戦国の北関東で強かに生き残った皆川氏の城跡を訪ねました。
<栃木城跡>
栃木市の栃木城跡です。現在は土塁と堀の一部、曲輪跡が僅かに残るのみ。かつてこの地を治めた皆川広照(みながわひろてる)の居城跡です。
■当主の次男■
皆川広照は皆川城主・皆川俊宗の次男として生まれました。家督は一旦兄(広勝)が継いだものの、29歳という若さで亡くなってしまい、家を継ぐことに。皆川氏は名門ながらも小大名。周辺の小大名と同様、上杉・北条といった大きな勢力の煽りを受け続けます。そんな家の当主となった広照。「世渡り上手」で戦国の世で生き残りました。
【主君】
宇都宮氏⇒北条氏⇒滝川氏(実質織田氏)⇒また宇都宮氏⇒また北条氏⇒徳川(家康から家光まで)
普通はどこかで途切れそうですが、上手く切り抜けました。ただ逃げるだけなら、どこかで潰されていたでしょう。攻めたり退いたり、堪えて守ったりを繰り返せるだけの武力も備えていました。
それにしても、具体的には「また北条氏」のところですが、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉を敵に回していたことになります。よく領地を没収されずに済みましたね。広照は北条氏照の配下として、小田原城の守備についていました。つまり秀吉率いる天下軍との決戦に備えていたわけですね。ところがギリギリのところで城を出て徳川家康に接近し、難を逃れたようです。しかも江戸時代は譜代大名という扱い。皆川広照、なかなか他に例を見ない処世術です。
<児童公園>
ここも城跡。栃木城址公園です。画像だと、これそのものが独立した曲輪のようにも映りますが、児童公園として整備した結果ですね。
<土塁>
冒頭の土塁を児童公園側から撮影。防衛用の土塁としては長さが短すぎるので、物見のために土を盛ったのかも知れません。あるいは、堀とセットで築いた立派な土塁は、ほとんど削られてしまった(なんて想像しながら見て回る)。
<土塁>別角度より撮影
同じ土塁を今度は堀側から。こうして見ると、多少は防衛用の土塁に見えなくもないですね。ちなみに、石垣は後世のものです(念のため)。
<堀跡>
<水面>
水がやたら澄んでいました。ただ水源は湧水ではありません。
■山城から平城へ■
1590年の小田原征伐の時、皆川城は上杉軍に攻められ落城しています。幾多の激戦を経験している皆川氏ですが、この時は自ら開城したと推定されています(ある程度戦ったという説もあります)。小田原北条氏に組みしていた関東の諸大名には憂き目が待っていましたが、当主広照が事前に徳川家康に下っていたことで、皆川氏の本領は安堵されました。その後、広照は山城を放棄して巴波川沿いに築いた平城へと拠点を移しました。
今回訪問の栃木城へ皆川氏が移ったのはこのタイミングです。ただ、皆川氏は山城から平城への移転をかねてから計画していたようで、主要な寺社の引っ越しや町整備は事前に始まっていたとされています。皆川城が拠点であり続けたのは、戦乱に巻き込まれていたことや、新たな城や町の整備を一気に進めるほどの財力が無かったことが背景にあった。諸説あるようですが、その説が一番納得しました。いずれにしても、この移転は突然のことではなく、予てから望んでいたプラン。広照は町造りとともに、近江商人を誘致するなど、経済にも力を注ぎました。
戦歴や経済政策、ここで全てをご紹介できませんが、私なりにいろいろ調べて感じるのは、この方は非常に「優秀なリーダー」だったということです。更に文化人とのこと。皆川氏は全国的に見れば小大名という存在ですが、家の大小や知名度とは関係なく、優れた人というのはいるもんだとつくづく思いました(あくまで個人評価です)。
<案内板>
本丸ほかの曲輪を備えた広大な平城だったようです。
<家臣の末裔>
城のすぐそば。皆川氏の家臣だった『坂本興兵衛』のご子孫のお家があり、報奨として授かった「連歌の巻物」の写しが展示されています。
<連歌>
ふむふむ、なるほど・・・
ちょっと読めません。こういうのは根性を出しても無理なので、すぐに諦めました。教養のある方は、きっと意味すら分かるのでしょうね。
<坂本家>
坂本家は城跡の目の前の白壁の家。門構えなど本当に立派ですが、生活されている個人宅ですので撮影は壁だけにしました。皆川氏に仕えたあと、百姓をしながら寺子屋を開いたとのこと。主なきあとも、地域に貢献したわけですね。また『百姓となり・・・』としか書いてありませんが、普通に連想される百姓ではなく、地域のリーダー的な存在だったような気がします。
■栃木城の廃城■
徳川家に認められた広照。地元の領地はそのままで加増され、ピーク時には7万5千を領しました。家康の六男の守役まで任されましたが、これが裏目となりました。家康の怒りを買うことになり(松平忠輝事件)、1609年に改易。京都にて謹慎の身となりました。そこに幕府の「城取り壊し政策」が重なり、ここ栃木城は廃城。かつて広照が夢見た城下町の構想はここでついえました。領地は幕府の直轄、または旗本や大名に細分化されて引き継がれました。
■つわものどもが夢の跡■
<巴波川と蔵>うずまがわ
今回は立ち寄りませんでしたので、同市内の『皆川城』を訪問した時の画像を。
繁栄のなごりを残す蔵の町です。とてもいい雰囲気。関東の倉敷とも呼ばれる街並です。城は亡くなりましたが、もともと荒れ地に過ぎなかった栃木の町は、北関東屈指の商都となりました。町の繁栄、それは広照が一番望んでいたことかもしれませんね。
皆川広照が赦免されるのは1623年。改易されてからそうとう後ですね。常陸国で1万石を与えられました。
-------■栃木城■-------
築城年:1591年(天正19)
築城者:皆川広照
城 主:皆川広照
廃 城:1609年(慶長14)
[栃木県栃木市城内町]
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