小田原城の馬屋曲輪跡にて、円形に石が敷いてあるのを見かけたので覗いてみました。
<切石敷井戸跡>きりいししきいど
井戸の跡か?
説明文によれば
『表面の切石は、内側は六角形を呈しており、外側は円形となっている。六角井戸は大陸より伝えられた特別な井戸と言われ、この井戸も徳川将軍家との関連性がうかがわれる。』
とのこと。
<説明板写真>
確かに内側は円形ではないようです
日本で井戸と言えば円形、あるいは四角形が多いですよね。外側の円形は良いとして、六角には特別な意味があったのでしょうか。『六角井戸は大陸より伝えられた特別な井戸』とありますが、それと徳川将軍家との関連性がいまいちわかりませんでした。
六角井戸でネット検索すると、長崎県平戸市浦の町の井戸が有名のようです。そして、当時の中国(明)との関係が伝わってきます。
では六角井戸と将軍家のつながりは?
はい。分かりませんでした。
ただ、これはよく言われることですが、秀吉の時代に悪化した大陸との関係を、徳川家康はなんとか改善しようとつとめていました。鎖国の一方で、文化の交流を図る。そんな流れのなかで、大陸の井戸を真似て一般的な井戸と差別化を図ることは、徳川将軍家のステータスに相応しい施しだったのかもしれませんね。
ということで
素人会社員の妄想ですので、その程度に受け止めて頂きますようお願いします。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
<馬屋曲輪>うまやくるわ
■訪問:小田原城馬出曲輪
[神奈川県小田原市城内]3
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
・Wikipedia:2023/1/14
お城巡りランキング
2023年01月14日
2023年01月07日
重厚な仕切門と櫓門(小田原城)枡形虎口の銅門
<銅門>あかがねもん
威風堂々の渡櫓門
今回は近世城郭となった小田原城二の丸の表門の話です。
<住吉堀と二の丸虎口>
ここは二の丸入口です。手前側は馬屋曲輪で、堀に架かる橋を渡って門をくぐると、壁で囲まれた区画、そして次の門が待っています。いわゆる枡形門ですね。ここが江戸時代に二の丸だったことは明らかですが、北条氏の居城だった戦国時代にも、何らかの役割を担った区画と推定されています。
<住吉橋>すみよしばし
住吉堀を渡る住吉橋です。ご覧の通り、途中までは土台が土と石垣、門の手前がいわゆる橋となっています。両方セットで住吉橋です。いざという時、木橋を破壊してしまえば二の丸へは渡れませんね。
<内仕切門>うちしきりもん
石垣の一部が途切れて門となっています。城好きの人のなかには、江戸時代の枡形門と聞けば、比較的屋根が小さい高麗門を想像する人も多いかと思います。しかしここはかなり違う印象ですね。死角が生まれるような気もしますが、土塀の穴(狭間)が多数ですので、余計な心配ですかね
<枡形門>ますがたもん
最初の門を通過すると壁に囲まれた区画に出ます。そして左奥には2つ目の門。門の上部が櫓になっている櫓門といいます。まぁ櫓門で良いのですが、石垣と石垣との間を渡すように(まるで渡廊下のように)櫓が築かれている場合、渡櫓門(わたりやぐらもん)ともよびます。念のため。
<土塀と狭間>さま
内側から見た城壁。適所に狭間(飛び道具で攻撃するための穴)が設けられています
<武者走り>
城兵が石垣の上に登って移動するための石段
<枡形>ますがた
壁に囲まれている区画。正面と右手の壁の狭間は外の敵を狙うためのものですが、左側の土壁の狭間は、この区画に侵入してきた敵を狙うためのものです。よく見ると、城兵が石垣の上を移動できるようにはなっていませんね。
最後に
<銅門説明板>
説明文には銅門が『江戸時代の小田原城二の丸の表門にあたる枡形型式の城門』であることや、『渡櫓の門扉や鏡柱に耐火を兼ねた銅の装飾がなされていたこと』が名の由来といったことが記されいます。写真は明治5年に取り壊される直前のものとのこと。かなり傷んでいますね。説明書きにも『維持できなくなった様子を示す』と表現されています(『』内は説明板の原文を転記しています)。
ということで
堀と橋と桝形門を組み合わせた重厚な城門のご紹介でした。外見からは伝わりにくいですが、土塀は昔の技法を駆使して造り上げています。城のなごりを今に伝える貴重な復元です。
■訪問:小田原城銅門
(二の丸表門)
[神奈川県小田原市城内]3
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
・Wikipedia:2023/1/7
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威風堂々の渡櫓門
