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第135回 ジャステイス [2016/05/03 13:19]
文●ツルシカズヒコ
しかし、野枝だけは青鞜社の仲間の中でも違った境遇にいた。
一旦は自分から進んで因習的な束縛を破って出たけれど、いつか再び自ら他人の家庭に入って因習の中に生活しなければならぬようになっていた。
野枝は最初の束縛から逃がれたときの苦痛を思い出し、その苦痛を忍んでもまだ自分の生活の隅々までも自分のものにすることのできないのが情けなかった。
野枝はそれを自身の中に深く潜んでいる同じ伝習の力のせいだと思って..
第134回 生き甲斐 [2016/05/03 12:52]
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年一月末の深夜ーー。
吹雪の中、春日町(かすがちょう)で一(まこと)を背負って電車を待っていた野枝は、二年前のあの夏の日のことを思い浮かべていた。
ヒポリット・ハヴェルが書いた「エマ・ゴールドマン小伝」を読んだあの夏の日のことをーー。
多くの人間の利己的な心から、まったく見棄てられた大事な「ジャステイス」を拾い上げることが、現在の社会制度に対してどれほどの反逆を意味するかというこ..
第129回 編輯室より [2016/04/28 12:15]
文●ツルシカズヒコ
さらに、御宿に滞在しているらいてうに手紙を書いたこと、らいてうが上京してふたりで話し合ったこと、自分が『青鞜』を引き継ぐことになった経緯を書いた。
助手の資格しかない田舎者の私がどんなことをやり出すか見てゐて頂きたい。
兎に角私はこれから全部私一個の仕事として引きつぎます。
私一人きりの力にたよります。
そうして今迄の社員組織を止めてすべての婦人達のためにもつと開放しやうと思ひます。
..
第128回 思想の方向 [2016/04/28 12:04]
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』一九一五(大正四)年一月号に、野枝は「『青鞜』を引き継ぐに就いて」を書いた。
野枝はまず、創刊からここまでに到る大づかみの『青鞜』の推移について書いた。
新しきものゝ動き初めたときに旧いものから加へらるゝ圧迫は大抵同じ形式をもつて何時もおしよせて来るやうに思はれます。
青鞜が創刊当時から今日迄加へられて来ましたあるゆる方面に於ける圧迫がこの種のものであることは今更云ふ迄もない事ですが更に..
第126回 身の上相談 [2016/04/26 20:58]
文●ツルシカズヒコ
野枝が『青鞜』の編集発行人になる件について、『読売新聞』が記事にした。
「原始女性は太陽なり」で婦人の自覚を促した「青鞜」もこの頃幹部の間に意見の扞格(かんかく)を生じたので愈々(いよいよ)平塚らいてう氏は同誌より退隠し、伊藤野枝氏が全部の責任を帯びて今後益々健闘すると云ふが事情に精通した人は野枝氏の立場に可なり同情を持つてゐるらしい。
(『読売新聞』1914年11月27日)
野枝は誤解を回避..
第125回 引き継ぎ [2016/04/26 20:17]
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年十一月、平塚明『現代と婦人生活』が出版されたが、野枝はその「序」を書いた。
らいてうさま、
ほんとうに私は嬉しうございます。
私はあなたの第二の感想集が出版されるのだと思ひますとまるで自分のものでも出すやうな心持ちがいたします。
最近の私達の生活を知つてゐるものは私達自身きりですわね、私たちは私たちの周囲の極く少数の人をのぞく他の誰からも理解や同情など云ふものを得る..
第117回 下田歌子 [2016/04/24 22:17]
文●ツルシカズヒコ
結局、『青鞜』の「三周年記念号」は十月号(第四巻第九号)になった。
野枝は『青鞜』同号に「遺書の一部より」と「下田歌子女史へ」を書いている。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の「解題」によれば、「下田歌子女史へ」は『新日本』九月号の「現代思想界の八先覚に与ふる公開状」に掲載されるはずだった。
「丁度新日本では戦争がはじまつて記事が輻輳(ふくそう)して困るから十月にまはすと云つて来た」(「下田歌子女史..
第116回 世界大戦 [2016/04/24 21:43]
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年、九月。
創刊「三周年記念号」になるはずだった『青鞜』九月号は、休刊になった。
『青鞜』の一切の仕事をひとりで背負うことになったらいてうは、疲れていた。
部数も東雲堂書店時代を頂点に下り坂に向かう一方だった。
堀場清子は『青鞜』の部数減と第一次世界大戦との因果関係を指摘している。
一九一〇年に始まった“女の時代”に、終りが来ていた。
それは“青鞜の時..
第112回 妙義神社 [2016/04/23 20:07]
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年六月、らいてうと奥村は北豊島郡巣鴨町一一六三番地から、北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地に引っ越した。
青鞜社の事務所の住所もここに移ったことになる。
野枝の家とは道路ひとつ隔てた妙義神社前の貸家だった。
野枝が家事の苦手ならいてうに、炊事を引き受けてもよいと申し出たからである。
らいてうが月十円の実費を持ち、野枝のところに昼と夜の食事をしに行くことになった。
そのころ..
第110回 読売婦人附録 [2016/04/23 13:15]
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年、保持研子(よしこ)がこの年の『青鞜』五月号を最後に青鞜社を去り、創刊時の発起人はらいてうただひとりになった。
『青鞜』八月号が保持の結婚の報を伝えている。
白雨氏……結婚、小野氏と改名。社の事務は全くとられないことになりました。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年8月号・第4巻第8号)
「白雨」は保持のペンネームであるが、結婚相手の小野東は南湖院に入院していた患者..
第108回 『婦人解放の悲劇』 [2016/04/22 16:07]
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』一九一四年三月号に野枝は「従妹に」を書いた。
……実におはづかしいものだ。
私はあのまゝでは発表したくなかつた。
併(しか)し日数がせつぱつまつてから出そうと約束したので一端書きかけて止めておいたのをまた書きつぎかけたのだけれどもどうしても気持がはぐれてゐて書けないので、胡麻化してしまつた。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年3月号・第4巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_..
第107回 武者小路実篤 [2016/04/21 21:29]
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年あたりから、『青鞜』には反論や論争スタイルの文章が掲載されるようになった。
各人の勉強の成果が徐々に実り、反論、論駁の論陣を張れるようになったのだ。
その急先鋒が野枝だった。
武者小路実篤が『白樺』誌上で、野枝が『青鞜』に掲載した「動揺」について、こう批判した。
青鞜のN氏は僕の「世間知らず」を軽蔑してゐるそうである。
さうしてその女主人公C子を軽蔑してゐる..