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2020年12月10日
カレル・チャペクの戯曲番外続(十二月七日)
昨日のチャペクの戯曲『母』は舞台での上演で、作品の発表から50年近く後のものである。現代化がされていたようには見えなかったが、冷戦末期の東側での上演という時代背景が演出に影響を与えていないという保証はない。チャペクのような有名作家の作品だと影響があったとしてもそれほど露骨ではないだろうし、気づけるだけの知識は持っていないから気にしてもしょうがないのだけど。
それに対して、今日見た映画の「白い病気」は、戯曲が発表された翌年の映画化なので、監督のハースの解釈が入るにしても時代背景はチャペクの原作と共通するはずである。この映画が1937年末に完成して公開されたのは、1938年にはミュンヘン協定が結ばれることを考えると、ぎりぎりで間に合ったと言いたくなる。ナチスドイツの影響下にある政権に、こんな、かなりあからさまな反ナチス映画の制作を認められたとも思えない。
話はとある国で、俗に「白い病気」と呼ばれる致死性の病気が流行するところから始まる。感染してなくなる人の大部分が50歳以上の年配の人という辺りが現在の状況に似ているともいえなくはない。それがこの秋、原作となった戯曲の日本語訳が連続して刊行された理由のひとつであろう。とまれ、国立病院(多分)の伝染病の権威の下でも定められた療法を守るだけで、この場合には治癒のための療法がないため、対処療法で最後はモルヒネを与えることしかできていなかった。
そこに、ハース演じる、貧民の間で医療活動を行っているという医師が現れて、自分が試して効果のあった療法を試してほしいと求める。最初は断られるのだが、あれこれあって試すことになり、その療法が効果的であることが確認され、「白い病気」は死病ではなくなる。だが、皿洗いで見ていないので事情はわからないのだが、その療法は公開されることなく、ハースにしか治せない病気になってしまう。
その裏側で、この国では軍の将軍が政敵を追い落として独裁体制を確立させており、周囲の小国を制圧するために軍備を増強し戦争の準備を始めていた。このあたりが、原作が執筆された1937年当時のナチスドイツを思い起こさせるわけである。独裁者に指導された国民も、小国を制圧するための戦争を熱狂的に支持していた。
そんな中、独裁者の右腕とも言える男爵が、「白い病気」に感染し、身分を隠してハースの元に出向いて治療を求める。ハースは悩んだ挙句に、独裁者の戦争を止めることを条件に治療を約束する。男爵としては飲める条件ではなく、交渉は物別れに終わる。医者としては、患者の治療に条件をつけるなんていいのかね。
病気を抱えた男爵を心配する独裁者は、ハースを呼び出し、さまざまな条件を出して治療を求めるが、交渉はまとまらず、病死に怯えた男爵は自殺してしまう。独裁者はその死を乗り越えて、軍には宣戦布告なしの隣国への侵攻を指示し、自らは官邸のバルコニーから集まった市民に対して、開戦の演説をする。市民達も熱狂的に独裁者を指示し戦争を求める声を上げる。
その演説の最中に、一度建物の中に引っ込んだときに、ありがちな展開だけど、独裁者は自分が「白い病気」にかかってしまったことを知る。それで、治療を受けるために戦争をやめるか、余命三ヶ月で戦争を続けるかの選択を迫られる。結局は娘と男爵の息子である副官の説得を受け入れて、戦争の停止を決意するのだが……。
あんまり事細かに書くとネタばれになってしまうので、この辺で自粛するけれども、最後の部分を見ながら、あらゆる権力を求めて手に入れた独裁者と、その独裁者を生み出し熱狂的に支持する民衆のどちらがたちが悪いんだろうなんてことを考えてしまった。国民国家の成立以後の独裁者は、ほとんどすべて民衆の支持を得て、民主主義的な手続きを経て権力の座についているのである。アジア、アフリカの旧植民地の独立国なんかは例外も多いけどさ。
2020年12月8日23時
2020年12月09日
カレル・チャペクの戯曲番外(十二月六日)
チャペクの戯曲の話だとは言っても、まだ読んだことがない『母』とか、『白い病気』を読んだというわけではない。『白い病気』は最近日本語訳が相次いで刊行されたはずだから、読むべきは今だと言えなくもないのだけど、チェコにいると読む以前に買えないのである。いや、hontoで買えばチェコまで送ってくれるだろうけど、緊急事態宣言が発令されて外出に制限がかかっている中、郵便局に荷物を取りに行く気にはなれない。
それに戯曲は読むの苦手だし。ということで見ることにした。以前チェコテレビで放送されたチャペクの戯曲『母』と『白い病気』が映像化されたものを、録画するだけして見ていないものがあるのだ。『白い病気』は以前も存在だけ紹介した、フゴ・ハースが監督主演を務めた映画だが、『母』のほうは、映画ではなく1985年に国民劇場で上演されたときの映像である。
まずは、土曜日の昼食時に「母」を見た。食事しながらで、その後皿を洗ったりコーヒーを入れたりしたので、最初から最後まで集中して見たわけではないが、なかなか見ごたえのある作品だった。出演者達もほぼみんなビロード革命後も役者として仕事を続けていて、どこかで見たことがあるという人たちばかりだったし。
ストーリーは、どこかで読んだ「反戦、反ファシズム」という面もないわけではないけれども、一面的なものではなく、むしろ、子供を守ろうとする母親としての女性の論理と、自分にしかできないことだという理由で命を懸けてしまう男性の論理のぶつかり合いが中心になっているようにも見えた。男性の考え方を英雄願望なんて言葉でも表現していたような気がする。
登場人物は、母親である女性と、その夫、五人の子供たち、それに父親の八人。劇が始まる時点で夫と長男、次男、父親の四人はすでに死んでいるようである。生きている人物だけが登場する場面、すでに死んだ人物だけが登場する場面、そして母親と死んだ人物が登場する場面が、頻繁に入れ替わりながら進行して行く。