今回は近世城郭となった小田原城二の丸の表門の話です。
<住吉堀と二の丸虎口>
ここは二の丸入口です。手前側は馬屋曲輪で、堀に架かる橋を渡って門をくぐると、壁で囲まれた区画、そして次の門が待っています。いわゆる枡形門ですね。ここが江戸時代に二の丸だったことは明らかですが、北条氏の居城だった戦国時代にも、何らかの役割を担った区画と推定されています。
<住吉橋>すみよしばし
住吉堀を渡る住吉橋です。ご覧の通り、途中までは土台が土と石垣、門の手前がいわゆる橋となっています。両方セットで住吉橋です。いざという時、木橋を破壊してしまえば二の丸へは渡れませんね。
<内仕切門>うちしきりもん
石垣の一部が途切れて門となっています。城好きの人のなかには、江戸時代の枡形門と聞けば、比較的屋根が小さい高麗門を想像する人も多いかと思います。しかしここはかなり違う印象ですね。死角が生まれるような気もしますが、土塀の穴(狭間)が多数ですので、余計な心配ですかね
<枡形門>ますがたもん
最初の門を通過すると壁に囲まれた区画に出ます。そして左奥には2つ目の門。門の上部が櫓になっている櫓門といいます。まぁ櫓門で良いのですが、石垣と石垣との間を渡すように(まるで渡廊下のように)櫓が築かれている場合、渡櫓門(わたりやぐらもん)ともよびます。念のため。
<土塀と狭間>さま
内側から見た城壁。適所に狭間(飛び道具で攻撃するための穴)が設けられています
<武者走り>
城兵が石垣の上に登って移動するための石段
<枡形>ますがた
壁に囲まれている区画。正面と右手の壁の狭間は外の敵を狙うためのものですが、左側の土壁の狭間は、この区画に侵入してきた敵を狙うためのものです。よく見ると、城兵が石垣の上を移動できるようにはなっていませんね。
最後に
<銅門説明板>
説明文には銅門が『江戸時代の小田原城二の丸の表門にあたる枡形型式の城門』であることや、『渡櫓の門扉や鏡柱に耐火を兼ねた銅の装飾がなされていたこと』が名の由来といったことが記されいます。写真は明治5年に取り壊される直前のものとのこと。かなり傷んでいますね。説明書きにも『維持できなくなった様子を示す』と表現されています(『』内は説明板の原文を転記しています)。
ということで
堀と橋と桝形門を組み合わせた重厚な城門のご紹介でした。外見からは伝わりにくいですが、土塀は昔の技法を駆使して造り上げています。城のなごりを今に伝える貴重な復元です。
■訪問:小田原城銅門
(二の丸表門)
[神奈川県小田原市城内]3
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
・Wikipedia:2023/1/7
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銅門の礎石(小田原城)城が朽ちても残る土台石
今回は小田原城址公園に展示されている石の話です。
<銅門礎石>あかがねもん そせき
加工が施された巨大な石と説明板。「伝 銅門礎石」と題した小田原市による説明文を以下に転記させて頂きます
『この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。
使用状況は、復元した銅門をご覧いただくと解りますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。
箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」を確認できます。手前の石は約1.6t、奥の石は約1.8tある立派なものです。』
銅門は小田原城の二の丸のかなり重厚な城門です。現在は復元されていますが、この礎石はかつての銅門の遺構ということですね。正確には「そう伝わる」石です。文の最後のほうにある矢穴は、上の画像だと石の角に見ることができます。
<矢穴>やあな
赤丸〇をつけさせて頂きました。ここですね。矢は弓矢の矢ではなく、クサビのことです。開けた穴にクサビを打込んで石を割ります。凹んでいるのはその工程のなごりです。
城跡の発掘調査で「戦国時代の礎石が確認された」といった記事をときどき見かけますよね。また、曲輪跡にむかしあった通りに礎石が並べられている光景を目にしたりもします。地中にその大半を埋めて使用するわけですから、城が現役の時は目立たない存在だったかもしれません。しかし地表から城が消えても、礎となった石は残る。貴重な城のなごりですね。
■訪問:銅門の礎石
[神奈川県小田原市城内]
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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<銅門礎石>あかがねもん そせき
