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2020年12月16日
動詞のまとめ――マニア向け(十二月十三日)
日本語に関しては、古文、漢文の勉強を通じて、さらには大学でかじった国語学のおかげで文法について事細かに考える癖がついている。英語を勉強したときには間に合わなかったが、チェコ語の場合には、それが非常に役に立っている。教科書に出てきたこと、先生に習ったことを覚えてしまうのは当然だが、覚えたことをもとに、あれこれ自分なりの理論、理解を導くために考えるのが、もちろん的外れな考えもあるけれども、チェコ語の能力の向上に大きく寄与した。それで、チェコ語について自分で説明したり文章を書いたりするときにも、ややこしいことを考えてしまう。
その成果が、以下に並べるいくつかの文章である。
Kačとať〈私的チェコ語辞典〉
動詞の人称変化形と組み合わせて使えるものに「ač」と「ať」がある。「ač」のほうは、「〜しても」「〜のに」と逆接の意味を持ち、長い「ačkoli」という形で使うこともある。「ať」は「〜しろ」と命令に近い意味で、日本語の「〜にしろ、〜にしろ」と同じような使い方もできる。問題は耳で聞いた場合には、区別ができないことである。
チェコ語で、たとえば「合法的であるにせよ、非合法であるにせよ」なんて言うのは、一見とても難しそうだけど、「ať」を使えば簡単に言えてしまう。特に教科書や授業で習うものでもないので、知らない人にはとても凄い表現を使っているように聞こえるのも、使い手にとっては嬉しいところである。
L接頭辞の迷宮序
接頭辞の迷宮一
接頭辞の迷宮二
接頭辞の迷宮三
接頭辞の迷宮四
接頭辞の迷宮第一期最終回
動詞を完了態と不完了態に分類するのは、チェコ語を使うために不可欠なことで、完了態と不完了態のペアを覚えておくことは非常に大切である。不完了態だけでペアをなさないものもあるけれども。
そしてそれらの基本となる動詞に接頭辞をつけることで微妙に意味の違う新たな動詞が作られることも重要である。接頭辞として使われるものの多くは前置詞と共通するもので、意味も前置詞と共通する場合が多い。ただしちゃんと解釈しないと前置詞との共通性が見えてこないこともある。その辺の薀蓄を語ってしまったのが、ここに羅列したいくつかの記事である。
それから、不完了態の動詞に接頭辞をつけて完了態の動詞を作り、その完了態の動詞からさらに不完了態の動詞が作られるなんて例もある。慣れてくると知らない動詞でも何となく関連性が見えてくるようになるのだけど、この手の増やされた動詞がすべて辞書に載っているわけでも、辞書に載っている動詞がすべて使われるわけでもないので、自分で使うのはなかなか厄介である。
いずれまた、まだ取り上げていない接頭辞についても取り上げる必要があるだろう。ここに挙げた接頭辞についての文章を、動詞の人称変化について書く前に書いてしまったのは、何でなんだろう。今となっては思い出せない。
M形容詞の作り方2
形容詞の作り方3
形容詞のまとめのところにも入れたが、動詞から形容詞を作られた形容詞についてである。受身から作る形容詞は汎用性が高いので、自分でも作れるように覚えておいたほうがいいと思うけれども、他は作れる動詞が限定的なので形容詞として出てきたときに動詞と関連することがわかればそれで十分な気がする。
不完了態の動詞の三人称複数に「cí」をつけて作る形容詞なんかうまく決まると嬉しいのだけど、自分でも正しいかどうか確信の持てないことが多くて嫌になる。
これまでに動詞について書いてきた文章は以上ということになるのだが、接頭辞はまだいくつもあるし、未来形の作り方とかまともに説明していないような気もする。不完了態と完了態の説明をすればそれでお仕舞いという気もするけれども、一つまとめておいたほうがよさそうだ。
2020年12月13日23時30分。
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2020年12月15日
動詞のまとめ――応用〈いんちきチェコ語講座〉(十二月十二日)
動詞について書いたものは何分数が多いので、基本的なチェコ語を勉強する人が覚えておいたほうがいいことと、覚えなくてもチェコ語を使って生活はしていけるけど覚えておくと便利なことに分けることにした。境目は微妙で恣意的なのだけど、一回辺りの分量の都合というのが一番正解かもしれない。
ということで予告通り受身から。番号は通番にしておく。
E動詞の受身1
動詞の受身2
動詞の受身形は原則として文中では述語として使われるのだが、その際、過去形と同様に、主語に合わせて動詞「být」の人称変化形と、性、単複によって決まる語尾を組み合わせて使うのだが、違いは、過去形では必要のない三人称の場合も、動詞「být」の人称変化形が必要になることである。
受身形は、原形から作ることになるのだが、「n」で終わるものと、「t」で終わるものに大別することができる。これもある程度規則的に判別できるのだけど、例外も多いのが難点である。「n」で終わるもののほうがはるかに多いので、受身は「n」というイメージがこびりついているのが、いざ「t」で終わる受身が出てきたときには困りものなのだが、そこはもう慣れるしかない。
F動詞の受身追加
