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2022年01月17日

『たから舟』の童話二編について



 まずは、「ねぼけ小僧出世物語」だが、主人公の名前が「ヤン」というところが、いかにもチェコの童話である。ヤンという名前は、現実にも最もよく見かける名前の一つだが、童話の世界でも、ヤンやそのあだ名であるホンザ、ヤネクなどの名前が、特別な名前を必要としない匿名的な主人公の名前として使われることが多い。主人公がヤンという名前の童話を集めた『チェコのホンザ』なる童話集も存在しているほどである。
 だから、チェコの童話のヤンは、本の昔話でいうなら、「桃太郎」「力太郎」なんかの「太郎」に当たると考えられそうだ。ならば、題名の「ねぼけ小僧」も、「ねぼけ太郎」と訳してもいいのかもしれない。エルベンの「ドロウヒー・シロキー・ビストロズラキー」も。「長一」「太一」「眼力の強い男」よりも、「長太郎」「広太郎」「眼力太郎」なんて名前のほうが、この時代の翻訳としてはふさわしかった気がする。

 そんなことを考えていて、ふと思い出したのが、日本の昔話の「三年寝太郎」と「ものぐさ太郎」である。より正確には昔話そのものではなく、佐竹昭広の『下克上の文学』なのだが、佐竹は、この手の何もしたがらない極端な怠け者として登場した主人公が、途中からそれを忘れたかのように真面目に働き始めて、嫁と幸せな人生を手に入れるという物語の構造を、「まめ」という概念なども使って見事に分析して見せている。
 その分析に基づけば、この「ねぼけ小僧」の物語も、「ものぐさ太郎」の系譜に連なることになる。主人公のヤンは、最初は何時でもどこでも寝てしまう人間として登場したのに、隠者と出会って以降は、王妃の行状を突き止めるために寝ずの番をするなど、ねぼけ小僧はどこに行ったのかと言いたくなるような豹変振りである。日本の昔話と直接関係が有るなんてことを言うつもりはないが、怠け者が何かのきっかけで働き者になってという発想は、世の東西を問わず存在したのだろう。

 最後の褒美として国の半分をもらうというのも、チェコの童話にはよく出てくるものである。ただし、特に映画化されるような話の場合には、誘拐されたり呪いをかけられたりした王女を救うことができたら、褒美として王女との結婚を許して国の半分を与えるというのが一つのパターンになっているから、王妃の行状を暴いただけで国の半分というのは意外な感じがした。


 二つ目の「一撃九匹」のほうは、特にチェコ的だという部分はないのだけど、仕立屋という大人の職人が主人公になっているところが、ちょっとだけベチェルニーチェクの「ルムツァイス」を思い起こさせる。ルムツァイスは、仕立屋ではなく靴屋で、貴族と対立して町にいられなくなって、近くの森に移り住んで、貴族の横暴に逆らう盗賊だから、この物語の主人公のような狡さは発揮しないのだけど。
 ルムツァイスといえば、貴族の末裔を紹介する番組で、貴族のイメージを貶めるのに利用されたと批判する人が登場していた。対ナチス協力者として没収された資産の返還を、あれこれ理由をつけて求め続ける、貴族の子孫達の一部の強欲な姿を見ていると、ルムツァイスが存在しなくても、貴族に対するイメージは変わらなかったんじゃないかと思うけど。

 最初に読んだときには、童話なのにこの終わり方でいいのだろうかと思ったのだが、子供たちに現実の厳しさを垣間見せるのが童話の役割だとすれば、これはこれでいいのかもしれない。大蛇を倒してもらった褒美が一万円というのは流石にどうなんだろう。1920年当時の一万円の価値が現在とは比べ物にならないほど大きかったというのはわかってはいるんだけどさ。
2022年1月16日










タグ:童話 昔話

2022年01月12日

一撃九匹(チエスコ・スロヴエンスカ童話)



 あるところにひとりの仕立屋があった。この仕立屋は、為事(しごと)が暇だと、きまって靴下の直しをやらかしていたが、ある日御飯をすますと、テエブルのうえに、一ぱい蝿がたかっていたので、彼はもっていた靴下でいきなり蝿をたたいた。そして一時に九匹を殺した。
 さて、彼はあんまり長いあいだ為事がなくて、そう毎日ぼんやり靴下の直しばかりもやっていられないので、そこである日、きゅうに思い立って、世界漫遊としゃれこんだ。この時、彼は自分の帯へ、「一撃九匹を斃(たお)す」と、れいれいとおおきく金文字で書いた。
 彼は路でひとりの小僧に逢った。その小僧は彼に雀を一羽買ってくれないかと言った。彼は言われるままに、その雀を小僧から買いとって、そして持っている袋のなかへ入れた。それからしばらくゆくと、彼はある百姓家のまえをとおりかかった。見ると、そこのかみさんは、たいそううまそうな乾酪(チーズ)をこしらえていたので、彼はかみさんに、その乾酪と、それから牛乳をすこしわけてくれないかと頼んだ。かみさんは、こころよく、こしらえていた乾酪と、それから牛乳を二三杯わけてくれた。彼は牛乳を即座に飲んで、乾酪を袋へ入れて、そしてまたのこのことさきへ歩いて行った。しばらくして、彼は町へ着いた。

