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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2016年12月02日
第2回歴史第3部中世11【日本古代・藤原一族の盛衰】
〈藤原一族の血のマネジメント〉

【黎明期】 
中臣(神の言葉を管理する神官一族)から藤原(治水技術を持つ一族)に姓の変更(73)をした藤原鎌足はいよいよ政治的に力をつけていった。藤原氏は律令国家の建設に、大きな役割を果たし、律令(74)制の下での官僚貴族としての道を早くから歩んでおり、大伴氏などの様な律令制以前からの古い職務に固執した他の氏族は、陰謀に巻き込まれたりもして、没落していった。律令制の浸透と共に、時代は以前からの天皇に対する貴族の伝統的な奉仕関係から、天皇の権力の強い、天皇との個人的な結びつきで地位が左右されるように変化し、文人としての教養・官吏としての政務能力・天皇父方の身内・母方の身内などが重用された。こうした中で母方の身内・外戚の藤原氏が勝ち残った。
鎌足の子・不比等は、娘を文武天皇の皇后にして姻戚関係をつくり左大臣にまで上りつめた。その権力は息子たち4兄弟(南家、北家、式家、京家)に引き継がれ、不比等の死(720年)後、四氏は光明子を聖武天皇の后にするため、それに反対していた天武天皇の孫で皇位継承者の長屋王をも自害に追い込み(729年)、実権を握ったが、737年4兄弟とも流行の天然痘であっけなく死亡し、藤原氏は、暫くは政治の表舞台から退けられます。当時は同じ川を飲料と排泄物処理の両方に使っていたことが流行の原因とされています。
その後四兄弟の子は、式家・宇合の子である広嗣は地方豪族と結託し広嗣の乱を起こすが敗れ、南家・武智麻呂の子である仲麻呂(恵美押勝)は、忌部氏、高橋氏、大伴氏、紀一族を追い落とし、天皇をも凌ぐ実権を握るが(757年)、道鏡を寵愛した孝謙天皇(女帝)と対立し最後にはクーデター(恵美押勝の乱)を起こし敗北する。そのあと、一度退位し、称徳天皇として再び皇位に就いた彼女は、道鏡を法皇にまで昇らせ、道鏡も皇位に就こうと画策する(宇佐八幡神託事件)も、称徳の弟・和気清麻呂や式家・藤原百川らに野望を阻止され、天皇の死後、道鏡は追放される。
光明子は光明皇后として聖武天皇との間に孝謙(称徳)を生み、彼女は女性天皇として生涯独身を通したのですが、ここで天武・聖武系の血統は絶えたのです。

