが1000年を生き抜くプライドでした。
968年、神聖ローマ皇帝オットー一世の使節としてコンスタンティノープルを訪れたリュートプラントは、ローマ教皇から帝冠を受けたものの、自分にもローマ皇帝の称号を認めてもらいたいというオットーの申し出を持って東ローマ帝国のニケフォロス二世を訪ねたが、ローマ皇帝は一人という信念に難色を示された。オットーはローマ帝国の伝統を真に継いでいるのはビザンチンであることを認めているからこそ訪ねたのに。その時、とりなしに入ったローマ教皇が、ニケフォロス二世のことを(本当のこととはいえ)「ギリシャ人の皇帝」と呼んだから大変。申し出は却下され、わざわざ慕って来たにもかかわらずリュートプラントも、今後ローマ人の皇帝と呼ぶことを約束されてはじめて帰国を許される始末で、土産の高級絹織物も持ち出しを禁止され、コンスタンチノープルに来る人の最大の楽しみをも奪われた。 (神聖)「ローマ皇帝」オットーの使者と名乗ったことが怒らせたのだという。彼は「ギリシャ人を信じるな」という詩を作って憂さを晴らすしかなかったという。これほど「ローマ」という建前は互いに重要だったわけです。
この国家イデオロギーは、コンスタンチヌスにふさわしく2つの顔を持った矛盾したものであり、「支配者たちのものである〈ローマ理念〉に、民衆の心を深く捉えた〈キリスト教〉を融合させた(38 )」もので、国家と宗教が一体となった文明は人間の自由と発展は阻害されるであろうと、マルクスに「最悪の国家」と呼ばせたものでした。しかし、現実は必ずしもそうではなかった。市民は気に入らなければ過去の皇帝を引き合いに出して、間接的にではあるが、容赦なく批判した。過去の皇帝に対する批判は珍しくなかった。マルクスもそうですがどうもこっち系統の人たちは、形(制度)ばかりにこだわって、肝心のその中での暮らしやその機微についてはどうでも良いと、たかをくくっているきらいがあるようです。お決まりのものを与えておけばいい。どっこいそこが人生なんで、「配給された平等」なんて糞くらえなんです。そりゃー形(制度)がいい方がいいに決まってます。だけど、中身が退屈なものではそんなもの願い下げなんです。しかも「ところ変われば品代わる、難波の葦も伊勢の浜荻」であって、一律じゃないんです。自由だろうが不自由だろうが、押し付けじゃなく自分で選べることが重要なんです。それが無い国はまずい。何でも平等にしたがる人間は、「自分だけいい思いをしたい」或いは「お前はずるい、俺にもやらせろ・よこせ」の裏返しに過ぎない。だから本末転倒で、その形を守ることが生きがいになってしまうんです。それは正義なんだから、正義のためなら何をやってもいいという話になってしまう。おまけに、他所の国にまで押し付けようとする。でも「これが正しいから従え」は、反対勢力も同じですがね。以前紹介した山極寿一さんの、人間だけができる生き方「抑制と同調」は、「私はあなたを殺害することもできる力を持っている。でもそれをしたくない。あなたと仲良くしたい。場合によってはあなたに従いたい。」であって、「強いものに従え(縄張り意識)」ではないわけです。そして「より良い選択ができる教育」が保証されればいいわけです。自由が守られればいいのです。ただしその自由も、「自由も度が過ぎれば、社会という船を一方ばかりに傾け、転覆させてしまう危険を孕む。そんなときは、わが理性の錘を反対側、即ち秩序の方に移したい。この錘はささやかなものに過ぎないが、ゆらぎ掛けたバランスを少しでも回復したい(39)」という、自己をコントロールできる自由が大切なんです。