加工が施された巨大な石と説明板。「伝 銅門礎石」と題した小田原市による説明文を以下に転記させて頂きます
『この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。
使用状況は、復元した銅門をご覧いただくと解りますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。
箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」を確認できます。手前の石は約1.6t、奥の石は約1.8tある立派なものです。』
銅門は小田原城の二の丸のかなり重厚な城門です。現在は復元されていますが、この礎石はかつての銅門の遺構ということですね。正確には「そう伝わる」石です。文の最後のほうにある矢穴は、上の画像だと石の角に見ることができます。
<矢穴>やあな
赤丸〇をつけさせて頂きました。ここですね。矢は弓矢の矢ではなく、クサビのことです。開けた穴にクサビを打込んで石を割ります。凹んでいるのはその工程のなごりです。
城跡の発掘調査で「戦国時代の礎石が確認された」といった記事をときどき見かけますよね。また、曲輪跡にむかしあった通りに礎石が並べられている光景を目にしたりもします。地中にその大半を埋めて使用するわけですから、城が現役の時は目立たない存在だったかもしれません。しかし地表から城が消えても、礎となった石は残る。貴重な城のなごりですね。
■訪問:銅門の礎石
[神奈川県小田原市城内]
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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2023年01月03日
むかしの技法で復元した城壁(小田原城)銅門の土塀模型
今回は小田原城の城壁の話です。
<銅門 土塀模型>あかがねもん
構造が分かり安い!
竹で造った柵に何層にも土や漆喰を塗り重ねて造る。素人なので、だいたいそんなイメージで受け止めましたが、文字が記されているので、もうちょっとしっかり確認したいと思います。
<構造>
荒壁・斑直し・大直し・中塗り・砂漆喰
荒壁は下地に細い竹を組んで造る土壁のことですね。で、斑直し?これは調べましたが、説明が長くなるのと、まったくと言っていいほど実感が湧かないので、荒壁の表面を平面に整えることだと素人なりに理解しておきます。次に大直しですが、これも表面を整える工程のようですが、斑直しとの具体的な違いはわかりません(建築業の方なら当たり前のことかもしれません)。中塗りは上塗りの前工程、最後の砂漆喰は字の通りで、漆喰に砂を混ぜて強度を増したものですね。これを仕上げに塗る(塗っては乾かしてを何度も繰り返す)。かなり雑ですが、そんな感じでしょうか。
実は、この模型を見るのは初めてではありません。前回は、壁の構造を一般人に分かり安く説明するための展示物と受け止めました。まぁ間違いではないのですが、今回は説明板をしっかり読んだので、それだけではないことを知りました。
以下は『銅門 土塀模型』と題した説明文の転記です。
『この土塀模型は、江戸時代の工法・技法をもとに復元した銅門の建設に先立ち製作したものです。
使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめるため重要な役割を果たしました。
皆さんに古い建築の工法を分かりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合より寄贈を受けたものです。』
一般人向けの展示物として造られたのではなく、もともとはプロ用の模型。むかしの方法で土壁を復元するため、土や木材の収縮などを確認する手段だったわけですね。寄贈され、いまでは展示物となっている。納得しました。
<復元された土塀>
銅門の枡形の内側を撮影しました
門や石垣を見つめる人は多いですが、壁をまざまざと見る人は少ないですよね。土塀は耐火性に優れ、仮に火矢をかけられてもそう簡単には燃え上がりません。そんな思いの込められた技法を、しっかりと駆使して復元した城壁です。漆喰の内側は見えませんが、知れば見る目も変わりますね。
■訪問:銅門の土塀模型
[神奈川県小田原市城内]
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
・Wikipedia:2023/1/3
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<銅門 土塀模型>あかがねもん
構造が分かり安い!
