今回は川越の舟運のなごりです。
<河岸場跡>かしばあと
川越市の中心部からはやや離れていますが、NHKのブラタモリで紹介されているのを見て、一度は来てみようと思っていた場所です。
■新河岸川■ しんがしがわ
江戸時代を通して川越と江戸を結ぶ役割を担っていた新河岸川。かつては多くの舟が行き来した川です。
<新河岸川>
私が見慣れている新河岸川はもっと下流で、護岸はコンクリです(東京都北区付近)。ですから妙に新鮮ですね。
■松平信綱と新河岸川■
1638年(寛永15年)、川越は大火に見舞われます。この時、三代将軍・家光の命により、被害を受けた仙波東照宮ほかの再建のため、多くの資材が新河岸川を利用して江戸から運ばれました。これがのちに川越の舟運が盛んになるきっかけだったといわれています。
<仙波東照宮>
川越市小仙波町の仙波東照宮です。大火災で一旦は消失し、1640年に再建されました。
松平信綱が川越藩主となり、本格的な舟運体制を整えられました。NHKのブラタモリで見聞きした説明だと、新河岸川は舟の運行のための水量を保持するため、意図的にくねくねと曲がるように整備されたそうです。これにより、年貢米の輸送がスムースになりました。
<カーブ>
もともと蛇行していた川を真っすぐにする話はよく聞きますが、この川では逆をやったわけですね。「九十九曲り」と呼ばれるほどのたくさんの屈曲をつけたそうです。
<船着場の跡>
舟運の全盛期は江戸末期。明治になると鉄道が開通し、更には水量不足が原因で川越の舟運は幕引きとなりました。
<舟問屋>
立派な造りですね。舟問屋・伊勢安のお屋敷です。この街の繁栄のなごりを、こうして維持して頂いていることに感謝です。確かブラタモリにも登場したような?気がします。
■小江戸・川越■
今回下車した駅は新河岸駅です。
<新河岸駅>
東武東上線の駅です。
駅の構内、具体的には改札を出た正面でこんな光景と出会いました。
<江戸時代の広告>
右側の説明書きによれば、これは江戸時代に実際に使われていた早船の広告とのこと。よく見ると人が窮屈そうに乗ってます。川越から江戸まで、新河岸川を利用して移動する人たちの姿ですね。物資の運搬から始まった川越の舟運ですが、人も運ぶようになっていったのですね。陸路で江戸へ向かう人が減ってしまうため、川越街道の宿場の旅籠屋からクレームを受けたそうです。
人が行き来すれば、文化も伝わります。
<小江戸・川越>
小江戸と呼ばれる川越の街並み。江戸と繋がる新河岸川の舟運は、この地の文化にも影響を与えたわけですね。
■訪問
新河岸川 河岸場跡
[埼玉県川越市下新河岸]旭橋付近
お城巡りランキング
2019年05月25日
2019年04月11日
玉川上水のなごり 余水吐跡の暗渠
今回は水路跡のお話。江戸という城下町の治水事業のなごりです。
<水路跡>
■玉川上水余水吐跡■ よすいばけ
当ブログでも何度かご紹介させて頂いている玉川上水。有名ですね。羽村から四谷大木戸(現在の四谷4丁目付近)まで約43キロ。標高差わずか100m程度しかないこの区間を、地面を掘るだけで繋いだ水路です。水は低い方へしか流れませんから、いかに困難なことか想像できますよね。
さて
羽村からはるばるやってきた多摩川の水は、四谷大木戸より先はどうなっていたのでしょう。
<四谷大木戸の碑>よつやおおきど
甲州街道に設けられた関所跡です。
玉川上水はこの付近まで。ここより先は、樋などを設けて江戸の町へ給水されました。貴重な水は四谷大木戸に設けられた水番所により水量が調節され、余った分は南側の水路で渋谷川へとと流したそうです。
玉川上水の余った水を吐き出す水路。これが今回訪問の「玉川上水余水吐」です。
<新宿区の秘境>
玉川上水余水吐は暗渠化され、今では水面を見ることはできません。しかし何とも言えない美しさ。幅に制限があるものの、緑の草原のようです。
<新宿御苑の避難門>
柵の向こう側は新宿御苑です。ここはその非常口。勿論入れません。余水吐は新宿御苑の東側に沿って続いています。
<水門のなごり>
水門の跡ですね。ここに堰を設けたのでしょう。こういう痕跡に、人の思惑を感じる。城跡巡りで、予想もしていない遺構と出会った時のような、そんな感覚を味わいました。
<急斜面>
更に上流へ進むと、急斜面が見えました。あんな急な角度で水が流れ落ちていたのでしょうか?
