2016年09月30日
コメンスキー――敬虔なる教育者、あるいは流浪の飲んだくれ(九月廿七日)
H先生とM先生に
先日、二人のコメンスキー研究家に挟まれて夕食をとる機会があった。一人は日本から来た先生、もう一人はチェコのコメンスキー研究の重鎮とも言える先生で、二人とも使える共通の言葉がないため、半分通訳として参加したのである。
ここ数年、コメンスキーを研究している方々と縁があって、お目にかかったり一緒に仕事をさせてもらったりする機会があり、門前の小僧習わぬ経を読むではないけれども、学ぶともなくコメンスキーに関する知識は増えている。しかし、さすがに専門家お二人の話は知らないことばかりで、なかなかに刺激的だった。
特にチェコ人の先生の話に、個人的に衝撃的なものがあったので、忘れないうちに書き留めておこうと思う。もし、コメンスキーに対して敬虔な教育者、聖哲というイメージを抱いていて、そのイメージを壊したくないと考えている方がいたら、以下は読まれないことをお勧めする。
コメンスキーがモラビアにいられなくなって、スロバキアを経て現在のハンガリー北部、スロバキアとの国境の近く、ブラトニー・ポトク(現在のハンガリー名はシャーロシュパタク)に滞在していたころ、当地の庇護者によって、コメンスキー一行には、毎日一人当たり三リットルのトカイワインが提供されていたのだという。
一週間にではなく、一日に三リットル、一行全体にではなく、それぞれのメンバーに三リットルである。一体コメンスキーたちはどんなお酒の飲み方をしていたのだろう、どれだけお酒に強かったのだろうと思ったのは私だけではなく、話をしてくれた先生は、以前仲間のコメンスキー研究者と共に、ハンガリーまで行くのは遠いので、ブラトニー・ポトクからそれほど遠くないスロバキアのコシツェに出かけたときに、一人で三リットルのワインを飲むのに挑戦してみたのだという。
結果は、二人とも二リットル飲んだ時点で限界を迎え、一日に三リットルのワインという量がとんでもない量であることを、身を以て確認したらしい。こういうのも実証主義というのだろうか。この事実から、コメンスキーはお酒が強かったという結論が出てくるのか、一日に三リットルというのは信用できないという結論が出てくるのかはともかくとして、厳格な、謹厳実直な教育者というイメージのコメンスキーが、意外なことに酒好きであったことは間違いないようである。
もう一つは、コメンスキーが葬られたオランダのナールデンのコメンスキー博物館で講演をしたときの話。コメンスキーのオランダ滞在中に支援し続けた一族があるのだが、その一族が存在しなかったら、コメンスキーの著作は世に出ておらず世界中の人がコメンスキーを知ることもなかっただろうと言って、功績を一つ一つ数え上げていったらしい。亡命してきたコメンスキーに住処を与えたこと、生活の基盤を作るために大学教師としての給料を保証したこと、執筆できる環境を整えたこと、そしてコメンスキーが執筆したものを出版したこと、どれが欠けてもコメンスキーの著作が現代まで読み継がれることはなかっただろうという話を先生はなさったらしい。
そうしたら、講演が終わった後、控え室で休憩していた先生の許に、コメンスキーを庇護していた一族の子孫に当たる男性が尋ねてきた。そして曰く、「先生が挙げたことは、確かにどれも大切なことだけれども、一つ重要なことが抜けていた」と言う。あれこれ考えても答が思いつかず、先生が答を教えてほしいと言うと、答えて曰く、「コメンスキーが飲み屋から決まった時間にうちに帰るように、毎日見張っていたのもうちの先祖の功績ですぜ」と。先生、はたと手を打って、「そいつはその通りだ」と子孫の方と二人で大笑いしたのだとか。
