2018年04月26日

堀川を歩く 今川橋から龍閑橋 

二つの橋の痕跡を頼りに、かつてあった堀川のなごりを感じに行きました。

■江戸探索■
古地図を参考に街を散歩する。同じ景色が違って見えたりして、結構楽しめます。そもそも地図を見るのが苦手?という方も結構いるようですが、目印があって、あとはまっすぐ進むだけだったら誰でもできますね。

<今川橋跡>
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ビルの脇にひっそりと設置されている石碑。かつてあった今川橋の跡です。ここを最初の目印とします。

■神田駅下車■
目印となる石碑も、分かり易い場所にあります。知っていればの話で、ほとんどの人が見向きもしないで通り過ぎますが・・・。最寄駅は神田駅。下車したら東口から出て、中央通りを南へ歩くだけ。

<今川橋交差点>
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徒歩2分程度でこんな景色に。冒頭の今川橋跡の石碑はまもなくです。私は進行方向左側を歩きましたが、石碑は右手(山梨中央銀行側の歩道)になるので、このヘンで通りを渡っておいた方が確実ですね。

<今川橋跡碑>
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はい。もう到着です。具体的には江原ビルディングの敷地になります。
[住所:千代田区鍛冶町1-5-7]

<説明板>
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あまり予習しなくても、これを読めば充分。 

<橋跡と堀川跡>
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水の都だった江戸。この通りはかつて堀川でした。現在ではひっそりとした路地。舟運が盛んだった当時は、大いに賑わったのでしょうね。

<絵図>
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これは現地ではなく、日本橋付近の地下道で撮影した今川橋です。賑わいが伝わってきます。瀬戸物屋が多かったとのこと。

■今川橋■
この橋は、神田の名主であった今川善右衛門によって橋が架けられたことから「今川橋」と呼ばれたそうです。今川ってあの?どうしても名門家・今川義元の今川を想像してしまいますよね。今川氏は徳川将軍に仕えて高家・旗本となっていますから。調べたのですが、善右衛門さんはもともと江戸の人で、直接の関係はない。そう思った方がよさそうです。

ちなみに、「今川焼き」はこの「今川橋」付近で売られていたことがその名の由来だそうです。諸説あるようですが、これはわりと有力な説です。

■龍閑川■ りゅうかんがわ
この堀川、もともと防火用の空地町人が築いたもの。現在の千代田区と中央区の区界沿いに掘られ、浜町堀と通じるように築かれました。古地図を見ると、浜町堀とは直角に繋がっていたようです。

この堀川の名は龍閑川(=竜閑川とも)。江戸城殿中接待役井上竜閑の屋敷があったとから「竜閑橋」と呼ばれたが橋が、川の名の由来。ちょっとややこしいのですが、厳密なことを言うと、この「竜閑橋」はもともと別な堀に架けられていましたが、埋め立てにより不要となり、この堀川に架け直されたそうです。

まぁ経緯はともかく、その「龍閑橋」付近まで歩いてみますかね。本日のもうひとつの目印です。

<川跡>
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堀川の面影はほとんど残っていません。ただ古地図でも、今川橋から龍閑橋までは直線となっています。その事実を背景に眺めれば、路が堀川の跡と思えなくもない。

<ビルの間の小路>
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そう思えなくもない。

<直線>
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ひたすら真っすぐ。実は地図そのものは好きなのですが、実際に動き出すとけっこう「方向音痴」な方です。でもこれなら何のストレスもなく楽しめます。船で運河を移動している。そう思えなくもない。

この小さな道が千代田区と中央区の区界。川が行政区の堺というのは珍しくありませんよね。ここは「川だった道」が区堺ということです。

<小路の出口>
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そろそろ小路が終わり、外堀通りにでます。何かに突き当たりますね。「龍閑橋」の架けられていたのはこの付近だと思われます。

<小さな公園>
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こんな場所に出ました。何か展示されていますね。

