2018年02月26日
H先生のお話(二月廿三日)
H先生がドイツ政府から勲章をもらうことになったのは、プシェロフの町の南にあるシュベーツカー・シャンツェという丘の上で、終戦直後にスロバキアからやってきたチェコスロバキア軍の部隊によって引き起こされた残虐なドイツ人虐殺事件について詳細に調査を重ね、オロモウツの墓地に埋められていた遺骨を発見するなどの業績を上げたからである。それをチェコ、チェコ民族に対する裏切りだと取る人もいるようだけれども、チェコに都合が悪い事実を隠すのが、所謂愛国心だなんてことにはならないはずである。証拠のない臆説ならともかく、この件に関しては遺骨などの証拠もしっかり残っているし、犠牲者の数も現実的な数字だし。
ドイツにはドイツの意図があるのは当然だけれども、それはさておきH先生のような方の業績に日が当たるのは素晴らしいことである。先生の話では、ドイツのコメンスキー研究の有力者の中に、プシェロフ郊外の虐殺で肉親を失った人がいて、先生のおかげでその最後の様子を、それが悲劇としか言いようのないものだったとしても、知ることができたことに感謝して、勲章がもらえるように動いてくれたんじゃないかということだった。あらゆるものは関連していると述懐されていたが、情けは人のためならずなんてことわざが頭に浮かんでしまった。
先生ができれば知りたくなかったとおっしゃっていたのが、この虐殺に1968年のプラハの春のときに大統領を勤めていたことで知られる当時チェコスロバキア軍の将軍だったスボボダ氏が、スロバキアのカルパチア・ドイツ人を故郷に帰らせることなく、モラビア領内で処分せよという指令を出していたという事実である。さらに理解したくないのが、その指令にベネシュ大統領も関与していたと思われることだという。
先生は、ベネシュ大統領の業績自体は高く評価し尊敬もしていて、自宅の書斎の壁に肖像のレリーフをマサリク大統領のものと並べて飾っているほどだけど、すでに重い病気に冒されていたことを考えても、許されない決断だったと評価していた。この終戦直後の反ドイツ、反ドイツ人感情というのは現在まで続いている部分があるようで、シュベーツカー・シャンツェでの出来事もナチスドイツのやったことに比べれば、大したことはないと考え、調査する価値もないと断じる人たちもいるようだ。
それでも、母親に抱かれた一歳にもならない幼子たちを銃殺したことを正当化する論理は存在しない。実行部隊の指揮官は、後に裁判を受けた際に、親を殺して残った赤ん坊達をどうしろというんだと、開き直ったような発言を残したらしい。親が死んで赤ん坊だけでは生き延びることはできないのから、殺したのは慈悲のようなものだと言いたかったのだろうか。
反日無罪なんて言葉もある中国や韓国の反日感情とは違って、現在のチェコ人の反ドイツ感情は表面にはそれほど現れない。ビロード革命後にドイツから多くの支援を受け、さらにドイツの支配するEUに加盟している現在、あからさまに反ドイツ感情を表明できないのが、H先生への攻撃となって表れた可能性もある。
こんな殺伐とした話だけだと悲しくなるので、先生に聞いたいい話をしておくと、以前ウクライナの旧チェコスロバキア領だった地域のウシュホロトという町の大学で行われたシンポジウムに参加したときのこと、先生がぽろっと近くのムカジョフかムカチョフという町に行ってみたいなあと漏らされたところ、シンポジウムの主催者たちがあれこれ話し合いを始めて、結局「チェコから来てくれたH先生が行きたいと言っているので今日の学会の午後の部はムカジョフで開催することになりました」ということで、みんなで車に乗って移動したのだとか。市役所の中庭で市長たちに盛大に歓迎されて、シンポジウムは多分大成功に終わったのだと思う。
別の年は、先生の希望でシンポジウムの一環として、チェコでも有名な盗賊の出身地であるコルチャバに行くことになったらしい。とにかくチェコからやってきた先生のためにあれこれしてくれようとする姿勢が嬉しかったと仰っていた。さらに嬉しかったのは、先生はコルチャバの町で十年以上も前に博物館に再現された昔の学校の教室の展示の作成をしたことがあったのだけど、そのときのことを町の人が覚えていて、先生に気づいただけでなく、名前まで憶えていてくれたことだという。
そういう人々との触れ合いが、生きるエネルギーになっているなんてことを仰る先生のことを考えると、S先生たちだけでなく、他の日本のコメンスキー研究者も先生を訪ねてくれないものかなんてことを考えてしまう。コメンスキーについても、その研究者についても知識のおぼつかない人間ではあまり先生のお力になれそうもない。
今年2018年はチェコスロバキアの独立以来百周年ということで、さまざまな式典が準備されようとしている。それに対して先生は、オーストリア=ハンガリーという大きな可能性を秘めた多民族国家が崩壊して、ソ連に西に進むことを、ドイツに東に進むことを可能にしたいくつも小国の独立が本当に祝うべきことなのかどうか検討の余地があると仰る。民族自決という耳ざわりのいい言葉に酔いしれていた過去の自分を思い出すと耳が痛いのだけど、物事を多面的に見ようとするのは、歴史家ならではなのだろうか。一面的なひねくれた味方ならともかく、文学の思い込みの世界で育った人間には難しい。
次はまた半年後ぐらいにお目にかかれることを願ってこの稿の筆をおく。
2018年2月23日24時。
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