2014年09月29日
B先生へ(中井久夫氏とシャスティン・モベリに学ぶ教育の環境) 2
【続き】
人間の行動は、「満足を求める行動」と「安全保障感確保の行動」に大別されるといいます。「満足を求める行動」は人間本来生の充実の現れであり、喉が渇けば水を求める行動から、山に登ったり、微妙な知的問題を解くに至るまで同じであり、対人関係の愛や友情も、フェアな競争関係もここに入ります。
これに対し「安全保障感確保の行動」は「自分は安全に庇護されている」と言う感じが脅かされている時、それを守り、この恐怖を出来るだけ遠ざけようとする行動であり、生命活動の自然の発露でなく不安や恐怖に対する意識的な防衛作戦であるようです。
問題なのは、教育に於いて「満足追求行動」の比率が減り、「安全保障感追求の行動」が主流となっていることです。今日の様な、教育と社会的地位の上昇がセットとなっている社会に於いては、教育の本来は置き去られ、「入試に失敗したら大変である」(子ども)「この子が大学に入れなかったら大変である」(親)、「自分の生徒の進学率が下がったら大変である、学校にとっても、自分の将来にも関わってくる」(学校)、と当の学生のみならず父兄も、教育者も同一歩調をとっていることである。その果てに、感情のこもった喜びは無い。心が枯れてくる。教育全体が単色化してくる。唯難関と言うだけで、医学部や司法試験に挑戦する。医師になろうという心構えの乏しい学生が医師になる社会は不幸です。弁護士も裁判官も官僚も同様です。学生生徒も、父兄も、教師も教育の本来の価値を信じようとしないことが最大の問題でしょう。この考え方は我が国において、長期にわたるインフレとその後のデフレにも拘わらず驚異の貯蓄率を維持していることからも推測されます。「安全保障感確保の行動」を優先しているのです。自分以外を信じられないのです。
子どもは発達しつつその日の課題にもこたえねばならぬ点で成人よりも余裕なく危ういのです。成長の為の力を割いてまで競争させる力は一体どこからきているのか。(競争が悪いわけではない。現実を見ないで競争を隠したところで意味が無い。競争一色が問題です。)官民一体となった「安全保障感追求の行動」への衝き動かしなのではないかと思います。日本経済新聞を購読していることが、何かしらのエリート意識をくすぐるのも、これでしょうか。そして、すぐれて明るかった生徒が、まじめでよい子だったばかりに、テスト・テストで目的も判らない強迫観念に憑き動かされて、友達も離れる孤独や睡眠時間の削減に向きあう。「やーめた!」と言えない性格が彼(彼女)の神経を犯し始める。この体制が必ず病気を引き起こすわけではない。しかし、今日の子どもたちが一番恐れているのは、お化けでも戦争でもなく、「生き続けていけない恐怖」かもしれない。国を挙げての「安全保障感追求の路線」から外されることではないだろうか。
私は「あそちゃん」が、日本は世界第二の経済大国だと、アメリカで公言しているのを見て、吉田茂の名もここまで落とされたか、しかもその末裔によって、とそのバカさ加減にスエ恐ろしさすら感じた。諸外国はこの言葉をどのように受け取っていたのだろうか。そしてこのような人物を、依然として永永と国会に送り続ける国民の意識を思って哀しくなった。
私はテロ化し、反抗する子どもたちに、やるならもっとフェアに、真剣にまじめに反抗してほしいと言いたい。それを真に受け止めることができない教師や教育界であるなら、テロを覆すことはできないし、そんなものは不要だとさえ思います。
学校では「答えの用意された問題。」しか与えなかった。だから優秀な生徒は「安心して」勉強できた。心に全く不安を持たない、底抜けの自信家の馬鹿さ加減。
成績が良いだけで、有利な生活環境を求めて教員資格を取得し教師となったものは、「答えの用意されていない問題」に対峙した時見て見ぬふりをする。その段階で教師の資格は無いのです。
教師は教養を教えなければならない。教養がある人(*4)とは、知識がある人と言う事では無い。どのような場面に遭遇してもそれにふさわしい行為の取れる「演技力=振る舞い力」の或る人ということだ。そこがわからない人はすぐさま教壇から去らねばならぬ。教育が、教養に向けて花開きたい衝動の上に出来るかさぶたを剥がし、それを「引き出す」ことであり、よい「聞き手」であることを身を持って実践している教師。「この先生は(脱皮に必要な経験である)秘密を守ってくれる」ことが実践で感じられてはじめて子どもは真実を話してくれる。子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはばかばかしい権威(silly authority)にだけだ(サリバン)
