2011年06月09日
人間とは何か(T章)
先週土曜夜、TBSテレビでの3時間スペシャル「人間とは何か」をご覧になりましたか?私は都合で後半部分しか見られませんでしたが、とても示唆に富んだ興味ある内容だったと思いました。
唯、そのテーマが余りに大きく深い・というより神秘を伴う理解を超えた高い次元の話であった為、表面をなぞるだけで、時間が来てしまった感は否めません。そこで私なりに、これと思う大事な点を、ピックアップして考えてみました。
地球は46年億年の間に何回も姿を激変させ、その度に生きものは
絶滅と繁栄を繰り返し、やがて人間が誕生したことなどを
俯瞰して…。
人間にまつわるいくつもの疑問・・・
なぜ、男と女が存在するのか?
子どもにとって父親とは何なのか?母親とは?
なぜヒトは二本足で歩くのか?
赤ちゃんはなぜかわいいのか?
なぜ人間の赤ちゃんは卵から生まれないのか?
なぜ、なぜ・・・・
人間の胎児は受胎してから30日を過ぎてから短い間に、魚類、両生類などの姿とそっくりな形を経て(まるで1億年分の進化の歴史を再現するかの様にも見えます)人間らしい形に変わっていきます。お母さんのおなかの中でごく小さな受精卵が胎児となり、ぐんぐんと成長して人間らしくなり、心が生まれていく姿は感動的です。新生児とお母さんの愛の絆とともに描いていきます。
生まれた間もない赤ちゃんの手のひらに指を乗せると、大人顔負けの強い力で手をぎゅっと握られます。これは把握反射といい、サルがお母さんの体にしがみついて移動していたころの 名残と考えられています。
後から出てきますが、地殻変動により、出現した地球の巨大な裂け目・大地溝帯はもともとあった水分豊かな熱帯雨林と違って、乾燥した広い草原でした。そこに出て行った人類の祖先は、遠くからの敵を速く察知するためもあって、立ちあがった(二足歩行)のです。
森林による日陰もままならない場所では、身体についている毛皮を脱ぎ捨て、汗を大量に出して身体を涼しくする汗腺の発達をみます。お母さんの体毛が無くなったことで、しがみつくことのできない赤ちゃんは「泣きます」。人類だけの特徴です。
人間は大人になると、泣くことは女々しいこととして、嫌います。しかし、本当にそれでいいのでしょうか?それは、全ての生物は兄弟であり、お互いの行為がお互いに強く影響し合っているという真実を、気持ちを、忘れさせようという試みに思えます。事実現代人の行っていることは、大切な仲間をわすれ、人間さえ良ければという暴走に見えます。
もっといえば、エコ(地球にやさしい)などというブームすら、上から目線で、自分たちにだけ都合のよい、飽食を生きながらえる自分勝手な都合に過ぎないと感じられます。
6500万年前、エベレスト山に匹敵する大きさの彗星が、現在のメキシコのユカタン半島に衝突、恐竜王国を滅亡させました。巨大な噴煙で日光を遮られ、激しい寒波と酸性雨の中、生き残ったのは、死肉を食べるごく小型の哺乳類でした。これが“わたし”の祖先です。
子どもを卵ではなく、お腹の中で成長させてから産むというやりかたも、恐竜から逃げるのに有利だったと考えられています。(卵のまま産んでしまうと、そこに固定され移動できない。)恐竜から逃れるために、夜ひっそりと草陰で行動していたことが幸いし、恐竜が消えた地球で爆発的に繁栄していきました。
私達人類は、死肉を食べる生き者だと言う事実から目をそむけてはならないと思います。また私はここに、なぜ赤ちゃんはおなかの中で十分成長させてから生むと言いながら、他の動物と違って生まれてすぐに立てないのか?という疑問を付け加えておきます。その答えは、最後に。
私たちは人間だけが豊かな心を持つ特別な存在だと、何となく感じながら、都会という閉ざされた空間で生活しています。しかし、ゴリラを見ていると、決してそうではないことに気付かされます。
私たちはゴリラの生態を撮影しに、アフリカ・コンゴに向かいました。シルバーバックと呼ばれるオスの子煩悩な愛と群れを守る勇気、子供たちの好奇心、空想を楽しんでいるとしか思えない表情の豊かさ…。真実を見つめるかのごとき澄んだまなこ。
「それは誤解さ。ゴリラに真実なんて判る筈もない。そんな風に見えるだけさ。」そういう声が聞こえてきそうです。でも本当にそうなんでしょうか?