その批判精神が、バランス感覚が持てず、一方にばかり傾き過ぎて、極論、(滅亡なんてしたくはありませんが)その結果が人類滅亡であってもしょうがないわけです。自業自得なんです。何百億年の宇宙の暦のなかで、そんな変わった生き物がいたということだけで充分でしょう。ミミズの岩石砕きではありませんが、何のためにこんな行動をとっているかなんて、とても人類などにわかるものではないのですから。自分たちだけが抜け目なく生き残ろうなんて、それこそ、人類の欲望のために犠牲になってきた数多の微生物から始まる亡くなった人間を含めた犠牲者、生物や地球や月や太陽に失礼極まりない。「存在」なんて、人類滅亡くらいで揺らぐような、そんなものじゃない。
キリスト教を公認したコンスタンチヌスの死後、ユスティニアヌス1世が、古代共和制との決別を果たしたものの、後継者はその威光を守れず、国家の危機は続いていた。610年カルタゴの将軍ヘラクレイオスは難なくコンスタンチノープルを攻め落とし、皇帝に即位した。彼は当初、宿敵ペルシャに後れを取り、一時は逃亡も図ったものの、戦場で泥にまみれ祖国のために命をかけて戦い続け、ついには宿敵ペルシャを倒した。彼は、宮殿の中で快適な生活をしており何の戦いもしていないユスチニアヌスが大帝と呼ばれるのに比して、後継者問題にしくじったというだけで厳しい評価を下されたのです。いくら一生懸命に古代ローマの皇帝の栄誉を復活させようとしても、時代は既に中世に向かっていたのです。
又対イスラム戦争の功績者でもある優れた軍人皇帝コンスタンチヌス5世は、偶像崇拝を禁止し、反対する者は修道士であろうと弾圧・処刑した。彼は「サラセン好み=偶像崇拝を禁止するイスラム教風という意味で」とそしられ、「糞」とさげすまれた。
コンスタンチヌスの甥である、背教者ユリアヌスのように、コンスタンチヌスの2つの顔を嫌い、ローマ古来の信仰に戻った皇帝もいた。ビザンツ人は、あんな専制皇帝の下でもしっかり批評していた(選んでいた)のです。そんな「やわ」じゃ無かった。
ビザンツ帝国は、建前と現実を使い分け、ある時は強靭な国家となり、ある時は創造性ある文明を開化させたのです。
国の威信をかけて5年5万人の労力を動員し完成させた巨大なドームを持ち、壁画やモザイクで飾られた「聖ソフィア大聖堂」は、ロシア人がキエフを首都とした頃、イスラム・ユダヤ・カトリック・ギリシャ正教のどれを国家宗教にしようかと迷っていたウラジミル公に、宣教師の勧めるギリシャ正教に引かれつつ調査団を派遣し、その報告する、「他の教会で行われている典礼はさっぱり美しさを感じないが、聖ソフィア教会での式典はこの世のものとは思われない美しさに満ちていた(40 )」という内容にギリシャ正教を選ぶ決意をさせたほどに強い魅力を持っていました。また、ビザンチンの美しい絹織物は「大英帝国にとっての石炭、アメリカの世界戦略の要の石油に当たるものが、ビザンチンの絹である(41)」とさえ言わしめました。
6世紀にはイベリア半島南部からエジプト、シリア、黒海沿岸、ドナウ川以南のバルカン半島、イタリア半島を配下に収めていたビザンツ帝国も、7世紀からのイスラム勢力の征服に後退し、穀倉地帯のエジプト、商業地帯のシリアを奪われ弱体化してくる。それでも「ギリシャの火」と呼ばれる石灰と松脂と硫黄、精製油などを組み合わせた武器や、バシレイオス2世など、3代の優秀な軍人皇帝時代の重装歩兵部隊を駆使して、不死鳥のように何度も蘇り、強大な帝国が維持されたのです。優秀な軍隊は、軍役につく代わりに税金を免除される、やる気のある兵士たちから構成されていました。
しかし、これも長期の遠い遠征が続けば、農作業も行えず、村を捨て、土地を捨て、有力貴族のもとに走るようになる。中国や日本の中世の荘園と同じですね。ここに進んでいた変化は、兵農分離でした。彼らと貴族たちは「戦う人」に、その貴族の土地で働く小作農民は「働く人」に分かれていきます。貴族たちは力をつけ、皇帝の家臣から、友人へ変化していきます。早い話が文明人に、変わり身の早い、すれっからしになっていくのです。