教育の本来を目指す試みは、少数ではあるが、一部の風変わりな教師や私学の間に脈々と続いている。
(*1)医療と看護(ナイチンゲールの努力は看護を専門職として社会に承認させることに成功した。同時にnursingの両義性が露呈される。即ち看護することであると同時にnursery rhymesが子守歌であるごとく、患者を子ども扱いする傾向であった。ナポレオン時代の医療体制の整備に始まり、大学にaffiliateされた研究中心の都市病院を頂点とするピラミッド型の構成が為される中、看護は医師中心の医療に組み込まれ、医療補助者として位置付けられた。同時に看護者は次第に管理者になり下がった。独自を追求する道を選ばず、医療を補完する道を選んだ。医療が見放した(やり散らかした)患者を救いうるのは、看護では無かったのか?「だいじょうぶだよ、ゾウさん」!by ローレンス・ブルギニョン)
看護は本来医療の上に立つべきものではないのか。
( *2 )魔女狩りは、中世に起こった出来事では無い。ルネッサンスという時代の変動期の悲劇であり、中世末期の民衆がそれに悩みつつその原因を知りえなかった、騎士層の没落や自治都市の崩壊、農村の荒廃、ペスト、地球寒冷化などを背景とした時代の衰退、豊饒性喪失感に乗じた、ルネッサンス官僚の失職対策であり、異能への化けの皮が剥がれた時、その責任転嫁の結果、血祭りにされた弱者(現在でいうところの精神を病んだ人達)への集団排除と財産略奪である。
恐怖に駆られた民衆と失政非難集中を恐れた官僚たちとの、共同正犯である。
支配者層がかくも強烈な集団被害妄想にかかることは稀であって、400年後に「我が闘争」をテキストとした人達や、我が先祖たちの西欧に憧れながら持った強烈な劣等感の裏返しによる集団狂気まで待たねばならない。
(*3)いじめの構造は3段階を経て完成されると言われる。
*周囲を強制的にいじめる側に引き寄せる「孤立化」の段階。
初期段階で先に行い、よもやこのような大ごとになるとは思えない段階だから可能な、標的周知作戦。教師さえ油断から「そう言えばあいつ、そんなところがあるなあ」と同調してしまう。家庭連絡ノートに書くかもしれない。その軽い気持ちが、被害者を家庭からも孤立させる。被害者は自分は(このくらいは)いじめられても仕方ないな という気持ちを植え付けられていく。この被害者の思い込みが加害者と傍観者を勇気付ける。
*次は「無力化」作戦である。この為の「孤立化」に成功した加害者は、通常ならすぐに問題化する暴力を慎重に行使する。周囲は既にこちら側に引き寄せてある。わづかな反抗を見逃さず懲罰を下す。反撃は一切無効であると信じ込ませる為だ。周囲も嘗て同調したり、見過ごした手前、戒めにくい。自分は指摘する価値が無いとスルーすれば、しめたものだ。その間隙をぬって効果的に暴力を行使する。反抗が悪いことのように思えてくる。大人に訴え出ることには最もきつい懲罰を与え、僅かに残った自尊心を利し、その行為は卑怯であるという道徳教育を施す。(この段階は加害者にとっても、乗るか逸れるかの正念場である。一つ間違えば、表面化しこちらが孤立する。ここでしっかり暴力を行使しておけば、後は構えだけで有効となる)
*最後が「透明化」である。古都の電信柱が、繁華街のホームレスが見えない(見たくない)ように傍観者に「選択的非注意」の見て見ぬふりを選択させる。責任の或る大人もそれなりに一面の心理を含む言い訳を用意する。曰く「自分もいじめられて大きくなった」「あいつに覇気が無いからだ」等々。もう被害者にとっていじめられなかった日は、恩寵のようにすら感じられる。その為なら、大人の前で仲良しを見せることも抵抗が無い。唯眼は笑っておらず、遊びにもダイナミズムが無い。 ここでは、最後の誇りである「家族との絆」さえ破壊させようとする。小使いから、家族から、万引きから金銭を際限なく要求。ここに至って大人の「いじめられているのでは?」は手遅れ。「何をいまさら」「もう遅い」
まるでがんの早期発見・治療に失敗した患者の如くである。