 次の天皇を選ぶにあたり会議が開かれ、左大臣藤原永手(北家)、参議の藤原良継(式家)等の推す、天智天皇の孫白壁王(公仁天皇)が選ばれ、一見、天武系から天智系への転換とみられたが、どっこい公仁天皇は自身が天智系であることをアピールしたものの、その実聖武天皇の子である井上内親王(聖武天皇の子)を皇后として、二人の間に生まれた他部親王(おさべしんのう)を時期天皇にして、天武(聖武)系の復活をもくろんでいた。
左大臣・藤原永手(北家)が亡くなるとすぐに、井上皇后が公仁天皇を呪詛したとの罪で追放され、その子の他部親王(おさべしんのう=公仁天皇が次期天皇に押そうとしていた)も廃太子とされ公仁天皇の目論見も消された。式家の藤原良継(宿奈麻呂)や百川の陰謀と言われる。そこで本来家柄的に氏族出身の母を持ち、皇太子になれない山部親王(桓武天皇)に皇太子の座が転がり込んできた。母の高野新笠は百済系渡来人の娘(公仁天皇の夫人ではあったが)だった。
桓武は、式家の良継に恩義を感じていたようだが、南家の藤原吉子との子であり、豪放な性格の伊予親王をかわいがった。又南家を優遇した。未だ桓武に対する反発も強く、自身の出自を正当付けようと、長岡京(山背の国であり、母方の渡来系氏族ゆかりの地)遷都を始めとし、様々な変革を印象付けようと動いた。桓武が絶大の信頼を寄せていて、長岡京造営に当たっていた藤原種継も式家の人間だが、又母が新羅系の渡来人秦氏(古くから土木技術に優れていた)の出身でもあり親近感を抱いていた。その種継が暗殺された。桓武は怒りと共に、保守的で遷都や政策に反した考えを持っていた、大化から続く氏族や皇太子の早良親王にまで咎を追わせて葬った。しかし長岡京の立地が悪く水害や丘陵の段差などで工事は難航し、合わせて早良親王の怨霊への畏れから、再度、同じ山背の国である平安京への遷都が行われた。ところが桓武の可愛がったことがあだとなり、式家の藤原仲成の陰謀にあって伊予親王は母と共に幽閉され自殺した。この事件をきっかけに南家は没落する。
桓武の死後、即位した平城天皇は、式家の藤原良継の娘・乙牟濾(おとむろ)の子であり、神経質な男で、父の死に際しては一人で立つこともできず、幼少のころの早良皇子に続いて、吉子・伊予親王の霊にも悩まされ、すぐに譲位して上皇となった。弟である嵯峨天皇に即位させておきながら、平城上皇は、寵愛していた式家の藤原薬子(くすこ)と共に、平城京への遷都と天皇復位(「二所朝廷))を企むが、天皇側の迅速な対応で、上皇は出家、仲成は射殺、薬子は自殺し、ここに、桓武に重用され長岡京で暗殺された藤原種継以来の式家も没落し、嵯峨天皇に近づき、即位後、初代蔵人頭に就任し、後の繁栄の基礎を作った藤原冬嗣を始めとした北家の台頭を許す結果となった。
 このような事件が起きる政治的システム上の欠陥は、当時の儒教的家父長的権威に原因があった。奈良時代までの王権は、天皇だけに権力が集中するのではなく、上皇や皇后もそれぞれ政治権力を分け合っていた。それが、皇后については時代末からそれまで宮城外に独立していた皇后宮も内裏の内に取り込まれ、唐風文化の広まる中儒教的男尊女卑の風潮に押し込まれ、徐々にその地位は低下していったのですが、上皇については依然として太上天皇(上皇)として家父長としての影響力を持っていた(ただ皇后は内裏に留まり、天皇と共に住んだが故の「母后」としての人事や政治に対する影響力は、女帝になるほどのものではなくとも、依然保持していた)。

【北家台頭・摂関政治開始期】
 9世紀になり、北家の冬嗣は、有能な官吏として嵯峨天皇の信認を得て左大臣まで出世し、娘の順子を仁明天皇の妃とし、道泰親王を生んでいた。冬嗣の子・良房は、その前に既に、仁明が皇太子に立てていて、前帝・淳和天皇の子である恒貞親王を謀反の疑いで廃し(承和の変)、妹順子の子道康親王(文徳天皇)を皇太子とした。
(薬子の変の反省から、実の兄との争いを避けたいとの嵯峨天皇の思いが込められた配慮で、実の子正良親王(仁明天皇)が生まれても、最初に決めていた弟の淳和(天皇)に皇位を譲っていたし、淳和も即位後すぐに嵯峨の子正良親王を皇太子として、淳和が譲位すると、即位して仁明天皇となった。彼も淳和の希望を尊重し恒貞親王を皇太子に立てた。この互いの甥を交替で皇太子=天皇とするというやり方が混乱を招いたわけです。というより他から付け入るスキを与えた。そこに割って入ったのが、良房でした)
この後皇位は、父子相続へ変化する。

 こうして良房は、天皇家以外で初の摂政となり、橘氏、伴氏(応天門放火の犯人とされる)など文人・有能官吏タイプの人間を次々に追い落とし、次の基経とともに、北家の外戚としての地位を強固なものとしていった。宇多天皇の強い意向で右大臣となった菅原道真も、良房の孫の時平に失脚のシナリオを実行に移され、大宰府に左遷された(901年)。時平は39歳の若さで死去し、道真の祟りと噂された(時平は左大臣止まりでその生涯を閉じた)。