<龍閑橋跡>
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刻まれた文字。ここが2つ目の目印。そして「小さな探索」のゴールです。

<コンクリート製>
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これは大正時代に造られたコンクリート製の竜閑橋だそうです。橋は江戸時代に始まり、明治・大正・昭和と姿を変えながら存在し続けたわけですね。

<説明1>
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日本で初の鉄筋コンクリートトラス橋とのこと。構造物としても貴重ということですね。

<説明2>
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1950年、龍閑川は埋め立てられました。戦災による瓦礫処理のためです。

江戸時代にも、埋め立てが理由で一旦不要になった龍閑橋。戦後の処理では移設されることもなく、役割を終えました。長年よく頑張りましたよね。龍閑川そのものがなくなってしまいましたので、冒頭の今川橋も、約三百年の歴史に幕を閉じました。

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こうして残してもらったことに感謝です。そして橋の姿はないものの、今川橋の石碑にも。

かつてあった小さな河川が地下に埋設、つまり暗渠化される例は多々ありますが、この堀川は純粋な埋立て。龍閑川と繋がっていた浜町堀(浜町川)も同様です。水の路として機能していたのですがね。暗渠として活かされることもなかった。そういうことですね。

以上、今川橋から龍閑橋までの堀川跡でした。

最後に
ご紹介したのは今川橋跡からみて南西。龍閑川の一部です。逆に北東へ進めば、浜町川との合流地点(ここで直角に曲がる)に辿りつき、現役の川である隅田川へと繋がります。人の手により、直線・直角に掘られた堀川。道幅が狭いですが、見失わなければ迷うこともありません。ただまぁ暗い場所もあるので、夜はいろんな意味で注意して下さい。

姿を消した堀川の跡。街に埋もれているからこそ、逆に妙な魅力を感じてしまいます。


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タグ:堀川

2018年04月21日

薬研堀のなごり (東日本橋)

薬研堀と呼ばれるエリアに足を運んでみました。

■薬研堀■やげんぼり
城好きが「薬研堀」と聞けば、断面がV字型の堀を思い浮かべますよね。角度が急で、底が狭くなっているシャープな空堀を。それがそのまま地名となっている。だったら、そこはかつての城郭の一部?勝手な想像が膨らみます。

<現地訪問>
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場所は東日本橋です。こんなところに江戸城の堀があったのでしょうか?

前からちょっと気になっていたのですが、訪問を機に初めてその実態を調べることに。広島市にも「薬研堀」という地名があるようですね。由来は広島城の堀とのこと。なるほど。で、今回訪問の薬研堀は・・・こちらは城郭そのものとは直接関係ないようですね。城好きとしては残念。まぁ位置的にちょっと無理がありましたかね。堀は堀でも、城下町の堀川のようです。


■堀川のなごり■
現在の東日本橋には、かつて矢ノ倉と呼ばれる米蔵があり、そこへ通じる堀川が整備されていました(東日本橋1丁目から2二丁目付近)。まぁ物流のための運河ですね。隅田川と繋がっていました。その形状から「薬研堀」と呼ばれたそうです。やがて米蔵もなくなり、運河としての役割を終えた薬研堀は埋め立てられました。

舟のための運河が薬研堀のような形?ちょっと、想像できませんが、皆がそう呼んだのだから、きっとそうなんでしょう。

そもそも薬研とは、薬を作る道具。具体的には薬草や木の身などを粉砕しながらひく器具で、時代劇などで時々目にしますね。堀の形状が、その「薬研」のようであることから、薬研堀という呼び名が生まれました。お城ファンの間では良く知られた城用語です。

<イメージ画像>
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こちらは山形県の某城跡で撮影したものです。遺構ではなく、観光用です。薬研掘の形状、つまり断面がV字という意味、伝わりますでしょうか?