受身形に形容詞硬変化の長母音の語尾をつけることで形容詞化することができるという話。必要以上に詳しくならないように気をつけたつもりだが自信はない。また受身形からつくる名詞についても簡単にふれた。これについては使い方も含めて改めて書いておいたほうがよさそうである。
Gもう一つの受身
動詞の受身形を使わない受身、いわゆる再帰受身について。他動詞の人称変化形と再帰代名詞の4格「se」を組み合わせることでつくる受身である。主語は当然三人称になることが多いのだが、ついつい実際にその動作をする人に合わせて一人称にしてしまうことがある。文法的には大して難しくないのだが、わかっていて間違うという意味ではたちが悪い。「言われている」とか受身形を使う受身にはしにくいし。その反面、使役的な意味を持つチェコの動詞から自動詞を作るのにもこの受身が使えるのは、ありがたい。「驚かす」という意味の動詞を、「se」を使って受身にすると「驚く」という意味になるのの類である。
H仮定法1
動詞の過去形を使う表現に仮定法がある。チェコ語で仮定法と聞いてすぐに頭に浮かぶのは「kdyby」と「by」に動詞の過去形を組み合わせたものである。「by」と過去形だけで婉曲表現として使うこともある。この二つの言葉は主語に合わせて人称変化させる必要があり、過去形のほうも必要な語尾を付けなければならない。この辺は過去の文を作るときと共通なので、そこまで大変ではないと思う。
I仮定法2
最初は「kdyby」と「by」を使った仮定法の中でもちょっと特殊な、古文の文法用語で言えば「反実仮想」とも呼べるものについてである。本来の動詞に加えて「bývat」の過去形を使い、動詞の過去形が二つ並ぶことになる。さらに「být」の過去形も加えて三つ並ぶのもあったかも知れない。とっさには使えないけど、事前に準備して使えたときには嬉しくなるものの一つである。
後半は、動詞の人称変化形に「-li」をつける形で表現する仮定法について。話すときには「li」まで続けて呼んでもいいが、書くときには人称変化形との間に「-」を忘れてはいけない。人称変化させると「-li」の前の部分が変わる、つまり語尾が変わらないというのがどうにも落ち着かないので、自分では滅多に使わない。
J仮定法3
同じ動詞の人称変化をそのまま使う仮定法でも、動詞につけるのではなく、文頭に独立した単語としておくことで仮定法になるというもの。「jestli」は、もともとは「jest」に「li」がついたものだと思うが、現在では一語化して文頭、もしくは仮定法の節の最初に使われる。同じような使い方をするものに「pokud」がある。
「jestli」には「〜かどうか」という意味での使い方もあるので、それについても最初の部分で簡単にふれてある。
K目的を示す「aby」
動詞の過去形を使った表現の一つとして、「〜するために」という目的を表す「aby」を取り上げた。人称変化の仕方も過去形につける語尾も「kdyby」「by」を使う場合と共通なので、それほど難しくはない。だからなのか、あまり詳しく勉強した記憶がない。
応用編はこのあたりにしておこう。残っているのは読者を選ぶものばかりなので、文法マニア向けということで別にまとめることにする。
2020年11月13日16時30分。
2020年12月14日
動詞のまとめーー基本〈いんちきチェコ語講座〉(十二月十一日)
形容詞の次は、動詞のまとめだと考えて、これまで動詞について書いてきた文章をチェックしたのだが、人称変化の説明をする前から、接頭辞の話をするなどめちゃくちゃな順番で書き散らしていた。最初はそんなにあれこれチェコ語について書くつもりはなかったから仕方がないと言えばその通りだけど、多少なりともチェコ語を勉強している人に役に立ててもらうためにも整理しておこう。まとめが一番役に立つのがこの動詞かもしれない。
0接頭辞の迷宮序
チェコ語の動詞の特徴(他のスラブ系の言葉でもそうなのかもしれないけど)である完了態と不完了態の違いについて、接頭辞を出汁に簡単に説明したもの。念のために最初にあげておく。
@チェコ語の動詞0
チェコ語の動詞1
チェコ語の動詞2
チェコ語の動詞3
動詞を使用するためには、不可欠な現在人称変化をまとめて説明したのが、この4本の文章である。チェコ語を勉強していたときに、I型からV型にまで分類されるチェコ語の伝統的な動詞の分類の仕方に不満を感じていたので、自分なりの方法で、一人称単数の形を基に、大きく二つに分類し、それぞれをさらに二つずつ、計4つのタイプに分けた。また、それぞれのタイプの中にも、原形から一人称単数がすぐにわかる規則的なものと、知らないと変化させられない不規則なものがあることも指摘してある。
とにかく、チェコ語の動詞を使用するためには、一人称単数の形が大切なので、規則的に作れるもの以外は、動詞の原形と一人称単数を同時に覚えなければならない。一人称単数さえわかれば、三人称複数まで規則的に変化させることができる。
Aチェコ語の動詞4過去
チェコ語の動詞5過去続き
動詞の過去形、L分詞と呼ばれることもある形の作り方。原則として原形の末尾の「t」を「l」に変えれば出来上がりなのだが、例外的なものも多いので頑張って覚えるしかない。それから過去形を実際の文の中で使うためには、主語に合わせて「být」動詞の現在変化と組み合わせ、語尾をつける必要がある。語尾は名詞の硬変化の語尾と共通すると覚えておくと楽である。
仮定法などの過去形を使った表現については、別途応用編に掲げることにする。
Bチェコ語の動詞6命令
