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第106回 ウォーレン夫人 [2016/04/21 20:58]
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、らいてうが実家を出たのは、一九一四(大正三)年一月十三日であった。
らいてうはこの日、女中に手伝ってもらい、円窓の部屋にあった机、本箱、書棚、書物、衣類や手まわりのものを入れた行李一個、ふとん包みなどを、出入りの俥屋(くるまや)に運ばせた。
らいてうと奥村の新居は、青鞜社の事務所に近い、北豊島郡巣鴨町一一六三番地、とげぬき地蔵前の裏通り、廃兵院..
第105回 羽二重餅 [2016/04/20 22:20]
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』一九一三(大正二)年十二月号で野枝は沼波瓊音(ぬなみ・けいおん)著『芭蕉の臨終』を紹介している。
先月あたりから私には落ちついて物をよむ暇はなかつた。
今月になつて、よう/\第一に手にしたのがこの「芭蕉の臨終」だつた。
そうして私は、それを近頃になくしんみりとうれしく読むことが出来た。
(「芭蕉の臨終」/『青鞜』1913年12月号・第3巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p45..
第85回 木村様 [2016/04/15 22:15]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月二十七日の朝、野枝が目覚めて一番最初に頭に浮かんだのは、そろそろ来るだろう荘太からの手紙だった。
締めつけられるような苦しい気持ちで、床の中から出た。
辻が出かけて二十分とたたないうちに、その手紙が投げ込まれた。
御手紙只今拝見しました。
元より予想してゐた事です。
併し何にも悪い事はありません。
あなたにも私にもちつとも悪い事はありません。
..
第84回 ドストエフスキイ [2016/04/15 18:57]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月二十六日、その日の朝、野枝は疲れていたのでかなり遅く目を覚ました。
野枝はこの日もまた校正かと思うとウンザリした。
しかし、今朝は手紙が来ていないのでのびのびとしたような気持ちになり、辻に昨日、岩野清子と築地や銀座を歩いたことなどを話した。
野枝は昨日と一昨日に書いた手紙を入れた封筒を持って出て、それをポストに入れた。
野枝は苦しい手紙を書いたことが遠い遠いことのよ..
第83回 動揺 [2016/04/15 16:14]
文●ツルシカズヒコ
野枝がようやくの思いで染井の家に帰り着き部屋に入ると、机の上にまた荘太からの手紙が乗っていた。
息が詰まりそうなので、横になり目を瞑ったままじっとしていた。
二十分もたってやっとの思いで手紙を開いた。
今日私は少し苦しみ始めました。
よく/\反省すれば僕の心の中には強くあなたを得たいといふ願ひが潜んでゐるのを知つたからなのです。
僕はこの今の自分の若しみを甘受します。
苦し..
第82回 校正 [2016/04/15 11:16]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月二十五日、その日は『青鞜』七月号の校正を文祥堂でやる日だった。
野枝は荘太に宛てた第二の手紙を書き直そうと思ったが、朝出る前に書き直すのは無理だと判断し、第二の手紙を包みの中に包んで仕度をしていると、また荘太からの手紙が来た。
荘太は二十三日夜に続けて書いた二通の手紙に番地を書き落としたから、野枝の手元へは届いていないだろうと思いますと、その手紙に書いているが、野枝は二通とも受け取..
第77回 拝復 [2016/04/12 14:03]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月十四日の朝、野枝は気持ちよく辻を送り出し、机の前に座った。
木村荘太への手紙の返事を書こうと思った。
なんと書いていいかちょっと困ったが、とにかく会ってみることにして、思い切って書いた。
拝復、御手紙はたしかに拝見致しました。
暫く社の方へまゐりませんでした為めに御返事が後れました申訳が御座いません。
どうぞあしからず御許し下さい。
それから先日..
第76回 中央新聞 [2016/04/11 21:49]
文●ツルシカズヒコ
野枝が木村荘太からの手紙を、青鞜社事務所で受け取ったのは、六月十三日の朝だった。
野枝がこの日、青鞜社事務所に来たのはこの日が金曜日であり、金曜日は読者と交流を持つ日だったからであろう。
野枝はこの日のことを、らいてう(R)に宛てる手紙文スタイルで、こう書いている。
R様 こないだの金曜日はゐらつしやるかと思つて待つてゐました。
私は午前から行つてゐました。
小母さんといろい..
第75回 魔の宴 [2016/04/11 20:10]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年五月十六日。
雨が降る中、若い男が北豊島郡巣鴨町の青鞜社事務所を訪れた。
男の名は木村荘太。
荘太は応対した保持に野枝との面会を請うたが、野枝は不在だった。
野枝はその後二、三回、事務所に行ったが、保持は荘太が来たことを忘れてしまっていたので、野枝には伝えなかった。
らいてうは荘太が青鞜社を訪れたときのことを、こう書いている。
五月の或雨..
第74回 堀切菖蒲園 [2016/04/10 12:35]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月中旬。
野枝がらいてうの書斎を訪れ、奥村の話に一段落ついた後、野枝が堀切菖蒲園の話をらいてうに振った。
そのちょっと前、らいてうが田村俊子と堀切菖蒲園を訪れていたからである。
「この間の堀切行きは面白かつて?」
「えゝ、面白かつたわ。田村さんがすつかり酔つぱらつて大手をひろげて駆け出す恰好つたら……」
平塚さんはさも可笑しさうに一人で笑つた。
「..
第72回 円窓より [2016/04/09 13:17]
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p458~459)によれば、一九一三(大正二)年五月一日、らいてうの処女評論集『圓窓より』(東雲堂)が発行されたが、発売と同時に発禁になった。
「世の婦人達に」が収録されていたからである。
発禁理由は家族制度破戒と風俗壊乱だった。
野枝はこうコメントしている。
らいてうの「圓窓より」が禁止になりました。
私は何と云つて..
第71回 ホワイトキヤツプ [2016/04/07 22:20]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年四月、青鞜社の事務所は本郷区駒込蓬萊町の万年山(まんねんざん)勝林寺から、東京府北豊島郡巣鴨町大字巣鴨一一六三の借家に移転した。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p457)によれば、南湖院の仕事を辞めて青鞜社の仕事に専心することになった、保持の住居の確保のためであり、そして「青鞜」が新聞種になり来訪する新聞記者が多くなり、勝林寺の住職からやんわり立ち退きを言い渡されたから..