2011年02月16日
物語に始まる2
(続き)
少し話はずれるが、
「人間の脳の中には1000億個以上ものニューロン(神経細胞)があり、これに髭のような連絡の糸がついて(シナプスという)他のニューロンと情報のシグナルやサインを繋ぎ合っている。ニューロンはシナプスを跨ぐたびに他のニューロンとのつながりを、情報をいつも一定に解釈するパターン=回路として保存できるようになる。このパターンの回路を使い、自分と外界との関係を「意味」として解釈できるようになる。自己回路」や「物語回路」など多くの脳内ネットワークパターンがつくられる。
「意味」を覚えるに役立つのが「物語」で、幼児は「自分」を中心にして出来事の後先や物事の関係をつなげることができる・話せるようになる。
これを「自己組織化」「自己編集化」という。
すなわち「自分」、「自己」というものを少しづつ設定することで、その「自己」を仮の主語として情報を組み立てていくようになる。語れるようになる。
よって「自己」でないものは「他者・他人」としての区別ができるようになる。
「不生不滅」とは生死を超えるということよりも、「生も死もない」ということ。詰り誰も生も死も受け止めてみることができないということ。
例えば1本の草に生死を認めることができるか。発芽が誕生で枯れ果てることが死滅などと言えない。種もあるし根もある。その根は根毛の先で土壌と交わっている。どこから根で何処から土だなんて区別できない。われわれの存在も同じ。
誰も自分の生まれも判らづ、死も判らない。判ったらそれは死ではない。我々の存在は1秒ごとに汗や皮膚を外部に捨てており、1秒ごとに外の空気を吸って内に入れている。体中の細胞だって1週間で全部入れ替わっている。どこからが内部でどこからが外部だと決められるものじゃない。
よく言われる例でも、1本の鉛筆がある。これを捨てても無くならない。ゴミステーションに残る。燃やしたとしても、物質的素粒子はなくならない。詰りその全てを無くすことはできない。何かが残る。どのような形でも繋がっている。
それが「縁起」というもの。」(松岡正剛)
何か我々が、日常的に信じているもの、頼っているものが、崩れてくるような話だが、これが科学的という考え方を信奉している(或いは信仰していると言ってもいいかもしれないが)ものの正体なのだ。
アイザック・ニュウトン卿の17世紀は、ケプラーによって太陽が地球の周りを廻っているという「嘘」が暴かれ万有引力と言う真実が発見された世紀だった。その真実もアインシュタインやマックス・ブランクやパウリなどにより相対化されていった。つまり「万有引力」も当時は大発見=真実だったものが、物語に過ぎなかったことが判った。いつの時代も、真実と思われていることは、いずれは物語になるということではないでしょうか?
現代の量子物理学も、ひも理論も、いつかは物語=「嘘」になる。
我々は永遠に客観的世界を見ることはあり得ない。なぜならそれができたら、それは認識ではないから。
アマテラスの国作りや、出雲の国譲りがうそだって?そんなことは百も承知さ。人をばかにするのもたいがいにしてくれ。
我々が物語を読んでいるのは、嘘を探すためではなく、当時の認識の型、ものの考え方・感じ方を知ろうとしているのさ。
我々が歴史で守らなければならないのは、科学的にがんじがらめになった「歴史主義」ではなく、いまの我々を作ってくれた先達の喜びや悲しみやおもかげではないのだろうか?
それがその時代に採らざるを得なかった型、つまり「物語の型」ではないだろうか?聖書の「始めに言葉ありけり」は「始めに物語ありけり」のことではないだろうか?
物語万歳。イリュウジョン万歳。
宇宙人がいるかだって?
我々が宇宙人でしょ?
我々だけ、何か別格な存在なのかい?
人間以外の宇宙人もいると思うよ。何処かに。
当然でしょ、現に人間という宇宙人が存在しているんだから。
少し話はずれるが、
「人間の脳の中には1000億個以上ものニューロン(神経細胞)があり、これに髭のような連絡の糸がついて(シナプスという)他のニューロンと情報のシグナルやサインを繋ぎ合っている。ニューロンはシナプスを跨ぐたびに他のニューロンとのつながりを、情報をいつも一定に解釈するパターン=回路として保存できるようになる。このパターンの回路を使い、自分と外界との関係を「意味」として解釈できるようになる。自己回路」や「物語回路」など多くの脳内ネットワークパターンがつくられる。
「意味」を覚えるに役立つのが「物語」で、幼児は「自分」を中心にして出来事の後先や物事の関係をつなげることができる・話せるようになる。
これを「自己組織化」「自己編集化」という。
すなわち「自分」、「自己」というものを少しづつ設定することで、その「自己」を仮の主語として情報を組み立てていくようになる。語れるようになる。
よって「自己」でないものは「他者・他人」としての区別ができるようになる。
「不生不滅」とは生死を超えるということよりも、「生も死もない」ということ。詰り誰も生も死も受け止めてみることができないということ。
例えば1本の草に生死を認めることができるか。発芽が誕生で枯れ果てることが死滅などと言えない。種もあるし根もある。その根は根毛の先で土壌と交わっている。どこから根で何処から土だなんて区別できない。われわれの存在も同じ。
誰も自分の生まれも判らづ、死も判らない。判ったらそれは死ではない。我々の存在は1秒ごとに汗や皮膚を外部に捨てており、1秒ごとに外の空気を吸って内に入れている。体中の細胞だって1週間で全部入れ替わっている。どこからが内部でどこからが外部だと決められるものじゃない。
よく言われる例でも、1本の鉛筆がある。これを捨てても無くならない。ゴミステーションに残る。燃やしたとしても、物質的素粒子はなくならない。詰りその全てを無くすことはできない。何かが残る。どのような形でも繋がっている。
それが「縁起」というもの。」(松岡正剛)
何か我々が、日常的に信じているもの、頼っているものが、崩れてくるような話だが、これが科学的という考え方を信奉している(或いは信仰していると言ってもいいかもしれないが)ものの正体なのだ。
アイザック・ニュウトン卿の17世紀は、ケプラーによって太陽が地球の周りを廻っているという「嘘」が暴かれ万有引力と言う真実が発見された世紀だった。その真実もアインシュタインやマックス・ブランクやパウリなどにより相対化されていった。つまり「万有引力」も当時は大発見=真実だったものが、物語に過ぎなかったことが判った。いつの時代も、真実と思われていることは、いずれは物語になるということではないでしょうか?
現代の量子物理学も、ひも理論も、いつかは物語=「嘘」になる。
我々は永遠に客観的世界を見ることはあり得ない。なぜならそれができたら、それは認識ではないから。
アマテラスの国作りや、出雲の国譲りがうそだって?そんなことは百も承知さ。人をばかにするのもたいがいにしてくれ。
我々が物語を読んでいるのは、嘘を探すためではなく、当時の認識の型、ものの考え方・感じ方を知ろうとしているのさ。
我々が歴史で守らなければならないのは、科学的にがんじがらめになった「歴史主義」ではなく、いまの我々を作ってくれた先達の喜びや悲しみやおもかげではないのだろうか?
それがその時代に採らざるを得なかった型、つまり「物語の型」ではないだろうか?聖書の「始めに言葉ありけり」は「始めに物語ありけり」のことではないだろうか?
物語万歳。イリュウジョン万歳。
宇宙人がいるかだって?
我々が宇宙人でしょ?
我々だけ、何か別格な存在なのかい?
人間以外の宇宙人もいると思うよ。何処かに。
当然でしょ、現に人間という宇宙人が存在しているんだから。
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