命令形の作り方については、人称変化の三人称複数の形から作ると説明されることが多く、それはその通りなのだけど、例外を除けば一人称単数の形から作ると考えてもいいのである。命令形は二人称単数が語尾なしで、一人称複数と二人称複数は、それぞれ「me」と「te」という語尾をつける。
C命令と禁止の話
命令形に否定の「ne」をつけると、否定の命令、つまり禁止を表す形ができるわけだが、完了態の動詞を使うか、不完了態を使うかで意味が微妙に違ってしまう。それで、一般的には肯定の命令は完了態を使い、否定の禁止には不完了態を使う。ただし、状況によっては敢えて逆にする必要がある場合もあるのだが、その中にはどう考えても納得がいかないものもある。
D困ったチェコ語
チェコ語の動詞のわかりにくさは完了態と不完了態の区別だけではない。移動を表す動詞の場合に、自分の足で歩いて移動するのと、車などの交通機関を利用する場合では、それぞれ別の動詞を使わなければならないものがある。特によく使う「jít」と「jet」がある程区別して使えるようになるまで長い時間がかかった。今でも時々間違っていると思うけど。
それから、不完了態の動詞の中には、一度の動作を表すものと、繰り返しの動作を表すものの区別があるものがある。日本語の「行く」と「通う」のようなものと思えば思えなくもないのだけど、走る、飛ぶなど今になってもどちらがどっちだかわかっていないものもある。接頭辞をつけると、微妙に形は変わるけど、一回の動詞が完了態となり、繰り返しのほうが不完了態になるというのも覚えておくといい。
実は、これが最初に全面的に動詞について書いたものである。辛うじて基本の部分に引っかかっているかな。
受身の作り方ぐらいから、中級編、もしくは応用編ということにしよう。受身からはほぼすべての動詞で形容詞も作れるし応用と呼ぶにふさわしかろう。
2020年12月12日23時。
2020年12月13日
ビーチェスラフ・ネズバル(十二月十日)
最近ネタのないときの定番になりつつあるチェコ文学の日本語訳の紹介である。今回はチェコのシュールレアリズム文学の大詩人とされるビーチェスラフ・ネズバルである。チェコ語版のウィキペディアによれば、生まれたのが1900年で亡くなったのが1958年というから、オーストリア=ハンガリー時代から、第一共和国、ドイツの保護領時代を経て共産党政権下を生きた人ということになる。以下ネズバル本人についての情報はチェコ版ウィキペディアに拠る。
詩人、すなわち芸術家の常として、このネズバルも、一つの芸術主義に留まっていたわけではなく、最初はチェコスロバキアで生まれ国境を越えて広がることのなかった文学運動であるポエティズム創設者の一人として活躍し、戦争も近づく30年代になると、シュールレアリズムに活動の軸足を移す。ポエティズムは前衛詩のグループだというから、もともとシュールレアリズムとの親和性は高かったに違いない。
その第二次世界大戦後には、いわゆる社会主義的リアリズムの枠内で作品を書き始める。すでに戦前に共産党に入党して党員として活動してきたネズバルは共産党政権の成立と共に、社会主義を代表する詩人になったといってもいい。近年は当然この時代の作品の評価は高くなく、2000年代に入っていくつか日本語に翻訳された作品も戦前のものばかりである。
ただし、国会図書館のオンライン検索で確認できる最初のネズバルの日本語訳は、すでに1960年に発表されているのである。
@訳者不明「村よ、おまえは・・・ そのときに」(「新日本文学」第15巻8号、1960.8)
訳者も不明なら原典も不明という不明だらけの作品だが、掲載誌を考えると、戦後の社会主義的リアリズムの作品であろうと思われる。題名もなんかそれっぽいし。戦後になって戦争中の農村の様子を回想したか、農業の集団化の様子を描いたかしたものじゃないかと想像してしまう。
ネズバルの社会主義的リアリズムの詩作品も日本語に翻訳されて、どこかのアンソロジーに収録されているのではないかと思うのだが、国会図書館のオンライン目録では詩の作品はなかなか発見できないのである。それで、このジャンルもわからない、もしかしたら詩かも知れない作品が、確認できる中ではネズバル最古の日本語訳ということになる。
A村田真一訳「自転車に乗ったピエロ」(『ポケットのなかの東欧文学 : ルネッサンスから現代まで』、成文社、2006)
二つ目は一気に飛んで2006年刊行の短編集に収められたこの作品。チェコ語の原題は「Pierot cyklista」。恐らく詩ではなく短編小説だと思われる。ネズバルが短編小説を発表したのは1929年から1934年がほとんどだという。
B赤塚若樹訳『少女ヴァレリエと不思議な一週間』(風濤社、2014)
翻訳者の赤塚若樹氏は、1990年代からシュバンクマイエルの作品を翻訳したり編集したりして日本に紹介して来た人。シュバンクマイエルブームの立役者だったといってもいい。ネズバルの作品の紹介に至ったのはシュールレアリズムつながりであろうか。実はこの方も大学書林の石川達夫『チェコ語初級』でチェコ語を勉強されたという話を聞いたことがあって、勝手に親近感を抱いている。
原典は1932年に発表された「Valérie a týden divů」。1970年には映画化もされていて、以前日本でノバー・ブルナの映画の上映会が行われたときに、一緒に紹介されていた。日本語の題名は「闇のバイブル/聖少女の詩」。うーん。件の上映会で紹介された映画について、特に関係ないことを書き散らした文章を改めて確認してみたが、この映画についてはほとんど何も書いていなかった。ネズバルの原作ということすら書いていないから、ろくに調べもしなかったようだ。