いや、ちょっと待ってほしい。と言うことはあれですかい。コメンスキーって人は、放っておくとずるずると飲み屋にい続けて、朝まで酒を飲み続けかねない人物だったってことですかい? そして、数ある著作の中には、朝帰りの後の二日酔いの朦朧たる意識の中で書き上げたものもあるかもしれないってことなのか。ああ、だから先生は、自宅で造ったスリボビツェの瓶に貼り付けるラベルに、二日酔いで頭に濡れタオルを巻いたコメンスキーの絵を使っているのか。
コメンスキーと言うと、さまざまな困難を、自らの信じるフス派のキリスト教への信仰と、学問に対する押さえがたい意欲を支えに乗り越えて生き抜き、哲学史上に大きな業績を残した偉人だというイメージだったのだけど、これでは夜な夜な飲み屋に出没しては、酒を片手におだを上げている飲んだくれのおっさんではないか。そして、モラビアを出てあちこち移動を余儀なくされていたときも、うまい酒のある土地を選んでいたのではないかなどと妄想を広げてしまう。
こんならちもない想像で我がこれまでのコメンスキー像を破壊するのはやめよう。ただ、コメンスキーもチェコ人であったのだ。いや、ワインが好きだったようだから、モラビア人だったのだ。コメンスキーはこの上もなくモラビア人だったのだということで、結論にしておく。
ちなみに、チェコスロバキアの初代大統領のマサリクも、公式にはお酒は飲まないことになっていたらしいが、やはりモラビア人だったらしい。若き日には、地下のワイン蔵で朝まで飲み続けてべろべろの状態で引きずり出されたこともあるらしい。この話は、マサリクと一緒にワイン倉から引きずり出された曽祖父聞いた話だそうだ。
生きた歴史を目の当たりにして、感動に打ち震えてしまったのだが、ビール片手に感動と言うあたりが、我ながらチェコ人化しつつあるのかな。
チェコの二百コルナ紙幣にはコメンスキーの肖像が使われている。でも、この値段で売れるんだったら、二百コルナを日本に輸出しようかな。9月29日追記。
先日、二人のコメンスキー研究家に挟まれて夕食をとる機会があった。一人は日本から来た先生、もう一人はチェコのコメンスキー研究の重鎮とも言える先生で、二人とも使える共通の言葉がないため、半分通訳として参加したのである。
ここ数年、コメンスキーを研究している方々と縁があって、お目にかかったり一緒に仕事をさせてもらったりする機会があり、門前の小僧習わぬ経を読むではないけれども、学ぶともなくコメンスキーに関する知識は増えている。しかし、さすがに専門家お二人の話は知らないことばかりで、なかなかに刺激的だった。
特にチェコ人の先生の話に、個人的に衝撃的なものがあったので、忘れないうちに書き留めておこうと思う。もし、コメンスキーに対して敬虔な教育者、聖哲というイメージを抱いていて、そのイメージを壊したくないと考えている方がいたら、以下は読まれないことをお勧めする。
コメンスキーがモラビアにいられなくなって、スロバキアを経て現在のハンガリー北部、スロバキアとの国境の近く、ブラトニー・ポトク(現在のハンガリー名はシャーロシュパタク)に滞在していたころ、当地の庇護者によって、コメンスキー一行には、毎日一人当たり三リットルのトカイワインが提供されていたのだという。
一週間にではなく、一日に三リットル、一行全体にではなく、それぞれのメンバーに三リットルである。一体コメンスキーたちはどんなお酒の飲み方をしていたのだろう、どれだけお酒に強かったのだろうと思ったのは私だけではなく、話をしてくれた先生は、以前仲間のコメンスキー研究者と共に、ハンガリーまで行くのは遠いので、ブラトニー・ポトクからそれほど遠くないスロバキアのコシツェに出かけたときに、一人で三リットルのワインを飲むのに挑戦してみたのだという。