夫は軍人で戦争中に自ら最も危険な任務に赴き戦死、長男は医者で死亡率の高い伝染病の研究中に命を落とし、次男は航空技師で自ら設計した飛行機の飛行中に墜落死だったかな。いずれも自分の使命と信じる仕事について、危険な自分にしかできないことをしようとして命を落としたということになる。最初の場面では生きている三男はチェスに夢中で、四男は狩猟が趣味なのか銃を持ち歩いている。
ただ一人、末っ子だけが、特に夢中になることもなく、母親も兄たちもこの子だけは他の子供たちとは違うと考えている。言い換えれば、未だ母親の庇護の元で子供であり続けているといってもいいのだろうか。そんな状況で話は始まり、死者たちと母親との会話で、それぞれの亡くなった事情が明らかになるのだが、男たちが「母さんにはわからないんだ」などと自ら死地に赴いたことを言い訳すると、母親は「男はいつもそうだ。都合が悪くなると、女にはわからないと言う」と批判する。
そして、この家族の暮らす国で内乱が発生する。細切れに見ていたので、よくわからなかったのだけど、他国に占領されていてそれに対して市民が蜂起したという話だったかもしれない。とにかくその蜂起に参加して三男も四男もはかなくなってしまう。その結果、末っ子も戦いに向かうことを求めるのだが、母親は拒否する。亡くなった夫や、子供たち、いつの間にか現れていた父親から、末っ子ももう大人なんだから本人の意思を尊重して、戦いに行かせてやれといわれてもかたくなに拒否する。
私には末っ子以外には何も残っていないのだから、取り上げないでほしいという母親の叫びは痛切に響き、男たちも諦めたように見えたところで、自体は急変する。戦闘の様子を伝えるラジオが、町のどこか、病院だったかなで、敵軍が80人もの子供たちを虐殺したというニュースを伝えた瞬間、母親は豹変して、末っ子に隠していた銃を与えて戦いへと送り出すのである。
演劇は、何を言っているかわからず、見てもつまらないと思うことが多いのだが、この「母」は台詞も聞き取りやすく、途中で何度も席を外したけど、最後まで面白く見ることができた。この内容を知っているという強みを基に読めば、苦手な戯曲も読み通せるかななんてことも考えたけど、「母」の収録された『チャペック戯曲全集』は、電子化してないんだよなあ。
2020年12月7日10時。
2020年12月04日
ボジェナ・ニェムツォバー(十二月朔日)
チェコの女性作家というと、真っ先に思い浮かぶというか、ほかの名前がまったく思い浮かばないのだけど、チェコで過去、現在を問わず、最も有名な女性作家がボジェナ・ニェムツォバーである。ボヘミアの人で、オロモウツとはあまり関係ないと思うのだけど、旧市街の外側の公園に像が建てられている。田舎の因習と戦いながら作家活動を続けた人なので、女性解放のシンボルとしてチェコ各地に像が建てられたのかもしれない。
作品として最も有名なのは、1855年に発表された『Babička』(おばあさん)である。チェコでは何度か映画化もされており、一番有名なのはリブシェ・シャフラーンコバーが主役の女の子を演じたものかな。また舞台となった地域は、「おばあさんの谷」として観光地になっている。
当然というわけではないけれども、日本語にも翻訳されていて、国会図書館のオンライン目録で確認できる範囲では、以下の二つの翻訳が単行本として刊行されている。
@栗栖継訳『おばあさん』(岩波書店、1956)
言わずと知れたチェコ文学専門の翻訳者栗栖継の翻訳は、当初岩波の少年文庫の一冊として刊行されたようだ。その後、少年文庫を外れて、岩波文庫に収録されたのが国会図書館のオンライン目録によれば、1971年のこと。
念のために、hontoで確認をしたところ、少年文庫版は1979年の版が一番新しいようだが、残念ながら品切れで購入はできない。岩波文庫版は、1977年の版が重版を重ねているようで、今でも手に入るが、1188円という価格になっている。大部の本ではあるので、『R.U.R.』のような薄い本と比べると高くなるのは当然だが、70年代の文庫本の値段ではない。90年代に購入したときには、1000円以下だったと思うのだけど、古本屋で買ったんだったかなあ。
A源哲麿訳『チェコのお婆さん』(東京、彩流社、2014)
二冊目は、「チェコの」という枕をつけて刊行された。訳者の源哲麿は、専修大学教授でドイツ文学を専門とする方。チェコの民族覚醒の象徴でもあるニェムツォバーの作品を、対立していたと思われるドイツの文学を専門とする人が翻訳したという事実にちょっと驚いてしまった。
事情の一端は、hontoの商品解説のところに書かれていた。「当時、ドイツ語系高等学校の
チェコ語の教科書として使われ」ていたというのである。当時が指すのが、19世紀後半のことなのか、チェコスロバキアが独立した後なのかはわからないが、個人的には、この本でチェコ語の勉強はしたくない。
それで思い出したのが、二年前のサマースクールで『Babička』の一節を読まされたときのこと。知っている言葉でも形が微妙に違ったり、書き方が違ったりするというのも難しいと感じた原因の一つだったのだが、もう一つの問題は、先生の言葉を借りると、ニェムツォバーの時代のチェコ語は、まだまだドイツ語の影響を強く受けており、語順などがかなり現在のものと違うことだった。
ということは、ドイツ語を母語にする学生にとっては、比較的読みやすかったということになるのかもしれない。それで、ドイツが専門の方が、恐らくドイツ語版から翻訳したということなのだろう。でも、あのときのドイツ人の同級生達は、特にそんな感想はもらしていなかったけど。
商品解説には、「カフカの『城』の構想に大きな影響を与えたと見られる」なんてことも書かれているが、プラハに住んでいたカフカならチェコ語版を読んでいてもおかしくないような気もする。この時代のチェコの言語事情というのは、想像もつかないものがあるからなあ。
日本では『おばあさん』の作家として知られるニェムツォバーだが、エルベンと同様に民話を採集して集成するという仕事もしていた。ニェムツォバーの民話集、童話集というのは読んだことはないけれども、子供向けの童話映画の中には、たくさんニェムツォバーの作品を原作にして制作されたものがある。そんな原作、もしくは原案となった童話も翻訳されている。