こんな、チェコというマイナーな国の戦前の前衛的な作品を刊行してくれた風濤社ってのは、どんな本を出しているのだろうと調べてみたら、なんとチェコでも熱狂的な人気を誇るフランス映画の「ファントマ」(チェコ人的にはファントマスと言いたくなるけど)の原作っぽい本や、それに関する評論を出していた。ちょっとほしいと思ってしまった。
C赤塚若樹訳『性の夜想曲 : チェコ・シュルレアリスムの〈エロス〉と〈夢〉』(風濤社、2015)
この本には、ネズバルの二つの作品が収録されている。一つは1931年に発表された「Sexuální nocturno」の翻訳である「性の夜想曲」。シュールレアリズムに分類される作品である。もう一つは晩年とも言うべき1957年から翌年にかけて雑誌に掲載され没後に刊行された「Z mého života」の翻訳「私の人生より」。題名からして自伝的なものだと思われるが、流石に自伝的なものにまで社会主義的リアリズムは持ち込まれていないと思う。
この本には、もう一人のチェコのシュールレアリズムの作家インドジフ・シュティルスキーの作品も収録されているのだが、この人についてはまた稿を改める。
因みに、ネズバルという動詞の過去形からできた名字を聞くと、つい元サッカー選手が頭に思い浮かんでしまうのだが、あちらはネズマルだった。ネズバルは「Nezval」、ネズマルは「Nezmar」でチェコ人からするとどこが似ているのかと言われそうだが、RとLの区別のつかない日本人の耳には似て響くのである。
2020年12月11日24時。
2020年12月12日
久しぶりに見た(十二月九日)
もちろん、久しぶりにテレビで見たのはハンドボールである。女子のヨーロッパ選手権はネット上で試合展開を追いかけることはできたが、放映権を持っているのが有料チャンネルでチェコテレビでは放送されないせいで、見ることができないのである。チェコテレビも、資金に限りがあるから、こんなマイナースポーツの世界選手権とヨーロッパ選手権の両方の放映権を毎年獲得するなんてことはできないのだろう。サッカーと違って放送にスポンサーもつきにくいだろうしさ。そのサッカーも以前は持っていたチャンピオンズリーグの放映権を失い、ヨーロッパリーグも、チェコリーグも一次放映権を失って、各節1試合放送できるだけになってしまっている。
とまれ、十一月の半ばに再開されて以来、何度か水曜日に放送された試合は、忘れていてテレビをつけたら試合後のインタビューだったということが続き悔しい思いをしていた。考えてみたら、この前テレビでハンドボールを見たのは、9月下旬のことだから、二ヵ月半ほど前のことになる。あの試合は両チームともミスの多いつまらない試合で、途中から集中してみなくなってしまったのだが、あのあとこれだけ見られない日が続くのであれば、つまらない試合でもちゃんと見ておけばよかったと後悔した。
中断前に一試合しか見られなかった理由として、デジタル放送の規格が変わってアンテナの準備ができて受信できなかったからというのは依然書いたけれども、その後中継予定の試合が、武漢風邪のせいで延期になって、代替の試合も開催されなかったため、中継が中止になったこともあったと記憶する。前回見たフラニツェとマロムニェジツェの試合も実は代替プログラムだったし。
今日は、試合の中継が行われるのを忘れずに、開始の5時直前にテレビをつけることに成功した。ズブジーとカルビナーの試合で、競った見ごたえのあるゲームになることを期待したのだが、期待通りだったのは前半の最初だけだった。カルビナーが先制して、ズブジーが逆転して2−1。この瞬間がこの試合で唯一ズブジーがリードした時間帯だった。
その後カルビナーが連続で5点とって、以後は試合をコントロールしていた。前半は最大で11点差をつけており、最終的には9−19とカルビナーが10点リードで終わった。印象としてはカルビナーが強いというよりは、ズブジーの自滅という感じだった。両チームともミスは多かったけど、ズブジーのほうがプレー振りがひどかった。中央から攻めきれないのにサイドにボール回さないし。
後半は、後半だけを見れば、一進一退で、ズブジーが12−10でリードしたことになるのだけど、試合全体を通してのカルビナーの圧勝という印象は変わらない。それよりも気になるのは、今シーズンは一方的な展開の試合が多いような気がすることだ。つまりは今日の試合も見ていて非常につまらなかったのである。
一度流れが悪くなるとタイムアウトをとっても立て直せないことが多いし、賞もないミスの連発に見ていてうんざりすることもある。何でもかんでもそのせいにするのはよくないのだけど、規制の強化と緩和が猫の目のように変わる現状のせいで試合に向けての調整が難しくなっているのだろう。感染者が発生したチームが隔離されて突然試合が延期になったり、そのために試合が前倒しされたりしたこともあるし、繰り返しになるけれども、今は試合が行われてテレビで見られるだけでも喜ぶべきなのだろう。つまらないなどと文句を言わずにさ。
それにしても中国ってのははた迷惑な国だよなあ。自国産のウイルスを世界中に送り出しておいてそれを商売のねたにするんだから。どこかの国が中国相手に損害賠償を求めるなんてことをすれば面白いのだけど。普段はこんな不毛なことは考えないのだが、不毛といいたくなるハンドボールを見ていたらこんな愚痴めいたことが思い浮かんでしまった。