 その日は、夏の真中の、たいへんに暑い日であったので、のんきな仕立屋先生は、別に急ぐ旅でもないので、道端の涼しそうなところへごろりと横になって、ぐうぐうと寝込んだ。そこへ、ひとりの雲突くばかりの、おそろしい大男がとおりかかった。大男はひょいと寝ている仕立屋の帯を見ると、金文字で、「一撃九匹を斃す」と書いてあるので、目を円くしておどろいた。
 彼は仕立屋を揺りおこして、
「おいおい、君はほんとうに一時に九匹を殺したのかい?」と聞いた。
 仕立屋がそうだと答えると、大男は、
「そいつあおもしろい。それじゃこれから、君が強いか、己(おれ)が強いか、ひとつおたがいに腕くらべをやらかして見ようじゃないか。まず己はこの石を天へ投げるが、落ちてくるまでには一時間かかるから、見ていたまえ」と言った。
 仕立屋はそれを聞くと、ふふんと笑って、
「それじゃ己は、もう降りて来ないほど高くほうって見せるよ」と言って大男を茶化した。
 大男は腹を立てて、石を天へ投げたが、実際下へ落ちてくるまでには一時間の余かかった。しかし仕立屋は石のかわりに雀を投げたので、勿論かえっては来なかった。
 大男はぎゃふんとまいった。しかしこんなちっぽけな虫けら見たいな奴に負けては残念だと思ったので、彼はまた、
「それじゃあ、こんどは、別のことをやって見よう。己はこの石を握り砕いて見せる」と言った。
 だが仕立屋はにっこりと笑って、
「なんだ、砕くばかりかい。己は握り潰して、汁を出して、見せてやる」と言った。
 大男は、なにを小癪なと、石を握って粉微塵に砕いた。しかし仕立屋は乾酪を出して、それをぎゅっと握ったので、まわりから汁がはみ出した。
 大男はまた鼻っぱしをへし折られた。彼はどうしても仕立屋のほうが自分より上手だと認めないわけにはゆかなかった。
 そこで大男はさっそく仕立屋と仲よくなって、ふたりはそれからぶらぶらと、とある草原までやって来た。その草原には実が一ぱいに熟(な)っている一本の桜の樹があった。ふたりはその実が食べたくなった。仕立屋は攀(よ)じ昇ってその実を取ったが、しかし大男は無造作に、苦もなく桜の樹を曲げて、実を取った。大男は食べたいだけ食べると、きゅうに手をはなしたので、樹に乗っていた仕立屋は、弾みを食って、はるか向うへ跳ね飛ばされて、草原の隅の、枯草の山のうえにおちた。
 仕立屋は枯草の上から降りて来ると、苦い顔をして、お尻をさすりながら。
「おい君、冗談じゃないぜ。僕は飛行術を知っていたから助かったが、それでなければ、今頃は三途の川へ行っていた時分だよ」と言った。そして、その内に、折があったら、君に是非飛行術を教えてやろうと約束をした。

 ふたりは手を取り合って、それからとある町へ行った。その町へ這入(はい)ると、どうしたのか、町のなかはいやに陰気であった。ふたりは不思議に思ったので、町の人に聞いて見ると、この町の人のいうには、ある一疋の恐ろしい大蛇が、この町の会堂の中に住んでいて、さかんに人を呑んでいるので、この町の人はひとりとして安心をしている者がない、為方(しかた)がなしに、王様はその大蛇を殺した者には一万円の褒美をやるということになつているのであるが、いまだに殺す人がないと答えた。それを聞くと、ふたりは早速王様のところへ出かけて行って、われわれがその大蛇を退治いたしましょうと言った。そして彼等はおおきな鉄鎚と火箸とをあつらえた。それが出来てくると、大男は自分は火箸を持って、そして仕立屋に鉄鎚を担いでいってくれろと言ったが、仕立屋は笑って、
「おい、それっぱかしの物をふたりで持って行ったと言われてはわれわれの名折れだから、君がみんな一しょに持って行きたまえ」と言った。
 ふたりが会堂の入口まで来ると、大蛇はいきなりおそろしいいきおいで飛んで出て来て、仕立屋を押し倒して彼を呑もうとした。すると、大男は持っていた鉄鎚で力まかせに大蛇の頭を打って、ただ一撃に殺してしまった。
 仕立屋は起きあがると、喜ぶかと思いのほか、不愉快そうな顔をして、
「君、なんだって殺してしまったんだい。困るじゃないか。僕は大蛇を生捕(いけどり)にして、見世物にでもして、おおいに儲けようと思っていたんだぜ」と言った。
 大男は真に受けて、
「そうかい、それはすまなかったね」と言ったが、仕立屋はじきに機嫌をなおして、
「まあいいや。それはそうと、今日はこれから我輩の得意の飛行術を君に教えてあげよう」と言った。
 それから、ふたりは連れ立って会堂の高い屋根へ登った。
 仕立屋が大男をかえりみて、
「いいかい、己が一、二、三と合図をしたらば飛び降りるのだよ」と教えた。
 大男は仕立屋の合図にしたがって下へ飛び降りたが、脳骨を微塵に砕いて、死んでしまった。
 細(ほそ)からぬ仕立屋さんは、この容子を見ると、赤い舌をぺろりと出して、
「大蛇を退治いたしましたのは、かくもうすわたくしでございます」と言って、まんまと王様から一万円の金を貰って、ポッケットへ捻じ込んでしまった。


出典:松本苦味編『たから舟 世界童話集』東京、 大倉書店、1920.7.18







2022年01月11日

ねぼけ小僧出世物語(チェスコ・スロヴェンスカ童話)



 あるところにヤンという少年があったが、彼は大のねぼけ小僧で、それこそ時も処もおかまいなしに、どこへでもゆきあたりばったりにごろごろと寝た。ある日、彼は一軒の居酒屋の前をとおりかかると、中には五六人の百姓がいて、その外に山のように藁を積んだ荷馬車が三四台置いてあった。彼はこれを見るとこいつはうまい寝床があるわいと、早速一台の荷馬車のなかへ潜りこんで、そのままぐっすりと寝込んでしまった。
 百姓達は、そんなこととは夢にも気づかずに、やがて御者台へと乗りこんで、はいはいどうどうと馬を御して家路についた。彼等はそれから余程たってから、ようようヤンが荷馬車のなかに眠っているのに気がついた。
 彼等は考えた。
「さて、こいつをどう始末をつけたらいいだろうなあ。うむ、よし、馬車のなかに麦酒樽(ビアだる)がひとつあった。一番こいつをあの麦酒樽のなかへほうりこんで、そして森へ置いてきぼりにしてやろう!」
 こう考えると、彼等はそのとおりにした。
 ヤンは麦酒樽のなかへほうりこまれても、なかなか目をさまさなかった。彼はずいぶん永いあいだそのなかで眠っていた。しばらくして、彼はようよう目をさますと、自分が麦酒樽のなかにいるのに気がついた。けれども、彼は自分がどうしてこんな麦酒樽のなかへはいったか、また一体自分は今どこにいるのだか、さっぱり当(あて)がつかなかつた。ただ何だか麦酒樽のまわりに、異(い)体(たい)の知れぬものが。行ったり来たり駈けまわっている容子(ようす)なので、彼は麦酒樽のちいさい孔(あな)からそとを覗いて見た。ところがおどろいた。外には実に数えきれぬほどの狼がむらがっているのである、彼等はいずれも人間の臭いを嗅(か)いであつまって来たらしかった。
 やがて一匹の狼は、ヤンの覗いている孔へ尻尾(しっぽ)を突きこんだ。ヤンはそれを見ると、始めは生きた心地もしなかったが、しかし根が豪胆な少年であるから、いきなりその尻尾を手へ絡みつけた。狼は不意を喰らっておどろいた。そして尻尾の先へ樽をくっつけたまんま、どんどん逃げはじめたが、しかし逃げれば逃げるほど、樽はすさまじい音を立てながら尻尾へ付いてくるので、怖さはよけいひどくなった。とうとう狼は物狂わしく駈けまわったすえ、樽をとある岩角へぶつけたが、樽は岩へぶつかると同時に、微塵になってしまった。ヤンは狼をはなした。すると狼は一目散に、雲を霞と逃げていった。