B中村和博訳「金の星姫」(『ポケットのなかの東欧文学 : ルネッサンスから現代まで』(成文社、2006)
原題は「O princezna se zlatou hvězdou」で、同名の映画の原作になっている。同じような童話映画がいくつもあるので、記憶の中でごちゃ混ぜになっているのだけど、お姫様の婿取りの話。婚約者候補を嫌って城から逃げ出すのだったか。姿を変えて他所の国の城の厨房で働いているところを、王子に見出されて結婚したんだと思う。
番外
出久根育『十二の月たち : スラブ民話』(偕成社、2008)
原題は『O dvanácti měsíčkách』。原作としてニェムツォバーの名前は挙がっているが、翻訳ではなく絵本として刊行されている。文章はついていても翻訳ではないということかな。この作品も映画化されているのだけど、エルベンの「花束」と同じようになかなかこわい作品になっていた。テーマは継子いじめ。
他にも童話や民話のアンソロジーの中にニェムツォバーの作品は入っているとは思うが、現時点では確認できていない。クルダやエルベンの童話のように、作者名を挙げずに翻訳が掲載されている可能性もあるので、著作権切れでデジタルライブラリーで閲覧できる戦前の童話集を探してみようか。発見したらまた報告することにしよう。
2020年12月2日12時。
2020年12月03日
アロイス・イラーセク(十一月卅日)
以前、イラーセクの『チェコの伝説と歴史』の日本語訳を紹介したところで、イラーセクの日本語訳はこれが最初なんてことを書いたのだが、単行本としての翻訳は2011年のこの本が最初だが、国会図書館のオンライン検索で調べたら、短編の翻訳が雑誌に掲載されたのは、1954年が最初だった。掲載した雑誌が共産党系の文学雑誌「新日本文学」だったというのは、時代のなせる業であろう。チェコスロバキアも共産圏の国だったわけだし。『チェコの伝説と歴史』刊行以前に雑誌などに発表されたイラーセクの作品の翻訳は以下の二つ。
@種村季弘訳「ヤン様 チェコ人形劇上演台本」(「新日本文学」新日本文学会、1954.2)
訳者はなんと、ドイツ文学というよりは、澁澤龍彦と並ぶ怪奇幻想文学の大家の種村季弘。恐らくはドイツ語からの重訳であろう。わからないのは原典で、「ヤン様」というのは、チェコの人名としてヤンは存在するので、題名としてはおかしくないのだけど、「様」がついているということは、「Pan Jan」だろうか。呼びかけの形で「Pane Jane」でもいいかもしれない。ただし、そんな題名の作品は確認できなかった。
後に「チェコ人形劇上演台本」とあるから、イラーセクが人形劇用に書いた戯曲と考えてもいいのかもしれない。チェコという国は伝統的に人形劇が盛んなところで、プラハに限らず、いくつかの町に人形劇専用の劇場があるのだ。子供向けのテレビ番組「ベチェルニーチェク」で、普通のアニメーション作品以外に、「パットとマット」を代表とする人形アニメーションが制作され続けているのも、その伝統に連なると言っていい。もちろん、シュバンクマイエルの作品もそうである。
だから、イラーセクが人形劇の台本を書いていたとしても全く不思議はない。不思議なのは種村季弘がイラーセクを選んだことで、どこで見つけたんだろう。この翻訳は、後に没後に国書刊行会から刊行された『怪奇・幻想・綺想文学集 : 種村季弘翻訳集成』に「ヤン様」として収録されている。
A石川達夫訳「ファウストの館」(『東欧怪談集』河出書房新社、1995)
この本は国会図書館のオンラインカタログでは、収録された作品の一覧がなかったため見落としていたのだが、今年九月に刊行された新版のところに付された収録作品一覧で発見した。この手のアンソロジーに収録された翻訳作品の中には、同様の事情で発見できていないものも結構ありそうである。
掲載作品の「ファウストの館」は、おそらく『チェコの伝説と歴史』中の「Faustův dům」の翻訳だろうと思われる。ファウストと言うと、ついついゲーテを思い浮かべてしまうけれども、プラハにもいたのである。チェコの歴史は神聖ローマ帝国と分かちがたく結びついているので、ドイツのものだと思っているものの中にも、実はチェコのものだったり、チェコにもあったりするものは、意外と多い。
ちなみに、編者はポーランドの文学作品の翻訳も多い沼野充義氏。旧共産圏という意味での東欧文学のアンソロジーをいくつか手がけていたと思う。日本で旧共産圏の文学が取り上げられるときに、どうしてもポーランドが中心になるのは、国の大きさから言っても仕方がないのかなあ。チェコの人間としてはちょっと残念である。ポーランドの文学も嫌いじゃないんだけどね。『クォ・ヴァディス』とか面白かったし。
そして、2011年になって『チェコの伝説と歴史』(Staré pověsti české)が北海道大学出版会から、『暗黒』(Temno)が2016年に成文社から刊行される。上下二分冊で刊行された『暗黒』には、「18世紀、イエズス会とチェコ・バロックの世界」という副題がついている。訳者はともに浦井康男氏。この二冊についてはすでに紹介したので特には記さない。
2020年12月1日12時30分。
2020年11月02日
チェコの童話2(十月卅日)
国会図書館のオンライン目録で確認できる二つ目のチェコの童話は、「靴と指輪」の翌年、1925年に日本語に翻訳されている。「王子と王女と不思議な男」という童話で、「チエコスロヴアキア」のものとして、『五色童話集 世界の童話』という本に収められている。著者とされるのは樋口紅陽で、出版社は日本お伽学校出版部。この日本お伽学校は著者が設立したもののようだが詳細は不明。
この童話集には、著者の創作を含めて、童話と童謡が合わせて14編、牡丹色、藍色、紫色、緑色、セピヤの五色に分類されて収録されている。それが、「五色童話集」という所以のようだが、「五色童話集を あらわすに ついて」と題された序文によれば、童話の内容と色に関係があるわけではないようである。読書の際に目に害を与えないような色を5つ選び、目に与える害が最小になるようにそれぞれの色で刷り分けたというのである。だから、最初に収録されたインドとドイツの童話が牡丹色ですられた後に置かれた、チェコの童話が藍色で刷られているのは、偶然の産物なのだろう。最初に題名を見たときには、色にかかわる童話を集めたのかと期待したのだけどね。