2020年12月10日23時30分。
2020年12月11日
犬のある生活(十二月八日)
先週の月曜日からだと思っていた、学校での授業の拡大は、今週からだったかもしれない。昨日のニュースで学校の様子が取り上げられていた。先週も似たようなことをいっていたと思うのだけど、一番の問題は、規制の緩和にしろ強化にしろ、情報が錯綜しているのがいけない。ネタもとはニュースなのでニュースの報道が悪いといいたいけれども、それ以前に政府の発表自体が混乱しているようで、しばしば批判する人が登場する。
これを以てバビシュ政権の情報の伝達のあり方を批判するのは正しいが、だからバビシュ政権はという方向に行くのは間違っている。チェコの行政の情報伝達のあり方がめちゃくちゃなのは今に始まったことではなく、必要のない情報はいくらでも入ってくるのに、必要な情報がそれを必要とする人のところには届かない、もしくは届くのが最後になるというのはチェコの伝統のようなものである。
もう十年以上も前の話だが、職場から「ロドネー・チースロ」という、チェコ人には生まれたときに生年月日を元に与えられる個人番号のようなものをとれと言われたことがある。同時に、どの役所に問い合わせればいいかも教えられたのだが、その役所に問い合わせても、その役所に言われた別の役所に問い合わせても、外国人がどのように申請すればもらえるのか全く情報が手に入らない。
幸いいつまでにという期限はつけられていなかったので、一旦諦めて放置していた。そして、毎年恒例のビザの延長の手続きに出かけた外国人警察で、こういうことで困っているんだけどと、駄目もとで聞いてみたら答が帰ってきた。ビザの延長の申請をした時点で「ロドネー・チースロ」の申請もしたことになっているから、特に何もする必要はないと教えてくれたのである。
前年の延長の手続きの際に申請したことになっていたのか、この年の申請で申請扱いになったのかは不明だが、それから程なくして「ロドネー・チースロ」を取りに来いという通知が外国人警察から届いた。その通知が二回来て、一回目の通知で受け取りに行った後の二回目は間違いだったという落ちはつくのだが、オロモウツに住む外国人にとって一番頼りになる役所は、やっぱり外国人警察だったのである。
そんな情報不伝達の状況は現在もあまり変わっていない。それでも、今回の政府の対応には、春から何度も同じようなことをして来ているのに、改善の後が見られないというのにはいい加減にしろといいたくなる。最悪なのは鳴り物入りで導入されてうまく活用されているかに見えた犬システムが、いつの間にか有名無実のものになりつつあることである。
危険度カテゴリー5から4へ切り替えて規制緩和に踏み切ったときの対応は悪くなかったのだけど、その後は……。金曜日の会議で規制について決めて翌月曜日から適用すると言っていたはずなのだが、月曜日からの変更は学校関係のものだけになっている。それも任意なので学校によってはまだ規制緩和に対応していないところもある。
とまれ、一度はチェコ全体の数値がレベル3に落ちて安定したことで、生活必需品以外の販売店の営業の再開など大幅な緩和が行われたのだが(これも月曜からではなく木曜からだった)、その後数値は再び悪化を初め、チェコ全体ではレベル4、地方によってはレベル5のところもあるという状態になっている。この状態が一週間続いたら、規制の強化が行われるものだと思っていたのだが、そんなことにはならないようである。
犬システムの危険度評価の内容自体を見直す動きもあるようだし、同時に犬システムが規制を決定するわけではないという声も聞こえるようになった。これでは夏の信号システムと大差ない。規制の強化をしないならしないで、本来なら強化すべきだけど、商業のことを考えてクリスマスまでは規制の強化はしないとか言えばいいのに、聞いているほうがうんざりするような言い訳ばかりである。
さらに昨日の閣議で、水曜日から犬システムには規定されていないレベルでの規制強化が行われることになった。レストランの営業時間が短縮され、屋外でのアルコール飲料の消費が再び禁止された。またクリスマスマーケットでは料理と瓶入りも含めてお酒の販売も禁止された。コップ入りはともかく、瓶入りのお酒の販売を禁止する理由は不明である。
結局、どんなに優れたシステムであっても運用する人次第では意味のないものになってしまうという事なのだろう。犬システムが優れているのかどうかは知らないけど、結果としてはあってもなくても大差のないものになりつつある。新しい厚生大臣も、反バビシュの署名をしたことがあるというわりには、すぐに同じ穴のムジナになっちゃったしなあ。
2020年12月9日23時。
2020年12月10日
カレル・チャペクの戯曲番外続(十二月七日)
昨日のチャペクの戯曲『母』は舞台での上演で、作品の発表から50年近く後のものである。現代化がされていたようには見えなかったが、冷戦末期の東側での上演という時代背景が演出に影響を与えていないという保証はない。チャペクのような有名作家の作品だと影響があったとしてもそれほど露骨ではないだろうし、気づけるだけの知識は持っていないから気にしてもしょうがないのだけど。
