2016年12月09日
第2回歴史第3部中世12【日本古代・万葉集】
〈万葉集〉
日本在来の文学であり、天皇から庶民に至るまで広く詠まれた和歌を収録した歌集(アンソロジー)である「万葉集」もこの頃(8世紀後半)に編纂されました。新しい試みがなされました。万葉仮名を使い、漢字を音訓両読みしたのです。いよいよ新しい文字へのスタートを切ったのです。
唯、古事記のところでも述べたように、万葉仮名は漢字だけで書かれており、現在私たちが読んでいるような漢字仮名交じりの和歌として再生させるには、何世紀にもわたる先人たちによる血のにじむような解読の歴史が必要でした。平安以来の学者たちもそうですが、江戸時代の古典学者・契沖、国学者・真淵、宣長らの努力に負うところが大きいのです。
当初は、斉明天皇や額田王など王族の歌が多く、呪術性・集団性・自然との融和性が目立つが、柿本人麻呂のころから枕詞や対句を駆使されて和歌の表記法も確立し、天皇制や律令国家の創設期である時代の空気を高らかに歌い上げた。
小野老(おゆ)の大宰府における望郷歌
「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(巻三・328)」はそこをよく見せてくれる。
人麻呂の名は、一人でなく集団を意味する言葉ともいわれるが、謎のままです。
彼の歌は、言霊の原理を熟知し、「代作」という方法から歌枕などを駆使して、古代日本が深い闇の中に抱える魂の世界を、皇族たち(持統天皇)に成り代わって、言葉(日本語)にして、すくい上げて見せた。皇族の気持ちを代弁したから体制側の人間(舎人・とねり=下級官人で天皇や皇族に近侍し護衛を任とした)であり、それだから駄目だなどという素朴でナンセンスなことは言いません。
この世に生きること事体が体制なのです。体制が無ければ、反体制など気取れません。
建築が芸術の母であるように、体制は言葉(文学)の母なのです。人麻呂はこの体制にあって、自らの個を殺し、集団の中に自らのエネルギーを埋没させながら、天皇を始めとした皇族の威厳や悲運を言葉に乗せて解き放ったのです。それは彼(彼等・人麻呂集団)自身の個人的な想いを越えて、更には皇族たちの思いをも越えた、日本人の普遍に届いたのでした。その普遍こそ、モラルの支配する現実から離脱した、格調の高さであり風雅です。
それは「様式(77)」
というものでした。彼は芸術家の(様式の喪失による)「孤独」など知りません。「様式」が支えてくれているからです。彼らは、ヨーロッパ中世のところでお話ししたように、アルティスト(芸術家)ではなくアルティザン (職人)という意識で共同体の為に生きたのです。
常に聴者(読者は未だ存在しません)と共にあるのです。
そういう縛りが強ければ強いほど、どこにも個性など出る幕のない、伝統や型(フォルム)に縛られれば、縛られるほど、抑えても抑えきれない昇華された「もの」が、自身の個性的な感情や思想などよりも、もっと大きな「様式」という舟に委ねられて、にじみ出てくるものなのです。様式はどんな天才といえども作り出すことなどできないし、消えてしまったら元に戻すことはできない。それは時代の無意識であり「うねり」だからです。後の能にもこの伝統や型(フォルム)の縛りと、そこから浮かび上がった様式は色濃く残存していますね。顔を隠す面こそが、「おもて」となるのです。であれば「うら」とは一体何でしょうか。
私たちが表だと、思い込んでいるものでしょうか。
「東(ひむがしの)の野に炎(かぎろい)の立つ見えて かへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ」(巻1・48)
(安騎野の東方の野の果てに曙光がさし染める(かぎろいは、陽炎ではなく、明け方東方にさす光)。振り返れば西の空に低く下弦の月が見える)