対策はと言っても、まず小さな兆しを見逃さないことである。大げさすぎるほど重大視することである。次に素早い行動である(被害者の安全確保先決)。何があっても被害者の立場に立つことを明言する覚悟を示すことによる孤立感の解消であろう。何にもまして口ばかりでなく実行ができるかであろう。学校は、世界でも稀な警察のいない無法地帯である。その状態を良しとするのであれば、その無防備の隙を突く輩には大げさと言われるほど、素早い行動ができなければならない。寝ずに加害者の監視をする覚悟を示さなければならない。そして慎重かつ敏速に裏を取る。警察が刑法の番人なら教師は心の番人でなくてはならない。「何もそこまで、という隙」をついてくるのだ。これは見えない戦争である。いち早く加害者側のアドバンテージを取りに行かなければならない。また表面上の平穏が戻ったとしても、後の「お礼参り」までも視野に入れた徹底的な対策が必要なのだ。「この学校ではいじめはもうできない」との、加害者の孤立化・無力化の後の健全な歓びの発見(加害者のケア)まで厳しく見守るという、共存化までの気の遠くなる道行きを覚悟しなければならない。※私の独断が混じっている為、正確な知識は「アリアドネからの糸」(中井久夫/みすず書房)を参照されたい。
(*4)教養とは、単なる知識の習得でなくその知識をどう生かすかの「演技力=振まい力」だと思います。チャタレー卿の妻であるコニーが森番のメラーズを愛し結婚しようと決心し、それに反対だった姉のヒルダが二人に会った時のこと。
「かれはパンを切り終わると、腰を下ろしたままじっと動かなかった。ヒルダは嘗てのコニーがそうだったように、その沈黙と孤独とにこの男の力を感じた。テーブルの上には、小さな感じやすい、『力を抜いた手』がある。この男は単なる労働者では無い。いやどうして。彼は自分を演じているのだ。ヒルダは相手の様子を窺いながら、この森番が「(貴族の)自分
などよりずっと繊細な育ちのいい人間」であることを感じざるをえなかった。」森番をしながら彼は学習し「時と場所によって使い分ける振舞いを即ち教養を身に着けていた」と言っているような気がします。 (D・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」福田恒存訳)
人間の行動は、「満足を求める行動」と「安全保障感確保の行動」に大別されるといいます。「満足を求める行動」は人間本来生の充実の現れであり、喉が渇けば水を求める行動から、山に登ったり、微妙な知的問題を解くに至るまで同じであり、対人関係の愛や友情も、フェアな競争関係もここに入ります。
これに対し「安全保障感確保の行動」は「自分は安全に庇護されている」と言う感じが脅かされている時、それを守り、この恐怖を出来るだけ遠ざけようとする行動であり、生命活動の自然の発露でなく不安や恐怖に対する意識的な防衛作戦であるようです。
問題なのは、教育に於いて「満足追求行動」の比率が減り、「安全保障感追求の行動」が主流となっていることです。今日の様な、教育と社会的地位の上昇がセットとなっている社会に於いては、教育の本来は置き去られ、「入試に失敗したら大変である」(子ども)「この子が大学に入れなかったら大変である」(親)、「自分の生徒の進学率が下がったら大変である、学校にとっても、自分の将来にも関わってくる」(学校)、と当の学生のみならず父兄も、教育者も同一歩調をとっていることである。その果てに、感情のこもった喜びは無い。心が枯れてくる。教育全体が単色化してくる。唯難関と言うだけで、医学部や司法試験に挑戦する。医師になろうという心構えの乏しい学生が医師になる社会は不幸です。弁護士も裁判官も官僚も同様です。学生生徒も、父兄も、教師も教育の本来の価値を信じようとしないことが最大の問題でしょう。この考え方は我が国において、長期にわたるインフレとその後のデフレにも拘わらず驚異の貯蓄率を維持していることからも推測されます。「安全保障感確保の行動」を優先しているのです。自分以外を信じられないのです。