11世紀のコンスタンチノープルはヨーロッパとアジア、地中海と黒海を結ぶ十字路に位置し、国際商業都市として栄えていました。ビザンチン帝国の発行するノミスマ金貨は、国際通貨として使われ、「中世のドル」とも呼ばれました。しかし政府の中身は徐々に生産より消費に、働かずにうまいこと儲けようの気風が強くなります。彼らは「働く人」「祈る人」「戦う人」の他に「儲ける人(ブルジョワ)」がいなかったんですね。西ヨーロパがやったように(注36で述べたように、商人を贈与慣習の世間に加えてやり、富のやり場を、教会への寄贈によって彼らの来世の安泰を保証するという形で、作ってやることで、教会も商人も双方が栄えるという方法)、商人を教会や修道院のヒエラルキーやネットワークの活力に使うことをしなかった。商人を育てなかった・甘く見たんですね。結局ヴェネチアの商人たち或いは北海・バルト海の商人たちを蔑んで利用するだけの、身分外に置いた。これが最後には命取りとなりました。
安上がりだった農民兵はもう使えなくなって、外敵侵入に対し傭兵を雇うというローマ帝国が嘗て陥ったコースを辿ります。安易に増税すれば農民は逃亡してしまう。こうして「禁じ手」に手を染めるわけです。赤字国債です(わが国もこの病気にすっかり麻痺していますね。まだまだ大丈夫と・・)。即ちここでは「官位販売」という形をとりました。購入者の狙いは、年金付きというところです。一度手を染めたごまかしはなかなか止められません。こうして国家に寄生する連中はとめどなく増加していきます。国債を返還しようにも農村は兵農分離が進み、農民は減り、税収は増えない。困った政府は金貨改悪などで対抗しますが、これは実質的な給与の引き下げですから利にさといビザンチン人が黙っていない。より高い官位への昇進を求める。こうして寄生虫だらけとなった。日本でいえば円安政策と株や債券の投資家・輸出企業対策ですね。人の良い日本人は騙されていることも知らず、株が上がったから、景気も良くなるだろうと喜んでいる。或いは俺たちに関係ないと言い放っている。とんでもない大ありなんです。上がった分の金額はどこからか突然わいてきたんじゃないんです。関係のないはずの我々の金が、分捕られているんです(42)。
また逸れてしまいましたが、こうしてビザンチン帝国も財政の泥沼を掛け落ちたのです。
ここに救世主が現れました。優れた武将であるとともに貴族出身のアレクシオス1世コムネノスでした。何をしたかというと、国家破産を宣言し、寄生虫たちに支払いを停止したのです。彼は自分と同じ貴族たちを帝国を支える柱として、従来の貴族や古い官位を無価値にし、総入れ替えを行ったんです。過去の国債を紙くずにしたのです。ちゃぶ台をひっくり返したのです。新しい貴族たちには新しい官位を与えこの体制に協力させた。こうするしかなかったでしょう。日本もいよいよとなれば、これしかないでしょうか(43)。
こうして、大変な犠牲を出して、新たな船出をしたかと思えるビザンチン帝国ですが、相も変わらず侵攻するノルマン人、トルコ人(イスラム勢力)に手を焼き、ノルマン対策にはヴェネチア海軍の、トルコ対策には西ヨーロッパ軍・十字軍の援軍に頼ることになります。しかし、十字軍を擁する西ヨーロッパは、素朴で乱暴です。しっかり聖地エルサレムの回復という目標を持った融通の利かない田舎者達です。一方ビザンチン人はすれっからしで、ころころ提携先を変える、聖地回復などお題目に過ぎない「狡猾なギリシャ人」なのです。反りがあうわけがない。やがてこの不信感は、1204年第4回十字軍で表面化し、十字軍・ヴェネチア人がそこに(都で仲良くすみ分けていた)イスラム教徒に傍若無人の狼藉を働いたことに対し、ヴィザンチン人は異教徒イスラム教徒に同情して西欧人と戦ったことなどから、やがて十字軍からコンスタンチノープルが攻撃されてしまうことになります。その末路は哀れです。