この場所でこの方向に曙光(しょこう)が輝き始め、ちょうど反対の西に月が傾く光景が成立するのは、西暦692年12月31日の午前5時50分頃だそうです。持統天皇の6年に当たり、軽皇子(かるのみこ)に付き添った人麻呂一行が、安騎野での旅宿りの朝、目の当たりにした光景です。安騎野という場所は、古代社会では多くの外来魂と触れ合うことのできる結界だったようで、当然ある目的があってそこに行ったわけです。持統天皇は天武天皇の妃であり、その死後皇位を継いだのだが、子の草壁皇子が画策の末ようやく皇位継承権を得たものの、天武の死後すぐに病死してしまい、孫の軽皇子(文武天皇)に継承させたいと願って安騎野での冬狩りが計画されたとみられます。これは漢字学者・白川静さんの見立てで、万葉的世界で最も雄大で難解といわれてきたこの「安騎野の冬猟歌」は、単に自然の美しさを詠んだ叙景歌、誰かが亡くなった孤独な挽歌だけではなく、軽皇子を皇太子として立たせるための、大嘗会(古代天皇の天皇霊の授受を行う行為)に見立てた呪術的行為だといいます。しかもこの前後は冬至に当たり、翌日から日が長くなる復活の日に当たります。冬至と王権交替は、世界中で繰り返された儀式です。この儀式は「朔旦(さくたん)冬至説」から来ていて、朔日(太陰暦で新月の日=旧暦11月一日)と冬至が重なるのは19年7か月周期といわれます(新月はまた、これから満月に向かう月の復活でもあり二重にめでたい)。持統天皇が始めたといわれます。伊勢神宮の20年遷宮もここから来ているでしょう。
下弦の月と「かげろひ」
やがて律令体制が整い、藤原一族、道鏡などの僧侶、長屋王らとの権力闘争が暗い影を落とし、追い落とされた皇族や大伴、佐伯などの旧豪族は政治の表舞台から姿を消し、摂関独裁へ傾く中、大仏造営に取り掛かる藤原仲麻呂と反対勢力との暗闘は、古代天皇制の専制の危機と仏教の権威でそれを回避しようとの体制の崩壊を暗示するものだった。公地公民制に代わる荘園制、藤原氏の摂関制度など新たな権力が育ち、他の勢力は一掃された。
こうした時代を背景とした万葉は、大伴・物部氏などの敗者を祀る「鎮魂歌集」としての姿も垣間見せます。保田與重郎が万葉集を、敗者の美学とみるのもそこにあります。
勝者は高級クラブで漢詩を書き、記紀に詩歌を載せる。敗者は時の権力者藤原一門の歌は載せずに、赤ちょうちんで万葉に和歌を載せる。壬申の乱で天武系が天下を取った後、久しぶりに復権した天智系(?)の光仁天皇の時に完成した万葉集だからこそ、(天武に敗れた)敗者に対する挽歌として万葉集は編纂されたという一面があるのは確かだと思います。
人麻呂と同世代でありながら、長生きした憶良や旅人は、藤原四家の権力の下、名門大伴氏の衰退を感じて、詩を個人的信念表白の場としてしまい、人麻呂の神話的世界観とは異にするものになった。家持に至って、名家没落の意識はこころの多くを占め、「貧窮問答歌」など、名を立てられなかった不満感がみられ、共同社会から離された孤独意識の強い近代人的悲哀が窺われます。
「悠々(うらうら)に照れる春日に雲雀あがり、心かなしも。独りし思えば」巻19・4292
「春の野に霞たなびきうらがなし。この夕光(かげ)に 鶯鳴くも」巻19・4290
とはいえ、万葉集が決して、当時の庶民の生活を詠ったものではないことも、心にとどめておくことは大事なことでしょう。平城京にしても斑鳩の郷にしても、平安京にしても、瓦屋根の建物・椅子に座っての執務など当時のハイテクの極みであり、周りは良くて檜皮葺(ひわだぶき)、地方に行けば竪穴式住居に住む人もいたのですから。万葉は防人歌、東国歌などを除いて、ようやく都会に生まれつつあった文化を詠った歌でもありました。
それでも万葉集は、「呪能が芸能に、呪詞が文芸に、集団のパフォーマンスが次第に個人のパフォーマンスとして成立(78)」する過程を、あたかも古代から近代の成立までの日本の詩歌の歴史を、150年間に亘ってデパートのように雑多に拡げてくれた玉成混淆の歌集なのです。「この一世紀半の間に、詩は神々の時代の蒙昧から抜け出して、近代の孤独の詩にまで到達する。僅か一冊の歌集でありながら、古代から近代にいたる詩的体験が圧縮されている(79)」のです。それは「日本の小説が、後の「源氏物語」の内部において、もっとも素朴なものから発展して最後に、最も近代的な「宇治十帖」の世界に到達した(80)」のと呼応しています。古代の中に近代が同居することもある訳です。