子どもは発達しつつその日の課題にもこたえねばならぬ点で成人よりも余裕なく危ういのです。成長の為の力を割いてまで競争させる力は一体どこからきているのか。(競争が悪いわけではない。現実を見ないで競争を隠したところで意味が無い。競争一色が問題です。)官民一体となった「安全保障感追求の行動」への衝き動かしなのではないかと思います。日本経済新聞を購読していることが、何かしらのエリート意識をくすぐるのも、これでしょうか。そして、すぐれて明るかった生徒が、まじめでよい子だったばかりに、テスト・テストで目的も判らない強迫観念に憑き動かされて、友達も離れる孤独や睡眠時間の削減に向きあう。「やーめた!」と言えない性格が彼(彼女)の神経を犯し始める。この体制が必ず病気を引き起こすわけではない。しかし、今日の子どもたちが一番恐れているのは、お化けでも戦争でもなく、「生き続けていけない恐怖」かもしれない。国を挙げての「安全保障感追求の路線」から外されることではないだろうか。
私は「あそちゃん」が、日本は世界第二の経済大国だと、アメリカで公言しているのを見て、吉田茂の名もここまで落とされたか、しかもその末裔によって、とそのバカさ加減にスエ恐ろしさすら感じた。諸外国はこの言葉をどのように受け取っていたのだろうか。そしてこのような人物を、依然として永永と国会に送り続ける国民の意識を思って哀しくなった。
私はテロ化し、反抗する子どもたちに、やるならもっとフェアに、真剣にまじめに反抗してほしいと言いたい。それを真に受け止めることができない教師や教育界であるなら、テロを覆すことはできないし、そんなものは不要だとさえ思います。
学校では「答えの用意された問題。」しか与えなかった。だから優秀な生徒は「安心して」勉強できた。心に全く不安を持たない、底抜けの自信家の馬鹿さ加減。
成績が良いだけで、有利な生活環境を求めて教員資格を取得し教師となったものは、「答えの用意されていない問題」に対峙した時見て見ぬふりをする。その段階で教師の資格は無いのです。
教師は教養を教えなければならない。教養がある人(*4)とは、知識がある人と言う事では無い。どのような場面に遭遇してもそれにふさわしい行為の取れる「演技力=振る舞い力」の或る人ということだ。そこがわからない人はすぐさま教壇から去らねばならぬ。教育が、教養に向けて花開きたい衝動の上に出来るかさぶたを剥がし、それを「引き出す」ことであり、よい「聞き手」であることを身を持って実践している教師。「この先生は(脱皮に必要な経験である)秘密を守ってくれる」ことが実践で感じられてはじめて子どもは真実を話してくれる。子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはばかばかしい権威(silly authority)にだけだ(サリバン)
教育の本来を目指す試みは、少数ではあるが、一部の風変わりな教師や私学の間に脈々と続いている。
(*1)医療と看護(ナイチンゲールの努力は看護を専門職として社会に承認させることに成功した。同時にnursingの両義性が露呈される。即ち看護することであると同時にnursery rhymesが子守歌であるごとく、患者を子ども扱いする傾向であった。ナポレオン時代の医療体制の整備に始まり、大学にaffiliateされた研究中心の都市病院を頂点とするピラミッド型の構成が為される中、看護は医師中心の医療に組み込まれ、医療補助者として位置付けられた。同時に看護者は次第に管理者になり下がった。独自を追求する道を選ばず、医療を補完する道を選んだ。医療が見放した(やり散らかした)患者を救いうるのは、看護では無かったのか?「だいじょうぶだよ、ゾウさん」!by ローレンス・ブルギニョン)
看護は本来医療の上に立つべきものではないのか。
( *2 )魔女狩りは、中世に起こった出来事では無い。ルネッサンスという時代の変動期の悲劇であり、中世末期の民衆がそれに悩みつつその原因を知りえなかった、騎士層の没落や自治都市の崩壊、農村の荒廃、ペスト、地球寒冷化などを背景とした時代の衰退、豊饒性喪失感に乗じた、ルネッサンス官僚の失職対策であり、異能への化けの皮が剥がれた時、その責任転嫁の結果、血祭りにされた弱者(現在でいうところの精神を病んだ人達)への集団排除と財産略奪である。
恐怖に駆られた民衆と失政非難集中を恐れた官僚たちとの、共同正犯である。
支配者層がかくも強烈な集団被害妄想にかかることは稀であって、400年後に「我が闘争」をテキストとした人達や、我が先祖たちの西欧に憧れながら持った強烈な劣等感の裏返しによる集団狂気まで待たねばならない。
(*3)いじめの構造は3段階を経て完成されると言われる。
*周囲を強制的にいじめる側に引き寄せる「孤立化」の段階。