<斜面上から撮影>
斜面を登り振り返って撮影
玉川上水余水吐は、自然の川の上流を更に掘削して築いたとされています。もしかしたら、この付近までが自然の川だったのでしょうか?人の手が加わるまでは、この付近で水が湧きだしていた?などなど、いろいろ考えさせられました(感想に過ぎません)。
まぁいずれにせよ、かつてここには水が流れていました。そして渋谷川へと注いでいた。新宿御苑(高遠藩主・内藤家屋敷跡)の池から流れ出る水も加わり、水嵩を増しながら渋谷方面へ流れていったのでしょう。暗渠化され、もうその姿を見ることはできませんが、開発から取り残されたようなこの空間に、そのなごりを感じることはできました。
ということで、玉川上水余水吐跡のご案内でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
<水路跡>
■玉川上水余水吐跡■ よすいばけ
当ブログでも何度かご紹介させて頂いている玉川上水。有名ですね。羽村から四谷大木戸(現在の四谷4丁目付近)まで約43キロ。標高差わずか100m程度しかないこの区間を、地面を掘るだけで繋いだ水路です。水は低い方へしか流れませんから、いかに困難なことか想像できますよね。
さて
羽村からはるばるやってきた多摩川の水は、四谷大木戸より先はどうなっていたのでしょう。
<四谷大木戸の碑>よつやおおきど
甲州街道に設けられた関所跡です。
玉川上水はこの付近まで。ここより先は、樋などを設けて江戸の町へ給水されました。貴重な水は四谷大木戸に設けられた水番所により水量が調節され、余った分は南側の水路で渋谷川へとと流したそうです。
玉川上水の余った水を吐き出す水路。これが今回訪問の「玉川上水余水吐」です。
<新宿区の秘境>
玉川上水余水吐は暗渠化され、今では水面を見ることはできません。しかし何とも言えない美しさ。幅に制限があるものの、緑の草原のようです。
<新宿御苑の避難門>
柵の向こう側は新宿御苑です。ここはその非常口。勿論入れません。余水吐は新宿御苑の東側に沿って続いています。
<水門のなごり>
水門の跡ですね。ここに堰を設けたのでしょう。こういう痕跡に、人の思惑を感じる。城跡巡りで、予想もしていない遺構と出会った時のような、そんな感覚を味わいました。
<急斜面>
更に上流へ進むと、急斜面が見えました。あんな急な角度で水が流れ落ちていたのでしょうか?
<斜面上から撮影>
斜面を登り振り返って撮影
玉川上水余水吐は、自然の川の上流を更に掘削して築いたとされています。もしかしたら、この付近までが自然の川だったのでしょうか?人の手が加わるまでは、この付近で水が湧きだしていた?などなど、いろいろ考えさせられました(感想に過ぎません)。
まぁいずれにせよ、かつてここには水が流れていました。そして渋谷川へと注いでいた。新宿御苑(高遠藩主・内藤家屋敷跡)の池から流れ出る水も加わり、水嵩を増しながら渋谷方面へ流れていったのでしょう。暗渠化され、もうその姿を見ることはできませんが、開発から取り残されたようなこの空間に、そのなごりを感じることはできました。
ということで、玉川上水余水吐跡のご案内でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
タグ:暗渠
2019年01月05日
赤羽の暗渠(稲付川) 姥ケ橋の跡
今回はまた「暗渠」のお話です。
以前『赤羽の暗渠の果て』と題して、稲付川の暗渠の下流をご紹介したことがありました。今回は、同じ場所から上流へ向かい、川にまつわる人の記憶と出会ったという内容です。よかったらお付き合い下さい。
<稲付川の暗渠>いなづけがわ
ただの道ではありません。かつては川でした。前回同様ここ(北区赤羽西)を起点に、今度は上流へ向かいます。
<川筋>
更に進む。冒頭の地点は、川が広い低地に出るところ。進んでいる先は台地の谷間です。ここからは住宅が密集していてちょっと撮影しにくかったですね。その状況を簡単に説明すると、暗渠の道の両側が丘(場所によっては崖に近い)、水が集まることを納得する地形です。暗渠は適度に蛇行し、姿なくとも水の流れを感じずにはいられません。
そして
その谷を抜けて少し行ったところで、私の足は止まりました。
<地蔵尊>
通り過ぎるところでしたが、凄い場所にあるので立ち止まりました。