注77) 様式(スタイル)
語源的には、尖筆(とがった筆の先)の意味で、転じて文体の意味となった(ビュッフォン・「文は人なり」)。ゲーテはこの概念を芸術の主観的・理念的契機、客観的・素材的契機との調和的協同を示す最高の美的価値概念としたが、現代では芸術的形成の類型的規定性を示す概念として美学・芸術学上の重要な述語となっている。以下の諸条件によって様式区分される。@作品の素材、技巧、使用目的などA作家の個性、素質、世界観などB時代、民族、地方、流派、世代など集団的全体精神の傾向や精神的雰囲気(バロック様式、フランドル様式など)C芸術のジャンルの根本方向(音楽的、宗教画的、抒情的など)D芸術的形成の本質的可能性に基づく大局的方向(視覚的と聴覚的、アポロン的とディオニソス的、素朴的と情感的など)。
ここでは、古代ですからB〜Dを想定していただければいいと思います。
難しいですが、私などはぶっちゃけ、様式とは、卑近なところでは、作品を作ってみてもらうためには、時間内に収めなければならないとか、視聴率を上げなきゃならないとか、自営業でも、厳しい環境だったら、食べていくためには、休んだり、遊んだり出来ないという、しょうもない条件、けれども、それを守らなきゃ現実と繋がらない大事な縛りを、敵としないで、自分と一体化する生き方にも現れるものだと気楽に考えています。
また、一度味わってしまったら自分を売り渡してしまう「元気先取り」の覚せい剤や、一度知ってしまったらそこから抜け出られなくなる「自由、平等、愛」や「規律、支配、憎悪」などの固定観念にどっぷりつかり、それと戦い、もがく姿も、時代の様式を生むのかもしれません。時代の人格とでもいうものでしょうか。
注78) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P78
注79) 山本健吉「古典と現代文学」新潮文庫1960年10月P49
注80) 同P110
日本在来の文学であり、天皇から庶民に至るまで広く詠まれた和歌を収録した歌集(アンソロジー)である「万葉集」もこの頃(8世紀後半)に編纂されました。新しい試みがなされました。万葉仮名を使い、漢字を音訓両読みしたのです。いよいよ新しい文字へのスタートを切ったのです。
唯、古事記のところでも述べたように、万葉仮名は漢字だけで書かれており、現在私たちが読んでいるような漢字仮名交じりの和歌として再生させるには、何世紀にもわたる先人たちによる血のにじむような解読の歴史が必要でした。平安以来の学者たちもそうですが、江戸時代の古典学者・契沖、国学者・真淵、宣長らの努力に負うところが大きいのです。
当初は、斉明天皇や額田王など王族の歌が多く、呪術性・集団性・自然との融和性が目立つが、柿本人麻呂のころから枕詞や対句を駆使されて和歌の表記法も確立し、天皇制や律令国家の創設期である時代の空気を高らかに歌い上げた。
小野老(おゆ)の大宰府における望郷歌
「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(巻三・328)」はそこをよく見せてくれる。
人麻呂の名は、一人でなく集団を意味する言葉ともいわれるが、謎のままです。
彼の歌は、言霊の原理を熟知し、「代作」という方法から歌枕などを駆使して、古代日本が深い闇の中に抱える魂の世界を、皇族たち(持統天皇)に成り代わって、言葉(日本語)にして、すくい上げて見せた。皇族の気持ちを代弁したから体制側の人間(舎人・とねり=下級官人で天皇や皇族に近侍し護衛を任とした)であり、それだから駄目だなどという素朴でナンセンスなことは言いません。
この世に生きること事体が体制なのです。体制が無ければ、反体制など気取れません。