■地名も消滅?■
日本橋薬研堀町。いい名前ですね。中央区の正式な地名、、、でした。過去形です。1971年に東日本橋とされ、薬研堀の名は消滅しました。またまた残念。

ただし、それは住所表示上のお話。みながそう呼び続ける以上、それは残っているのと同じです。いや、もっと価値のあることかもしれません。


■医者町■
このエリア、医師が多く住んだことから「医者町」と呼ばれた時期もあったそうです。堀川が薬研堀のようだからではなくて、堀川のあったこの地に、薬研を使いこなす医師や薬剤師が集まったことで薬研堀と呼ばれたのではないか?とも思いましたが、そういう説を唱えている人はいないようです。ということで、あくまで素人のたわごとでした。

「医者町」らしいお話としては、順天堂の始祖・佐藤泰然がこの地にオランダ医学塾を開いたとされています。この日本最古といわれるこの西洋医学塾が、いまの順天堂大学へと繋がっているわけですね(薬研堀から始まり、佐倉藩に招かれて佐倉にて「順天堂」を開いたとのこと)。

あと、この地は七味唐辛子の発祥地でもあります。七味唐辛子は「漢方薬をヒントに開発された」と言われると、なんとなく納得できますね。


■薬研堀不動院■
かつての堀川、更に住所表示すらなくなりましたが、薬研堀のなごりを感じることはできます。

<薬研堀不動院>やげんぼりふどういん
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かつての地名を冠する寺院。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動とされています。あの「川崎大師」の東京別院にもなっているとのこと。八角形の屋根が独特ですね。

<境内の様子>
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奥は「納めの歳の市碑」その手前は「梵字不動尊」

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こちらは弘法大師像

ビルの谷間でちょっと窮屈そうに見えますが、歴史は古く、始まりは中世末期。紀州の根来寺(ねごろじ)が、豊臣秀吉に攻められ焼失した時、層が不動尊像を背負って東国へ逃れ、この地に寺を創建した。そう伝えられています。

秀吉とあまり関係なさそうな江戸の町で、そんな話があるのですね。当時の根来寺は所領といい兵力(まぁ僧兵というんでしょうか)といい大名のような一大勢力。信長とはうまく関係を保っていたようですが、秀吉の時に関係が悪化。その結果、最盛期の寺院は戦火により失われました。再建され今に続く根来寺は、和歌山県内有数の観光名所。ちょっとそこまで行けませんが、ここ薬研堀にて、不動尊像を守った層に思いを馳せて私なりに満足。探索を終了させました。

今回訪問の「薬研堀」は、都営地下鉄東日本橋駅から徒歩数分のところです。「堀」というキーワードだけで探索を始めましたが、期待したものがない代わりに、いろんなことを知る機会となりました。こんな拙ブログですが、多少でも参考にしてもらえたら嬉しいです。

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タグ:堀川

2018年03月31日

見沼通船堀のなごり (浦和)

つわものどもが夢の跡
江戸時代としては画期的な運河。そのなごりを留める公園を訪問しました。

<竹林と桜と水路>
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桜も竹林も好きですが、この公園の主役は江戸時代に築造された運河です。

<木造の閘門式運河>こうもんしき
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なるほど・・・ここで水を塞き止めて、水位を調整するわけですね

■見沼通船堀■
見沼通船堀は日本で一番古い『閘門式運河』です。水位に差がある場合に、閘門を使って水位を調整し、船を通過させる仕組み。私がうだうだ説明するより、パナマ運河を想像してもらった方が早いですかね。

ただし、そのパナマ運河よりも約180年も前に、日本には閘門式運河が存在していました。まだ江戸時代のお話。日本人は凄いですね!場所は現在の埼玉県。埼玉は凄いですね・・・ね(県民なので、ちょっと言ってみたいだけです)。

■芝川と水路をつなぐ■
二つの水路(見沼代用水西縁と東縁)の間を流れていた芝川。江戸へと繋がる水運上重要な川でした。この川と見沼の水路、繋げてしまえば便利ですが、地形の事情で水位の差が約3mありました。江戸からの物資を積んだ船が芝川から水路へと移るためには、この高低差を克服しなくてはなりません。そこで船を通す堀(通船堀)に閘門を設け、水位を調整することで通過を可能にしました。