結果は、二人とも二リットル飲んだ時点で限界を迎え、一日に三リットルのワインという量がとんでもない量であることを、身を以て確認したらしい。こういうのも実証主義というのだろうか。この事実から、コメンスキーはお酒が強かったという結論が出てくるのか、一日に三リットルというのは信用できないという結論が出てくるのかはともかくとして、厳格な、謹厳実直な教育者というイメージのコメンスキーが、意外なことに酒好きであったことは間違いないようである。
もう一つは、コメンスキーが葬られたオランダのナールデンのコメンスキー博物館で講演をしたときの話。コメンスキーのオランダ滞在中に支援し続けた一族があるのだが、その一族が存在しなかったら、コメンスキーの著作は世に出ておらず世界中の人がコメンスキーを知ることもなかっただろうと言って、功績を一つ一つ数え上げていったらしい。亡命してきたコメンスキーに住処を与えたこと、生活の基盤を作るために大学教師としての給料を保証したこと、執筆できる環境を整えたこと、そしてコメンスキーが執筆したものを出版したこと、どれが欠けてもコメンスキーの著作が現代まで読み継がれることはなかっただろうという話を先生はなさったらしい。
そうしたら、講演が終わった後、控え室で休憩していた先生の許に、コメンスキーを庇護していた一族の子孫に当たる男性が尋ねてきた。そして曰く、「先生が挙げたことは、確かにどれも大切なことだけれども、一つ重要なことが抜けていた」と言う。あれこれ考えても答が思いつかず、先生が答を教えてほしいと言うと、答えて曰く、「コメンスキーが飲み屋から決まった時間にうちに帰るように、毎日見張っていたのもうちの先祖の功績ですぜ」と。先生、はたと手を打って、「そいつはその通りだ」と子孫の方と二人で大笑いしたのだとか。
いや、ちょっと待ってほしい。と言うことはあれですかい。コメンスキーって人は、放っておくとずるずると飲み屋にい続けて、朝まで酒を飲み続けかねない人物だったってことですかい? そして、数ある著作の中には、朝帰りの後の二日酔いの朦朧たる意識の中で書き上げたものもあるかもしれないってことなのか。ああ、だから先生は、自宅で造ったスリボビツェの瓶に貼り付けるラベルに、二日酔いで頭に濡れタオルを巻いたコメンスキーの絵を使っているのか。
コメンスキーと言うと、さまざまな困難を、自らの信じるフス派のキリスト教への信仰と、学問に対する押さえがたい意欲を支えに乗り越えて生き抜き、哲学史上に大きな業績を残した偉人だというイメージだったのだけど、これでは夜な夜な飲み屋に出没しては、酒を片手におだを上げている飲んだくれのおっさんではないか。そして、モラビアを出てあちこち移動を余儀なくされていたときも、うまい酒のある土地を選んでいたのではないかなどと妄想を広げてしまう。
こんならちもない想像で我がこれまでのコメンスキー像を破壊するのはやめよう。ただ、コメンスキーもチェコ人であったのだ。いや、ワインが好きだったようだから、モラビア人だったのだ。コメンスキーはこの上もなくモラビア人だったのだということで、結論にしておく。
ちなみに、チェコスロバキアの初代大統領のマサリクも、公式にはお酒は飲まないことになっていたらしいが、やはりモラビア人だったらしい。若き日には、地下のワイン蔵で朝まで飲み続けてべろべろの状態で引きずり出されたこともあるらしい。この話は、マサリクと一緒にワイン倉から引きずり出された曽祖父聞いた話だそうだ。
生きた歴史を目の当たりにして、感動に打ち震えてしまったのだが、ビール片手に感動と言うあたりが、我ながらチェコ人化しつつあるのかな。
9月28日11時。
チェコの二百コルナ紙幣にはコメンスキーの肖像が使われている。でも、この値段で売れるんだったら、二百コルナを日本に輸出しようかな。9月29日追記。
チェコ共和国 200 Korun 教育者コメニウス 1993年 美 価格:4,378円 |
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/5483736
この記事へのトラックバック