<石碑と説明板>
何だろうと覗き込んだ説明板。そこに辿ってきた「稲付川」の文字をみつけることになりました。
<説明内容>
稲付川が存在していたこと。そして、その川に架かる橋がこの地にあったこと。暗渠をかつての川と信じて歩いてきているので、何となく嬉しかったですね。
橋の名は姥ケ橋。名前だけは聞いたことがありましたが、実在した橋の名だったのですね。名の由来はやや悲しいお話。私の下手な説明より、しっかりした文をそのまま転記します。原文は長いので、多少抜粋させて頂きます。
『像は、「姥ヶ橋の地蔵様」と呼ばれて親しまれています。姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用されていました。姥ヶ橋には、誤って川に子どもを落して死なせてしまった乳母が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落としたという伝説があります。そして地蔵尊の造立は、乳母の供養のためと伝えられていますが、銘文によれば川に架かる石橋の安全供養のためによるものです。』
[原文:北区教育委員会]
環七通りが出来る時に、川は暗渠化され、橋も姿を消したようです。
<姥ヶ橋延命地蔵尊>
地蔵尊は江戸時代から橋の脇にあったそうです。工事の関係で多少場所が変わったようですが、だいたいこの辺り。赤羽駅から歩いてきましたが、ここは赤羽西を通り越して上十条です。左側は子育地蔵尊です。
<姥ヶ橋の地蔵様>
石材を丸彫りした地蔵菩薩
かつてここで暮らしたであろう人たちの営み。その一部が、橋の名前として残っている。その橋跡に記されている稲付川の文字。稲付川は「忘れ去られた川」と思っているだけに、川の記録と出会えたことは嬉しかったですね。そして伝わる話が悲話とはいえ、川にまつわる人の思いがいまでもが漂っている。暗渠化されて姿はありませんが、それら全てがかつてあった川のなごりと言えますね。
<姥ヶ橋の地蔵様>
姥ヶ橋の地蔵様は地元に人たちに親しまれ、特に縁日には多くの人が訪れるそうです。
以上です。最後までお読み頂きありがとうございました。
■訪問
姥ヶ橋延命地蔵尊
[北区上十条]4-12-4
-----追 記-----
稲付川の下流を訪ねた記事はこちらになります。よかったら覗いて見て下さい
→『赤羽の暗渠の果て』
以前『赤羽の暗渠の果て』と題して、稲付川の暗渠の下流をご紹介したことがありました。今回は、同じ場所から上流へ向かい、川にまつわる人の記憶と出会ったという内容です。よかったらお付き合い下さい。
<稲付川の暗渠>いなづけがわ
ただの道ではありません。かつては川でした。前回同様ここ(北区赤羽西)を起点に、今度は上流へ向かいます。
<川筋>
更に進む。冒頭の地点は、川が広い低地に出るところ。進んでいる先は台地の谷間です。ここからは住宅が密集していてちょっと撮影しにくかったですね。その状況を簡単に説明すると、暗渠の道の両側が丘(場所によっては崖に近い)、水が集まることを納得する地形です。暗渠は適度に蛇行し、姿なくとも水の流れを感じずにはいられません。
そして
その谷を抜けて少し行ったところで、私の足は止まりました。
<地蔵尊>
通り過ぎるところでしたが、凄い場所にあるので立ち止まりました。
<石碑と説明板>
何だろうと覗き込んだ説明板。そこに辿ってきた「稲付川」の文字をみつけることになりました。
<説明内容>
稲付川が存在していたこと。そして、その川に架かる橋がこの地にあったこと。暗渠をかつての川と信じて歩いてきているので、何となく嬉しかったですね。
橋の名は姥ケ橋。名前だけは聞いたことがありましたが、実在した橋の名だったのですね。名の由来はやや悲しいお話。私の下手な説明より、しっかりした文をそのまま転記します。原文は長いので、多少抜粋させて頂きます。
『像は、「姥ヶ橋の地蔵様」と呼ばれて親しまれています。姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用されていました。姥ヶ橋には、誤って川に子どもを落して死なせてしまった乳母が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落としたという伝説があります。そして地蔵尊の造立は、乳母の供養のためと伝えられていますが、銘文によれば川に架かる石橋の安全供養のためによるものです。』