この仕組みが造られたのが1731年(享保16年)。これは実験といった段階の話ではなく、実際に稼働し、地域に貢献しました。水運の範囲が広がることは、そのまま経済の発展に繋がります。この当時のまさに物流革命。地元の村々は、経済の中心地である江戸と結ばれることになりました。江戸は「水の都」と呼ばれるほど水路が充実しています。そして物流の主役は水運。そこと水の道で繋がることは、大きな意味を持ちました。

この見沼通船堀、明治時代に至るまで重要な役割を担ったそうです。

むかしの人たちの仕事。凄いですね。そもそも、こういう創意工夫、実現する技術や品質が、我々日本人の得意とするところなのではないでしょうか。こんな仕事をした人たちと比較して、足りないものがあるとすれば、どうしても成し得ようとする情熱かもしれませんね。それは言い換えれば、かなり「具体的に夢をみる力」なのではないでしょうか。

桜を楽しみ、竹林に癒されながら、そんなことを考えさせられる訪問となりました。

<つわものどもが夢の跡>
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■見沼通船堀公園■
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[さいたま市緑区大字大間木字八町]
↑要するに「東浦和駅」から徒歩5分程度です

2018年01月05日

三十間堀のなごり 舟入堀の痕跡 

街の中で痕跡に気付く・・・
今回は新橋駅近くのとある痕跡をご紹介します。

■三十間堀■さんじっけんほり

<三十間堀の痕跡>
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[中央区銀座8-13]
住所は銀座ですが8丁目なので、新橋駅から5分程度の場所です。ちょっと目立たない場所ですが、かつて堀があったことを今に伝えています。堀の名は三十間堀

<礎石>
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三十間堀で実際に使われていた石です。かつての護岸より発掘されたものです。

<説明板>
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三十間堀は江戸の町に造られた堀川です。運河と思ってもらった方がイメージしやすいですかね。名前の由来は堀の幅。三十間は54mなので相当幅広かったことになります。慶長17年(1612年)、幕府の命を受けた西国大名により京橋川から汐留川にいたる区間が開削されました。場所は現在の中央区。中央通りと昭和通りの間を流れていました。

まぁ場所をもっと大まかに言うと、新橋駅から銀座方面ということになります。中央通りと昭和通りの間には沢山のビルや路地がありますが、それら全てがかつての堀跡にあるということですね。この石碑の場所ですが、

<説明板の場所>
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新橋駅の東側。銀座8丁目の御門通り沿い。赤い線を入れさせてもらいましたが、こんな景色を進んで行くと右手に現れます。首都高速が横を走っていますが、その新橋出口付近になります。

<高速出口>
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この裏側です。


■水の都・江戸■

江戸城の城下町は水の都。たくさんの運河が縦横に張りめぐらされていました。この水上輸送のネットワークが、江戸の繁栄に貢献していたことは言うまでもありませんね。舟入堀として整備されたここ三十間堀川も、そんな巨大プロジェクトの一部だったわけです。

<三原通り>
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かつて三原橋があった方面へ続く道。ご紹介した説明板のすぐそばから始まります。

説明板から抜粋→『三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。』

三原橋は三十間堀に架かっていた橋の一つ。ではその橋を目指して、かつての堀跡、つまりこの通りを歩いてみますかね。

<GINZA SIXの裏>
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ここは中央通りと昭和通りの間にいくつかある通りの一つ。つまり、私はかつての堀川の中を進んでいることになりますね。しばらく行くと、今をときめく商業施設「銀座シックス」に到着。ただし、その裏側(左手が銀座シックス)です。正面、つまり中央通り側は混んでますが、こちらは歩きやすい。