 さてヤンは、人気もない、寂しい山のなかで、ひとりぼっちになった。彼はどうすることも出来ないので、唯(ただ)分(わけ)もなく山のなかをさ迷った。ところが、彼はふと思いがけなくもひとりの隠者に逢った。
 その隠者はヤンにむかって言った。
「おまえはどこの者だか知らないが、とにかく己(おれ)と一しょにここにいなさい。実は、己はもう常命がつきて、三日の内に死ななければならないのだ。己が死んだらば、どうぞ己の亡骸をうずめてくれ。そうしたら、己はおまえに立派に礼をしてやる」
 そこで、ヤンはその隠者とともに山にとどまることになったが、それから三日たつと、隠者の死はいよいよ近づいた。隠者は目を瞑ろうとする時、ヤンを膝近く呼びよせて、一本の杖をわたして言った、
「これヤンよ、この杖はな、おまえが行きたいと思うところを指せば、どこへでもゆかれるという不思議な杖だ。これをおまえにやる」と言って、それから隠者は更にひとつの袋をヤンにあたえて言った。
「それからこの袋はな、およそなんでおまえが欲しいと思うものは、おまえはこのなかから取りだせるという奇妙な効能のある袋だ」
 隠者はこう言って三番目に、更にひとつの帽子をヤンに渡して、
「またこの帽子はおまえがかぶると同時に、おまえの姿が消えてしまうという摩訶不思議の力ある帽子だ。己はおまえのやさしい心立に感じて、この三つの宝をやる」とこう言って、隠者は安らかに永劫の眠りについた。ヤンはその隠者の亡骸を丁重に葬った。

 ヤンは三つの宝物を授かると、まず杖を指して言った。
「杖や、己を王様の住んでいる都へつれてゆけ」
 すると彼はたちまちとある華かな都の真只中に自分を見いだした。ところが彼はこの都会で、奇怪千万な噂を耳にした。それは、この国の王様のお妃が、毎夜一ダースの靴を履き切ってしまうが、誰もそのお妃が、どこへどうしていって、そんなにたくさんの靴を履き切って来るのか、知る者もないというふことであった。国中の華族達や、えらい人達はみんな争ってこのお妃の秘密を探ろうとしたが、ヤンもそのなかのひとりに加わった。
 彼は王様のお城へ行って、王様に拝謁を願いたいと言った。やがて彼は王様に拝謁を許されて、王様の面前に伺候すると、彼は、自分はお妃の秘密を探りたいと思って、あがった者でございますと言った。
 王様は彼に言った。
「ふん、おもしろい奴じゃ。しかしそちの名前はなんと云うのじゃ?」
「わたくしはねぼけ小僧のヤンともうす者でございます」と彼は答えた。
「なんだ、ねぼけ小僧のヤンだ! おまえはねぼけ小僧で、どうして己の妃の秘密を探ることが出来る? おまえはもしもやり損ったら、首を亡くしてしまうことは承知か?」と王様は言った。
「無論承知でございます」ヤンはきっぱりと答えた。

 ヤンのあてがわれた部屋は、ちょうどお妃の隣りの部屋であったが、お妃が外へ出るには、どうしてもヤンの寝ている部屋をとおらなければならなかった。ヤンは一晩中まんじりともしなかった。
 真夜中になって、お妃はそろりと自分の部屋を抜け出して、さてヤンの部屋をとおろうとすると、ヤンはわざと大鼾(おおいびき)をかいて狸寝入りをしていた。お妃はどうもヤンの容(よう)子(す)をあやしいと思ってか、持っていた蝋燭の火で二三度ヤンの足の裏を焼いて見たが、それでもヤンが鼾をかいて起きようともしないので、彼女は安心をしたらしく、十二足の新しい靴を持って、お城を抜け出した。
 ヤンは寝床から跳ね退きて、手疾(てばや)く帽子をかぶり、例の杖をさして言った。
「これ杖よ、王さまのお妃の入らっしゃるところへ己を連れてゆけ」とこう言って、彼はお妃のあとを追った。
 さてお妃は、非常な疾さである巌(いわ)のところまで来ると、地は二つに割れて、中から二匹の龍があらわれて彼女をむかえた。そしてその二匹の龍は、彼女を背中へ乗せて、鉛の森へ案内した。
 ヤンはこの容子を見ると、杖に向って、
「それ、あのお妃のあとを追え!」と言って、彼もまた鉛の森へ行った。
 彼はこの森へ這入(はい)ると、証拠のため、鉛の枝を一本折って、それを持っている袋のなかに入れた。しかし彼が鉛の枝を折る時、ちょうど鈴が鳴るような強い音がした。お妃はこの音を聞くと、ぶるぶると身顛いをして、そしてまた先へ進んで行った。
 ヤンはまた杖を指して、
「己をお妃のいるところへ連れて行け」と言った。
 すると、こんどは杖はお妃のあとを追って、彼を錫の森へ連れて行った。彼はここでまたまえのように枝を一本折って袋のなかへ入れた。枝はふたたび鈴のような烈(はげ)しい音をたてた。お妃はこの音を聞くと、いよいよ真蒼(まっさお)になって、そしてまたさきへ進んで行った。
 ヤンはさらに杖に言いつけて、
「己をお妃のいるところへつれてゆけ」と言うと、彼はたちまち銀の森についた。
 彼はここへつくと、型のごとく一本の枝を折って袋のなかへ入れたが、折る時、あいかわらずけたたましい鈴のような音がしたので、お妃はとうとう気をうしなってしまった。龍はこの容子を見ると、おどろいて、路を急いで、とある青々とした草原へ出た。
 この草原へ来ると、たくさんの悪魔がむらがってお妃をむかえたが、悪魔等はお妃が気をうしなっているのを見ると、みんなして彼女をよみがえらせて、そして盛んな宴会を開いた。
 ねぼけ小僧のヤンも、この草原へ着いた。ちょうどこの日は悪魔達の抱えている料理番が留守であったが、ヤンはその料理番の席へ据わっていた。けれども彼は例の不思議な帽子をかぶっていたので、誰も彼に気付く者はなかった。悪魔は、料理番のために自分達の食物を少しづつ取り退けて置いてやった。ところが、ヤンはそれを残らずたいらげてしまった。これには、流石の悪魔達も目を回しておどろいた。しかし彼等は、それをまさかヤンの為業(しわざ)だとは気付かなかったので、べつだん大して気にもかけなかった。
 宴会がおわると、悪魔達はお妃と一しょに踊を踊った。彼等はお妃が十二足の靴をみんな履き切ってしまうまで、夢中になって踊りまはった。やがて靴が一足もなくなると、二匹の龍があらわれて来て、最初に彼女を迎えた巌のところまでおくりとどけた。彼女はここまで来ると、それから先は歩いて城へ向った。
 ヤンは彼女の後をついて歩いた。けれども、城の真近まで来ると、彼は、お妃より一足先に城へ帰って、そして床のなかへ潜り込んで、知らん顔をしていた。
 お妃はヤンの寝間を通り抜けてゆくとき、ヤンの容子を窺うと、ヤンは高鼾で眠つているので、ほっと安心をして、そのまま自分の部屋へ這入って寝についた。