【延喜・天暦の治】
 その頃からの後醍醐、村上天皇までの時代の60年余りは、摂関を重用せず、天皇親政の時代として延喜・天暦の治と呼ばれ、最初の荘園整理令や古今和歌集の編集、延喜式の完成など気を吐いたが、現実には律令体制の根幹が揺らいで解体に瀕していた時代だった。承平・天慶年間(931〜947年)に、東からは平将門、西からは藤原純友と、関東の独立や瀬戸内の覇を宣言した。各地から国家への反乱が起こっていたのです。しかし、彼らは落ちぶれた軍事貴族で、地の武士集団は専門的な武士団と呼べる内容ではなく、主従関係も緩く、普段は農業に従事する兵に過ぎず、あえなく中央や大宰府から派遣された武士団に鎮圧されました。
この間も、藤原氏は時平、忠平と政治の中心からは離れず、捲土重来を期していた。

【幼帝の誕生と摂関政治の確立】
 藤原摂関家の最盛期は、藤原北家内の権力闘争を勝ち抜いた道長が築き上げました。兄弟が病死したり、娘に恵まれるという運も手伝って、権力の中枢に入った道長は、藤原家得意の娘を天皇家へ輿入れさせ(子が生まれなくとも、抜け目のない藤原氏は、敵側にも布石は忘れず、何段階にも次の手を打っておく周到さを持ち合わせていた)、生まれた子は妻の父が養育するという貴族社会の慣行を利用し、権勢を確実なものとしていった。

 まず、忠平の孫の伊尹(これまさ)・兼家は、奇行のあった冷泉天皇の皇太子(次期天皇)を決めるにあたり順当な弟の為平親王が決まれば(醍醐天皇の子である源高明の娘婿であるため)、源高明が外戚になる恐れがあり、これを退けたい思いから為平謀反の陰謀を巡らせ源高明を左遷させ(安和の変)た。そして冷泉の弟であり村上天皇と藤原安子(伊尹・兼家の妹)
との子である守平親王(円融天皇)を皇太子に立てた。
天皇の血を引く賜姓(しせい)源氏が、強かで権謀術数の藤原氏の執念に敗れた瞬間でした。未だ政治の実権を握るには叔父の関白実頼がいたものの、970年実頼が没するや伊尹は摂政、翌年には太政大臣となり、以降、外戚の摂政の控室(直廬)は内裏に置かれることになり天皇に一歩近づいた。