<三原橋付近>
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更に進んで行くと大きな通り(晴海通り)に出ます。そして手前が工事中。ベールに包まれてますが、そこだけちょっと道路が盛り上がってますね。橋のあった場所です。堀は埋められ、橋の本来の意味は失われましたが、その橋の下の空間を利用して地下商店街が造られました。といっても1952年の話。一時期は賑わったらしいのですが、建築上(耐震性)の問題もあり、つい最近、2014年4月に閉鎖されました。まぁその三原橋地下街の歴史も、いま工事中という事実も、かつてここにあった堀のなごり。三十間堀の余韻ですね。

さてさて、また新橋方面へ戻ります。どうせなら違う道をと彷徨っていたらこんな地下道を通ることに。

<地下道>
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彼方にG SIXの文字。銀座シックスにつながる地下道です。なんだか神秘的な空間。さきほどまでは「堀跡の上」を歩いていたわけですが、今度は堀の底くらいの位置でしょうか。三十間堀を意識して探索しているせいか、感慨深いものがあります。

かつての堀川。ご覧のように、その姿を見ることはもうできません。埋められたのは戦後まもなく。東京大空襲後の瓦礫処理のためです。瓦礫は片付き、土地は有効利用される。物流も水運から陸運へ。そして今ではこのように立派な街並。これで良かった、のでしょうね・・・


水の都
美しい響きですね。この石碑はそのなごり。失われた水の都のなごりです。
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慌ただしい街中でこういう場所と出会うと、何となくほっとします。新橋駅の東側。似たような感覚をお持ちの方が、何かのついでにちょっと立ち寄ってくれたら嬉しいです。


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2017年12月17日

街の中で痕跡に気付く

仕事や私生活の圏内でも、アンテナを立てていれば、ちょっとした感動と出会えたりします。気付きに近い小さな感動。こう思えとか、こう思うべきというのはありません。そんなものが決まっているなら、つまらないですね。

<江戸城外堀の痕跡>
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一部とはいえ立派な石組。説明書きによれば「江戸城外堀跡 溜池櫓台」。櫓は堀が直角に折れる角に設けられていたようです。ビルとビルの間、目立たない場所に江戸城の痕跡を見つけました。[港区]

<三田用水の痕跡>
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水路の断面が分かるように残してもらったのですね。どなたかのブログで見たことがありますが、実物を見るのは初めてです。 [港区]

廃城となった城跡で、ひっそりと残っている土塁に気付く。姿を消した川跡で、取り残された橋の欄干に気付く。情緒的に重なるものがあり、当ブログでも何度かご紹介させてもらいました。

今回ご紹介の二つ。似た感情を持つ一方、ちょっとだけ違うのは「誰かが意図的に残してくれた」痕跡だということ。

伝えようとする思い。私には有り難いですね。消えてなお残るものに愛おしさを感じる。自分だけではないような気がして、何となく、じんわりと嬉しいです。

こんな感覚を持ち合わせていると、普段の生活圏内でも、ちょっとした感動と出会えたりします。いや、既に出会っているものが、違うモノに映ったりします。

流行りとかに右往左往するの、疲れませんかね。まぁたまにはボケっとくだらなく、人の同意も期待せず、何でもなさそうなモノを見つめてみては如何でしょうか。私の場合は城とか水路ですが、なんだっていいです。心の琴線に触れるモノがあったら、その感覚と向き合ってみる。大切なのは、あまり理屈で考えないことですかね。せっかく出会ったものを、だいなしにしないように。


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2017年11月21日

暗渠と城跡12 暗渠イベントに出陣!