 夜が明けると、華族達や、さまざまのえらい人達は王様の御前にあつまった。この時王様は一同の者に、誰か妃の秘密を探り当てた者はあるかと聞かれたが、誰もわたくしが存じておりますと云って、御前へ進み出る者もいなかつた。一堂唯面目なげにしたをむいているばかりであった。そこで王様はねぼけ小僧のヤンを呼び出して、彼に聞かれた。
 ヤンは答えた。
「陛下、わたくしはおおせのようにお妃さまのおあとをつけまして、お妃さまが、十二足の靴を、地獄の草原で履き切っておしまいなさるのをちゃんと見届けました」
 お妃は思わずまえへすすみでた。するとヤンは落付いて、袋のなかからなまりの枝を出して言った。
「お妃さまは二匹の龍に乗って地獄へむかわれまする途中、鉛の森へお立寄りになりました。わたくしがその森でこの鉛の枝を折りました時、お妃さまはたいへんおどろかれたようにお見受けつかまつりました」
「ふん、そちはなかなか旨いことを言う。しかしその枝は、そちが自分でそんな物をつくって、そして好い加減の嘘をならべたてるのであろうがな」と王様は言った。
 ヤンはそんなことには構わずに、袋のなかから更に錫の枝を取り出して、そして言った。
「さてそれからお妃さまは錫の林へおいでになりました。この枝はすなわちその林で折ったものでございます。お妃さまは、その時たいそう蒼くおなりあそばしました」
 こう云って、ヤンはこんどは銀の枝を出して言った。
「お妃さまは、それからのち、銀の森へゆかれましたが、わたくしがその森でこの枝を折りますと、お妃さまはおどろきのあまり、たおれておしまいになり、悪魔達がおよみがえしまをすまでは、なにも御存じない御容子でした」
 お妃はなにもかも一切残らずあばかれると、きゅうに大声に、
「地よ、地よ、わたしを呑んでしまっておくれ!」と叫んだ。
 すると、地は瞬く間にお妃を呑んでしまった。
 ねぼけ小僧のヤンは、その国の半分を貰った。そして王様が亡くなると、外の半分も譲られた。

出典:松本苦味編『たから舟 世界童話集』東京、大倉書店、1920.7.18


 前回、紹介したチェコの童話の翻訳の全文である。表記は読みやすいようにある程度改変を加えてある。





2021年05月12日

俳句雑誌のチャペク(五月九日)



 俳句雑誌の「層雲」というと、荻原井泉水が、明治四十四年(1911年)に、新傾向俳句の旗頭だった河東碧梧桐を後ろ盾にして創刊したものであるが、新傾向俳句に飽き足らず自由律俳句を提唱するに至る。驚くべきは、その自由律俳句の雑誌に、チャペクの作品の翻訳が掲載されたことである。作品の日本語訳の題名は「影」、訳者は青山郊汀で、掲載されたのは昭和十五年(1940年)の五月号である。国会図書館オンラインの書誌情報はここ

 今回届いたコピーを見ると、掲載作品は三頁ほどの短いもので、こちらが期待していたチャペクについての解説も、この作品が掲載されることになった事情も書かれていない。ジャパンナレッジの『世界大百科事典』と『日本大百科全書』の「層雲」の説明に、ドイツ文学の翻訳にも力を入れていたことが記されているから、チャペクもドイツ文学の枠内で、ドイツ語から翻訳されたのかもしれない。
 この翻訳の存在に気づいたときから、チャペクというのはカレル・チャペクのことだろうと思っていたのだが、ヨゼフの作品である可能性も否定はできない。チェコのセズナムで、チャペクと影で検索するとヨゼフ・チャペクの作品「シダの影」が最初に出てくるのである。内容から「層雲」に掲載された「影」とは関係なさそうだけれども、本格的に調査する際には、ヨゼフの作品にも目を配る必要がありそうだ。

 とまれ、「影」の内容は、ロータ氏が釣り人に声をかけるところから始まり、ほぼ二人の会話だけで進行する。釣り人が足が悪いことが書かれた後は、病人と書かれるようになり、流水の夢を見るとか、流水ではなくて光だとか影だとか、斜め読みしていたら、よくわからなくなってしまった。これは一度腰を据えて読むしかあるまい。いや知り合いの日本語ができるチェコ人に読ませて原典を確定するために、PCに入力しよう。そうすれば否応にでも頭に入ってくるはずだ。
 斜め読みで気になったのは、しばしば仏教語っぽい漢語が登場することで、「時劫無定」とか「万物逆旅」とかチェコ語で何と言うのだろうかと頭を抱えてしまった。しかも末尾には、水流を指して、「これは元の水ではありません」などと言う台詞も出てくる。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」って『方丈記』じゃねえかよ。チャペクが仏教的無常観に到達していたなんて話は聞いたことがないのだけど、この辺は翻訳者の解釈になるのだろうか。

 翻訳を担当した青山郊汀については詳しいことはわからないのだが、「層雲」に定期的に寄稿しているので同人の一人であったかと思われる。ただ、俳句ではなく、俳句も含めた文学論や、翻訳、自作では詩の発表が多いようで、詩を専門とする文学者だったと考えておこう。自由律俳句と詩の境目なんてあってないようなものだから、短詩を手がける詩人が自由律の俳句結社に入っていても不思議はない。
 この「影」の最後の頁の次頁に「春風紀南風景」と題した井泉水の俳句が、並んでいて、ちょっと読んでみたのだけど、やっぱり新傾向俳句とか、自由律俳句と言うのは、自分には理解できないものだということを改めて理解させられた。分かち書きにして、詩だといわれたほうがまだ納得がいく。詩っぽいのに拭い去れない微妙な俳句臭が残っているのが、自由律を受け入れ切れない原因かもしれない。そんな自由律の雑誌に掲載されたチャペクの翻訳が、よくわからないものになっているのもむべなるかなである。チェコ語で読むよりはわかりやすいのだろうけど。