[原文:北区教育委員会]
環七通りが出来る時に、川は暗渠化され、橋も姿を消したようです。
<姥ヶ橋延命地蔵尊>
地蔵尊は江戸時代から橋の脇にあったそうです。工事の関係で多少場所が変わったようですが、だいたいこの辺り。赤羽駅から歩いてきましたが、ここは赤羽西を通り越して上十条です。左側は子育地蔵尊です。
<姥ヶ橋の地蔵様>
石材を丸彫りした地蔵菩薩
かつてここで暮らしたであろう人たちの営み。その一部が、橋の名前として残っている。その橋跡に記されている稲付川の文字。稲付川は「忘れ去られた川」と思っているだけに、川の記録と出会えたことは嬉しかったですね。そして伝わる話が悲話とはいえ、川にまつわる人の思いがいまでもが漂っている。暗渠化されて姿はありませんが、それら全てがかつてあった川のなごりと言えますね。
<姥ヶ橋の地蔵様>
姥ヶ橋の地蔵様は地元に人たちに親しまれ、特に縁日には多くの人が訪れるそうです。
以上です。最後までお読み頂きありがとうございました。
■訪問
姥ヶ橋延命地蔵尊
[北区上十条]4-12-4
-----追 記-----
稲付川の下流を訪ねた記事はこちらになります。よかったら覗いて見て下さい
→『赤羽の暗渠の果て』
タグ:暗渠
2018年10月17日
水の砦のなごり 浦和千貫樋
今回は水の砦跡を訪ねました。場所はさいたま市桜区です。
<千貫樋>
重厚で風格がありますね
これは鴨川が荒川に流れ込む地点に設けられた水門です。荒川が増水すると鴨川は逆流し、周辺住民は洪水に悩まされ続けていました。その対策として、合流地点に逆流する水を食い止める門が設けられたわけですね。歴史は古く、最初の水門は江戸時代にまで遡ります。
<レンガ造り>
木造だと経年劣化は避けられません。水門は、明治時代にレンガ造りとなりました。
使用されたレンガが15万以上というから凄い事業です。見た目も立派ですが、どんなに期待されていたかを思うと感慨深いですね。
<千貫樋を潜る>
現在は片側が通路になっていて、通り抜けできます。何となく小舟で水路を進んでいる気分がします。なんとなく・・・
この付近で荒川と合流していた鴨川。のちに南方面へ川が延長され、同じく荒川に注いでしる別な川と合流するように付け替えられました。流路が変わったということですね。今回訪問の千貫樋水郷公園は、かつて荒川とつながっていた鴨川の旧流路跡ということになります。
<憩いの場>
かつて水の砦だった千貫樋。役割を終えて、公園の一部として残されています。人が水に挑んだ貴重な建造物。いつまでもこの姿を留めて欲しいですね。
<千貫樋水郷公園>
■訪問:千貫樋水郷公園
[さいたま市桜区下大久保]
<千貫樋>
重厚で風格がありますね
これは鴨川が荒川に流れ込む地点に設けられた水門です。荒川が増水すると鴨川は逆流し、周辺住民は洪水に悩まされ続けていました。その対策として、合流地点に逆流する水を食い止める門が設けられたわけですね。歴史は古く、最初の水門は江戸時代にまで遡ります。
<レンガ造り>
木造だと経年劣化は避けられません。水門は、明治時代にレンガ造りとなりました。
使用されたレンガが15万以上というから凄い事業です。見た目も立派ですが、どんなに期待されていたかを思うと感慨深いですね。
<千貫樋を潜る>
現在は片側が通路になっていて、通り抜けできます。何となく小舟で水路を進んでいる気分がします。なんとなく・・・
この付近で荒川と合流していた鴨川。のちに南方面へ川が延長され、同じく荒川に注いでしる別な川と合流するように付け替えられました。流路が変わったということですね。今回訪問の千貫樋水郷公園は、かつて荒川とつながっていた鴨川の旧流路跡ということになります。
<憩いの場>
かつて水の砦だった千貫樋。役割を終えて、公園の一部として残されています。人が水に挑んだ貴重な建造物。いつまでもこの姿を留めて欲しいですね。
<千貫樋水郷公園>
■訪問:千貫樋水郷公園
[さいたま市桜区下大久保]
2018年09月18日
街の狭間 真夜中の暗渠
当ブログで時々登場する暗渠。このマニアたちの宴に参加したあと、街に埋もれて見向きもされない夜の路地を探索しました。
<真夜中の暗渠>
暗渠(あんきょ)
地下に埋設された川や水路