著者はさらに、同じ緑といわれる色でも、微妙に違った色があるから、将来は数十種類の色で刷り分けが可能になるなんてことを書いて、この刷り分けが世界最初の試みであることを誇っている。追随する出版社があったとも思えないし、著者自身、著者の学校の出版部自体が同じ試みを繰り返したことも確認できない。国会図書館のデジタルライブラリーでは、色の違いもよくわからないし、子供たちの目にどれだけいい影響を与えたのかもわからない。
この翻訳で注目すべきは「チエコスロヴアキア」という表記が採用されていることである。この時期主流だった「チエツコ」という表記から促音を表す「ツ」が消え、普通は「ヴァ」とかかれるものが「ヴア」となっている。国会図書館のオンライン目録で確認できる範囲では、1925年3月刊のこの本が「チエコ(・)スロヴアキア」の初例の一つである。もう一冊、同年に刊行された書物と、同年3月に刊行された雑誌に見られるのだが、オンラインでは見られないので発行日が確認できず、どれが一番最初に刊行されたか確認できないのである。ただし、「チエコ・スロヴァキア」と「ヴァ」が使われている例はこれ以前に存在する。
童話の前に1頁使って、チェコスロバキアの紹介が書かれているのだが、1920年代も半ばになって国内外の情勢が安定し始めていたことを反映してか、結構いいことが書かれている。「大層土地が肥えてゐますから穀物がよく穫れます。それにいかにもお伽噺にある様な森が澤山あつて、材木もよいものが出来るし、山からは石炭が出るといふ、小さいがなかなかよい国です」と結ばれている。
童話のほうは、簡単に言えば王子さまの花嫁探し譚なのだけど、王子が旅に出て出会う不思議な男の名前が、「長一」。これで「ちょういち」と読めば、日本人の名前としてアリかもしれないが、「ながいち」というルビがついている。二人目が「太一」で、「たいち」ではなく、「ふといち」と読ませる。この辺で、チェコ語の原典がわかったような気がするけれども、三人目は名前の付けようがなかったのか、「眼の強い男」と呼ばれている。
これは、ツィムルマンの劇の元にもなった有名な童話「Dlouhý, Široký a Bystrozraký」だ。題名になっている三人の登場人物のうち「Dlouhý」を「長一」、「Široký」を「太一」と日本語に訳して命名したはいいものの、「Bystrozraký」は訳しようがなくて「眼の強い男」として誤魔化したということだろう。
この童話、有名だとはいうものの、実は読んだこともなければ、誰が書いたものかも知らないのだった。それでチェコ語版のウィキペディアで調べてみたら、カレル・ヤロミール・エルベンの童話だった。エルベンの『České pohádky』という本に収められているらしい。エルベンは1870年に亡くなっているからクルダの「靴と指輪」よりも、古い作品だということになる。
それはともかく、エルベンの集めたボヘミアの有名な童話よりも、存在は知らなかったけどクルダの集めたモラビアの童話のほうが先に日本語に翻訳されて紹介されていたという事実は、驚きであると同時に、モラビアに愛着を感じてオロモウツに住んでいる人間にとっては嬉しいことである。この時期にチェコの童話が翻訳されていたこと事態が驚きと言えば驚きだけど、民俗学への感心が外国の民話、童話にも向かったと考えていいのだろうか。
2020年10月31日22時30分。
2020年11月01日
チェコの童話1(十月廿九日)
国会図書館のオンライン目録で、チェコスロバキアを表す言葉の用例を探していたら、思わぬ発見があった。「靴と指環」というチェコの童話が、すでに1924年に日本語に翻訳され、童話集に収録されていたのだ。1924年といえば、チャペクの作品の最初の日本語訳『人造人間』が刊行されたのが1923年だから、その翌年、現在確認できている中では二番目に古いチェコの作品の日本語訳ということになる。もちろん「チェコ童話」とは書かれておらず、「チエツク童話」とされている。
この童話が収録されたのは『世界童話名作選集 少年詩人の旅』(日本評論社)という本で、ヨーロッパを中心に9カ国、全15編の童話が日本語に翻訳されて収録されている。アジアからは中国ではなくて、「支那童話」が1編だけ。イギリスとスコットランドが別にされているのが興味を引くが、イギリスが4編、スコットランドが3編とこの二つ、つまりはイギリスだけで全体の約半分を占めている。残りはドイル2、フランス、ベルギー、ロシア、ハンガリー、それにチェコが1編ずつという構成である。
訳者はプロレタリア文学の評論家だった山内房吉。どのような事情でこれらの作品が選ばれたのかは、「はしがき」にも書かれていないので不明。チェコの童話「靴と指環」は、この時期にチェコ語から翻訳できる人がいたとは思えないので、恐らくは英語かドイツ語、もしくはロシア語版からの重訳であろう。本の構成がイギリス物に偏っていることを考えると、英語版のネタ本があったようにも思われる。
さて、著作権処理も終えてインターネット公開されているから、全文引用しても問題なかろうとも思ったのだが、いざ始めてみると思った以上に厄介で、あらすじを紹介するにとどめる。中途半端な歴史的仮名遣いで書かれているのがいけない。自分で歴史的仮名遣いで文章を書こうとは思わないけど、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直すのはしたくない。
主人公は鍛冶屋の息子のハインクで、年老いた両親を残して、自分に合った仕事を探すために旅に出る。二日目に、父親の遺した三つのものを巡って争う三人の兄弟と出会う。一つは履くと「一足で十里も行く」ことが出来る靴、二つ目は着るとどんな遠いところにもどんな高い場所にも飛んでいける外套、最後は被ると姿が見えなくなる帽子だった。ハインクは三人を仲裁するといって三つのものを預ってトンずらする。