 さあ、次は何を注文するかな。毎月一回ぐらいなら問題なかろう。注文の方法も支払いの方法もわかったわけだしさ。
2021年5月10日24時。












2021年04月26日

『コスマス年代記』第二部(四月廿三日)



 エルベンの『花束』の翻訳のダウンロードなどでお世話になっている「cesko- STORE」からメールが来て、『コスマス年代記(第二部)』の翻訳の提供が始まったことを知らされた。「第二部の範囲は1035年から1092年」だというから、1034年に即位したブジェティスラフ1世から、スピティフニェフ2世を経て、ブラティスラフ2世の時代ということになる。1092年には一時コンラートが君主の座についているけれども、記述はあるのかな。この時代の君主の在位期間を確認するために過去の記事を見ていたら、年号に間違いのある記事を発見してしまって慌てて修正。

 『コスマス年代記(第二部)』のところに書かれている解説によれば、コスマスの生きた時代と重なるため、資料の不足していたと思われる第一部に比べると、一つ一つの事件が詳しく書き込まれていて、人物の取り違えもあまりないようだ。ということは断片的な記述が多いという第一部よりも読みやすいのかもしれない。
 これは、いずれは読まずばなるまいと、早速ダウンロードした。第一部のときもお知らせをもらってすぐにダウンロードしたのだけど、まだ前書きの部分しか読んでいないのだった。第二部は修道院長に捧げる献辞が冒頭に置かれているようなので、最低でもこれだけは眼を通しておくとしよう。残りは、PDF版だから、リーダーに放り込んで時間のあるときに少しずつ読むのも悪くなさそうだ。

 第一部はこちらからダウンロード可能になっている。今週はむだに仕事が多くて疲労もたまっているので、金曜日の分はこの辺でお仕舞い。たまには要点だけで終わるのも悪くあるまい。
2021年4月24日24時30分









2021年04月09日

カレル・ポラーチェク(四月六日)



 テレビドラマ「Bylo nás pět」の原作で知られるポラーチェクは、戦前のチェコスロバキアを代表する作家の一人である。チェコ語版のウィキペディアによれば生年は1892年、没年は1945年。亡くなった場所は、ナチスドイツの強制収容所。ユダヤ系のチェコ人だったのである。ポラーチェクは1943年にテレジーンの「模範強制収容所」に収容されるが、その直前に娘をイギリスに逃がすことに成功した。しかし、本人はテレジーンからアウシュビッツに移され、最後はグリビツェというポーランドの町にあった強制収容所で亡くなったという。
 チェコの文学的な伝統に基づいて、新聞記者として働きながら作家活動を行ったポラーチェクの代表作も、日本語に翻訳されている作品も児童文学に含まれるものが多いが、チャペク同様、子供向けの本ばかりを書いていたのではなく、一般向けの作品も執筆していたようだ。名前を聞いたことがあるのは、『Muži v offsidu』というサッカーの世界を舞台にした作品。戦前にフゴ・ハース主演で映画化されているから、それを見た記憶があるのかな。

 とまれ、ポラーチェクの作品で、日本語訳されているのが、国会図書館オンラインで確認できるのは以下の三作。


@小野田澄子訳『魔女のむすこたち』(岩波書店、1969)
 原題は『Edudant a Francimor』で1933年に発表された作品。エドゥダントとフランルィモルというのが主人公で魔女の子供たちということになるのだろうか。ビロード革命後の1993年に子供向けの番組「ベチェルニーチェク」で「三年B組の生徒の日記、もしくはエドゥダントとフランツィモル」と題してアニメ化されて放送されている。後には続編も制作されているから好評をはくしたものと思われる。
 翻訳者の小野田澄子氏は、チェコの児童文学の翻訳を手がけている人のはずだが、「honto」で確認できたのは、ポラーチェクの二作と、ラダの一作だけだった。もっといろんなところで見かけた記憶があるのだけど、古い時代の児童文学、絵本などの翻訳について情報を得るのは結構大変なのである。
 この『魔女のむすこたち』は、現在でも2018年に出た最新の少年文庫版が手に入るようである。いや、それどころか電子書籍も購入できるようになっている。


A 小野田澄子訳『ぼくらはわんぱく5人組』(岩波書店、1990)
 言わずと知れた『Bylo nás pět』の翻訳。原作がチェコスロバキアで刊行されたのは、著者の没後、第二次世界大戦後の1946年のことだった。この作品、子供向けの本だと思って読んでみたら、普段は使わないような難しい、古い表現が頻出して投げ出してしまった。主人公の子供が背伸びして、気取った表現を使ったという設定だったのだろうか。日本語訳がどうなっているかも気になるところだけど、残念ながら絶版で手に入らない。
 チェコでは1995年にチェコテレビで放映されたドラマが人気で、今でもしばしば再放送される。この前は、外に出られないお年より向けのチェコテレビ3で放送していて、びっくりした。日本でも放送されたらしい連続ドラマ「ラビリント」の監督を務めたイジー・ストラフが、主人公の兄役で出演している。このころはまだ俳優としてのキャリアが中心だったのである。


B元井夏彦訳「医者の見立て」『ポケットのなかの東欧文学 : ルネッサンスから現代まで』(成文社、2006)
 日本語訳の収められた成文社のアンソロジーはすでに何度か収録作品を紹介したことがあるはずである。原題は「Můj lékař mně poradil」だと思われるが、作品についても役者についてもよくわからない。

2021年4月7日15時30分。












2021年03月25日

ヨゼフ・トポル(三月廿二日)



 チェコという国は、演劇が盛んな国で、各地にたくさんの劇場がある。人口十万人ほどのオロモウツにも、オロモウツ市が運営するモラビア劇場以外にも、私営の劇場が複数存在している。もちろんこれらの全ての劇場が、入場料の収入だけで活動を続けているわけではなく、国や地方公共団体からの補助金が収入のうちの大きな割合を占めているはずである。それは、劇場、ひいては演劇の伝統を補助金を出してまで守る必要があると考える人が多いことを示しているのだろう。