建築が芸術の母であるように、体制は言葉(文学)の母なのです。人麻呂はこの体制にあって、自らの個を殺し、集団の中に自らのエネルギーを埋没させながら、天皇を始めとした皇族の威厳や悲運を言葉に乗せて解き放ったのです。それは彼(彼等・人麻呂集団)自身の個人的な想いを越えて、更には皇族たちの思いをも越えた、日本人の普遍に届いたのでした。その普遍こそ、モラルの支配する現実から離脱した、格調の高さであり風雅です。
それは「様式(77)」
というものでした。彼は芸術家の(様式の喪失による)「孤独」など知りません。「様式」が支えてくれているからです。彼らは、ヨーロッパ中世のところでお話ししたように、アルティスト(芸術家)ではなくアルティザン (職人)という意識で共同体の為に生きたのです。
常に聴者(読者は未だ存在しません)と共にあるのです。
そういう縛りが強ければ強いほど、どこにも個性など出る幕のない、伝統や型(フォルム)に縛られれば、縛られるほど、抑えても抑えきれない昇華された「もの」が、自身の個性的な感情や思想などよりも、もっと大きな「様式」という舟に委ねられて、にじみ出てくるものなのです。様式はどんな天才といえども作り出すことなどできないし、消えてしまったら元に戻すことはできない。それは時代の無意識であり「うねり」だからです。後の能にもこの伝統や型(フォルム)の縛りと、そこから浮かび上がった様式は色濃く残存していますね。顔を隠す面こそが、「おもて」となるのです。であれば「うら」とは一体何でしょうか。
私たちが表だと、思い込んでいるものでしょうか。
「東(ひむがしの)の野に炎(かぎろい)の立つ見えて かへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ」(巻1・48)
(安騎野の東方の野の果てに曙光がさし染める(かぎろいは、陽炎ではなく、明け方東方にさす光)。振り返れば西の空に低く下弦の月が見える)
この場所でこの方向に曙光(しょこう)が輝き始め、ちょうど反対の西に月が傾く光景が成立するのは、西暦692年12月31日の午前5時50分頃だそうです。持統天皇の6年に当たり、軽皇子(かるのみこ)に付き添った人麻呂一行が、安騎野での旅宿りの朝、目の当たりにした光景です。安騎野という場所は、古代社会では多くの外来魂と触れ合うことのできる結界だったようで、当然ある目的があってそこに行ったわけです。持統天皇は天武天皇の妃であり、その死後皇位を継いだのだが、子の草壁皇子が画策の末ようやく皇位継承権を得たものの、天武の死後すぐに病死してしまい、孫の軽皇子(文武天皇)に継承させたいと願って安騎野での冬狩りが計画されたとみられます。これは漢字学者・白川静さんの見立てで、万葉的世界で最も雄大で難解といわれてきたこの「安騎野の冬猟歌」は、単に自然の美しさを詠んだ叙景歌、誰かが亡くなった孤独な挽歌だけではなく、軽皇子を皇太子として立たせるための、大嘗会(古代天皇の天皇霊の授受を行う行為)に見立てた呪術的行為だといいます。しかもこの前後は冬至に当たり、翌日から日が長くなる復活の日に当たります。冬至と王権交替は、世界中で繰り返された儀式です。この儀式は「朔旦(さくたん)冬至説」から来ていて、朔日(太陰暦で新月の日=旧暦11月一日)と冬至が重なるのは19年7か月周期といわれます(新月はまた、これから満月に向かう月の復活でもあり二重にめでたい)。持統天皇が始めたといわれます。伊勢神宮の20年遷宮もここから来ているでしょう。
下弦の月と「かげろひ」
やがて律令体制が整い、藤原一族、道鏡などの僧侶、長屋王らとの権力闘争が暗い影を落とし、追い落とされた皇族や大伴、佐伯などの旧豪族は政治の表舞台から姿を消し、摂関独裁へ傾く中、大仏造営に取り掛かる藤原仲麻呂と反対勢力との暗闘は、古代天皇制の専制の危機と仏教の権威でそれを回避しようとの体制の崩壊を暗示するものだった。公地公民制に代わる荘園制、藤原氏の摂関制度など新たな権力が育ち、他の勢力は一掃された。
こうした時代を背景とした万葉は、大伴・物部氏などの敗者を祀る「鎮魂歌集」としての姿も垣間見せます。保田與重郎が万葉集を、敗者の美学とみるのもそこにあります。