竹で造った柵に何層にも土や漆喰を塗り重ねて造る。素人なので、だいたいそんなイメージで受け止めましたが、文字が記されているので、もうちょっとしっかり確認したいと思います。
<構造>
荒壁・斑直し・大直し・中塗り・砂漆喰
荒壁は下地に細い竹を組んで造る土壁のことですね。で、斑直し?これは調べましたが、説明が長くなるのと、まったくと言っていいほど実感が湧かないので、荒壁の表面を平面に整えることだと素人なりに理解しておきます。次に大直しですが、これも表面を整える工程のようですが、斑直しとの具体的な違いはわかりません(建築業の方なら当たり前のことかもしれません)。中塗りは上塗りの前工程、最後の砂漆喰は字の通りで、漆喰に砂を混ぜて強度を増したものですね。これを仕上げに塗る(塗っては乾かしてを何度も繰り返す)。かなり雑ですが、そんな感じでしょうか。
実は、この模型を見るのは初めてではありません。前回は、壁の構造を一般人に分かり安く説明するための展示物と受け止めました。まぁ間違いではないのですが、今回は説明板をしっかり読んだので、それだけではないことを知りました。
以下は『銅門 土塀模型』と題した説明文の転記です。
『この土塀模型は、江戸時代の工法・技法をもとに復元した銅門の建設に先立ち製作したものです。
使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめるため重要な役割を果たしました。
皆さんに古い建築の工法を分かりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合より寄贈を受けたものです。』
一般人向けの展示物として造られたのではなく、もともとはプロ用の模型。むかしの方法で土壁を復元するため、土や木材の収縮などを確認する手段だったわけですね。寄贈され、いまでは展示物となっている。納得しました。
<復元された土塀>
銅門の枡形の内側を撮影しました
門や石垣を見つめる人は多いですが、壁をまざまざと見る人は少ないですよね。土塀は耐火性に優れ、仮に火矢をかけられてもそう簡単には燃え上がりません。そんな思いの込められた技法を、しっかりと駆使して復元した城壁です。漆喰の内側は見えませんが、知れば見る目も変わりますね。
■訪問:銅門の土塀模型
[神奈川県小田原市城内]
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
・Wikipedia:2023/1/3
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2023年01月02日
堅固な本丸のなごり(小田原城)本丸東堀
今回は小田原城本丸についての話です。
<常盤木門>ときわぎもん
こちらは本丸の虎口(出入り口)の常盤木門。本丸を出て先に進むと…
<常盤木橋>ときわぎばし
急斜面に設けられた石段が待っています。降りた先には、本丸堀を渡るための橋が架けられています
<本丸>
下から見上げた本丸
<本丸と堀と橋>
横から撮影するとこんな感じです
付近に説明板がありましたので、のぞいてみました。
<説明板>
説明文によれば、江戸時代の小田原城の本丸は堀で囲まれていて、この付近は本丸東堀と呼ぶようです。更に要約すると、東堀は幅20m以上の規模の水堀で、いまより5m以上の深さがあったと想定されているとのこと。
堀は今でも結構な深さで、本丸との高低差を実感しますが、城が現役の時はもっと深く掘り下げられていたわけですね。
<説明板拡大>
更に、本丸へ入るルートは2つしかなく、ともに橋を渡ってから城門を潜るという構造になっていました。
周囲は水堀で囲まれている上に高低差があり、更に出入りできる場所は2ヶ所のみ。厳重ですね。北条氏の居城だった頃の本丸はこことは異なりますので、この構造になったのは徳川家康が江戸へ移ったあとのこと。新たな戦に備えることは勿論ですが、近代の小田原城は、東海道を移動する将軍が宿泊する城でもありました。警備にそうとう気を使う必要があったことも事実ですね。
かつての水堀は埋められ、草花が植えられています
■訪問:小田原城本丸東堀
[神奈川県小田原市城内]3
■参考及び出典
現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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<常盤木門>ときわぎもん
こちらは本丸の虎口(出入り口)の常盤木門。本丸を出て先に進むと…
<常盤木橋>ときわぎばし
急斜面に設けられた石段が待っています。降りた先には、本丸堀を渡るための橋が架けられています
<本丸>
下から見上げた本丸
<本丸と堀と橋>
横から撮影するとこんな感じです
付近に説明板がありましたので、のぞいてみました。
<説明板>
説明文によれば、江戸時代の小田原城の本丸は堀で囲まれていて、この付近は本丸東堀と呼ぶようです。更に要約すると、東堀は幅20m以上の規模の水堀で、いまより5m以上の深さがあったと想定されているとのこと。
堀は今でも結構な深さで、本丸との高低差を実感しますが、城が現役の時はもっと深く掘り下げられていたわけですね。
<説明板拡大>
更に、本丸へ入るルートは2つしかなく、ともに橋を渡ってから城門を潜るという構造になっていました。
周囲は水堀で囲まれている上に高低差があり、更に出入りできる場所は2ヶ所のみ。厳重ですね。北条氏の居城だった頃の本丸はこことは異なりますので、この構造になったのは徳川家康が江戸へ移ったあとのこと。新たな戦に備えることは勿論ですが、近代の小田原城は、東海道を移動する将軍が宿泊する城でもありました。警備にそうとう気を使う必要があったことも事実ですね。
かつての水堀は埋められ、草花が植えられています
■訪問:小田原城本丸東堀
[神奈川県小田原市城内]3
■参考及び出典
現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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2022年12月31日
常盤木門(小田原城)永久不変を願って名付けられた城門
今回は小田原城の城門の話です。
<常盤木門>ときわぎもん
小田原城本丸の正門にあたる城門だけあってかなり重厚な造りです。
ところで
名前の常盤木とは?