 円融天皇が元服すると伊尹は没し、弟の兼通が関白にまで上りつめ、このとき円融は藤原摂関家の後押しが政権運営には必須と感じ、元服後も関白を廃さず、以後摂政・関白は常置となった(兼通を関白に推したのは、円融天皇の母后であった、兼通の妹・中宮安子でした)。
その後兼通は病気で関白の職を辞したが、仲の悪い弟兼家(道長の父)を差し置いて、従兄弟の頼忠(実頼の子)に関白を譲った。兼家は娘の詮子(あきこ)が円融天皇の子・懐仁(やすひと)親王を生んだにもかかわらず、円融が詮子を差し置いて頼忠の娘遵子(じゅんし)を中宮としたことに危機感を感じていた(兼家は、娘の超子(とおこ)を冷泉天皇に、詮子(あきこ)を円融天皇の方に入れてチャッカリ両天秤を賭けていたが、結局、超子が早く死んだため、詮子の産んだ一条天皇が皇位につくことになります)。
984年円融が譲位し、冷泉天皇と藤原伊尹の娘・懐子(かいし)の子である師貞親王(花山天皇)を即位させると、懐仁親王は皇太子にはついたものの、その危機は強まった。兼家は外孫である皇太子を早く皇位に就けるため、花山天皇寵愛の女御が身籠ったまま没したことを口実に、天皇を出家に追いやり、7歳という若さであるにもかかわらず懐仁親王(一条天皇)を即位させる。頼忠は関白を辞し、兼家は右大臣でありながら念願の摂政となった。その後摂政の地位を太政官から独立した地位とし、権勢を振るい、息子たちの官位を上げていった。兼家は一条天皇が元服したので関白となり、その後間もなく出家し、長男の道隆を関白とすることで、摂関の地位の世襲化を図った。
 999年一条天皇が元服した機に、道隆の娘・定子(ていし)が入内し女御となった。
兼家は病没し、その年10月には中宮遵子は(円融天皇の)皇后となり、女御定子が(一条天皇の)中宮(75)となった(中宮定子には、「枕草子」を書いた清少納言が仕えていた)。定子はその後一条天皇の皇后となっていたが男子を生むことなく他界した。
995年道隆が病気となり、異例のスピード出世をしていた息子・伊周(これちか)に関白を譲ろうとしたが、一条天皇は許さず、道隆の弟・道兼に関白の詔を下した。ところが、この道兼、更には道隆、左大臣源重信など重要な臣下が次々と大流行の「はしか」にかかり死んでいった。残されたのは一条皇后定子の兄・伊周と、道兼の弟・道長のライバル二人だった。
結局、道長に内覧の宣旨が下った。道長を高くかっていた一条天皇の母后・東三条院詮子の強い推薦によるものだった。憤懣やるかたない伊周は、女出入りの誤解から、女好きの花山法皇に脅しで矢を射かけるという勇み足をして、戦いの場から退いていく。皇后定子は、伊周が失脚すると髪を切り出家した。それでも一条天皇の寵愛は途切れなかったという。

 この事件後道長は左大臣にも任命され、名実ともに頂点に立つ。道長は娘の彰子(あきこ)を入内させ、翌年には一条天皇の中宮とし(定子は皇后とされた)万全の体制をとった。
長女・彰子の家庭教師が、道長の愛人でもあった紫式部だった。その子の頼通迄30年にわたり栄華を極めた。頼通の娘に息子が生まれなかったことから、外戚関係のない後三条天皇の即位と共に藤原氏の力は衰えていきます。ここに天皇一族は、200年にわたる、藤原一族に支配される摂関政治から解放され、院政という変則な形ながら、藤原氏から政治を取り戻します。
とはいえ、摂関・内覧(76)政治は単に藤原氏の権力への野望だけから発したものではなく、天皇の側から命じたものであり、奈良から続く、律令国家の政治的中心であった太政官(公卿たち)の機能をそぎ、彼らを政治の決定過程から外していくのに、更には奈良時代にあっては、王権を分有していた皇后や、儒教的家父長的権威を振りかざした太上天皇(上皇)などの地位も低下させ、天皇が唯一の大権掌握者となるために、寧ろ天皇側から必要とされた制度であったことに変わりはないのです。又、上皇のいない時代の幼帝(清和天皇)の後見人の必要性が、清和天皇の外祖父に当たる藤原良房を摂政に任命させたのが摂関政治の本格的な始まりだったのです。
それは、文徳の早すぎる死という偶然もあるが、良房以降の政権基盤の盤石化故だった。もはや天皇個人の能力や資質は問題でなく、血筋さえ引いていれば可能という時代になっていった。このことは更に幼帝でやっていければ、女帝の出番はなくなるということでもあった。称徳以来、近世まで女帝は出ていない。