外套を着て空を飛んで休憩のために降りた場所で、切株の下に大きな洞穴があるのに気づく。その洞穴に入っていくと、人は誰も居ないが、御馳走がおいてあったので、食べてしまった。そうすると老婆が出てきて、この洞穴に泊めてもらうことになる。三晩続けてハインクが幽霊の出てくる試練を乗り越えると、老婆はこれで魔法の国が助かったという。
魔法の国の王女が出てきて、ハインクに自分とともに国の跡継ぎとなるように求めて金の指輪を渡す。そして二人は洞穴を出て魔法の国の王様の城に向かい滞在する。あるときハインクは両親のことを思い出し、王女との結婚式に招待したいと思うようになる。王女は金の指輪が、指の上で一回まわすとどんな遠いところにでも1分で行けることを教えて、迎えに行くように勧める。
しかし、ハインクはその途中で金の指輪をなくしてしまう。魔法の国にも両親のところにも戻れなくなったハインクは、魔法の外套を使って太陽と月と風のもとを訪れ、最後は風の助けで魔法の国に戻ってくることに成功する。それは魔法の国で王女の結婚式が行われようとしているときだった。結局ハインクの代わりに婿となる予定だった男の勧めもあって、王女はハインクと結婚する。
二人でハインクの両親を訪ねて、魔法の国の宮殿に迎え入れ、途中で三人の兄弟に盗んだ靴と外套と帽子を返す。最後はまだ二人が生きているなら、魔法の国で幸福に暮らしているだろうという形で終わる。
チェコの童話をそれほどたくさん知っているわけではなく、この童話の原典がチェコのどの作品なのもわからなかった。それで知り合いに調査の協力をお願いしたら、あっさり答がわかってしまった。モラビアの民話や民謡を収集して刊行していた民俗学者(と呼びたい)のベネシュ・メトット・クルダの「Boty, plášť, klobouk a prsten」という民話だろうというのである。チェコ語の題名を直訳すると「靴と外套と帽子と指輪」ということになり、民話に登場するものが並べられている。邦題は最初と最後の二つをとったと考えればよさそうだ。
クルダは1820年に生まれ1903年に亡くなっているが、カトリックの教会の司祭として活動する傍らで、モラビア各地の民話を集めて書物としてまとめて刊行したようだ。チェコ語版のウィキペディアには『Moravské národní pohádky, pověsti, obyčeje a pověry』という1874年に刊行された大部の本の書名が上がっているが、協力してくれた知人の話では、『Valašské pohádky』という本で読んだというので、モラビア全体の民話集の中から、バラシュスコ地方の民話だけを抜き出して刊行した版も存在したのかもしれない。
ドイツのグリム兄弟の影響を受けて、チェコで民話を収集してまとめたり、再話したりして刊行した人物というと、まずエルベンの名前が浮かび、それにニェムツォバーが続くのだが、二人とも語へミアが中心である。モラビアにはこのクルダがいたというなのだろうが、今までその存在を知らなかった。恐らくモラビアの一地方の民話をもとにして書かれた童話が、チェコスロバキア独立から数年で日本語に翻訳されて紹介されたというのは、それが他言語版からの重訳だったとしても、信じ難い思いがする。あれ、モラビアの童話に「チエツク童話」とつけられているのはどういうことなんだろう。チェコスロバキアの童話というのを短縮しただけかな。
2020年10月30日16時。
2020年09月20日
ユリウス・フチーク(九月十七日)
共産党関係者なら知らなければもぐりといってもいいぐらい世界中で有名だった作家で、その作品は全部で90もの言葉に翻訳されたという。これは、翻訳がなされたのがビロード革命以前だったということを考えれば、驚異的な数字である。チェコスロバキアでも基礎学校の必読書で、チェコ文学の授業でも熱心に取り上げられていたようだ。
作品とはいっても特筆されるべきは、第二次世界大戦中にゲシュタポに逮捕され収監された刑務所の中で書いたとされる『Reportáž psaná na oprátce』(1945)ぐらいで、日本語への翻訳もこの作品が中心となる。『Reportáž psaná na oprátce』を翻訳しているのは以下の三人。
@栗栖継訳『嵐は樹をつくる : 死の前の言葉』(学芸社、1952)
題名は違うが、内容を確認すると「絞首台からのレポート」に、さまざまなフチークの文章を合わせて一冊としている。訳者の栗栖継が読者の便宜を考えて、理解しやすくなるように独自に編集したのだろう。書名も収録作品から取ったものではなく独自のもの。そのため、別の作品の翻訳だと思われる恐れもありそうである。著者名が「フーチク」になっているのは、エスペラントからの翻訳であるからか。
この作品は1962年に、筑摩書房が刊行していた『世界ノンフィクション全集』の第25巻に「絞首台からのレポート」として収録される。その際に、他の雑多な文章も収録されたのか割愛されたのかは不明。この巻にはナチス・ドイツに対する抵抗を描いた作品が収められているようである。こちらの著者名は「フゥチーク」。気持ちはわからなくはないけれども、「フゥ」なんて日本語の表記体系にはない。
その後1977年には、『絞首台からのレポート』と題して岩波文庫に収められた。作者名の表記がようやく「フチーク」に落ち着いた。この岩波文庫版は現在でも手に入らなくはないようだ。岩波は再販制を利用せずに、買いきりで書店に卸すから、版元に商品がなくても、品揃えのいい書店ならかなり掘り出し物が手に入る。この本が掘り出し物になるかどうかはともかく、古い岩波文庫を手に入れるためには、古本屋だけではなく新刊本屋も回らなければならない。性格の悪い出版社である。
A木葉蓮子訳『絞首台からの報告』(須田書店、1953)
栗栖訳の翌年に刊行されたこの本については詳しいことはわからない。作者名は最初の栗栖訳と同様「フーチク」。訳者の木葉蓮子は、翌年もひとつフチークの作品を翻訳出版するがそれについては後述。