常盤は永久不変なことを指す言葉。ここでいう常盤木とは、常緑樹を意味しています。現地説明板の言葉をそのまま借用させて頂きますと『松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられた』といわれています。城門の名に未来への願いが込められていたわけですね。
<説明板>
詳細が記されています。こちらの冒頭には『常磐木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことがわかっています。』とあります。
江戸初期には既に存在していたわけですね。ただ、説明文の続きを要約すると元禄16年(1703年)の元禄地震で門は崩壊し、3年後の宝永3年(1706年)に、枡形門の型式で再建されたとあります。場所が場所だけに、すぐに修復したのでしょう。そして、明治まではその姿を留めていましたが、小田原城の廃城(1870年)により常盤木門も解体。この時に完全に姿を消しました。
名の由来とは異なる運命をたどったことになります。
ただこのままでは終わらず、約100年後になりますが、小田原市の市制30周年事業として再建され、昭和46年(1971年)に完成したそうです。それが現在の常盤木門ということになります。
威風堂々の城門です
そもそもの話として
永遠とか不変は、少なくとも人の営みのなかにはありません。そう願いたいことはたくさんありますが、そうはなりません。ただし、つないでいくことはできます。復元に際しては、明治初期の写真などが参考にされ、その当時できる最善が尽くされたことでしょう。そういう営みのおかげで、かつての城のなごりを感じることができました。
いわゆる枡形門ですので、手前の石垣のところにも門があったわけですね
松の木が緑を保てるのも、葉が入れ替わっているからですね。そういう意味では、常盤木門の名に相応しい復元門なのかもしれません。
ということで
常盤木門のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
■訪問:小田原城常盤木門
[神奈川県小田原市城内]6
■参考及び出典
現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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<常盤木門>ときわぎもん
小田原城本丸の正門にあたる城門だけあってかなり重厚な造りです。
ところで
名前の常盤木とは?
常盤は永久不変なことを指す言葉。ここでいう常盤木とは、常緑樹を意味しています。現地説明板の言葉をそのまま借用させて頂きますと『松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられた』といわれています。城門の名に未来への願いが込められていたわけですね。
<説明板>
詳細が記されています。こちらの冒頭には『常磐木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことがわかっています。』とあります。
江戸初期には既に存在していたわけですね。ただ、説明文の続きを要約すると元禄16年(1703年)の元禄地震で門は崩壊し、3年後の宝永3年(1706年)に、枡形門の型式で再建されたとあります。場所が場所だけに、すぐに修復したのでしょう。そして、明治まではその姿を留めていましたが、小田原城の廃城(1870年)により常盤木門も解体。この時に完全に姿を消しました。
名の由来とは異なる運命をたどったことになります。
ただこのままでは終わらず、約100年後になりますが、小田原市の市制30周年事業として再建され、昭和46年(1971年)に完成したそうです。それが現在の常盤木門ということになります。
威風堂々の城門です
そもそもの話として
永遠とか不変は、少なくとも人の営みのなかにはありません。そう願いたいことはたくさんありますが、そうはなりません。ただし、つないでいくことはできます。復元に際しては、明治初期の写真などが参考にされ、その当時できる最善が尽くされたことでしょう。そういう営みのおかげで、かつての城のなごりを感じることができました。
いわゆる枡形門ですので、手前の石垣のところにも門があったわけですね
松の木が緑を保てるのも、葉が入れ替わっているからですね。そういう意味では、常盤木門の名に相応しい復元門なのかもしれません。
ということで