個別に場所は説明しませんが、ご紹介する画像は新宿区と中野区です。都会のなかの都会ですね。過密に凝縮された人の暮らしの狭間で、ひっそりと流れる水の道。街というものに深く足を踏み入れれば、こんな姿もある。そんなことを共有できれば幸いです。
多少は人も通るであろう暗渠
特定の人しか通らないであろう暗渠
漏れひろがる街の明かりが照らす暗渠
ほぼ闇につつまれた暗渠
誰も見向きもしない街の狭間の暗渠は、閉塞感極まりない世界にも映ります。
ただどうなんでしょう?そんな場所にも、命の躍動があります。
かつての水辺にカエル
かつての護岸に苔
神秘的です。人間の都合などまったく関係ない。
ただただ命を謳歌する。
街に便利さばかりを求める私たちより、ずっと力強いのかもしれませんね。
■お勧め本■
静かなブームになりつつある暗渠。当ブログでは下記をお勧め致します。広告の掲載期限が切れてしまったので書名だけご紹介します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
<真夜中の暗渠>
暗渠(あんきょ)
地下に埋設された川や水路
個別に場所は説明しませんが、ご紹介する画像は新宿区と中野区です。都会のなかの都会ですね。過密に凝縮された人の暮らしの狭間で、ひっそりと流れる水の道。街というものに深く足を踏み入れれば、こんな姿もある。そんなことを共有できれば幸いです。
多少は人も通るであろう暗渠
特定の人しか通らないであろう暗渠
漏れひろがる街の明かりが照らす暗渠
ほぼ闇につつまれた暗渠
誰も見向きもしない街の狭間の暗渠は、閉塞感極まりない世界にも映ります。
ただどうなんでしょう?そんな場所にも、命の躍動があります。
かつての水辺にカエル
かつての護岸に苔
神秘的です。人間の都合などまったく関係ない。
ただただ命を謳歌する。
街に便利さばかりを求める私たちより、ずっと力強いのかもしれませんね。
■お勧め本■
静かなブームになりつつある暗渠。当ブログでは下記をお勧め致します。広告の掲載期限が切れてしまったので書名だけご紹介します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
タグ:暗渠
2018年08月18日
いろは樋 つないできた水の流れ (志木市)
つわものどもが夢の跡
今回もまた水路関連のお話です。ただの水路ではありませんよ!何とかしようという人の思いが込められた江戸時代の「川を渡る水路」です。
<復元模型>
これはかつて新河岸川に架けられた水路橋の復元(模型)です。川と川に挟まれた地区に、用水路の水を供給する目的で造られました。
■いろは樋■ いろはどい
始まりは1662年、つまり江戸時代です。乾燥した武蔵野台地を潤した「野火止用水(のびどめようすい)の水を、更に川を越えて対岸の村に送るために築かれました。当時その村(宗岡村)は、新河岸川と荒川に挟まれている影響から、水害にあう一方で恒常的な農業水不足に悩まされていました。これでは人の暮らしが成り立ちません。いろは樋はその救済のための水路橋ということですね。
<野火止用水跡>
こちらは志木市のおとなり新座市で撮影しました。
野火止用水は、現在の東京都立川市で玉川上水から分水し、埼玉県新座市を通って志木市で新河岸川へと流れて出ていました。この「あとは川へ流れ出るだけ」の水に、川を渡ってもらおうとしたわけですね。この付近を知行していた旗本・岡部忠直の命により、家臣の白井武左衛門が架設したと伝わります。
<下り竜>
<登り竜>
これら江戸時代の復元模型は、志木市本町の「市場坂上」交差点付近に展示されています。下り竜と登り竜。下る?登る?説明すると下の通りです。
■ジオラマ模型■
私の下手な説明より、現地に展示されているジオラマ模型を見てもらった方が早いですね。
<ジオラマ模型>
大きなガラスケースの中を覗けば、全容がわかるようになっています。これを上流から順をおって見てみましょう。
<野火止用水>
まず野火止用水から。水は左から右へ流れています。一番右手の小屋の付近で小枡(こます)と呼ばれるところに一旦水を貯め、高低差を利用して水を加速させます。
<大枡>おおます
次に小枡から流れてきた水をここでまた一旦貯め、更に勢いよく落とします。この落ちる部分が「下り竜」で、もともとの地形の高低差も利用し、更に地下までもぐります。地下の水路ですから、この区間はいわゆる暗渠となるわけですね。