B秋山正夫訳『愛の証言 : 絞首台からのレポート』(青木書店、1957)
国会図書館で確認できる最古の秋山訳がこれ。「愛の証言」というのが本題で「絞首台からのレポート」は副題扱いになっているようにも読める。作者名はこれも「フーチク」。1964年には同じ出版社から『絞首台からのレポート』と題して文庫化されている。出版社の青木書店は、マルクス主義を標榜する左翼系の出版社で、学生運動の華やかなりし頃には文庫も手がけていたらしい。
さて、前回紹介した浦井康夫氏の「日本でのチェコ文学翻訳の歴史」(入手はこちらから)には、英語からの翻訳である秋山訳はすでに1949年に刊行されているようなことが書かれている。国会図書館では発見できなかったので、「CiNii 」を使って大学図書館の蔵書を検索してみた。
フチークの作品は発見できなかったが、秋山正夫の著作として、『絞首台からの叫び : 革命家フーチクの生涯』(正旗社、1949)というのが出てきた。題名からフチークの作品の翻訳であることは間違いなさそうだが、それに伝記をつけたことで、全体としては秋山の著作ということにされてのだろうか。これが、フチークの初訳で、第二次世界大戦後初めて日本で出版されたチェコ文学の翻訳単行本ということになる。
フチークは、1930年代にジャーナリストとして活動していた時代にソ連を訪問してレポート記事を書いている。それをまとめたのが、『V zemi, kde zítra již znamená včera』(1932)で、木葉蓮子訳が存在する。
・木葉蓮子訳『わが明日、昨日となれる国』(須田書店、1954)
これも詳細は不明で、作者名は「フーチク」。
ビロード革命後、フチークの評価は、共産党のシンボル作家だったという過去から、ある意味地に落ちた。ドルダが晩年に「プラハの春」を弾圧したソ連軍に反抗したことで失脚したのとは違い、すでになくなっていたフチークは、反抗のしようもなく、最後まで共産党の象徴であり続けた。その反動で、実はゲシュタポと組んでいたんだとか、真偽の定かでないことを言われていたらしい。ただ最近は再評価が進んでいるようである。
『絞首台からのレポート』は栗栖訳の岩波文庫版を買って読んだはずだけれども、正直あまり印象が残っていない。同じレポートならムニャチコの『遅れたレポート』のほうが、個人的には評価が高い。
2020年9月18日24時。
2020年09月19日
ヤン・ドルダ(九月十六日)
先月も、月半ばのこの日に、チェコ文学の翻訳について文章を書いているので、今月も継続してみよう。ネタが切れるまでは毎月一回なんてことになると、何について書くのか考えるのが多少楽になる。昨日か一昨日も先月同様、貴族家について書こうかと思ったのだけど、準備に時間がかけられなくて断念してしまった。
とまれ、戦前に日本語に翻訳された作家については、国会図書館のオンライン目録で確認できるものはほぼすべて紹介した。チャペク兄弟、ハシェクは予想通りにしても、オルブラフトなんて作家が翻訳されているのは意外だった。残るは調査し残しているコメンスキーなのだけど、この人の場合、ラテン語での著作も多いし、文学と呼ぶべきなのか悩むところもあるので、機会があればコメンスキー紹介の歴史についても、先学の著作を参考に紹介しよう。
第二次世界大戦直後は、出版活動自体も下火で、東側に入ったチェコスロバキアの作家を紹介する余裕などなかったのか、新たなチェコの作家の作品が翻訳されるのは、1950年代に入ってからのことだった。それが、チェコスロバキア共産党員の作家であるヤン・ドルダの作品で、共産党員の訳で、1952年の刊行というのは、前年にサンフランシスコ講和条約でアメリカ軍による日本占領が終結したのと関係があるだろうか。いや、こじつけに過ぎるか。
さて、ドルダは、1915年生まれというから、少年時代をチェコスロバキア第一共和国の全盛期に過ごした作家だと言ってよさそうである。新聞記者として働きながら作家活動をつづけたのはチャペクなどと同じでチェコの文学的伝統と言えようか。チェコ語版のウィキペディアによれば、入党は1945年になってからだが、第二次世界大戦以前から共産党に近い作家だったようだ。戦後は共産党党員作家の中心の一人として活動していたが、1968年のプラハの春の際には、ソ連軍の侵攻と占領に反対する立場を取った。1970年に自動車の運転中に心臓発作で亡くなったという。享年55歳。
映画関係の仕事もしていたようで、原作、もしくは脚本に関わった映画のリストを見ていたら、見たことのある映画が二つ。一つは1956年制作の「Hrátky s čertem(悪魔との喧嘩)」で、もう一つは、没後かなりたった1984年の「O princezně Jasněnce a létajícím ševci(ヤスニェンカ姫と空飛ぶ靴屋)」である。どちらも子供向けの童話映画。特に後者は、内容はともかく、オロモウツの近くのボウゾフ城が舞台になっていることもあって、お気に入りの童話映画の一つ。
ヤン・ドルダ/栗栖継訳『声なきバリケード』(青銅社、1952)
チェコ語の原題は『Němá barikáda』で終戦直後の1946年に刊行された短編集である。第二次世界大戦中の抵抗運動をテーマにした11篇の短編が納められている。時機から考えるとエスペラント訳からの重訳だろうか。後に三篇が抽出されて『ダイナマイトの番人・高遠なる徳義・蜜蜂を飼う人』(1958)という題で麦書房から文庫版で刊行される。この麦書房版は1984年にも新版として刊行されているようだ。二つの出版社の関係は不明。
単行本としては、この『声なきバリケード』が最初だが、前年の1951年に栗栖継訳の「われわれの希望の星」という文章が「新日本文学」の11月号に掲載されている。原典も不明で、短編小説なのか、エッセイなのかも判然としない。この号では「文学にあられた十月革命」という特集でロシア革命の記事が並んでいるから、特集には含まれていないがドルダの文章もロシア革命に関係するのかもしれない。となるとスターリンの少年時代を描いたという伝記かなあ。当時はソ連だけでなく、日本の共産党にとっても「希望の星」だったのだろうし。いや憶測に憶測を重ねるのはやめておこう。