 チェコの文学においても、戯曲の果たした役割は、非常に大きく、それは最初に日本語に翻訳されたチェコの文学作品が、チャペクの戯曲だったことにも現れている。そんなチェコで、第二次世界大戦後、1950年代の半ばから活躍を始めた劇作家が、ヨゼフ・トポルである。生年は1935年だというから、これも劇作家のハベル大統領(1936年生)とほぼ同世代ということになる。
 チェコ語版のウィキペディアによれば、高校を卒業した後、劇場で仕事をしながら、芸術大学の演劇学部で学び、在学中に最初の作品を発表している。プラハの春も近づく1965年には、俳優のヤン・トシースカらとともに独自の劇場を設立するが、正常化の時代の1972年に活動を禁じられてしまった。トポルはまた、「憲章77」に署名したため、演劇界で活動すること自体ができなくなり、
1989年のビロード革命までは、演劇とは関係ない仕事を強要されたようだ。翻訳を偽名(友人の名前)で劇場に提供するなんてこともあったようだから、演劇の政界でもコメンスキー研究のように、役割分担があったのかもしれない。
 トポルの作品の日本語訳は以下の三つ。


@村井志摩子訳「線路の上にいる猫」(「テアトロ」第33巻7号、カモミール社、1966.6)
 チェコ語の原題は「Kočka na kolejích」で1964年に発表されている。その2年後に日本語訳が出たのは、当時の国際状況を考えると早いと言ってもよさそうだ。冷戦期とはいえ、左翼的な人脈のつながりは、意外と強く遠くまで伸びていたのだと感心させられる。訳者の村井志摩子氏も劇作家で、プラハ留学の経験があり、ハベル大統領とも親交があった人。戯曲だけではなく、チェコ語オペラの翻訳をレコードやCDのブックレットに提供していたらしい。
 掲載誌の「テアトロ」は、1934年創刊の演劇雑誌で、現在でも月刊誌として刊行が続いているようだ。版元のカモミール社は演劇関係の専門出版社で、2011年以来更新されていないHPを見ると、この雑誌を刊行するために設立された出版社のようにも見える。
 この「線路の上にいる猫」は、思潮社から1969年に刊行された『線路の上にいる猫 : 現代チェコ戯曲集』にも収録されている。この本には、トポルの作品以外に、ハベルとクンデラの作品も収められている。


A村井志摩子訳「スラヴィークの夕食」(『線路の上にいる猫 : 現代チェコ戯曲集』(思潮社、1969)
 チェコ語の現代は「Slavík k večeři」で1965年に発表されたもの。スラビークは鳥の名前か、人の名字か、題名だけでは分からない。ちなみにトポルは木の名前である。


B訳者不明「一時間の恋」(『世界文学全集 : カラー版』別巻 第2巻、河出書房新社、1969)
 チェコ語の原題は「Hodina lásky」、発表は1966年。訳者名は、オンライン目録では確認できなかった。村井志摩子訳の可能性もありそうだ。

 ヨゼフ・トポルの息子のヤーヒム・トポルも作家として活動しているようで、作品の日本語訳はまだだが、旧共産圏の作家を網羅的に紹介した『東欧の想像力 : 現代東欧文学ガイド』(松籟社、2016年)にも、取り上げられている。チェコの部分の執筆を担当した阿部賢一氏が、近い将来翻訳されることを願っておこう。
2021年3月23日24時










タグ:翻訳 戯曲

2021年02月05日

アルノシュト・ルスティク(二月二日)



 アルノシュト・ルスティクというと、真っ先に思い出すシーンがある。テレビでルスティクの生涯と現在を紹介するドキュメンタリー番組を見ていたときのこと、どんな文脈だったかは全く覚えていないのだが、「ドイツ人はブタだ」とドイツ人への悪口を現在形で吐き捨てるように口にしていたのである。ユダヤ人として第二次世界大戦中に強制収容所に送り込まれるなど、ドイツ人に迫害されていたルスティクが過去形で語っていたら、当然のことと考えてあまり印象に残らなかったのだろうが、現在形で、しかも強い口調だったから、忘れられなくなってしまった。
 恐らくは、戦後の雌伏の期間を経て、東西ドイツが再合併してEUの中心になったドイツが、経済力を背景に旧共産圏の諸国でやりたい放題していたことに批判的だったのだろう。もしくは、敗戦を経て一見変わったように見えるドイツ人たちのメンタリティが、実はその根本の部分では変わっていないことを警告する意味があったのかもしれない。
 この手の、「○○人は○○だ」的な決めつけ、特に批判、罵倒の目的でなされる決めつけは、しばしば差別だとして批判の対象になるが、なぜかドイツ人と日本人という第二次世界大戦で負けた国に対する罵倒は問題にされないことが多い。この辺も、いわゆる「ポリコレ」ってのを受け入れる気になれない理由になっている。とはいえ、ルスティクの「ドイツ人はブタだ」という罵倒を批判する気はないし、ドイツがやっているからというだけの理由で賞賛する一部の日本人もおつむの中身が「ブタ」だよね。

 さて、本題である。ルスティクの作品の日本語訳は、1960年代後半に集中して現れる。作品の多くは第二次世界大戦中のユダヤ人を題材にしている。以下の書誌情報は国会図書館オンラインで検索した結果である。


➀栗栖継訳「一個のレモン」(「太陽」第3巻10号、平凡社、1965.10)
 この作品については、原典が何かも、どうして「太陽」なんて雑誌に乗ったのかも不明。オンライン目録では、舞台芸術家の朝倉摂の名前も付されているが、翻訳ではなく挿絵を担当したものかとも思われる。


A訳者不明「私たちの生れてきた世界」(「世界」241号、岩波書店、1965.12)
 こちらはさらに訳者名まで不明。岩波の雑誌であることを考えると栗栖訳である可能性は高そうだ。同時に雑誌の性質、同号の目次に並ぶ記事を見ると、小説ではなく、エッセイの類ではなかろうかとも思える。


➂栗栖継訳「闇に影はない」(「新日本文学」第21巻4号、 新日本文学会、1966.4)
 原典は1958年に刊行された短編集「Démanty noci(夜のダイヤモンド)」に収録された「Tma nemá stín」。チェコ語版のウィキペディアによると、「Tma nemá stín」はビロード革命後の1991年に単行本化されているようである。
 日本語訳のほうは、1967年に恒文社から刊行された『現代東欧文学全集』第11巻に収録されている。前年の雑誌発表は、全集の宣伝の目的があったものかもしれない。この全集は1966年から69年にかけて全13巻で刊行されたもので、チェコスロバキアの作家は10巻と11巻があてられている。11巻には、ルスティクの作品以外にも、イジー・バイルの「星のある生活」が収録されている。
 その後、この全集の11巻は、単行本化され内容は変わらないまま『星のある生活 少女カテジナのための祈り : 他』(1971)、『星のある生活』(1978)と題名と版を改めて刊行されている。国会図書館のオンライン検索では、『星のある生活』に「第4版」という情報がついているが、この題名での第4版なのか、全集から合わせて第4版なのかわからない。個人的には後者だと認識している。