【道長の「この世」】
 道長は僅か1年で摂政の地位を息子の頼通に譲り、「大殿(おおとの)」として役職は保持せず、周囲の人間を操り、実権を握っていった。さらに、「奏事」と言って、今までの「官奏」の様な公卿を含む太政官が間に立った政務を排除して、摂関・内覧だけで実行してしまう改革を行ったり、東寺・西寺以外に寺を京内に建てられない原則を意識しつつ、平安京の外側の東京極大路と鴨川の間に法成寺を造営し阿弥陀堂も建てたりもした。
 本来の朱雀大路に対して、左京が中心となった中での中心的な東朱雀大路を北へ上る地点に法成寺が建てられていた。法成寺は池を中心とした寝殿造形式で、御所的な性格を備えていた。道長は外孫の後一条天皇が即位した後には、儀式の際公卿の列に加わらず、娘彰子と共に御簾(みす)の中にいる。道長は拝礼を受ける側に回ったわけです。
 娘威子(けんし)が、後一条天皇の中宮に昇る儀式を済ませ、中宮からは道長以下参列者に禄を賜った。祝いの二次会の席で、上機嫌の道長は、「親が子どもから禄をもらうというのはあるだろうか」と顔をほころばせた。そして和歌を詠もうと思うとして、

「この世をば我が世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思えば」
を口ずさむ。「得意そうな歌だが」と謙遜を楽しむ余裕だった。
道長の「我が世」とは、天皇(王権)に限りなく近づいた世(頂点)を指したのです。

そこからの下り坂は、既に道長の胸の内にも、取り巻きの胸の内にも巣食っていて、「我が世」と発した瞬間から、はっきりとした「台風の目」をもって動き出していたことでしょう。その不安は、あの、世界を「我が世」とした道長をさえ、自ら造営した法成寺の阿弥陀堂で、金色に輝く9体の阿弥陀如来像の手から伸びた蓮の組糸にすがりながら息を引き取らせたのです。

藤原氏は、この後武家である源平両氏の台頭も加わり後退を余儀なくされ、鎌倉前期には「近衛」「九条」「鷹司(たかつかさ)」「一条」「二条」の5家に分裂しますが、歴史の外には締め出されたとはいえ、常に公家社会の中においては、最高の家格を誇り、交互に摂政・関白を輩出し幕末期に至りました。



注73) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎2014年10月P68

注74) 律令
律は刑罰法、令は国家の統治組織や官人の服務規程、人民の租税・労役などを定めた行政法のこと。未だ馴染んでいない為の教令法といわれる。この為律は唐の制度を引き写した程度で、令の方に重点が置かれ、国情に合うように修正を加えたりした

注75) 中宮
平安中期以降、複数の皇后が並立するようになると、先に建てられた皇后に対し、新立の皇后には、中宮職が設置された。本来、中宮は皇后の別称だったが、このとき初めて別の地位となった。

注76) 摂政・関白・内覧・令外官 
・摂政・・
幼い天皇に代わって「政を摂る」、天皇を補佐し政務を行うことで、神事や元日朝賀などの重要な儀礼をおこなうことはできなかった。総覧者としての地位ではなかった。
・関白・・
政務に「関(あず)かり白(もう)す」の意味で、成人した天皇に代わって、政務を取り仕切る職能ではあるが、天皇の代行ではなく臣下として、天皇側に立って補佐する役割。陽成天皇のように成人しても素行に問題あり、退位させられた後の光孝天皇も、即位に力を貸した基経に恩義を感じ、関白の役職を与えたのがきっかけとなっている。関白に同じ職能で総覧者ではない。
・内覧・・・
天皇に奏上、天皇から下される文書を事前に内見すること又は行なう者。関白に準じた職務。平安中期以降に使用された。

・令外官(りょうげのかん)  
官僚制の外にあって、天皇との間に特別な役割を持つ官職。現代でいえば、ラインから外れた、社長直轄のスタッフ。監査や各種プロジェクトや経理・総務など。
藤原京時の中納言(天皇に近接し奏上・宣下を司る)、平城京時の参議(中納言に次ぐ公卿)、内大臣(左右大臣に次ぐ重職)、平安京に入っての征夷大将軍(蝦夷征討軍を率いる臨時最高指揮官)、勘解由使(国司交代時の不正防止の為の引継ぎ文書の審査)、蔵人頭(上皇に対し、天皇の機密を守る蔵人所の長)、検非違使(犯罪謙虚・訴訟・裁判も扱う)、関白(天皇の政務上の補佐、天皇の前に奏上を内覧する)などが該当する。


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