国家は滅亡し、十字軍に占領されラテン帝国なるものが打ち立てられたり、その後もスキをついて再びヴィザンツ帝国を打ち立てたといっても名ばかりで、金はないし(ヴェネチア商人に持っていかれました)、艦隊も持たず、唯の人口10万程度の観光都市に落ちたコンスタンチノープルのビザンツ帝国は、最後まであがき続けた後1453年、オスマン帝国に滅ぼされます。コンスタンチノープルは破壊されずに、イスタンブールと改名され、オスマン帝国の都として現在に引き継がれています。
弱体化しながらも、ビザンツ帝国はキリスト教世界の、イスラム教世界からの防波堤の役割をしたことは事実です。ギリシャ正教をスラブ系民族にもたらし、彼らの文明の基礎を担った。ギリシャ・ローマの文化を保存しルネッサンスに影響を与えた。これもみな事実でしょう。しかし、彼らにもプライドがあります。そんなヨーロッパ中心の見方だけでは、西ローマ帝国がゲルマンの手に落ちたようには、異民族に屈せず、「ローマ」の理念を守った彼らからすれば、不満です。何といっても「自由と民主主義」とか言っている古代ギリシャ・ローマに比べ、「皇帝の奴隷」などと言って自己を卑下していたビザンチン人の方が、結果として女性の権利を始めとした人権の拡大も実現しました。しかも千年も持ちこたえたのです。彼らは知識人も含め、陰でではあっても、絶えず批判精神にあふれ、皇帝賛美と皇帝批判を併せ持ち続けたのでした。あの時代にそれは精いっぱいの抵抗だったでしょう。そして少しずつではあってもアヒルの水かき効果はもたらされたのです。
平等な制度ばかり整備したって、やる気のないものはやらないんです。民主主義といういい制度がつくられたって、怠惰をむさぼって自滅する者はするんです。どんな環境でもやるヒトはやるんです。だからと言って圧政がいいなどと言ってません。制度は腕力で正すものじゃないということです。個人個人の絶えることのない内なる革命の結果、後からついてくるものじゃなければ意味がないということです。
「ビザンチン人は「改革」を嫌い「伝統」に信念を持った。彼らにとって「民主主義」とは、好き勝手な権利ばかり主張する、船頭ばかりの忌むべき政体であり、正しいのは皇帝による独裁政治であった(44)」。
その後ローマの亡霊(帝国理念や宗教)は、今度はロシアに受け継がれ、ロシアは第3のローマとして、東方正教会(ロシア正教)の中心を担っていきます。
ビザンチン帝国の盛衰はこれで終わりです。
さー、皆さんは、どう考えますか。
注38) 井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P59
注39) エドマンド・バーグ「フランス革命の省察」PHP研究所2011年3月P317
注40)井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P164
注41)同 P168
注42)円安政策
どういうことかというと、円安政策でカネの価値を下げたのだから、株を買う代金も以前よりたくさん払わなければ買えない。だから、当然金額は高くなる、つまり株が上がるわけで、何も価値が上がったわけではない。金の価値が下がった分だけ修正が入っただけなんです。食料自給率が低く輸入品に依存する日本で、円安は商品の値上げに等しい。円が1ドル80円だったものが100円に成るということは、今80円出せば買えていたバナナが100円出さなければ買えなくなったということで(株価も同じで)、25%の実質値上がりです。全部輸入品で暮らすわけではないにせよ、理屈としては20万の給料をもらっていた人は、実質25%引きの15万に引き下げと同じです。そこに気付かない。じゃーその差額はどこに消えるのか。輸入元にじゃないですよ。過去に(円安になる前から))株を持っていた人間の株が上がったり、輸出企業の決済金額が跳ね上がったりつまり、そっちにカネが移されてしまったのです。