C栗栖継訳「少女カテジナのための祈り」(『現代東欧文学全集』第11巻、恒文社、1967)
 原典は『Modlitba pro Kateřinu Horovitzovou』(1964)。第二次世界大戦中にイタリアのシチリアで起こったユダヤ系のアメリカ人一家をドイツ軍が拘束した事件を基にした物語らしい。1965年には著者本人の手で脚色されて長編テレビドラマが制作されている。監督は「チェトニツケー・フモレスキ」のアントニーン・モスカリク。ちょっと見たくなってきた。


D栗栖継訳「一口の食べ物」(『現代東欧文学全集』第10巻、恒文社、1967)
 原典不明。特に書くべきこともない。


E野口忠昭・羽村貴史訳『愛されえぬ者たち : ペルラ・Sの日記より』(吉夏社、2007)
 次の日本語訳は60年代、いや『星のある生活』の刊行された70年代末からも大きく飛んで、2007年の刊行である。原典は『Nemilovaná: Z deníku sedmnáctileté Perly Sch』(1979)。テレジーンのゲットーの売春婦の日記という体裁で記された作品。日本語に訳した人たちの情報もほとんどないのだが、チェコ文学、チェコ語の世界で聞いたことのある名前ではないので、英語からの翻訳だろうと推測する。それを裏付けるのはhontoのこの本のところに、「1986年全米ユダヤ図書賞(小説部門)受賞」とあることである。ルスティク自身が英語に訳した可能性もなくはない。
 出版社の吉夏社もあまり聞かないが、こういう作品を刊行してくれるということは、ユダヤ系の文学に力を入れている出版社だと考えていいのだろうか。その前に、社名の読み方は「きっかしゃ」でいいのかな?


 チェコ語版のウィキペディアによると、ルスティクは「プラハの春」に対するワルシャワ条約機構軍の侵攻がおこった1968年8月21日の時点でイタリアに滞在しており、そのままチェコスロバキアに変えることなく、ユーゴスラビアを経てアメリカに渡り、アメリカに活動の場を移したという。チェコに戻ってきたのは、ビロード革命後のことで、1995年にはチェコ語版の雑誌「Play boy」の編集長になったことで話題を集めたらしい。
 ルスティクが亡くなったのは今からちょうど10年前の2011年2月のこと。享年84歳。プラハのジシコフにある新ユダヤ人墓地に葬られた。
2021年2月3日24時。





愛されえぬ者たち?ペルラ・S.の日記より









2021年01月09日

ヤン・ネルダ(正月六日)



 ネルダは、19世紀のチェコを代表する文学者の一人なのだけど、国会図書館オンラインの検索で「ネルダ」「ネルーダ」と日本語で使われていそうな表記を入力すると、チリの詩人のパブロ・ネルーダや、音楽関係者や登山関係者とおぼしきネルダ、はてはトンネルダイオードなんてものまで検索結果に並んでいて、本当のヤン・ネルダの作品の翻訳を探すのは大変だった。パブロ・ネルーダの場合には、ヤン・ネルダにちなんで筆名をつけたなんて話もあるし、ネルダがみんなチェコ人とは限らず、ややこしいことこの上ない。
 とまれネルダと言えば、さまざまな雑誌に掲載され刊行された短編小説を集めて1878年に刊行された『Povídky malostranské』である。以前どこかで『小地区物語』と訳しているのを見た記憶があるのだが、プラハのプラハ城の直下の城下町にあたるマラー・ストラナ地区を舞台にした作品を集めたものである。ブルタバ川対岸の旧市街に比べると狭く小さいことからマラー・ストラナと呼ばれるようになったものと解釈している。マラー・ストラナ地区には観光名所だけではなく、日本の大使館や広報文化センターも置かれているから、チェコに来た人は大抵訪れたことがあるはすである。

 この『Povídky malostranské』に収録された作品が、1960年代に日本語に翻訳され紹介されたのがネルダの作品の最初の日本語訳だと思っていたのだが、今回改めて確認したら、すでに戦前の1929年に原典不明の作品が雑誌に掲載されていたことがわかった。


@訳者不明「吸血鬼」(「文学時代」第一巻六号、新潮社、1929.10)
 原典も不明。『Povídky malostranské』に収録された作品に該当するような題名のものはない。国会図書館のオンライン目録では「ヤンネルダ」と名前と名字がまとめて表記されており、作品の題名もチェコならではのものではないので、別人かと疑ったのだが、ビロード革命後に刊行された沼野充義編『東欧怪談集』(河出文庫、1995)に、石川達夫訳「吸血鬼」がヤン・ネルダの作品として収録されているので、同じ作品の翻訳と見てよかろう。ちなみに『東欧怪談集』は昨年9月に新装版が発行されているので手に入りやすくなっている。


A竹田裕子訳『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』(未知谷、2003)
 残念ながら全訳ではなく、抄訳のようだが『Povídky malostranské』の翻訳が単行本として刊行されたことは喜ぶべきであろう。出版社の未知谷は昔国枝史郎の全集を刊行していたのを覚えているけれども、最近は旧共産圏の文学作品の翻訳にも力を入れているようで、チャペク以外のチェコの作家も日本に紹介されている。訳者は1970年代から児童文学の翻訳を手がけている方のようである。なぜ、日本語の題名を『Povídky malostranské』からかけ離れたものにしたのかは疑問である。
 単行本として刊行されたのはこれだけだが、『Povídky malostranské』に収録された作品のいくつかが翻訳されて。全集などの短編集に収録されている。

1訳者不明「ボレルさんのパイプ」(『名作にまなぶ私たちの生き方9』小峰書店、1961)
 原題は「Jak si pan Vorel nakouřil pěnovku」。版元の小峰書店は児童書専門の出版社。『名作にまなぶ私たちの生き方9』は、「北欧・東欧の文学」という副題がつけられており、チェコからはカレル・チャペクの「切手収集」も収録されている。『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』には、「ヴォレル氏が海泡石のパイプをふかしすぎた話」という題で収録されている。

2木村彰一・千野栄一訳「ドクトル・カジスヴェト」(『世界文学大系』第93巻、筑摩書房、1965)
 原題は「Doktor Kazisvět」。『世界文学大系』第93巻は「近代小説集」の第三冊目で、ロシア、北欧、東欧の文学の短編が収められ、チェコからはチャペクの「金庫破りと放火犯の話」「なくした足の話」の二編も収録される。『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』では、どうも「藪医者」という題で訳されているようである。