<登り竜>
地下に埋設された水路(暗渠)を勢いよく流れてきた水は、ここで地上に出た樋を一気に登ります。これが登り竜。ボンプもなしに下から上に移動するのですから、水はかなりの勢いで流れいるわけですね。
<掛樋>
水は高さを維持して移動
<水路橋>
新河岸川を渡ります
<宗岡村>
総延長126間(260m)の水路橋のゴール。同時に野火止用水のゴールでもあります。
という感じですかね。
■名前の由来■
水路橋の柱が48本あったことから、いろはの文字数にちなみ「いろは樋」と呼ばれたそうです。
<展示されている写真>
やや脆弱な造りに映りますが、この水路橋が宗岡村の人たちの暮らしを支えたわけですね。
■つわものどもが夢の跡■
洪水により何度も崩壊した木製の「いろは樋」は、明治期には鉄管やレンガ造りとなっていました。
<つわものどもが夢の跡>
[志木市本町]2丁目
明治時代に使われていた大枡です。こちらは実物。とても貴重な歴史の痕跡です。志木市の指定文化財に指定されています。
進化し続けた。ということは、必要とされ続けたということですね。それぞれの時代のプロたちの仕事が、人の思いに応えて、水の流れを繋いできたわけです。いろは樋そのものはもう存在しませんが、痕跡はこうして残っています。
残してもらったという方が適切でしょうか。後世に伝えようとする人の思いにより、私も知る機会を得ました。ありがとうございます。
今回もまた水路関連のお話です。ただの水路ではありませんよ!何とかしようという人の思いが込められた江戸時代の「川を渡る水路」です。
<復元模型>
これはかつて新河岸川に架けられた水路橋の復元(模型)です。川と川に挟まれた地区に、用水路の水を供給する目的で造られました。
■いろは樋■ いろはどい
始まりは1662年、つまり江戸時代です。乾燥した武蔵野台地を潤した「野火止用水(のびどめようすい)の水を、更に川を越えて対岸の村に送るために築かれました。当時その村(宗岡村)は、新河岸川と荒川に挟まれている影響から、水害にあう一方で恒常的な農業水不足に悩まされていました。これでは人の暮らしが成り立ちません。いろは樋はその救済のための水路橋ということですね。
<野火止用水跡>
こちらは志木市のおとなり新座市で撮影しました。
野火止用水は、現在の東京都立川市で玉川上水から分水し、埼玉県新座市を通って志木市で新河岸川へと流れて出ていました。この「あとは川へ流れ出るだけ」の水に、川を渡ってもらおうとしたわけですね。この付近を知行していた旗本・岡部忠直の命により、家臣の白井武左衛門が架設したと伝わります。
<下り竜>
<登り竜>
これら江戸時代の復元模型は、志木市本町の「市場坂上」交差点付近に展示されています。下り竜と登り竜。下る?登る?説明すると下の通りです。
■ジオラマ模型■
私の下手な説明より、現地に展示されているジオラマ模型を見てもらった方が早いですね。
<ジオラマ模型>
大きなガラスケースの中を覗けば、全容がわかるようになっています。これを上流から順をおって見てみましょう。
<野火止用水>
まず野火止用水から。水は左から右へ流れています。一番右手の小屋の付近で小枡(こます)と呼ばれるところに一旦水を貯め、高低差を利用して水を加速させます。
<大枡>おおます
次に小枡から流れてきた水をここでまた一旦貯め、更に勢いよく落とします。この落ちる部分が「下り竜」で、もともとの地形の高低差も利用し、更に地下までもぐります。地下の水路ですから、この区間はいわゆる暗渠となるわけですね。
<登り竜>
地下に埋設された水路(暗渠)を勢いよく流れてきた水は、ここで地上に出た樋を一気に登ります。これが登り竜。ボンプもなしに下から上に移動するのですから、水はかなりの勢いで流れいるわけですね。
<掛樋>
水は高さを維持して移動
<水路橋>
新河岸川を渡ります
<宗岡村>
総延長126間(260m)の水路橋のゴール。同時に野火止用水のゴールでもあります。
という感じですかね。
■名前の由来■
水路橋の柱が48本あったことから、いろはの文字数にちなみ「いろは樋」と呼ばれたそうです。
<展示されている写真>
やや脆弱な造りに映りますが、この水路橋が宗岡村の人たちの暮らしを支えたわけですね。
