2015年01月17日
萩ノ尾古墳 福岡県大牟田市の装飾古墳
萩ノ尾古墳
大牟田市の南部、福岡・熊本の県境。
一帯には阿蘇火山の火砕流堆積物である凝灰岩が広く分布し、
この古墳でも石材には凝灰岩が使用されている。
周辺では、眼下に全長45メートルの前方後円墳である「三ノ宮古墳」を望むことができ、
初期横穴式石室を持つ「別当塚東古墳」を含む別当塚古墳群がある。
現存はしていないが、有明高専の辺りはかつて
庄原古墳群があったところである。
萩ノ尾古墳は径19メートル、高さ4メートル程の円墳で、
2000年に行われた調査では周溝は確認されなかった
調査で出土した土器から、その築造年代は6世紀後半もかなり下る時代が想定される。
墳丘内部には西に開口した副室構造の横穴式石室が組まれている。
玄室(遺体を安置した部屋)は平面長方形で、凝灰岩の巨大な一枚石を腰石に据え、
また玄室・全室の天井も巨大な一枚岩で覆われている。
奥壁には一枚の石棚が突き出し、その下にも一枚の板石が据えられている。
これは遺体を囲った「石屋形」の一部の可能性もある。
この奥壁には、赤色顔料で彩色された壁画が描かれている。
彩色は大きく二つの郡に分かれると思われ、
右上の一群はゴンドラ形の船が二艘とその間に中心を点を持つ
円文が上下に並ぶ。
左の船の下には楕円文も見える。
左下の一群には盾や弓とも見える装飾もあるが、基本的には円文や
三角文を基調とした幾何学文が描かれている。
かつては玄室の右壁にも装飾があったと伝えられるが、現在では確認できない。
石室が開口したのは古く、かつて玄室に祭られていた
石造の石座に元禄5(1692)年の銘が刻まれており、江戸時代には開口したものと思われる。
副葬品なども発見されいない。
萩ノ尾古墳は1961年、大牟田市で最初の国指定文化財となり、
その後教育委員会が石室の保存屋の設置や密閉工事など保存の手立てを講じてきた結果、
装飾の依存状態も良く、現地で壁画を充分観察することができる数少ない古墳の一つとなっている
福岡県大牟田市萩尾町
大牟田市の南部、福岡・熊本の県境。
一帯には阿蘇火山の火砕流堆積物である凝灰岩が広く分布し、
この古墳でも石材には凝灰岩が使用されている。
周辺では、眼下に全長45メートルの前方後円墳である「三ノ宮古墳」を望むことができ、
初期横穴式石室を持つ「別当塚東古墳」を含む別当塚古墳群がある。
現存はしていないが、有明高専の辺りはかつて
庄原古墳群があったところである。
萩ノ尾古墳は径19メートル、高さ4メートル程の円墳で、
2000年に行われた調査では周溝は確認されなかった
調査で出土した土器から、その築造年代は6世紀後半もかなり下る時代が想定される。
墳丘内部には西に開口した副室構造の横穴式石室が組まれている。
玄室(遺体を安置した部屋)は平面長方形で、凝灰岩の巨大な一枚石を腰石に据え、
また玄室・全室の天井も巨大な一枚岩で覆われている。
奥壁には一枚の石棚が突き出し、その下にも一枚の板石が据えられている。
これは遺体を囲った「石屋形」の一部の可能性もある。
この奥壁には、赤色顔料で彩色された壁画が描かれている。
彩色は大きく二つの郡に分かれると思われ、
右上の一群はゴンドラ形の船が二艘とその間に中心を点を持つ
円文が上下に並ぶ。
左の船の下には楕円文も見える。
左下の一群には盾や弓とも見える装飾もあるが、基本的には円文や
三角文を基調とした幾何学文が描かれている。
かつては玄室の右壁にも装飾があったと伝えられるが、現在では確認できない。
石室が開口したのは古く、かつて玄室に祭られていた
石造の石座に元禄5(1692)年の銘が刻まれており、江戸時代には開口したものと思われる。
副葬品なども発見されいない。
萩ノ尾古墳は1961年、大牟田市で最初の国指定文化財となり、
その後教育委員会が石室の保存屋の設置や密閉工事など保存の手立てを講じてきた結果、
装飾の依存状態も良く、現地で壁画を充分観察することができる数少ない古墳の一つとなっている
福岡県大牟田市萩尾町
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