態の良い略奪をされたともいえるわけです。つまり騙されたわけです。ミクロにズームインすれば、こういうことになります。今ロンドンでEU離脱に関わるポンドの下落が騒がれていますが、株は上がっているから悪いことばかりじゃない。輸出企業はもうかっているなどと報道されていますが。株は上がっているんじゃない、下落したポンドで換算しなおした修正が入っているだけです。その瞬間を跨いで株を保有していたり、輸出と決裁をした企業が差額を一時的に手にしただけです。差額はどこから来たのかは、日本と同じです。
日本の株高はそればっかりじゃない。日銀や年金基金があれだけたくさん買っていれば上がるのは当然。株式市場は既に(民間の)自由市場ではなく、(国が大株主ばかりの)統制市場になっている。マスコミも民間も政府の顔色ばかり窺っている。マスコミも批判ができなくなっている。それでも実効果は庶民には徐々に来るから実感がわかないで、なんとなく収支が苦しくなってくる。日銀にまで国債を買わせて、つまりますます大量に、裏付けのない、薄めて増やしたカネを増やし、見かけを大事にする。そうしておいて、人口比率も投票率も高い高齢者に対しては、陰でこそこそ物価スライドと給与スライドの両方を組み合わせた年金法案を通してしまう。物価が上がっても給与が上がっていないからと年金は据え置き(又は下げる)、だからと言って給与が上がっても物価は上がっていないからと年金は据え置き(又は下げる)という大変巧妙な仕組みで、何とも情けない。人口比率が少なく投票率の低い若者に対しては、怖くないから堂々と派遣改悪法を通して、若者潰しを平気でやった。安い給与でも親のすねをかじることができるうちは、大変なことという実感が湧かないから気付かない。その親も何時かはいなくなる。その時初めて、こんな給与や待遇では結婚もできないと慌てる。その時はもう遅い。いよいよ老人に矛先を変えたのでしょう。無理だったから下げますと正直に言えばいい。本当にカネを回したいなら、資産をしこたま貯め込んで動かさない老人たちに対し、相続税をゼロにすれば若い世代にカネは一気に向かい回り出します。怖くてできないですかね。そんなことできるわけがないだろうと、馬鹿にして笑うくらいしかできないんでしょうか。又本当に信用できる政府なら、増税にも耐えなければならないでしょう。批判もできない、バランス感覚も持てない国民なら、投票権など猫に小判でしょう。どう思いますか。ちょっとミクロに政治的に入り込みすぎました、すみません。
注43) 起死回生策は切り捨て御免のこと
このままでは、いずれ、日本もビザンチン帝国が落ちったときのように、この現象がやってこないとは言えません。国債は紙くずになりかねない。確かにアメリカのように日本や中国から大量に国債を買ってもらっているということは無いかもしれない。又国民の預金残高が国債残高を上回っているから大丈夫だというでしょう。日本は世界最大の債権大国だというでしょう。しかしその根底である貨幣自体が、「信用」で成り立つものである以上、一たび不安に火が付けばそんな理屈は、全く通用しない。相手は素直な日本国民だけじゃないんです。既に世界とつながった時代なんですから。相互依存の「新しい中世」に入っているんですから。いい加減に目を覚ましましょう。実は我々はそんなに金持ちじゃー無いんです。俄か成金なんです。税収の何倍の暮らしをしているか考えただけで判ります。これは一面的な見方かも知りませんが。さー、皆さんはどう考えますか。話がまた政治的になってしまいました。これではGDPの大きさで国の格付けをするの愚に陥った人たちと変わりません。すみません。
注44) 井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P274