常盤木門のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
■訪問:小田原城常盤木門
[神奈川県小田原市城内]6
■参考及び出典
現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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2022年12月30日
本丸に隣接する閉ざされた曲輪(小田原城)御用米曲輪
今回は江戸時代の小田原城本丸に隣接し、厳重な管理下に置かれていた曲輪の話です。
<御用米曲輪>ごようまいくるわ
こちらです。ただの平らな区画?にも映りますが、重要な役割を担っていた曲輪です。
<説明板>
詳細が記されていますので、前半を下記に転記させて頂きます。『』内は原文そのままです。
『御用米曲輪は、本丸の北側に位置する曲輪です。この曲輪は、外周を土塁と堀で囲われており、出入りは二の丸から相生橋を渡って入るか、本丸側から黒鉄門坂を下って入るしかありません。このような閉ざされた曲輪には、江戸時代の初めより幕府天領などから納められた米を保管する蔵が置かれ、「百間蔵」「城米曲輪」「御用米曲輪」などの名称で呼ばれる小田原城にとって大変重要な場所でした。』
以下省略しますが、2010年から2015年に発掘調査と記されていますので、最近になって分かったこともたくさんあるのでしょう。幕府の米を保管する蔵があったことはよく分かりました。閉ざされた曲輪という点をもうちょっと具体的に確認したいと思います。
<説明板拡大>
説明板の図の拡大です。ああ、なるほど、どこからでも入れる区画ではないようですね。現在位置、つまり私が撮影している場所は、いまでこそ道ですが、水堀だったわけですね。そうすると相生橋を渡って入るか、あるいは本丸側から入るしかありません。
幕府の米蔵
預かる側の責任の重さが伝わってきますね。同時に、小田原城を任される者と将軍家との強い結びつきも伝わってきます。小田原城の初代城主は大久保忠世。古くから徳川家康に仕えた三河武士です。以降稲葉氏を挟んで幕末まで、代々大久保氏が城主を務めました。
小田原城は、東海道の要所で関東防衛の役割を担いながら、食糧の保管までしていたわけですね。それ自体に軍事的な理由もありそうですが、深掘りしないでそのまま受け止めることにします。
ちなみに、今回は江戸時代の曲輪としてご紹介していますが、小田原北条氏の時代、つまり戦国時代においても、ここは建物が立ち並ぶ区画だったようです。本丸そのものの位置は江戸時代と異なりますが、北条氏が居城とした時代から、ここは特別な意味を持った曲輪だったのでしょう。
ということで
本丸に隣接する小田原城の重要な曲輪のご紹介でした。
■訪問:小田原城御用米曲輪
[神奈川県小田原市城内]4
■参考及び出典
現地説明板
お城巡りランキング
--------■ 追 記 ■--------
春に再訪した時の画像を貼っておきます
桜と御用米曲輪
御用米曲輪北西土塁
<御用米曲輪>ごようまいくるわ
こちらです。ただの平らな区画?にも映りますが、重要な役割を担っていた曲輪です。
<説明板>
詳細が記されていますので、前半を下記に転記させて頂きます。『』内は原文そのままです。
『御用米曲輪は、本丸の北側に位置する曲輪です。この曲輪は、外周を土塁と堀で囲われており、出入りは二の丸から相生橋を渡って入るか、本丸側から黒鉄門坂を下って入るしかありません。このような閉ざされた曲輪には、江戸時代の初めより幕府天領などから納められた米を保管する蔵が置かれ、「百間蔵」「城米曲輪」「御用米曲輪」などの名称で呼ばれる小田原城にとって大変重要な場所でした。』
以下省略しますが、2010年から2015年に発掘調査と記されていますので、最近になって分かったこともたくさんあるのでしょう。幕府の米を保管する蔵があったことはよく分かりました。閉ざされた曲輪という点をもうちょっと具体的に確認したいと思います。
<説明板拡大>
説明板の図の拡大です。ああ、なるほど、どこからでも入れる区画ではないようですね。現在位置、つまり私が撮影している場所は、いまでこそ道ですが、水堀だったわけですね。そうすると相生橋を渡って入るか、あるいは本丸側から入るしかありません。
幕府の米蔵
預かる側の責任の重さが伝わってきますね。同時に、小田原城を任される者と将軍家との強い結びつきも伝わってきます。小田原城の初代城主は大久保忠世。古くから徳川家康に仕えた三河武士です。以降稲葉氏を挟んで幕末まで、代々大久保氏が城主を務めました。