それでは人間は判っているというのでしょうか?或いはいつかは判る方向に向いているというのでしょうか?
私はそれは、ヒトの傲慢だと思います。言葉を生み、環境を変え、人から人へと知識や技術を繋ぎバベルの塔を登ったとしても、それで得られるものはなんでしょう?同じところをぐるぐる回っているだけ。真実ってそういうものではない。
ゴリラとヒトは正反対の方向を向き、何もしないゴリラと知識を蓄え何でも知ろうと走り続けたヒトとが再び出会い、同じ「不思議の窓」(眼)から自然を見つめる姿は、まるでそこでサークルが閉じる完結された環のようです。結局どちらも同じだった・・・。我々は何も分かっていなかった・・・・。
進化の歴史をさかのぼれば、「強者」とはその時々の地球環境に適応した生きものということがわかります。ヒトは、確かに「強者」ではありますが、今の地球環境に適応した一形態に過ぎないのです。地球環境が変われば絶滅しても不思議ではない、ひとつの種…。
しかし、私たち人間はまた、生命38億年の歴史の中で、叩かれても襲われてもどんなに厳しい環境変化の中でも、逞しく生き抜いてきた生きものたちの子孫あることも確かなのです。
そして、今、地球上に生きているすべての“命”が、一緒に生き延びた兄弟であり、互いに深く関わりあっているのです。
“命”の底知れぬパワーとは、何と素晴らしいものなのでしょうか!
というエンディングで終了しました。
さーこのエンディングで、最後に問われた、「人間と他の生物との決定的な違いは?」という問いに、「人はその時々の地球環境に適応してきたということに加えて、生きる為に「環境」を変える力を持った生き者だ。」という結論とともに、それゆえその環境を変える行為が、周囲の生き者の環境を変え、まわり回って、我々を苦しめることに繋がりつつあることに警告を発して終わりました。
まさしく、今問われている人類の課題でもあります。でも私にはいくつか期待外れのところが散見されました。
紙面の関係で、その全てを述べることはできませんが、「人間と他の生物との決定的な違いは?」という問いに、一つだけ私は、ヒトが「ネオテニー」という遺伝子戦略をとったことだと付け加えたいと思います。
(続く)
唯、そのテーマが余りに大きく深い・というより神秘を伴う理解を超えた高い次元の話であった為、表面をなぞるだけで、時間が来てしまった感は否めません。そこで私なりに、これと思う大事な点を、ピックアップして考えてみました。
地球は46年億年の間に何回も姿を激変させ、その度に生きものは
絶滅と繁栄を繰り返し、やがて人間が誕生したことなどを
俯瞰して…。
人間にまつわるいくつもの疑問・・・
なぜ、男と女が存在するのか?
子どもにとって父親とは何なのか?母親とは?
なぜヒトは二本足で歩くのか?
赤ちゃんはなぜかわいいのか?
なぜ人間の赤ちゃんは卵から生まれないのか?
なぜ、なぜ・・・・
人間の胎児は受胎してから30日を過ぎてから短い間に、魚類、両生類などの姿とそっくりな形を経て(まるで1億年分の進化の歴史を再現するかの様にも見えます)人間らしい形に変わっていきます。お母さんのおなかの中でごく小さな受精卵が胎児となり、ぐんぐんと成長して人間らしくなり、心が生まれていく姿は感動的です。新生児とお母さんの愛の絆とともに描いていきます。
生まれた間もない赤ちゃんの手のひらに指を乗せると、大人顔負けの強い力で手をぎゅっと握られます。これは把握反射といい、サルがお母さんの体にしがみついて移動していたころの 名残と考えられています。
後から出てきますが、地殻変動により、出現した地球の巨大な裂け目・大地溝帯はもともとあった水分豊かな熱帯雨林と違って、乾燥した広い草原でした。そこに出て行った人類の祖先は、遠くからの敵を速く察知するためもあって、立ちあがった(二足歩行)のです。
森林による日陰もままならない場所では、身体についている毛皮を脱ぎ捨て、汗を大量に出して身体を涼しくする汗腺の発達をみます。お母さんの体毛が無くなったことで、しがみつくことのできない赤ちゃんは「泣きます」。人類だけの特徴です。
人間は大人になると、泣くことは女々しいこととして、嫌います。しかし、本当にそれでいいのでしょうか?それは、全ての生物は兄弟であり、お互いの行為がお互いに強く影響し合っているという真実を、気持ちを、忘れさせようという試みに思えます。事実現代人の行っていることは、大切な仲間をわすれ、人間さえ良ければという暴走に見えます。