ところで、訳者の栗栖継は同号に「チエコ訳された 「蟹工船」」という文章も寄せている。これは、浦井康男氏の「日本でのチェコ文学翻訳の歴史」(入手はこちらから)に紹介されていた『蟹工船』のチェコ語訳とスロバキア語訳の違いについてのエピソードのネタ元の文章だろうか。
今、確認のために「日本でのチェコ文学翻訳の歴史」をチェックしたら、すでに1949年にフチークの翻訳が出ているという。再度確認しても、国会図書館の目録には存在しないから、どこかよその図書館に入っていないか確認してみよう。ということで、次回はいろいろと問題のある作家フチークについてである。
2020年9月17日16時。
2020年08月20日
ハシェクの日本語訳その他(八月十七日)
ハシェクも、チャペクと同様、多くの短編作品を残しており、生前に刊行されたもの以外にも、没後になってまとめられたものなど多くの作品集が出ている。ただ、その全貌はチャペクの場合以上によくわからず、日本語訳だけを見て原典を同定するのはほぼ不可能である。そもそも代表作であるシュベイク自体が、日本語に翻訳されたもの以外にも、第一次世界大戦前、大戦中に出された二冊の本の題名にも登場するので、中身を知らないとどのシュベイクが翻訳されたか確定するのは難しいのである。
単行本として出版されたものもあるが、発表順にどんな翻訳があるのか見ていこう。
@辻恒彦訳「公爵夫人の真田虫」(『新興文学全集』第20巻、平凡社、1930)
最初の短編の翻訳は『シユベイクの冐険』の刊行と同年の1930年である。訳者は同じ辻恒彦訳。平凡社の『新興文学全集』第20巻は、「独逸編第3」ということでチャペクの「ロボツト」も収録されている。チェコスロバキアもオーストリアも独立させずに、ドイツ圏ということで一まとめにされたのだろう。
題名に登場する「公爵夫人」も「真田虫」もチェコ語で何というかは知っているけれども、こんな題名の作品は見つけることができなかった。サナダムシはチェコ語で「tasemnice」というが、この言葉を知っているのは、病院でお世話になったからではなく、作文の際にだらだらと長く続く文を使っていたら、師匠にサナダムシみたいな文だなんてことを言われたからである。ただし、無駄に長い文を形容するのにサナダムシを使うのがチェコで一般的なのかどうかはわからない。
A飯島周訳注『ハシェク風刺短篇集』(大学書林、1989)
二番目は一気に飛んで80年代の終わりである。語学教材の出版に力を入れている大学書林の出版だけあって、ただの短編集ではなく、チェコ語のテキストに語注もついた対訳版になっている。収録作品はオンライン目録には記載されていないので不明だが、チェコで出た短編集ではなく訳者が独自に選んで編集したものであろう。
この短編集は、チェコ語の勉強のために使用することが想定されたのだろうが、東京外大にチェコ語科ができる少し前の出版で、どのぐらいの需要があったのだろうか。大学書林の語学学校でチェコ語の授業がすでに行われていたのかな。それにしても第二次世界大戦前の作品を学習に使えるのは、結構な上級者だけではないかと思う。
その後、2002年に平凡社から、単行本として刊行されるが、チェコ語と語注の部分を取り去っただけななのか、内容に増補などの変更があるのかはわからない。そして、昨日気づいたのだが、今年の10月には、平凡社ライブラリー版が出版されるようである。
B飯島周訳「犯罪者たちのストライキ」(『文学の贈物 : 東中欧文学アンソロジー』未知谷、2000)
C平野清美訳「オーストリアの税関」(『チェコSF短編小説集』、平凡社、2018)
この二つの短編が収録されたアンソロジーについてはすでにコメントしたので、繰り返さない。どちらもチェコ語の原典および原題は不明。日本語題をチェコ語に直訳しても、原題と同じものになるとは思えない。チェコ文学ではなかったけど、世界的に有名な作品の日本語題をチェコ語に直訳したら、わかってはもらえたけど、大笑いされたことが何度もある。
D栗栖継訳『プラハ冗談党レポート : 法の枠内における穏健なる進歩の党の政治的・社会的歴史』(トランスビュー、2012)
小説ではないと思っていたのだが、ホントで確認したら「ユーモア・ノンフィクション小説」と書かれていた。そんなジャンルあるのか? チェコ語の原題は『Politické a sociální dějiny strany mírného pokroku v mezích zákona』で執筆は第一次世界大戦前の1911年だが、出版されたのは、ハシェク没後の1963年。このころハシェクの再評価でもあったのだろうか。訳者の栗栖継は2009年に亡くなっているから、翻訳も没後の刊行になった。
出版社のトランスビューは、2001年に設立された、比較的新しい小規模の出版社で、ウィキペディアによれば、宗教、哲学、教育などを中心に出版活動をしているようだ。また取次を使わないで直接書店と取引をするという販売方法を取っているらしい。取次とか再販制とか、日本独自の書籍の販売方法が、日本の出版文化を支えた面はあるけれども、取次のせいで時代に取り残されつつあるのもまた事実である。ホントでは現在購入不能になっているが、取次が運営する販売サイトだからかな。
番外
グスタフ・ヤノーホ/土肥美夫『ハシェクの生涯 善良な兵士シュベイクの父』(みすず書房、1970)
『カフカとの対話』で知られる著者は、ハシェクについても一冊まとめている。「ヤノーホ」と書かれるが、チェコ語では「Janouch」で「ヤノウフ」と書きたくなる。20世紀初頭にプラハに生まれ、音楽家として活動する傍らで著作や翻訳の活動もしていた人のようだ。『カフカとの対話』はドイツ語で書かれ、後にチェコ語に翻訳されたが、『ハシェクの生涯』がチェコ語とドイツ語のどちらで書かれたのかは不明。翻訳はドイツ語版からなされたものだろうけど。ちなみに、チェコ語版のウィキペディアによれば、『アンネの日記』のチェコ語版の翻訳者として知られているらしい。