3飯島周訳「没落した物乞いの話」(『世界短編名作選 東欧編』、新日本出版社、1979)
 原題は「Přivedla žebráka na mizinu」。『世界短編名作選 東欧編』には、チャペクの「切手蒐集」「聖夜」、シュクボレツキーの「カッツ先生」も収録されている。。『フェイエトン : ヤン・ネルダ短篇集』での題名は「疫病神にとりつかれた物乞いの話」。


 ちょっと順番が錯綜するけれども、「ボレルさんのパイプ」が発表された2年後にも、原典不明の短編が翻訳されている。

B栗栖継訳「そいつをどこえ?」(『世界短篇文学全集』第10巻、集英社、1963)
 題名末尾の「え」が意図的なのか、誤植なのか気になるところではあるが、オンラインでは確認のしようがない。『世界短篇文学全集』の第10巻も、「北欧・東欧文学」ということで、このヨーロッパの二つの部分はまとめて扱われる傾向があったようだ。チェコからチャペクの作品(「最後の審判」「アルキメデスの死」)が収録されているのも、この時代の文学選集の短編集としては定番だったと言っていい。


 現在確認できている限りでは、ネルダが、チャペク兄弟、クルダ、エルベンに次いで、日本語訳が発表されたチェコ作家ということになる。クルダとエルベンは翻訳に名前が出ていなかったから、チェコの作家として紹介された三人目と言ってもいい。
2021年1月7日10時。




フェイエトン?ヤン・ネルダ短篇集






東欧怪談集 (河出文庫)











2020年12月13日

ビーチェスラフ・ネズバル(十二月十日)



 最近ネタのないときの定番になりつつあるチェコ文学の日本語訳の紹介である。今回はチェコのシュールレアリズム文学の大詩人とされるビーチェスラフ・ネズバルである。チェコ語版のウィキペディアによれば、生まれたのが1900年で亡くなったのが1958年というから、オーストリア=ハンガリー時代から、第一共和国、ドイツの保護領時代を経て共産党政権下を生きた人ということになる。以下ネズバル本人についての情報はチェコ版ウィキペディアに拠る。

 詩人、すなわち芸術家の常として、このネズバルも、一つの芸術主義に留まっていたわけではなく、最初はチェコスロバキアで生まれ国境を越えて広がることのなかった文学運動であるポエティズム創設者の一人として活躍し、戦争も近づく30年代になると、シュールレアリズムに活動の軸足を移す。ポエティズムは前衛詩のグループだというから、もともとシュールレアリズムとの親和性は高かったに違いない。
 その第二次世界大戦後には、いわゆる社会主義的リアリズムの枠内で作品を書き始める。すでに戦前に共産党に入党して党員として活動してきたネズバルは共産党政権の成立と共に、社会主義を代表する詩人になったといってもいい。近年は当然この時代の作品の評価は高くなく、2000年代に入っていくつか日本語に翻訳された作品も戦前のものばかりである。
 ただし、国会図書館のオンライン検索で確認できる最初のネズバルの日本語訳は、すでに1960年に発表されているのである。


@訳者不明「村よ、おまえは・・・ そのときに」(「新日本文学」第15巻8号、1960.8)
 訳者も不明なら原典も不明という不明だらけの作品だが、掲載誌を考えると、戦後の社会主義的リアリズムの作品であろうと思われる。題名もなんかそれっぽいし。戦後になって戦争中の農村の様子を回想したか、農業の集団化の様子を描いたかしたものじゃないかと想像してしまう。
 ネズバルの社会主義的リアリズムの詩作品も日本語に翻訳されて、どこかのアンソロジーに収録されているのではないかと思うのだが、国会図書館のオンライン目録では詩の作品はなかなか発見できないのである。それで、このジャンルもわからない、もしかしたら詩かも知れない作品が、確認できる中ではネズバル最古の日本語訳ということになる。


A村田真一訳「自転車に乗ったピエロ」(『ポケットのなかの東欧文学 : ルネッサンスから現代まで』、成文社、2006)
 二つ目は一気に飛んで2006年刊行の短編集に収められたこの作品。チェコ語の原題は「Pierot cyklista」。恐らく詩ではなく短編小説だと思われる。ネズバルが短編小説を発表したのは1929年から1934年がほとんどだという。


B赤塚若樹訳『少女ヴァレリエと不思議な一週間』(風濤社、2014)
 翻訳者の赤塚若樹氏は、1990年代からシュバンクマイエルの作品を翻訳したり編集したりして日本に紹介して来た人。シュバンクマイエルブームの立役者だったといってもいい。ネズバルの作品の紹介に至ったのはシュールレアリズムつながりであろうか。実はこの方も大学書林の石川達夫『チェコ語初級』でチェコ語を勉強されたという話を聞いたことがあって、勝手に親近感を抱いている。
 原典は1932年に発表された「Valérie a týden divů」。1970年には映画化もされていて、以前日本でノバー・ブルナの映画の上映会が行われたときに、一緒に紹介されていた。日本語の題名は「闇のバイブル/聖少女の詩」。うーん。件の上映会で紹介された映画について、特に関係ないことを書き散らした文章を改めて確認してみたが、この映画についてはほとんど何も書いていなかった。ネズバルの原作ということすら書いていないから、ろくに調べもしなかったようだ。

 こんな、チェコというマイナーな国の戦前の前衛的な作品を刊行してくれた風濤社ってのは、どんな本を出しているのだろうと調べてみたら、なんとチェコでも熱狂的な人気を誇るフランス映画の「ファントマ」(チェコ人的にはファントマスと言いたくなるけど)の原作っぽい本や、それに関する評論を出していた。ちょっとほしいと思ってしまった。


C赤塚若樹訳『性の夜想曲 : チェコ・シュルレアリスムの〈エロス〉と〈夢〉』(風濤社、2015)
 この本には、ネズバルの二つの作品が収録されている。一つは1931年に発表された「Sexuální nocturno」の翻訳である「性の夜想曲」。シュールレアリズムに分類される作品である。もう一つは晩年とも言うべき1957年から翌年にかけて雑誌に掲載され没後に刊行された「Z mého života」の翻訳「私の人生より」。題名からして自伝的なものだと思われるが、流石に自伝的なものにまで社会主義的リアリズムは持ち込まれていないと思う。
 この本には、もう一人のチェコのシュールレアリズムの作家インドジフ・シュティルスキーの作品も収録されているのだが、この人についてはまた稿を改める。


 因みに、ネズバルという動詞の過去形からできた名字を聞くと、つい元サッカー選手が頭に思い浮かんでしまうのだが、あちらはネズマルだった。ネズバルは「Nezval」、ネズマルは「Nezmar」でチェコ人からするとどこが似ているのかと言われそうだが、RとLの区別のつかない日本人の耳には似て響くのである。
2020年12月11日24時。
















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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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