■つわものどもが夢の跡■
洪水により何度も崩壊した木製の「いろは樋」は、明治期には鉄管やレンガ造りとなっていました。
<つわものどもが夢の跡>
[志木市本町]2丁目
明治時代に使われていた大枡です。こちらは実物。とても貴重な歴史の痕跡です。志木市の指定文化財に指定されています。
進化し続けた。ということは、必要とされ続けたということですね。それぞれの時代のプロたちの仕事が、人の思いに応えて、水の流れを繋いできたわけです。いろは樋そのものはもう存在しませんが、痕跡はこうして残っています。
残してもらったという方が適切でしょうか。後世に伝えようとする人の思いにより、私も知る機会を得ました。ありがとうございます。
2018年08月17日
その道は水路 花と緑の散歩道 (さいたま市)
今回はさいたま市の緑道の話です。
■花と緑の散歩道■
<緑道>
春には桜が咲き誇る緑道です。
画像はさいたま市(旧浦和市)の花と緑の散歩道。市民の憩いの場所である別所沼公園から、JR武蔵浦和駅近まで続く緑道です。約2キロの道のりには、桜のほかに四季折々の植物が植えられており、その名の通り花と緑を楽しめる散歩道として市民に親しまれています。
■別所排水路■べっしょぬまはいすいろ
この道、元々は別所沼から伸びる水路でした。
<別所沼>
現在はその水路に蓋がなされ、水面を見ることはできません。
<水路の道>
緑道をちょっと横から撮影
まぁ私もむかしはこんな角度から道を眺めるなんてことはしませんでしたが、もう癖になってしまいました。良く見ると、水路に蓋をしただけの構造だということが判ります。丁寧に舗装してあるので意識されませんが、これはやはり水路です。
こういう構造を暗渠といいます。見慣れないこの字は「あんきょ」と読みます。地下に埋設された川や水路という意味ですね。この緑道も暗渠化された水路。誰も意識しないだけで、今も水路としての役割を果たしています。
<橋のなごり>
橋から転落しても大丈夫。橋の構造だけが残り、水路は姿を消しました。
この先を進んで行くと、武蔵浦和駅に到着します。花と緑の散歩道はそこで終了。ただ暗渠そのものはもうちょっと先まで続き、市内を流れる笹目川に合流します。その笹目川はやがて荒川と合流しますので、ちょっと極端な言い方ですが、水路のずっとずっと先は海ということになりますね。
で、なんでわざわざこんなことを取り上げるのか?
「暗渠」という視点は、ちょっと変わってるかもしれませんね。ただ、人知れず頑張っているものを応援したくなる気持ちは、みなさんも同じではないでしょうか。
道が綺麗なだけじゃない。ちゃんと水も流れ、水路としての役割を担っている。緑道を通ることがあったら、そんな目で見てあげて下さい。
■花と緑の散歩道■
<緑道>
春には桜が咲き誇る緑道です。
画像はさいたま市(旧浦和市)の花と緑の散歩道。市民の憩いの場所である別所沼公園から、JR武蔵浦和駅近まで続く緑道です。約2キロの道のりには、桜のほかに四季折々の植物が植えられており、その名の通り花と緑を楽しめる散歩道として市民に親しまれています。
■別所排水路■べっしょぬまはいすいろ
この道、元々は別所沼から伸びる水路でした。
<別所沼>
現在はその水路に蓋がなされ、水面を見ることはできません。
<水路の道>
緑道をちょっと横から撮影
まぁ私もむかしはこんな角度から道を眺めるなんてことはしませんでしたが、もう癖になってしまいました。良く見ると、水路に蓋をしただけの構造だということが判ります。丁寧に舗装してあるので意識されませんが、これはやはり水路です。
こういう構造を暗渠といいます。見慣れないこの字は「あんきょ」と読みます。地下に埋設された川や水路という意味ですね。この緑道も暗渠化された水路。誰も意識しないだけで、今も水路としての役割を果たしています。
<橋のなごり>
橋から転落しても大丈夫。橋の構造だけが残り、水路は姿を消しました。
この先を進んで行くと、武蔵浦和駅に到着します。花と緑の散歩道はそこで終了。ただ暗渠そのものはもうちょっと先まで続き、市内を流れる笹目川に合流します。その笹目川はやがて荒川と合流しますので、ちょっと極端な言い方ですが、水路のずっとずっと先は海ということになりますね。
で、なんでわざわざこんなことを取り上げるのか?