小田原城は、東海道の要所で関東防衛の役割を担いながら、食糧の保管までしていたわけですね。それ自体に軍事的な理由もありそうですが、深掘りしないでそのまま受け止めることにします。
ちなみに、今回は江戸時代の曲輪としてご紹介していますが、小田原北条氏の時代、つまり戦国時代においても、ここは建物が立ち並ぶ区画だったようです。本丸そのものの位置は江戸時代と異なりますが、北条氏が居城とした時代から、ここは特別な意味を持った曲輪だったのでしょう。
ということで
本丸に隣接する小田原城の重要な曲輪のご紹介でした。
■訪問:小田原城御用米曲輪
[神奈川県小田原市城内]4
■参考及び出典
現地説明板
お城巡りランキング
--------■ 追 記 ■--------
春に再訪した時の画像を貼っておきます
桜と御用米曲輪
御用米曲輪北西土塁
トンネルを抜けると城だった(小田原)星槎城山トンネル
神奈川県道73号を北へ向かって進んでいくと、まもなく小田原城というところでトンネルをくぐることになります。
<星槎城山トンネル>せいさしろやま
城山トンネルか
小田原訪問は初めてではなかったので、この日はまず八幡山方面や城下を見て歩き、仕上げに小田原城を目指して歩いていました。やや疲れたところで「城山」の文字をみつけ、安堵した瞬間でした。「星槎?」は読めませんでしたが、後で調べたら命名権を取得した学校法人の名と分かりました。
<トンネル>
ここを通り抜ければ小田原城かぁ
トンネル内は片側が歩道になっています。入口から出口までは200m強で、更にカーブが緩やかなため見通しが良いです。こちらから城に接近するのは初めてだったので、どんな景色か期待が膨らみました。
そして
城のどの辺に出るかもイメージしないままトンネルを抜けると
おお、急斜面…
城が見えた…山城だなぁ…
そんなことは百も承知ながら、見上げた瞬間そう感じました。
小田原城は上杉謙信も武田信玄も落とせなかった北条氏の居城。やがて豊臣秀吉率いる20万の軍勢が関東に迫り、本軍15万がこの城を取り囲みました。そうまでしないとならなかった難攻不落の山城です。
星槎城山トンネルは、そんな歴史的な山に通じるトンネルなのです。
ちょっと当たり前の内容で恐縮です。土地勘のない男が、トンネルを抜けて見上げたら城だった時の感覚を、多少なりとも共有できれば幸いです。
トンネル側から城に近づくと、右下の現在位置にたどり着きます。この日はここから城内を散策しました。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:星槎城山トンネル
[神奈川県小田原市南町]
お城巡りランキング
<星槎城山トンネル>せいさしろやま
城山トンネルか
小田原訪問は初めてではなかったので、この日はまず八幡山方面や城下を見て歩き、仕上げに小田原城を目指して歩いていました。やや疲れたところで「城山」の文字をみつけ、安堵した瞬間でした。「星槎?」は読めませんでしたが、後で調べたら命名権を取得した学校法人の名と分かりました。
<トンネル>
ここを通り抜ければ小田原城かぁ
トンネル内は片側が歩道になっています。入口から出口までは200m強で、更にカーブが緩やかなため見通しが良いです。こちらから城に接近するのは初めてだったので、どんな景色か期待が膨らみました。
そして
城のどの辺に出るかもイメージしないままトンネルを抜けると
おお、急斜面…
城が見えた…山城だなぁ…
そんなことは百も承知ながら、見上げた瞬間そう感じました。
小田原城は上杉謙信も武田信玄も落とせなかった北条氏の居城。やがて豊臣秀吉率いる20万の軍勢が関東に迫り、本軍15万がこの城を取り囲みました。そうまでしないとならなかった難攻不落の山城です。
星槎城山トンネルは、そんな歴史的な山に通じるトンネルなのです。
ちょっと当たり前の内容で恐縮です。土地勘のない男が、トンネルを抜けて見上げたら城だった時の感覚を、多少なりとも共有できれば幸いです。
トンネル側から城に近づくと、右下の現在位置にたどり着きます。この日はここから城内を散策しました。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:星槎城山トンネル
[神奈川県小田原市南町]
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