それに対して、今日見た映画の「白い病気」は、戯曲が発表された翌年の映画化なので、監督のハースの解釈が入るにしても時代背景はチャペクの原作と共通するはずである。この映画が1937年末に完成して公開されたのは、1938年にはミュンヘン協定が結ばれることを考えると、ぎりぎりで間に合ったと言いたくなる。ナチスドイツの影響下にある政権に、こんな、かなりあからさまな反ナチス映画の制作を認められたとも思えない。
話はとある国で、俗に「白い病気」と呼ばれる致死性の病気が流行するところから始まる。感染してなくなる人の大部分が50歳以上の年配の人という辺りが現在の状況に似ているともいえなくはない。それがこの秋、原作となった戯曲の日本語訳が連続して刊行された理由のひとつであろう。とまれ、国立病院(多分)の伝染病の権威の下でも定められた療法を守るだけで、この場合には治癒のための療法がないため、対処療法で最後はモルヒネを与えることしかできていなかった。
そこに、ハース演じる、貧民の間で医療活動を行っているという医師が現れて、自分が試して効果のあった療法を試してほしいと求める。最初は断られるのだが、あれこれあって試すことになり、その療法が効果的であることが確認され、「白い病気」は死病ではなくなる。だが、皿洗いで見ていないので事情はわからないのだが、その療法は公開されることなく、ハースにしか治せない病気になってしまう。
その裏側で、この国では軍の将軍が政敵を追い落として独裁体制を確立させており、周囲の小国を制圧するために軍備を増強し戦争の準備を始めていた。このあたりが、原作が執筆された1937年当時のナチスドイツを思い起こさせるわけである。独裁者に指導された国民も、小国を制圧するための戦争を熱狂的に支持していた。
そんな中、独裁者の右腕とも言える男爵が、「白い病気」に感染し、身分を隠してハースの元に出向いて治療を求める。ハースは悩んだ挙句に、独裁者の戦争を止めることを条件に治療を約束する。男爵としては飲める条件ではなく、交渉は物別れに終わる。医者としては、患者の治療に条件をつけるなんていいのかね。
病気を抱えた男爵を心配する独裁者は、ハースを呼び出し、さまざまな条件を出して治療を求めるが、交渉はまとまらず、病死に怯えた男爵は自殺してしまう。独裁者はその死を乗り越えて、軍には宣戦布告なしの隣国への侵攻を指示し、自らは官邸のバルコニーから集まった市民に対して、開戦の演説をする。市民達も熱狂的に独裁者を指示し戦争を求める声を上げる。
その演説の最中に、一度建物の中に引っ込んだときに、ありがちな展開だけど、独裁者は自分が「白い病気」にかかってしまったことを知る。それで、治療を受けるために戦争をやめるか、余命三ヶ月で戦争を続けるかの選択を迫られる。結局は娘と男爵の息子である副官の説得を受け入れて、戦争の停止を決意するのだが……。
あんまり事細かに書くとネタばれになってしまうので、この辺で自粛するけれども、最後の部分を見ながら、あらゆる権力を求めて手に入れた独裁者と、その独裁者を生み出し熱狂的に支持する民衆のどちらがたちが悪いんだろうなんてことを考えてしまった。国民国家の成立以後の独裁者は、ほとんどすべて民衆の支持を得て、民主主義的な手続きを経て権力の座についているのである。アジア、アフリカの旧植民地の独立国なんかは例外も多いけどさ。
2020年12月8日23時
2020年12月09日
カレル・チャペクの戯曲番外(十二月六日)
チャペクの戯曲の話だとは言っても、まだ読んだことがない『母』とか、『白い病気』を読んだというわけではない。『白い病気』は最近日本語訳が相次いで刊行されたはずだから、読むべきは今だと言えなくもないのだけど、チェコにいると読む以前に買えないのである。いや、hontoで買えばチェコまで送ってくれるだろうけど、緊急事態宣言が発令されて外出に制限がかかっている中、郵便局に荷物を取りに行く気にはなれない。
それに戯曲は読むの苦手だし。ということで見ることにした。以前チェコテレビで放送されたチャペクの戯曲『母』と『白い病気』が映像化されたものを、録画するだけして見ていないものがあるのだ。『白い病気』は以前も存在だけ紹介した、フゴ・ハースが監督主演を務めた映画だが、『母』のほうは、映画ではなく1985年に国民劇場で上演されたときの映像である。
まずは、土曜日の昼食時に「母」を見た。食事しながらで、その後皿を洗ったりコーヒーを入れたりしたので、最初から最後まで集中して見たわけではないが、なかなか見ごたえのある作品だった。出演者達もほぼみんなビロード革命後も役者として仕事を続けていて、どこかで見たことがあるという人たちばかりだったし。
ストーリーは、どこかで読んだ「反戦、反ファシズム」という面もないわけではないけれども、一面的なものではなく、むしろ、子供を守ろうとする母親としての女性の論理と、自分にしかできないことだという理由で命を懸けてしまう男性の論理のぶつかり合いが中心になっているようにも見えた。男性の考え方を英雄願望なんて言葉でも表現していたような気がする。
登場人物は、母親である女性と、その夫、五人の子供たち、それに父親の八人。劇が始まる時点で夫と長男、次男、父親の四人はすでに死んでいるようである。生きている人物だけが登場する場面、すでに死んだ人物だけが登場する場面、そして母親と死んだ人物が登場する場面が、頻繁に入れ替わりながら進行して行く。