もっといえば、エコ(地球にやさしい)などというブームすら、上から目線で、自分たちにだけ都合のよい、飽食を生きながらえる自分勝手な都合に過ぎないと感じられます。
6500万年前、エベレスト山に匹敵する大きさの彗星が、現在のメキシコのユカタン半島に衝突、恐竜王国を滅亡させました。巨大な噴煙で日光を遮られ、激しい寒波と酸性雨の中、生き残ったのは、死肉を食べるごく小型の哺乳類でした。これが“わたし”の祖先です。
子どもを卵ではなく、お腹の中で成長させてから産むというやりかたも、恐竜から逃げるのに有利だったと考えられています。(卵のまま産んでしまうと、そこに固定され移動できない。)恐竜から逃れるために、夜ひっそりと草陰で行動していたことが幸いし、恐竜が消えた地球で爆発的に繁栄していきました。
私達人類は、死肉を食べる生き者だと言う事実から目をそむけてはならないと思います。また私はここに、なぜ赤ちゃんはおなかの中で十分成長させてから生むと言いながら、他の動物と違って生まれてすぐに立てないのか?という疑問を付け加えておきます。その答えは、最後に。
私たちは人間だけが豊かな心を持つ特別な存在だと、何となく感じながら、都会という閉ざされた空間で生活しています。しかし、ゴリラを見ていると、決してそうではないことに気付かされます。
私たちはゴリラの生態を撮影しに、アフリカ・コンゴに向かいました。シルバーバックと呼ばれるオスの子煩悩な愛と群れを守る勇気、子供たちの好奇心、空想を楽しんでいるとしか思えない表情の豊かさ…。真実を見つめるかのごとき澄んだまなこ。
「それは誤解さ。ゴリラに真実なんて判る筈もない。そんな風に見えるだけさ。」そういう声が聞こえてきそうです。でも本当にそうなんでしょうか?
それでは人間は判っているというのでしょうか?或いはいつかは判る方向に向いているというのでしょうか?
私はそれは、ヒトの傲慢だと思います。言葉を生み、環境を変え、人から人へと知識や技術を繋ぎバベルの塔を登ったとしても、それで得られるものはなんでしょう?同じところをぐるぐる回っているだけ。真実ってそういうものではない。
ゴリラとヒトは正反対の方向を向き、何もしないゴリラと知識を蓄え何でも知ろうと走り続けたヒトとが再び出会い、同じ「不思議の窓」(眼)から自然を見つめる姿は、まるでそこでサークルが閉じる完結された環のようです。結局どちらも同じだった・・・。我々は何も分かっていなかった・・・・。
進化の歴史をさかのぼれば、「強者」とはその時々の地球環境に適応した生きものということがわかります。ヒトは、確かに「強者」ではありますが、今の地球環境に適応した一形態に過ぎないのです。地球環境が変われば絶滅しても不思議ではない、ひとつの種…。
しかし、私たち人間はまた、生命38億年の歴史の中で、叩かれても襲われてもどんなに厳しい環境変化の中でも、逞しく生き抜いてきた生きものたちの子孫あることも確かなのです。
そして、今、地球上に生きているすべての“命”が、一緒に生き延びた兄弟であり、互いに深く関わりあっているのです。
“命”の底知れぬパワーとは、何と素晴らしいものなのでしょうか!
というエンディングで終了しました。
さーこのエンディングで、最後に問われた、「人間と他の生物との決定的な違いは?」という問いに、「人はその時々の地球環境に適応してきたということに加えて、生きる為に「環境」を変える力を持った生き者だ。」という結論とともに、それゆえその環境を変える行為が、周囲の生き者の環境を変え、まわり回って、我々を苦しめることに繋がりつつあることに警告を発して終わりました。
まさしく、今問われている人類の課題でもあります。でも私にはいくつか期待外れのところが散見されました。
紙面の関係で、その全てを述べることはできませんが、「人間と他の生物との決定的な違いは?」という問いに、一つだけ私は、ヒトが「ネオテニー」という遺伝子戦略をとったことだと付け加えたいと思います。
(続く)
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