〈暗渠と車止め〉
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杉並区で撮影した独特の車止め。「車は進入禁止」というメッセージですね。しかし見る人によっては「ここに暗渠がありますよ」というサインとなります。

■暗渠イベント■
先日(11月18日)、杉並区西荻窪で開催されたイベント「西荻暗渠サロン」に参加させて頂きました。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ時間を頂き、暗渠と城跡の楽しみ方についてお話させてもらいました。

<会場>
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場所は西荻窪の商店街「西荻マイロード」内。駅からすぐ近くです。

<会場外より撮影>
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中は熱気ムンムンでした。


■暗渠と城跡■そもそも
当ブログでは、過去何度かにわたり「暗渠と城跡」というテーマで記事を書かせてもらっています。訪ねる城はその都度異なりますが、結局いつも同じことを言ってます。

暗渠(あんきょ)とは
⇒地下に埋設された川や水路

暗渠と城跡
⇒暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなる。天然の堀だった川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ。

ある意味ワンパターン。ただ、本当に「ちょっとした気付き」だけで、見えている世界が違うように映ります。

<山城さんぽ>
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幸運にも1ページ頂けた雑誌「山城さんぽ」。この時も文字数制限があるなか、無理やりこのことに言及させて頂きました(そこはボツかと思いきや、そのまま掲載してくれました。編集者に感謝してます)。

こんなブログをのぞいてくれる皆さん、雑誌を手にしてくださった皆さん。つまり城跡にその「なごり」を感じられる皆さんにこそ、暗渠を知って欲しい・・・。そんな思いです。


■暗渠マニアが集うイベント■
城跡好きにこそ「暗渠」を知って欲しい。今回のイベント参戦はその逆です。暗渠を知っている人たちに「城跡」を知って欲しい。お誘いを受けた時点では、正直不安もありました。人前で話すなんて機会、普段はありませんので。ただまぁ特に失うものもない。覚悟して出陣しました。

参加してビックリしたのは、暗渠は常識であって説明が不要なこと。イベントの話し手さんは当然として、聞き手の皆様もです。自分も「暗渠初級」くらいのレベルには達しているだろうと思っていましたが、まだまだ。イベント会場内は一般の人から見たらきっと異次元空間。

この人たちはなんだ〜

という感じでしょう。

好きですけどね。そういうの。

■西荻暗渠サロン■
イベントの主催者は、既に暗渠の本を複数出版しているお二人。形としては期間限定の「西荻案内所」の「日替り案内人」という立場のようです。

集いしは暗渠好き、暗渠マニア。つまり暗渠界の「つわものども」です。ここに中途半端な暗渠好きが、低いレベルながらせめて矛盾が無いように理論武装し、「城跡マニア」の旗を掲げて突入しました。

【勝算】
暗渠界の皆さんは地形に敏感。高低差にも敏感。川には超敏感。

【敗色】
緊張して話せない・・・

皆さんが地形に敏感なことは追い風になります。そこに城の情報を添えるだけで、ご本人達の頭の中で化学反応が起きますから。問題の「緊張して話せない」という心配は、始まってすぐに払しょくされました。これはもう聞き手の皆さんの素晴らしさとしか言いようがありません。聞いているのではなく、参加している。そんな雰囲気でした。やや異分子として乗り込んだつもりが、気づけば味方ばかり。これでは緊張するはずがありませんよね。

■内容■
さて、内容ですが
このブログで既に記事にしているものを、更にポイントだけに絞って説明させて頂きました。

まず「城」のイメージを狭い範囲に絞りこみ。どうしても天守閣とか石垣を連想しますよね。それはそれで魅力の世界ですが、テーマである「暗渠」の話へ繋げるのに時間がかかってしまいます。城のなかでも「中世の土の城」を紹介。まぁ城好きの中でも、ややマニアックな人たちに好まれるカテゴリですね。ただ暗渠好きの皆さんは既に地形の凸凹に敏感。知ってしまえば、逆に馴染みやすいような気がします。

もともとの地形を活かす

いろいろ言ったらきりがありませんので、築城についてはここをセールスポイントとさせて頂きました。もちろん、周辺の地形を含みます。もともとの地形を活かした上で具体的な縄張りを決め、地の利を得る。説明はそんな感じですかね。

〈事例:世田谷城跡〉
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悩みましたが、世田谷城を題材にしました。「暗渠と城跡」の関係、これが一番図解しやすいので・・・。
※題材とした当ブログ記事↓
暗渠と城跡2(世田谷城)