夫は軍人で戦争中に自ら最も危険な任務に赴き戦死、長男は医者で死亡率の高い伝染病の研究中に命を落とし、次男は航空技師で自ら設計した飛行機の飛行中に墜落死だったかな。いずれも自分の使命と信じる仕事について、危険な自分にしかできないことをしようとして命を落としたということになる。最初の場面では生きている三男はチェスに夢中で、四男は狩猟が趣味なのか銃を持ち歩いている。
ただ一人、末っ子だけが、特に夢中になることもなく、母親も兄たちもこの子だけは他の子供たちとは違うと考えている。言い換えれば、未だ母親の庇護の元で子供であり続けているといってもいいのだろうか。そんな状況で話は始まり、死者たちと母親との会話で、それぞれの亡くなった事情が明らかになるのだが、男たちが「母さんにはわからないんだ」などと自ら死地に赴いたことを言い訳すると、母親は「男はいつもそうだ。都合が悪くなると、女にはわからないと言う」と批判する。
そして、この家族の暮らす国で内乱が発生する。細切れに見ていたので、よくわからなかったのだけど、他国に占領されていてそれに対して市民が蜂起したという話だったかもしれない。とにかくその蜂起に参加して三男も四男もはかなくなってしまう。その結果、末っ子も戦いに向かうことを求めるのだが、母親は拒否する。亡くなった夫や、子供たち、いつの間にか現れていた父親から、末っ子ももう大人なんだから本人の意思を尊重して、戦いに行かせてやれといわれてもかたくなに拒否する。
私には末っ子以外には何も残っていないのだから、取り上げないでほしいという母親の叫びは痛切に響き、男たちも諦めたように見えたところで、自体は急変する。戦闘の様子を伝えるラジオが、町のどこか、病院だったかなで、敵軍が80人もの子供たちを虐殺したというニュースを伝えた瞬間、母親は豹変して、末っ子に隠していた銃を与えて戦いへと送り出すのである。
演劇は、何を言っているかわからず、見てもつまらないと思うことが多いのだが、この「母」は台詞も聞き取りやすく、途中で何度も席を外したけど、最後まで面白く見ることができた。この内容を知っているという強みを基に読めば、苦手な戯曲も読み通せるかななんてことも考えたけど、「母」の収録された『チャペック戯曲全集』は、電子化してないんだよなあ。
2020年12月7日10時。
2020年12月08日
ハンドボール女子ヨーロッパ選手権開幕(十二月五日)
ノルウェーが開幕直前に開催を返上した結果、最近流行の共同開催のはずが、デンマーク単独での開催となったこの大会、そろそろ始まることだと思っていたら、すでに始まっていた。16カ国の代表を集めて、コリングとヘアニングの二つの都市で開催される大会は、木曜日に開幕しており、チェコ代表もすでに試合をしていた。
チェコ代表は、Bグループに入っているのだが、対戦相手は順に、スウェーデン、ロシア、スペインというすべて格上のチームである。監督によれば今大会の目標は、一次グループで3位以内に入って二次グループに進出することだというが、対戦相手を見たときに正直無理だろうとしか思えなかった。
ロシアは二年前のヨーロッパ選手権で準優勝、昨年の日本で行なわれた世界選手権で3位に入ったチームだし、スペインは世界選手権準優勝のチームである。この2チームと比べると、前回のヨーロッパ選手権で5位に終わったスウェーデンは組しやすい相手ということになるが、同じ大会でチェコが1勝もできずに敗退し、15位という順位に終わったことを考えると、期待はしづらい。
これまでチェコ代表は何度か番狂わせを起して上位に進出したこともあるわけだけど、小ずるさが売りのバルカンの国ならともかく、正統派の北欧の国相手に番狂わせは想像もできない。善戦はできると思うのだが、最後は正面から実力で突き放されて負けてしまう様しか想像できない。特に今回は、長年チームの攻撃の中心を務めてきたコレショバー(旧姓ルズモバー)とフルプコバーがそれぞれの事情で参加できないわけだし。
もちろん、世界中で武漢風邪の流行する現状を考えれば、どこの国にも欠場を余儀なくされた選手はいるに違いない。ただチェコのような小国では、中心選手が欠場する影響は、ハンドボール大国と比べると、はるかに大きいのである。出場できただけでも、チェコのハンドボール界にとっては大成功だといってもいい。とはいえ、できれば一試合ぐらいは勝ってほしいと思うのもファンの審理としては当然である。
金曜日の夜のニュースで、すでに木曜日に行われていたことを知った緒戦のスウェーデンとの試合は、試合展開をみると凄くいい試合だったようだが、結局負けてしまった。前半は、ほぼリードを許す展開が続き、終了間際に13−13の同点に追いついている。最大でも2点差までしか許さなかったおかげである。
そして、後半に入ると、すぐに連続で得点を上げ、最大で3点差でリードする。その後スウェーデンの守備が改善されたのか、なかなか得点できなくなり、あっさり逆転され、6点差にまで広げられてしまう。最後で連続で2点とって、4点差となったが、23−27で敗戦。後半30分の得点が、最後の2点をれても10点というのは少なすぎる。スウェーデンの対応力が上だったということだろうか。見たかったなあ。
同グループのロシアとスペインの試合は、意外なほど差がついて、31−22と9点差でロシアが勝った。これを見て、スペインになら勝てるかもなんて思ってはいけない。勝ち目がなくなってから気が抜けて一気に差を広げられた可能性もあるのだから。
今日行われたロシアとの試合は、事前に試合が行われることを知っていたので、テレビでは見られなかったものの、オンラインのライブスコアで試合展開だけは追いかけることができた。前半は最初のうちはリードしていたものの逆転され、最後にゴールを決めて、13−15と2点差に迫ったところで終わった。