実はハシェクの作品は、読みかけて途中で挫折した栗栖訳の『シュベイク』も含めて、最後まで読んだことがあるものは一つもない。それでもハシェク=シュベイク=ルドルフ・フルシンスキーというイメージを持ってしまうのは、1950年代に制作されたシュベイク二部作で、フルシンスキーがこれ以上はないと思えるぐらい見事なシュベイクを演じているからである。原作のシュベイクのあの饒舌さは映画になっても変わらず、頭がくらくらしてきて最後まで見通したことはないのだけどさ。昔映画の宣伝文句に使われていたという「総天然色」というのを思わせる微妙な色合いも、ハシェクの盟友ヨゼフ・ラダの絵の色合いを思わせるし、フルシンスキーのシュベイクは、名作と呼んでいいのだろうと思う。チェコ映画はノバ―・ブルナの作品ばかりじゃないんだから、シュベイクも日本で上映すればいいのに。字幕にしても吹き替えにしても死ぬほど大変だろうけどさ。
2020年8月17日24時。
2020年08月19日
ハシェクのシュベイク(八月十六日)
以前、集中して紹介していたチェコ文学の日本語訳についての記事のコメントで、海山社の栗栖茜訳『カレル・チャペック戯曲集』IIの刊行が8月18日に決まったという情報をいただいた。購入するしないは別にして、ありがたいことである。
ということで海山社のHP を覗いたのだが、特にそれらしいことは書かれていなかった。ホントで探したら出てきたのだけど、気になるのは収録されている「白い病気」と「マクロプロスの秘密」のうち、前者の阿部賢一訳が「白い病」として9月に岩波文庫の一冊として刊行される予定になっていること。ネット上で公開されていたのか、すでに感想までついていた。
それはともかく、久しぶりに意識がチェコ文学の翻訳に戻ってきたので、久しぶりにその話をしよう。取り上げるのは、カレル・チャペクとほぼ同世代と言ってよさそうな、ヤロスラフ・ハシェクである。ハシェクは1883年に生まれ、1923年に39歳で亡くなっているから、早死にしたというイメージのあるチャペク以上に若くして亡くなったことになる。
ハシェクと言えば、シュベイクというぐらい、第一次世界大戦を舞台にシュベイクの活躍を描く『Osudy dobrého vojáka Švejka za světové války』(1921-23)は、世界的にも有名なのだが、日本語に最初に翻訳された作品もこれである。いや、このシュベイク以外の作品はほとんど翻訳されていないのが現状で、あらゆる作品が日本語に訳されつつある感のあるチャペクとは対照的である。
チェコ語の原題の「osudy」は、運命という意味の言葉だが、複数では「経験したできごと」という意味でも使われることがある。書かれた時代を感じるのは、「za světové války」の部分で、これが第一次世界大戦をさすのは当然なのだが、当時はまだ二つ目の世界大戦は起こっていなかったので、現在ならつけられるはずの「první」がないのである。
最初に『シュベイク』を日本語に訳したのは辻恒彦で、恐らくはドイツ語からの翻訳だと思われる。辻訳は出版社を変えて何度か刊行されるがそのたびに題名が微妙に変わっている。
➀辻恒彦訳『シユベイクの冐険』上下(衆人社、1930)
国会図書館のオンライン目録では、副題のように「勇敢なる兵卒」が後ろにつけられているが、『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』を書名とする記述も見かけられる。オンライ目録では上巻だけしか確認できず、下巻がいつ刊行されたのかはわからない。著者名表記は「ハシエーク」。版元の衆人社は詳しいことはわからないが、ソビエト、ロシアの文学作品の刊行を中心に活動した左翼系の出版社のようである。
戦後すぐの1946年には版元を京都の三一書房に移して、『愚直兵士シュベイクの奇行』として三巻に分けて刊行。1950-51年に新版が出た後、同じ三一書房から1956年に『二等兵シュベイク』と改題して上下二巻で刊行。その10年以上後の1968年には題名はそのままで、一巻本として刊行されているようだから、なかなかややこしい。国会図書館のオンライン目録では把握できない版もある可能性は高い。1968年の久しぶりの再刊は、「プラハの春」事件でチェコスロバキアが話題になることが増えた影響だろうか。
A栗栖継訳「兵士シュベイクの冒険」上下(『世界ユーモア文学全集』第14、15巻、筑摩書房、1962)
チェコ文学をチェコ語から翻訳し始めた先達の栗栖継の翻訳は、チャペクの短編も収録された『世界ユーモア文学全集』に二巻を割いて納められた。その後、1968年には上下巻で独立した単行本として刊行される。これも「プラハの春」とかかわるのかもしれない。
栗栖訳は、版元を岩波書店に移して、1972年から74年にかけて四分冊の文庫本で刊行される。一括刊行でなかったのは、著者による修正や注釈の追加があったからだろうか。1996年には文庫版の新版が刊行され、昔買ったのはこの版じゃないかと思うのだが、改版のたびに修正したり追加したりする事項が多くて作業が大変だと書かれていたのを読んだ記憶がある。
また、1978年に学習研究社が刊行していた『世界文学全集』の第34巻に、チャペクの短編などと共に、栗栖訳の抄訳が収録されている。この文学全集には作品の前に文学アルバムというのがついていて文学者が「〜〜と私」という文章を寄せているのだが、ハシェクとチャペクに関しては、尾崎秀樹が書いている。どういう事情での人選だったのだろうか。
番外
「勇敢なる兵卒シュベイクの冒険」(『築地小劇場検閲上演台本集』第12巻、ゆまに書房、1991)
チャペクの戯曲を積極的に取り上げていた築地小劇場は、シュベイクにまで手を出していたのである。国会図書館ではなく、「CiNii」の情報によれば、戯曲化したのはエルマー・グリンで、日本語訳は映画の脚本家として知られる八住利雄。念のために書いておくと刊行は1991年だが、築地小劇場が活動していたのは戦前なので、翻訳も戦前のものである。検閲という時点でわかるか。
長くなったのでハシェクの他の作品についてはまた今度。
2020年8月17日16時。