<図解>
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世田谷城址公園より、もう少し高い位置がかつての本丸。現在の姿は豪徳寺。そして低い位置がかつての川。現在の緑道です。川の姿はありませんが、暗渠として存在している。高低差に加えて、三方が天然堀である川となっていることを説明。城跡巡りの視点として、とにかく『地の利』を強調させてもらいました。地形の凸凹にも川にも詳しい皆さん、納得されていたようです。私の説明が上手いのではなく、みなさんが暗渠を通して「実感する」という経験を積まれているからですね。

〈まとめ〉
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暗渠に気づくことは、城跡の一部に気づくことと同じ。言い換えると、暗渠を感じることは、「城のなごり」を感じるのと同じ。まぁこんな結論で締めさせて頂きました。

気が付けば制限時間を大幅にオーバー。主催者にご迷惑をお掛けしたはずですが、笑って許してくれました。関係者、そして聞き手として参加されていた皆様にただただ感謝しております。

■つわものどもが夢の跡■
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暗渠好きの方の城跡を見る目が、少しでも変わってくれたら嬉しいです。繰り返しになりますが、漠然と城跡を眺める人と比べると、暗渠好きの方は既に地形に敏感。そして暗渠で鍛えた「とんでもない想像力」をお持ちです。ちょっとした気づきだけで、城の「地の利」もぞんぶんに味わってもらえるような気がします。そして思いを馳せて欲しいですね・・・

どんなつもりだったのか・・・

城跡はそんな思惑がなごりとして残る場所なのです。


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2017年10月19日

山形五堰 城下町の治水(山形市)

古くから最上氏宗家の城だった山形城。徳川幕府の命令で最上家が去っても、山形城の歴史はまだまだ続きます。江戸時代を通して栄えた城下町。城跡訪問のついでに街中を探索しました。

<七日町御殿堰>
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[山形市七日町]
ここはかつての雰囲気を再現した復刻版水路。駅から徒歩15分くらいでしょうか。城跡好きですが、水路好きでもあるので興味深いです。
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雰囲気もいいですね。水路沿いの柳やお店もなんとなく昔ふう。看板につられてソフトクリーム(抹茶とほうじ茶のミックス)を衝動的に購入してしまいました。美味い!ただオジサン一人の立ち喰い、あまりサマになりません。なんとなく早めに食べ終えました。岩淵茶舗さん。地元では有名な老舗ですね。ごちそうさまでした。

さて「孤独のグルメ」はいいとして、この復刻版水路。結構おカネをかけてますね。そうまでする理由。これはもう、この街にとって水路が特別なものだということでしょう。

扇状地に位置する山形市。市内にはまるで網の目のように水路が張り巡らされています。「水路の街」とまで言ったら大げさでしょうか。これは昨日今日のものではありません。水路への長年の取り組みは、城下町として栄えた山形市の歴史の一部です。

■山形五堰■ やまがたごせき
山形五堰は五つの堰(用水路)の総称。具体的には笹堰(ささぜき)・御殿堰(ごてんぜき)・八ヶ郷堰(はっかごうぜき)・宮町堰(みやまちぜき)・双月堰(そうつきぜき)の五つの用水路になります。市内にはこの五つの水路から分水した水路が放射状に広がっています。

ことの始まりは約四百年前。出羽山形藩主・鳥居忠政の治水事業の一環として水路が作られました。鳥居忠政は徳川家康の古くからの家臣。改易された最上家に代わって山形を任されました。忠政は最上義光により拡張された山形城を更に改修し、街の整備も推し進めました。

忠政が着手した治水事業とは、城の東側を流れる馬見ヶ崎川の流路変更。最上川水系須川支流のこの川は、たびたび洪水をおこす悩みの種でした。忠政はこの洪水対策を施すと同時に、川の5ヶ所に取水口を設けて、城内の水の確保、そして城下町全体へ生活用水を行き届かせるための水路を造りました。これが山形五堰の始まりです。