後半も二度同点に追いついた以外は、常にリードをゆるし、22−24と2点差で負けたまま終了した。後半だけを見ると9−9だから、どちらのチームもディフェンスが改善されたのか、攻撃がうまくいかなくなったのか。それでも、優勝候補の一角を相手に互角の試合を演じたことは高く評価されていい。残念ではあるけれども、調整段階の強国相手になんとか善戦というのが今のチェコ代表の限界なのだろう。
裏の試合で、スペインとスウェーデンが引き分けた結果、チェコが二次グループに進出するためには、最終戦でスペインに勝たなければならなくなった。難しいとは思うけれども、月曜日もスコア速報だけは応援しながら追いかけることにしよう。テレビで見られないのが残念でならない。とはいえ、このためだけに有料チャンネルと契約するところまではトチ狂えないからなあ。テレビで見るのは来月の男子の世界選手権まで我慢するしかないか。
2020年12月6日12時。
一次グループ最終戦のスペインとの試合もチェコ代表は頑張った。後半の半ばまでは、6点差で勝っていたのだけど……。最後はスペインの実力に踏みにじられ、24−27と3点差での負け。やっぱ強いわ。
2020年12月07日
バビシュ首相からのクリスマスプレゼント(十二月四日)
スロバキアでは十月の末から十一月の半ばにかけて、二度の、場所によっては三度の週末を使って、感染の疑いの有無に関らず全国民を対象にした、希望者を対象にするという名目での半ば強制的な大規模検査が行われた。その結果、少なくとも一時的には新規感染者の数を減らすことができ、批判にさらされていたマトビッチ首相は一息ついたようである。
その成功? に触発されたのか、オーストリアでもウィーンや、チロル地方などで、希望者を対象にした大規模検査が始まったらしい。この二つの大規模検査には、これまでの精度は高いけれども結果が出るまでに時間のかかる検査の変わりに、精度が低い代わりに十分ほどで結果の出るアンチゲン(抗原?)と呼ばれる方法が使われている。オーストリアではこの簡易検査で要請になった人に関しては、これまでの方法で再検査をして本当に陽性かどうか確認することにしているという。
チェコでも最近になって、このアンチゲン検査の導入が進められていて、各地の老人ホームなどでは、職員と入居者の検査が義務付けられたという。ただし、政府が各施設に配布するはずだった検査用のキットが期日までに届かず、対応に苦慮しているなんてニュースも流れていたのは、チェコのチェコたる所以である。この老人ホームでの検査が、一回きりなのか、繰り返し行なう予定なのかは知らない。
それに続いてバビシュ首相が、希望者全員を対象に無料でアンチゲン検査が行えるようにすると言い出した。その理由が、クリスマスに普段は離れて暮らしている家族が安心して会えるようにというものだった。日本のお正月やお盆のように家族が集まって過ごすのがチェコのクリスマスなので、それまでに陰性であることを確認できれば、自分が感染する恐れも、感染させる恐れもなく家族と会えるだろうと考えたらしい。
当然、専門家の間からは、検査の精度を問題にする声はもちろん、検査から時間が空けば、陰性が陰性であり続ける可能性が下がることを指摘する声が上がっている。実際チェコテレビの科学担当のアナウンサーの実体験によれば、僅か数時間の差で、陰性が陽性になったらしい。この人は専門家ではないけれども、知識のある人だったから、一度の陰性で大喜びをせずに、念のために時間を置いて検査を受けて、陽性が確認できたが、一般の人だと陰性の結果が出たら、これまでの慎重な生活態度を変えかねない。
検査の数を増やすことで流行の拡大を押さえ込みたいのなら、一回の大規模検査で終わるのではなく、何度も繰り返さなければならないのは、サッカーリーグの感染対策を見れば明らかだとおもうのだけどねえ。毎週一回検査を実施していてさえ、集団感染が発生して隔離に追い込まれるチームがいくつも出てしまうのである。ヨーロッパリーグに出場しているリベレツなんて、週に二回検査を行っていたはずなのに、一度に十人以上の選手が陽性判定を受けて欠場を余儀なくされている。
だから、希望者全員を対象に検査を行ったとしても、気休めにしかならないと思うのだけど、今の状況では気休めさえもありがたいと考えるのだろうか。木曜日からの規制緩和で、感染状況が再び悪化することが予想されているから、自分だけでも陰性であることを確認したいという人も多いのかもしれない。とまれ、先ずは、学校の先生たちを対象に希望すれば無料で検査が受けられるようになった。そして18日からは全国民を対象に無料で検査が提供される予定だという。最近評価だけでなく人気も落としつつあるバビシュ首相から国民へのクリスマスプレゼントというところか。チェコ人じゃないからもらえるかどうかわからないけど、正直もらいたいとは思わんなあ。
スロバキアでは二回の大規模検査で減った感染者の数が、また増加傾向に転じているらしい。それでクリスマス前にもう一度とマトビッチ首相が言い出したようだが、検査の実務を担当した地方公共団体からはやめてくれという悲鳴が上がっている。検査を繰り返すことで感染を押さえ込むことができるのはその通りでも、それが経済的負担、人的負担に見合うのかどうかはまた別問題である。
2020年12月5日20時。