初期段階で先に行い、よもやこのような大ごとになるとは思えない段階だから可能な、標的周知作戦。教師さえ油断から「そう言えばあいつ、そんなところがあるなあ」と同調してしまう。家庭連絡ノートに書くかもしれない。その軽い気持ちが、被害者を家庭からも孤立させる。被害者は自分は(このくらいは)いじめられても仕方ないな という気持ちを植え付けられていく。この被害者の思い込みが加害者と傍観者を勇気付ける。
*次は「無力化」作戦である。この為の「孤立化」に成功した加害者は、通常ならすぐに問題化する暴力を慎重に行使する。周囲は既にこちら側に引き寄せてある。わづかな反抗を見逃さず懲罰を下す。反撃は一切無効であると信じ込ませる為だ。周囲も嘗て同調したり、見過ごした手前、戒めにくい。自分は指摘する価値が無いとスルーすれば、しめたものだ。その間隙をぬって効果的に暴力を行使する。反抗が悪いことのように思えてくる。大人に訴え出ることには最もきつい懲罰を与え、僅かに残った自尊心を利し、その行為は卑怯であるという道徳教育を施す。(この段階は加害者にとっても、乗るか逸れるかの正念場である。一つ間違えば、表面化しこちらが孤立する。ここでしっかり暴力を行使しておけば、後は構えだけで有効となる)
*最後が「透明化」である。古都の電信柱が、繁華街のホームレスが見えない(見たくない)ように傍観者に「選択的非注意」の見て見ぬふりを選択させる。責任の或る大人もそれなりに一面の心理を含む言い訳を用意する。曰く「自分もいじめられて大きくなった」「あいつに覇気が無いからだ」等々。もう被害者にとっていじめられなかった日は、恩寵のようにすら感じられる。その為なら、大人の前で仲良しを見せることも抵抗が無い。唯眼は笑っておらず、遊びにもダイナミズムが無い。 ここでは、最後の誇りである「家族との絆」さえ破壊させようとする。小使いから、家族から、万引きから金銭を際限なく要求。ここに至って大人の「いじめられているのでは?」は手遅れ。「何をいまさら」「もう遅い」
まるでがんの早期発見・治療に失敗した患者の如くである。
対策はと言っても、まず小さな兆しを見逃さないことである。大げさすぎるほど重大視することである。次に素早い行動である(被害者の安全確保先決)。何があっても被害者の立場に立つことを明言する覚悟を示すことによる孤立感の解消であろう。何にもまして口ばかりでなく実行ができるかであろう。学校は、世界でも稀な警察のいない無法地帯である。その状態を良しとするのであれば、その無防備の隙を突く輩には大げさと言われるほど、素早い行動ができなければならない。寝ずに加害者の監視をする覚悟を示さなければならない。そして慎重かつ敏速に裏を取る。警察が刑法の番人なら教師は心の番人でなくてはならない。「何もそこまで、という隙」をついてくるのだ。これは見えない戦争である。いち早く加害者側のアドバンテージを取りに行かなければならない。また表面上の平穏が戻ったとしても、後の「お礼参り」までも視野に入れた徹底的な対策が必要なのだ。「この学校ではいじめはもうできない」との、加害者の孤立化・無力化の後の健全な歓びの発見(加害者のケア)まで厳しく見守るという、共存化までの気の遠くなる道行きを覚悟しなければならない。※私の独断が混じっている為、正確な知識は「アリアドネからの糸」(中井久夫/みすず書房)を参照されたい。
(*4)教養とは、単なる知識の習得でなくその知識をどう生かすかの「演技力=振まい力」だと思います。チャタレー卿の妻であるコニーが森番のメラーズを愛し結婚しようと決心し、それに反対だった姉のヒルダが二人に会った時のこと。
「かれはパンを切り終わると、腰を下ろしたままじっと動かなかった。ヒルダは嘗てのコニーがそうだったように、その沈黙と孤独とにこの男の力を感じた。テーブルの上には、小さな感じやすい、『力を抜いた手』がある。この男は単なる労働者では無い。いやどうして。彼は自分を演じているのだ。ヒルダは相手の様子を窺いながら、この森番が「(貴族の)自分
などよりずっと繊細な育ちのいい人間」であることを感じざるをえなかった。」森番をしながら彼は学習し「時と場所によって使い分ける振舞いを即ち教養を身に着けていた」と言っているような気がします。 (D・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」福田恒存訳)
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