<せせらぎ小路>
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山形大学付近で撮影。ここは水路と散歩道がセットになっていますね。水路が市民に親しまれている感じがします。いいですね。これは「笹堰」の支流になります。

<御殿堰>
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[緑町三丁目]
最上義光ゆかりの専称寺。境内にも水路が通っています。これは御殿堰。開発が進み、この下流ではところどころ水路が地下に隠れています。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。ちょっとマニアックですが、城下町の暗渠路地もそれはそれで興味深い。

■最上の城下町■
領内の復興にも力を入れていた最上義光。領民からも慕われていたようです。これに対し、後任の鳥居忠政の評判はあまり良いものではなかったようです。厳しい検地、増税、公共事業への無償参加。領民は嘆いたと伝わります。
「最上の殿様の方が良かった」
そんな声が聞こえてきそうですね。

ただどうでしょう。これは仕方がないことのようにも思えます。地元を良く知る地元出身の統治者と、命令で着任した幕府に近い存在つまり「よそ者」では、やり方も違うでしょうし、そもそも親近感が違います。また最上義光が山形城を拠点に57万石を支配できたのに対し、鳥居忠政は22万石(旧最上氏領は分割されました)。財力にも差があります。当時不評だったのは事実のようですが、鳥居忠政の統治が、他の藩主と比較して悪政だったとも言いえないのではないでしょうか。

最上義光の城下町を引き継ぎ、鳥居忠政は藩の更なる発展のために仕事をこなしました。山形五堰もそのなごりということですね。

戦国武将好きなので、今後も「山形城といえば最上義光」です。しかしゆっくりと山形の街を徘徊させてもらい、鳥居忠政も意識するようになりました。


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タグ:山形への旅

2017年07月30日

松平伊豆守と野火止用水

<野火止用水> 玉川上水の分水
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立川市(玉川上水)から始まり志木市(新河岸川)まで約25q。江戸時代の壮大な公共事業です。この水路にあうべく、埼玉県新座市を訪問しました。

■野火止用水■ のびどめようすい
老中・松平伊豆守信綱によって開削されたことから「伊豆殿堀」とも呼ばれています。信綱は「知恵伊豆」と呼ばれた知恵者。松平家の養子となり、その才覚で異例ともいえる出世を果たしました。老中ですからね。幕府の中核です。そして川越藩主。玉川上水の開削に成功後、玉川上水からの分水を許可され、乾燥した台地のため水に苦労していた自分の領内にこの水路を築きました(玉川上水7・野火止用水3の割合で分水)。水が領民の暮らしを豊かにしたことは言うまでもありません。まずは飲み水や生活用水がいきわたるようになり、後には農地の開拓にも貢献しました。


<新座駅前>
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水車が涼しげに回ってます。到着と同時に水路を意識せざるをえません。


<水路発見>
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草で見えにくいですが、水路を見つけました。もっと早くお目にかかれるかと思っていましたが、結構歩きました。これより駅側は暗渠化(地下に埋設)されています。つまり、見ることができません。

■暗渠となる背景■ あんきょ
ここから一気に昭和の話になります。戦後、生活様式の変化や宅地化により、生活排水が用水に流れるようになり水質が悪化。加えて東京の水不足により、玉川上水からの分水が制限されるようになり、野火止用水の水質はますます悪くなります。最後は玉川上水からの取水が停止。やがて汚れた水路には蓋がされ、地表からその姿を消しました。
臭いものには蓋・・・
まぁそうなる背景があってのことですが、そういうことですね。

■価値の見直し■
歴史的な価値を見直す機運が高まっています。先人たちの仕事を見直すことは、人の思いを見直すことのように思えます。見た目以上に美しく感じるのは、きっとそのせいでしょう。

<歴史を刻んだ水の路> みずのみち
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知恵伊豆と呼ばれた男の水路。そして領民に感謝された水路。この用水路に蓋がされることはもうないでしょう。本来あるべき姿。いいですね。


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