「暗渠」という視点は、ちょっと変わってるかもしれませんね。ただ、人知れず頑張っているものを応援したくなる気持ちは、みなさんも同じではないでしょうか。
道が綺麗なだけじゃない。ちゃんと水も流れ、水路としての役割を担っている。緑道を通ることがあったら、そんな目で見てあげて下さい。
タグ:暗渠
2018年08月16日
土橋と蛍 遠い日の川の記憶 (浦和区大原)
■土橋と蛍■
<市川橋>
さいたま市の浦和区にて。この橋を撮影中に、地元の方と思われるお婆さまに声を掛けられました。
お話をうかがうと『昔は護岸も橋もこんなコンクリではなかった。土橋から蛍を眺められる風情のある場所だった』とのこと。
なるほど。さぞ美しい光景だったのでしょうね。その様子を探るべくネット検索しましたが、情報は得られませんでした。せめて白黒の写真だけでも確認できれば良かったのですが、ちょっと残念です。
ただ、あのような穏和なお婆さまが、あれだけ懐かしそうに話すのですから、きっとそうだったんでしょう。根拠なんていらない。そうだったと思うことにしました。
■見沼代用水西縁■みぬまだいようすいにしべり
<見沼代用水西縁と市川橋>
この水の流れ。厳密には水路です。ただし、昨日今日の水路ではありません。江戸時代に灌漑農業用水として造られた歴史ある水路なのです。当時の治水のプロフェッショナル・井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)の指導により築かれました。それがそのまま現在に至り、今ではコンクリの水路となっています。
<現在の見沼代用水西縁>
バリバリの現役水路。
<水門付近>
水門を境に水位が・・・などと楽しみながら、水路沿いを散歩しました。
■浦和区大原■
水路好きですが、それだけを見に来たわけではありません。この日のお目当ては、地元「浦和レッドダイヤモンズ」の公開練習。市川橋を渡って北へ向かうと、レッズが拠点としている大原サッカー場に辿り着きます。
<大原サッカー場>
あくまで練習なので遠くから撮影
この日も多くのレッズファンが、練習場へ足を運びました。私もその大勢のなかのひとりです。
<レディア>
このキャラクターはレディア。浦和レッズのチームマスコットです。チームと比較すると、いまいち人気がありませんが、それも含めて浦和レッズなのです。
あのお婆さまの記憶にの残る土橋は、もう見ることはできません。ただこのコンクリの橋も、サッカー好き・レッズ好きの子供たちの川の記憶になるのかもしれません。遠い日の光景として、いつか懐かしく思い出されるのかも知れませんね。
<市川橋>
さいたま市の浦和区にて。この橋を撮影中に、地元の方と思われるお婆さまに声を掛けられました。
お話をうかがうと『昔は護岸も橋もこんなコンクリではなかった。土橋から蛍を眺められる風情のある場所だった』とのこと。
なるほど。さぞ美しい光景だったのでしょうね。その様子を探るべくネット検索しましたが、情報は得られませんでした。せめて白黒の写真だけでも確認できれば良かったのですが、ちょっと残念です。
ただ、あのような穏和なお婆さまが、あれだけ懐かしそうに話すのですから、きっとそうだったんでしょう。根拠なんていらない。そうだったと思うことにしました。
■見沼代用水西縁■みぬまだいようすいにしべり
<見沼代用水西縁と市川橋>
この水の流れ。厳密には水路です。ただし、昨日今日の水路ではありません。江戸時代に灌漑農業用水として造られた歴史ある水路なのです。当時の治水のプロフェッショナル・井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)の指導により築かれました。それがそのまま現在に至り、今ではコンクリの水路となっています。
<現在の見沼代用水西縁>
バリバリの現役水路。
<水門付近>
水門を境に水位が・・・などと楽しみながら、水路沿いを散歩しました。
■浦和区大原■
水路好きですが、それだけを見に来たわけではありません。この日のお目当ては、地元「浦和レッドダイヤモンズ」の公開練習。市川橋を渡って北へ向かうと、レッズが拠点としている大原サッカー場に辿り着きます。
<大原サッカー場>
あくまで練習なので遠くから撮影
この日も多くのレッズファンが、練習場へ足を運びました。私もその大勢のなかのひとりです。
<レディア>
このキャラクターはレディア。浦和レッズのチームマスコットです。チームと比較すると、いまいち人気がありませんが、それも含めて浦和レッズなのです。
あのお婆さまの記憶にの残る土橋は、もう見ることはできません。ただこのコンクリの橋も、サッカー好き・レッズ好きの子供たちの川の記憶になるのかもしれません。遠い日の光景として、いつか懐かしく思い出されるのかも知れませんね。