勝者は高級クラブで漢詩を書き、記紀に詩歌を載せる。敗者は時の権力者藤原一門の歌は載せずに、赤ちょうちんで万葉に和歌を載せる。壬申の乱で天武系が天下を取った後、久しぶりに復権した天智系(?)の光仁天皇の時に完成した万葉集だからこそ、(天武に敗れた)敗者に対する挽歌として万葉集は編纂されたという一面があるのは確かだと思います。
人麻呂と同世代でありながら、長生きした憶良や旅人は、藤原四家の権力の下、名門大伴氏の衰退を感じて、詩を個人的信念表白の場としてしまい、人麻呂の神話的世界観とは異にするものになった。家持に至って、名家没落の意識はこころの多くを占め、「貧窮問答歌」など、名を立てられなかった不満感がみられ、共同社会から離された孤独意識の強い近代人的悲哀が窺われます。
「悠々(うらうら)に照れる春日に雲雀あがり、心かなしも。独りし思えば」巻19・4292
「春の野に霞たなびきうらがなし。この夕光(かげ)に 鶯鳴くも」巻19・4290
とはいえ、万葉集が決して、当時の庶民の生活を詠ったものではないことも、心にとどめておくことは大事なことでしょう。平城京にしても斑鳩の郷にしても、平安京にしても、瓦屋根の建物・椅子に座っての執務など当時のハイテクの極みであり、周りは良くて檜皮葺(ひわだぶき)、地方に行けば竪穴式住居に住む人もいたのですから。万葉は防人歌、東国歌などを除いて、ようやく都会に生まれつつあった文化を詠った歌でもありました。
それでも万葉集は、「呪能が芸能に、呪詞が文芸に、集団のパフォーマンスが次第に個人のパフォーマンスとして成立(78)」する過程を、あたかも古代から近代の成立までの日本の詩歌の歴史を、150年間に亘ってデパートのように雑多に拡げてくれた玉成混淆の歌集なのです。「この一世紀半の間に、詩は神々の時代の蒙昧から抜け出して、近代の孤独の詩にまで到達する。僅か一冊の歌集でありながら、古代から近代にいたる詩的体験が圧縮されている(79)」のです。それは「日本の小説が、後の「源氏物語」の内部において、もっとも素朴なものから発展して最後に、最も近代的な「宇治十帖」の世界に到達した(80)」のと呼応しています。古代の中に近代が同居することもある訳です。
注77) 様式(スタイル)
語源的には、尖筆(とがった筆の先)の意味で、転じて文体の意味となった(ビュッフォン・「文は人なり」)。ゲーテはこの概念を芸術の主観的・理念的契機、客観的・素材的契機との調和的協同を示す最高の美的価値概念としたが、現代では芸術的形成の類型的規定性を示す概念として美学・芸術学上の重要な述語となっている。以下の諸条件によって様式区分される。@作品の素材、技巧、使用目的などA作家の個性、素質、世界観などB時代、民族、地方、流派、世代など集団的全体精神の傾向や精神的雰囲気(バロック様式、フランドル様式など)C芸術のジャンルの根本方向(音楽的、宗教画的、抒情的など)D芸術的形成の本質的可能性に基づく大局的方向(視覚的と聴覚的、アポロン的とディオニソス的、素朴的と情感的など)。
ここでは、古代ですからB〜Dを想定していただければいいと思います。
難しいですが、私などはぶっちゃけ、様式とは、卑近なところでは、作品を作ってみてもらうためには、時間内に収めなければならないとか、視聴率を上げなきゃならないとか、自営業でも、厳しい環境だったら、食べていくためには、休んだり、遊んだり出来ないという、しょうもない条件、けれども、それを守らなきゃ現実と繋がらない大事な縛りを、敵としないで、自分と一体化する生き方にも現れるものだと気楽に考えています。
また、一度味わってしまったら自分を売り渡してしまう「元気先取り」の覚せい剤や、一度知ってしまったらそこから抜け出られなくなる「自由、平等、愛」や「規律、支配、憎悪」などの固定観念にどっぷりつかり、それと戦い、もがく姿も、時代の様式を生むのかもしれません。時代の人格とでもいうものでしょうか。
注78) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P78
注79) 山本健吉「古典と現代文学」新潮文庫1960年10月P49
注80) 同P110